わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第15回 社会人というカルト宗教

 


 2005年1月10日の朝6時だった。ぼくはそれまでに経験したことのないすさまじい筋肉痛で目を覚ました。場所は福島市裏磐梯のスキー場。ぼくは視覚障碍者団体が主催するクロスカントリースキー旅行に来ていた。

 クロスカントリースキーは、人生初である。福井にいたとき、ホームステイの家族に一度だけスキー場に連れて行ってもらったことがあったが、ほとんどは雪の上で遊んだり、生まれたばかりのキリンのように、立ってみては転び、転んでは立ち上がりの連続だった。

 今回は本格的にクロスカントリースキーをしにきた。一日目は、隣を並走してくれる正眼者の指示を頼りに、雪に彫ってあるレールのような穴に両足のスキー板を突っこんでずんずん滑っていく。体重を右へ、左へと移しつつ、器用に前へ進まなくちゃならないのだ。

 ポイントは、いかに体の力を抜いてしなやかに体の重心をコントロールしていくかだが、南国出身のぼくにとってはこの感覚に慣れるのが容易ではなかった。すこしスピードが出ると調子に乗って、どんどん滑っていくのだが、決まってレールから脱線して雪の中に埋もれてしまう。並走してくれていた40代の河合先生(鳥取大学の医学部の先生)がふざけて、そんなぼくをどんどん雪の深みにはめていく。負けじと、ぼくは投雪で応戦した。ぼくはそれまで経験したことのないような、ぐだぐだ楽しい時間を過ごせた。

 ぐだぐだ遊んでいただけではない。倒れることなく順調に滑れるようになれば、きっと冬季五輪のパラリンピックにスーダン代表として出場できるのではないかとぼくは企んでいた。ライバルもいないし、べつに速くなくても、灼熱のアフリカから冬季オリンピックに参加するだけでメディアの注目を浴びるのではないかと計算していた。露出狂のぼくにとっては、世界デビューできる絶好のチャンスだったが、滑ってみて、これは無理だとすぐに悟った。なら、ぐだぐだ遊んだほうがいい。

 夕方、宿に戻ると、どっぷり風呂につかり、その後、露天風呂に出てみた。

 「さむさむう……。じゃぼん……あったけぇ……」

 なんだ、この感覚は。胸あたりまで温かくて、顔は吹雪にさらされている。ぼくは思わず、人生最初で最後の歌を詠んだ。下手くそなのであまり人にいったことはないが、外人であることを言い訳に、まあまあ上出来だと思うことにしたい。唖然としないでくださいね。

 最高ね 吹雪のなかで 露天風呂

 「そのままじゃん」、だろ? そのままで何がわるいんじゃ。

 風呂上りに、みんなと晩ごはんを食べた。そこまでは楽しかった。
 10時ごろ、青木さんという盲学校の全盲教師と、日本大学の学生3人と一緒に、割り当てられた部屋に戻ってベッドにもぐりこみ、翌日のスキーに備えた。夜中、何度も何度も驚異的筋肉痛に目を覚ました。

 6時になると、ぼくはとうとう寝るのをあきらめ、ベッドから滑り出て起床した。青木さんともう一人の学生がすでに起きていた。テレビのニュース番組がついている。青木さんと学生の会話と、テレビから流れてくるニュースをぼくは消極的に受信した。青木さんは、盲人スキーについて学生に語っていた。コースアウトして木に激突した話とか、何やら恐ろしい話をしている。テレビからは相撲の初場所の力士の発言などが流れていた。ちょうどその後あたりだったかと思う。テレビからアナウンサーの声が消え、馴染みのある声が流れ始めた。ぼくが嫌いな人物だ。男が興奮して叫んでいる。スーダンのバシール大統領だった。

 てめぇ、なんで裏磐梯までつきまとってくるんだ。バシールの声がスタジオのアナウンサーの声に遮られ、解説が始まった。

 「スーダンの22年にわたる内戦に終止符が打たれた」
 「スーダン政府と反政府組織のスーダン人民解放軍との間で和平協定が締結された」

 ぼくは青木さんたちに耳配りしていたエネルギーを全部テレビのスピーカーに向けた。
 バシール大統領と反政府組織のガラングが、少しずつケニアのスポーツスタジアムに集まってきた支持者に対して、これからのバラ色の国づくりを約束していた。鳥肌が立つのを感じた。筋肉痛があまり気にならなくなり始めた。思わず目がしらが熱くなるのを感じた。ぼくは泣いた。

 ぼくは基本的に強情っぱりだが、時々、気を抜いたりすると、涙漏れ、鼻水漏れなどといった予期せぬ事故が発生する。青木さんたちはそれには気づいていないようだった。ぼくは、亡くなった中学校や高校の知人らを思い出した。内戦で命を落としていった彼らの顔が浮かんできた。
 「ぼくたちもこのバラ色の国の姿を見たい」って盲想のなかの彼らがいっていた。ぼくに対してねだってくるものだから、ひどく混乱してしまった。

 (ぼくには何もできないよう。きみらはヒーロー面したこの馬鹿な政治家に都合よく使われて捨てられたんだ。こいつらにお願いしてみろよ。戦場になんて行くなって、ぼくら友人がみんな止めようとしたじゃないか)

 友人のほとんどは、1995年から1997年にかけて命を落とした。反政府組織の攻勢が強くなったことで、政府は軍と一緒に戦う「人民防衛隊」の志願者を募集し、国家の統制を受けたメディアも、国のために命を捧げることがいかに美しいかを巧みに放映した。

 それを見た思春期前後の若者はすごく影響され、親にもいわずに次々と訓練キャンプに出向いた。正直にいうと、自分も一時、そのメディアの魔法にかかりそうだったが、目の見えない自分が戦場に行ったとしても役に立たないし、公務員だった父を政府が政治的理由で解雇して、それ以降、厳しい監視を父に課したため、政府に対して多少いらだっていた。そのおかげでぼくは魔法にかからずにいられた。ぼくはしくしく泣きそうになるのをやっとの思いで堪えた。

 その日、ぼくは前日よりもバランスよく滑ることができたが、無邪気にはしゃいでいた前日とはがらりと変わって、口数が少なくなり、河合先生に話しかけられると失礼のない程度に返事をした。

 (スーダンはほんとうによくなるのかな。紛争はほんとうに止まるのかな)

 ぼくが物心ついた頃には、スーダンの第二次内戦は始まっていた。それまでにおよそ200万人の命が紛争によって奪われていた。紛争のない祖国を想像することは容易ではなかった。

 スキーを終えて帰りのバスの中で、ぼくは新年度から進むべきゼミのことを考えた。ぼくはこれまで日本文学と国際政治のどちらのコースに進もうか迷ってきた。だが、今朝のニュースを聞いて、あの同級生の寂しそうな顔が目に浮かんで、迷いが嘘のようにふっとんでいた。ぼくはスーダンの南北紛争の歴史について調べたいと思った。だが、うちの大学にアフリカの紛争を研究している先生が果たしているのかは疑問だった。
 
 東京に戻り、ぼくはゼミを開講している先生のリストを友人に読み上げてもらった。自分の関心を満たすゼミはなさそうだとあきらめかけたころに、「アフリカ地域研究」をテーマにゼミを開講しているSF先生の存在を知った。

 「これだこれだ!」

 ぼくは興奮した。先生にメールを送り、ゼミに受け入れてもらいたい旨を伝えた。

 4月からぼくは3年生になり、ゼミの時間に指定された教室へ行った。そこにはおよそ10名の学生がいて、先生は30代前半の気さくな女性だった。ぼくとは5、6歳ぐらいしか変わらないようだ。学生は学生で、個性豊かな雰囲気をぷんぷんにおわせている。

 ゼミのときでも、ぼくは相変わらずおやじギャグを飛ばした。先生は関西人なので、発表のときよりもギャグに対してかなり厳しい突っ込みをしてきた。同期たちはといえば、ヤジを飛ばすわ、物を投げてくるわ、ありとあらゆる手段でギャグを阻止しようと企てた。彼らの拒絶をものともせず、ぼくはゼミで上級ネタを放出し続けた。議論の際、ぼくは何度となく、先生と激しく対立した。こちらは理論武装しておらず、いうことがめちゃくちゃなのに、先生は相当我慢して議論に付き合ってくれた。ぼくは感情だけで動かされていたようなものだが、こうやって八つ当たり的にでも感情をぶつけられる場を持てたから、以後、スーダンをはじめとする紛争の分析においてわずかばかり建設的に考えることができるようになった。

 その年の暮れになると、同級生に異変が起こった。それまでのんきにしていた彼らが、急に険しい表情を見せ始めたのだ。全盲のぼくにわかるぐらい、声が切羽詰まっていた。「エントリーシート」という用語も頻繁に耳にするようになった。恥ずかしいことに、それが何を意味するものか、ぼくにはわからなかった。エントリーシートと同じぐらいの頻度で「企業説明会」という言葉も飛び交い始めた。ぼくは同級生のみんなが「企業研究」を卒業論文で扱うのかなって勘違いした。日本では大学生が3年の途中から就職活動を始めるとは思ってもみなかった。

 特に驚いたのが、ゼミの同期の変わり者、自称ポールさんだった。ポールさんは、3年に上がるまでにもう5年間も大学に入り浸っているだけでなく、日本人のくせに金髪で、年がら年中東南アジアっぽい衣装を身にまとっている(彼と対立関係にある友人による情報)。その上、フランスから買ってきたジェンベというアフリカの太鼓を大学にもってきては叩いていた。まぁ、ぼくも彼につられて一緒に叩いたりしていたので人のことはいえない。こんな彼でさえ、就職活動の時期になると変身してしまった。この同級生の変身ぶりを見て、連中は分裂病になったりしないかって心配した。人のことより自分のことを心配しなくちゃならないのに。

 2006年の春、ぼくは4年生になった。年は28歳になろうとしていた。ゼミがやっと楽しくなってきて、卒業論文で扱いたいテーマも見えてきた。就職するにしても、大学院に進むにしても、その年の終わりにならないと考えようがないとぼくは思いこんでいた。

 もちろん、ちゃんと調べていなかった自分が悪いのだが、4年生の初めころになぜ就職活動をしなければならないのか、ぼくには到底理解できなかった。スーダンの大学生は、大学を卒業して兵役を済ませてからでないと就職することができないし、大学の4年目は学生にとって集大成ともいえる年になるので、それを就職活動に費やさなければならないなんて夢にも思わなかった。

 春になると、どの授業も出席率が悪かった。ゼミも例に漏れず、ひどい時は出席者がぼくひとりだったこともある。ゼミや所属学科の同級生、あるいは授業で知り合ったほかの学科の同級生のだれに会っても、同じ話ばかり聞かされる。相談されても、その内容は単一であった。日本人は単一民族かどうかは知らないが、就職活動中の学生たちは魔法にかかったとしか思えない完璧な単一集団だって、ぼくは自信を持っていいきれるのだ。

 なぜ大学がいとも簡単に企業側に愛しい学生たちを売りとばすのか、ぼくにはわからなかった。なぜ責任をもって、みっちり4年の間、学生に対して教育をほどこさないのか?  
 担当であるはずの文科省も、なぜそれを見て見ぬふりするのだろう。この国は企業中心に回っている、とぼくは感じた。だからこそ経済成長したんだからいいじゃんって反論されては困るが、何にせよ、学生たちがこの制度の最大の被害者であることには変わりない。

 6月になると、ゼミの同期のほとんどが就職先を見つけた。すると、それまでの不安たっぷりだった表情ががらりと変わって、みんな解放感にみなぎっていた。
 彼らは面接中に使った技などをよく自慢していた。面接官にどのように共感を抱かせたかとか。でも、ほんとうだろうか? 企業側はほんとうに自分の考えをちゃんともった学生がほしいのだろうか? 学生たちは、みんな企業の罠に引っかかってしまったことに気づいていないようだった。

 「就職支援室」は果たして大学の業務の一部になるべきなのだろうか? それに学費を使うべきだろうか? そういうことを就活を終えた同期にいうと、口には出さないが「就活の苦しみのわからない君にいわれたくない」っていわんばかりだった。「新卒で就職先が決まらないとたいへんなことになるよ」って彼らは教えてくれた。ぼくはそれについて考えてみた。

 なぜ、新卒がそのまま企業に入るべきなのだろう。なぜ、新卒で働かないとたいへんなことになるんだろう? 食べ物のように腐ったりするものでもなければ、すべての職種が若さを必要するようなものばかりでもないだろうと思った。ぼくはさらに盲想のアンテナを立ててみた。もしかしたら、学生が大学を卒業して、「働く条件」について考え始めると、企業にとって不都合なことがあるのかな? それとも、大学4年間のうち、1年半以上就職活動につぎ込ませることによって、学生たちが社会の在り方について建設的に考える力を育てないほうが、ほいほい仕事についてくるのだろうか。もっと踏み込んでみると、働かないと、「社会人」という肩書がもらえないぞって、企業が学生たちを脅しているのではないか?

 そもそも「社会人」ってなんだよ。辞書では、1.働く人々をさす。学生と生徒と区別する際に用いられる。2.社会の構成員。だそうだ。一般的に社会人というと、ぼくの知るかぎり前者をさすのだが、そうすると、主婦は社会人ではないのだろうか? 学生は社会人の範疇に入れないのか? 仕事につけない人々は、社会の一員になれないのだろうか? ほかにも「社会性を身につける」だとか「社会人として責任ある行動を」なんていう言いまわしもある。おいおい。考えるだけでぞっとするからここまでにしよう。

 言いたいのは、新卒で働くという在り方はだれのためで、どんな犠牲の上に成り立っているのかをいまいちど考える必要があるということだ。なあんて、就活もしない自分がいうと、ただの負け惜しみにしか聞こえない。でも、実際そうだ。半分ぐらいは負け惜しみなのだ。ぼくが就活をしなかった理由には、まず、与えられた課題を言われたとおり何も考えずに、いや、考えたとしても自分の考えを押しつぶしてまで遂行する能力がなかったのだ。それに、ぼくは毎日一時間も満員電車に乗り、タバコのにおいや居酒屋の煙を一杯に吸ったサラリーマンのスーツのにおいをかがせられると思うとがまんならなかった。それは立派な人権侵害にさえ思える。

 だが、就職先が決まって、一応方向性の決まった同期をうらやましく思う気持ちもなくはなかった。自分で研究の道に進むことを決めたのに、それが果たしてうまくいくのか、将来仕事になるのかなど、何一つ保証のない人生を歩もうとしている自分を説得するのにやっきになって、日本の就職活動にえらそうにいちゃもんをつけていただけかもしれない。

 その年の秋、ぼくは外語大の大学院の試験を受けた。卒業論文に手こずったが、なんとか提出して、卒業を迎えた。
 気持ちの切り替えも十分にできないまま、4月からぼくの大学院生活が始まった。今度は、授業がすべて英語で行われるコースで、日本人が一人もおらず、ヨーロッパや中東、アジアからの学生が集まっていた。旧アイルランド軍人で国連の平和維持部隊で働いていた人もいれば、エジプトの財務省でキャリアを積んでいた人や、在日スリランカ大使夫人までいた。とにかく、少なくとも「社会人」を数年やったことのある人たちばかりだった。

 ぼくはもう29歳で、2年間の修士課程を終えれば31になることになる。学生としてのキャリアは25年ぐらいになる。退職金をもらいたいぐらいだ。修士課程修了後は、たとえ新卒であったとしても30を超えているから、普通は10年近く働いている年齢なわけで、普通の就職活動を選択肢に入れることは無理に思えた。ぼくはすでに、いわゆる社会人の模範的なコースから脱線していた。

 「どうせ脱線したんだから、無理にコースに戻るより、そのまま次の到達点まで脱線したまま進むしかない」

 ぼくは強気に気持ちを入れ替えた。だが、不安はぬぐいきれるものではなかった。
 
 秋になり、学祭があった。同期が集まり、一緒に居酒屋に入った。ぼくは再会を喜び楽しい話をしようとしたが、驚いたことに、いわゆる「ザ・社会性ゼロ」だった友人たちは、かしこまった言葉づかいで名刺交換をしたり、大真面目に「御社」やら「貴社」やらの語彙を操りながら、それぞれの商売について熱く語ったりしはじめた。

 おいおい、つい半年前の卒業式では、よっぱらって大木に抱きついて「おまえとセックスしたい」っていってたじゃないのキミって思ったが、もうそこにいたのは別人だった。

 会社の自慢話を聞かされて、「そんなことをしても、ぼくから契約はとれないぞ」ってからかったのだが、気持ちの中ではうらやましさが募っていた。同時に、半年もたたないうちに、人間をがらりと会社都合で練り直せる企業の恐るべき力に脱帽した。この刷り込みぶりは、どのカルト宗教にもひけを取らない洗脳力だと感心した。強いて言えば、これに対抗できるのはスーダンのバシール政権くらいじゃないか。

 密かにぼくも社会人になりたいって思ったが、すぐに、満員電車、朝会議、取引先のお得意さんをまるめこむための詐欺のようなうんちくを語る自分の姿などを想像して嫌気がさした。仕事が終わっても、上司の帰宅を待つ自分の姿。話がつまらなく、かつ不満ばかりもらす無能な上司にごはんに誘われ、おいしくもないチェーンの居酒屋でこってりした揚げ物を飲みこむようにして食べ、あげくに10時過ぎまで都心にいて、また酒とラーメン臭さがただよう満員電車で帰宅する自分の姿を盲想するだけで、自分が耐えられる根気のないことをまざまざと感じ、ぼくはどこまでも社会不適合者なのだと落ち込んだのであった。

★★★就職活動でつまずいたアブディン。この先、どうなってしまうのか───?

母国スーダンの紛争問題を研究しながらも、孤独は募る。そんななか、ついに

運命の人が現れて───!? 怒濤のクライマックスは単行本で明らかに。

単行本は2013年5月15日(水)配本です。どうぞお楽しみに!!★★★


プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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