わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第14回 第二の青春 ─後編─

 

 ぼくは外語大に来て、勉強以外に二つの趣味ができた。一つはブラインドサッカーだ。ぼくは小さい時はサッカーが大の得意だった(まぁ、自己申告だから信憑性がないのだが)。だが視力が低下するにつれ、サッカーができなくなってさびしい思いをしていた。

 海外では、すでに数十年前から視覚障碍者向けに工夫されたブラインドサッカーがちゃんとしたスポーツとして認識されるようになっていたが、日本に伝わってきたのは2002年頃だった。つくばにいた後半の時期にぼくはブラインドサッカーと出会い、以来このスポーツに「盲目的情熱」を注ぐようになった。2004年、ぼくにこの競技を教えてくれた永遠の師匠のKTさんとともに八王子でチームをつくった。そして毎週のように練習を重ねるようになった。ぼくたちは全国大会にも出場し、数回優勝をするまでに打ち込んだ。

 ブラインドサッカーは健常者のゴールキーパーに加え、4人のフィールドプレーヤー(視力の差の公平性を期すため、4人ともアイマスク着用)と、相手チームのゴールの裏に立って味方の選手にゴールやシュートのタイミングを伝える「コーラー」とよばれる健常者、それにフィールドの外から指示を伝える監督の構成からなっている。まぁ、一言で説明すれば「目隠しプレー」そのものだ。

 ブラインドサッカーに出会う前に、いくつか視覚障碍者向けに開発されたスポーツをやってみたことがあるが、いずれも怪我のリスクを減らすために選手同士の衝突を避けるようなルールが設けられていて、ガチンコ勝負したい自分には物足りなかった。ブラインドサッカーをやっていると、ぼくは闇の中で自由自在にピッチを走りまくって、ボールの中に仕込まれた金属の破片のぶつかり合う音を頼りに味方同士でパスを回したり、相手を抜いたりするのがすごく快感だった。

 「この感覚だ!」

 足りていなかったのはこの感覚を味わうことだったんだ。ぼくは十数年のブランクののち、形はすこし違っても思いがけぬ形で「サッカー」と再会できたことを心底喜んだ。

 外語大に来て、ぼくはもう一つの大好きな趣味と再会することができた。それは自転車だ。
 もう10年も乗っていなかった。また乗りたいなってずっと思っていた。たまにシリアからの留学生で大親友のホサムと二人乗りをして、近くのスーパーへ出かけたりした。もちろん立派な法違反ではあるが、見えないことが理由で行きたいところへ行けないのは、憲法で保障された「移動の自由」の恩恵を受けられないことになるので、ぼくの二人乗りは、ただ移動の自由を実践しているだけであると信じて疑わなかった。ただ、二人乗りをしていても、ぼくは後ろにじっと乗っているだけなので自転車の醍醐味を味わえなかった。

 そんなある日、友人でノンフィクション作家の高野さんがタンデムの話をしてくれた。タンデムとは、席とペダルが前後に二つある自転車のことだが、前後が長すぎるため、法的には自転車とみなされないことになっているという。よく公園の中で貸し借りされることがあるが、公道を走ってはいけないそうだ。しかし、高野さんは、公道が走れるタンデムを見つけたぞと得意げにぼくに話した。後ろにぴったりくっついた車輪が二つついていて、近くで見ないと後輪が二つであることが確認できない。でも、そのタンデムは二輪車の定義を外れて三輪車となるらしい。細かいことはよくわからないのだが、とりあえず、そのタンデムなら二人で公道を走ってもいいという。ぼくは半信半疑で高野さんの話に耳を傾けていた。と同時に、自転車に乗っていたころの苦い思い出が急に思い出された。

 小学校低学年のころ、父がぼくと兄の強い要望に屈して、1台ずつ自転車を買ってくれた。目の悪い子どもに自転車を買い与えるのはすごくリスキーなのを承知の上で、自転車大好きな息子たちのために買ってくれたのだ。それまでにも近所の子どもたちから借りて乗ったことがあったので、すぐに乗ることができた。ぼくらは飽きることなく、毎日何時間でも自転車を回し続けた。

 最初のうちはよかったものの、視力が落ちていくと、どんどん神経を使うようになっていった。ただ、となり近所の道のどこに穴ぼこが開いているか、どこに側溝があるかを大体覚えていたので大丈夫だった。問題は動くものであった。人、自転車、車、馬車、驢馬などである。

 12歳頃から、ぼくはそれまでぶつかったことのなかった電柱にもご挨拶するようになった。それを見た通りがかりの中年男性は、

 「中学生なのに、もうはっぱを吸ってるのか?」

 と、迷いなく電柱に激突するぼくをののしった。ぼくは痛みをこらえるのに必死で、そいつに返す言葉がみつからなかった。

 何本かの電柱へあいさつ周りが済むと、今度は人にもよくぶつかるようになった。そのたび、ぼくは「ふらふら歩くな」と自分の問題を棚に挙げて相手を責めた。
 
 ぼくは、ある事件をきっかけに自転車に乗るのをやめた。14歳の頃のことだ。
 親友と二人で出かけて、彼に前を走ってもらうように頼んだ。彼の自転車の後輪まではかろうじて視界が伸びていたので、全視力を振り絞って、その一点のみに集中力を注ぎこんでいた。だが、しばらく進んだ頃、ぼくと親友の自転車の間を急に女性が横切ろうとして、ぼくの自転車が彼女をはねてしまった。灼熱の真っ昼間の道路に女性が倒れ、手に持っていた書類がちらばった。しかも、ぼくの自転車のハンドルが横腹にささったらしく、苦しそうに唸っていた。ぼくの母ぐらいの年齢だった。ぼくは謝ってみたが、反応がない。母性本能をくすぐってみようと、自分の目が悪いことをおそるおそる伝えたら、

 「なら、自転車に乗って他人に迷惑をかけるんじゃない!」

 と痛いところを突かれた。それを契機に、ぼくはもう自転車に乗るのをあきらめた。

 はっと我に返ると、高野さんはどんどん話を進めて、その自転車を購入する計画を打ち明けてくれた。数日後、高野さんは、なんと7万円もするその自転車を購入してぼくの学生寮に送ってくれた。それ以来、高野さんやら親友のホサムと一緒に、いろいろなところへ出かけていった。

 ある日、高野さんから電話があって、しばらく世間話をしていたら、突然とんだ話を持ちかけてきた。

 「あの自転車で旅をしないか」

 ぼくはすかさず、

 「温泉へ行こう」

 と提案した。高野さんも悪乗りして温泉へ行く計画を二人で立て始めた。だが、ある時ぼくは気づいた。温泉地のほとんどは山やら高地にあるので、上り坂が半端じゃなくきついだろう。それを高野さんに伝えたら、

 「そのあとは温泉というご褒美があるんだからいいんじゃないの」

 ってぼくをまるめこもうとする。でも、ぼくはあの自転車の最大の弱点を知り尽くしていたので断固として山方面行きを断った。

 タンデムは二人が前後に乗って漕ぐのだが、どうも後方が前方よりも強く漕がないとスピードが出ないのだ。友人と自転車に乗ってどこかに出かけると、みんなが口々に、「楽だね。あまり漕がなくても進むね」って喜んでいるのだ。「そうか」と思って自分も力を抜くと、スピードがどんどん落ちてきて、あげくに止まることさえあった。

 なんだよ、この自転車の構造は社会と一緒じゃないか。一生懸命裏方で働く人々が意思決定に関与できず、表に出ている連中はたいした努力もせずに、右へ左へと、企業だったり国だったりを振りまわすあたりがね。前に可愛い女性が乗ってくれて、指導権を握られるならいざ知らず、旧ボディビルダーのホサムやら、高野さんやら、基本的に男ばかりが前に乗って、彼らのために一生懸命自転車を漕ぎ続けるなんて悲惨な状況はごめんだった。

 それでも、涼しげな春先の風、スピードのないうっとおしい梅雨風、澄んだ秋風、そして、ずけずけと顔を襲う冬風を肌で実感できたのはよかった。新緑のにおい、土のにおい、雨上りのにおい、都心のほんのり臭いにおい、食事時に様々な店の軒先から放たれる美味しいにおいたち、ガソリンスタンドのにおいなどなど、ぼくは嗅ぎわけることができた。

 高野さんとの旅は、温泉地から千葉県の葛西臨海公園に変更となった。そこだったら、それほど激しいアップダウンもない。

 梅雨明けの、とある日曜に、たまたま在東京のスーダン人主催のバーベキュー大会が催されることになっていたので、そこへ行くことになった。気温が上がる前に出発しようと高野さんから提案があり、ぼくらは朝の6時に出ることにした。

 約束の日曜の朝6時、ぼくは高野さんの電話で起こされた。高野さんが「降りてこい!」というので、ぼくは寝起きの声を隠すようにして威勢よく「りょうかい!」って返事して電話を切った。だが、ぼくは出かける準備をしていなかったので、そこから、ヘルメットを探したり、顔を洗ったり、半ズボンと通気性の良いシャツを洗濯した洋服の山から採掘したりして、30分たっても準備ができない。また怒りの電話が高野さんからかかってきた。ぼくはすかさず、

 「まぁ、怒る時間があったら、コンビニで朝飯でも買ってきてくれないかな」

 って強気に出たら、高野さんも根負けしたらしく、こういった。

 「何がいい? おにぎりとパン、どっちが食べたい?」

 「ツナマヨとアップルパイをよろしく」

 ぼくはすがすがしく答えた。

 「そうだ。缶コーヒーもお願いね。モーニングショットね」

 ぼくは高野さんを圧倒した。高野さんが食料を持ってきてくれて、ぼくらはもくもくと朝飯を食べると、勢いよく漕ぎ始めた。

 ぼくらは甲州街道に出て、そこから新宿を目指した。早朝にもかかわらず、人手が結構あった。子どもたちはぼくらを発見すると、「おう。かっこういい!」だとか「なにあれ!」だとか叫んでいた。「自転車2台!」ととぼけるのもいた。タンデムはもちろん目立ったが、人目を引いた理由はそれだけではなかった。

 楽しくなって、ぼくは歌い始めた。石原裕次郎の銀恋やら、美空ひばりの愛燦燦やら、谷村信司の昴などなど、NHKを聴いていれば必ず流れてくる歌謡曲を大声で熱唱した。走っていればすぐにその場を去ることができるのだが、交差点で止まっていると、みんなが不審そうにこちらを見る。恥ずかしいからやめてくれと、怪しさでは外人負けしない高野さんに注意されたぐらいだった。でも楽しいのだ。見られるのもなかなか悪くないもんだ。

 「よし、東京を突っ切るぞ」

 ぼくは吠えた。高野さんはあきれてものも言えないようだった。
 日曜日の新宿の朝は寂しかった。カラスが低空飛行しながら、耳障りな鳴き声をあげている。ビルに反響するせいか、その声が余計にうるさく聞こえる。カラスのほかに、だれかが酒の空き瓶を片づける音がしたり、町がほんのり臭いにおいを放ったりするぐらいで、新宿にはほとんど動きらしい動きはなかった。
 
 ぼくらは新宿を通り越し、都心を西から東へ突っ切っていった。不気味なぐらいに空いている。そのおかげで、ぼくらはスピードをぐんぐんあげて、高野さんは途中で奇声をあげた。

 「おう。45キロ出てるぞう!」

 「よし、もっと出そう!」

 ぼくは立ちこぎし始めたが、こういう時に限って信号が赤に変わるのだ。なんてタイミングが悪いんだよ。

 出発してから2時間40分ほどで葛西臨海公園に到着した。
 その日、ぼくらはたらふくお肉をほおばって、また自転車にまたがって東京を目指した。疲れているのに、自転車を自由に乗れることがすべてを忘れさせてくれる。疲れどころか、逆にテンションが高くなって、トランス状態に近い。葛西臨海公園からの帰り、ぼくはこう思った。

 青春だ、これは。青春だ。好きな勉強をして、好きな趣味に没頭できる毎日に、ぼくは終わりかけた青春をもう一度取り戻すことができた気がした。こんなに楽しい毎日を過ごして罰が当たりやしないかと、かすかな恐怖をおぼえつつ、サッカーと自転車に没頭していたのだった。

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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