わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第13回 第二の青春 ─前編─

 ライオンは心の底から外語大への入学を祝福してくれ、すぐさま叔父たちや友人たちにその情報をまき散らした。だが、父は外語大の学校名がどうも気に入らなかったらしく、「東京大学」とまとめられてしまった。

 「やばい、ぜんぜん違うじゃん。まるでぼくが意図的に事実を曲げたみたいだ」

 そう思って必死に訂正した。ぼくは東京外国語大学をそのままアラビア語に訳したのち、Tokyo University of Foreign Studiesと英語で伝えた。すると、英語ぺらぺらの父が、「このアラビア語と英語は対応していないよ」って思わぬ角度から突っ込んできた。よく考えたら、確かに東京外国語大学を英語に訳すならばTokyo University of Foreign Languagesとならないといけない。なんだ、大学名ってこんなにいい加減に付けられるものなのか! でも、ライオンに対してはなんの弁解もできなかった。

 それはさておき、ぼくはこれから始まろうとしている生活にわくわくしていた。やっと大学で、それも好きな分野の研究ができるんだ。しかも、視覚障碍者に配慮してもらえるらしい。

 ぼくの入学が決まった翌週、入学予定である日本課程のK先生とU先生、それに教務課、学生化などの混合チームがぼくの学習および生活環境の整備のため、わざわざ筑波技術短期大学のN先生のオフィスを訪れ、必要な人的および物的支援の情報収集をしてくれていた。大学は、必要なパソコンや音声ソフトをはじめ、学習に役立つほとんどの機器をそろえてくれたうえ、教材の点字化やテキスト化のため、アルバイトまで雇ってくれるという。さらに、家を借りるのが大変だろうからと、留学生寮への入居まで認めてくれた。

 そういう経緯で、ぼくは荒川区の都電荒川線沿いにある小台(おだい)という停留所近くの寮に住むことになった。まさか、寮から大学キャンパスまで1時間40分もかかるなんて思ってもみなかった。というより、説明を受けていたはずだが、寮はとにかくそこしかないと言われて「ぜひ入れてください」とそればっかりお願いして、通学について心配してくれた大学側の話を覚えていなかった。

 2003年4月1日、ぼくは寮への引っ越しをすませた。あてがわれた部屋は、1階の入り口に一番近い、すばらしい条件の部屋だった。大学側の配慮を感じた。部屋を出てすぐのロビーに行くと、数人の留学生たちがひと月前にあったイラク進攻について激しく意見をぶつけ合っていた。

 「おう、英語だ」

 ぼくは久しぶりに生の英語を聞いた気がした。そうだ。ぼくは日本へ来てから、英語に対するある種の憧れやコンプレックスを持つようになっていた。日本へ来てから、福井盲学校時代にしろ筑波技術短期大学時代にしろ、どっぷり日本語の環境に浸かっていたので、日本語が得意になったぶん、気づけば英語が下手になっていたのだ。

 それに、もともとぼくは英語がそこまで得意ではなかった。スーダンの英語教育は文法中心で、日本に似たところがある。ネイティブの先生による授業もないので、発音が悪いうえ会話が不得意な人が多い。1960年代までに学校教育を受けた世代は英語が半端なく上手だったが、1970年代前半以降は、政治的な事情から教育の言語がアラビア語にとって代わられたため、英語を得意とする生徒が激減した経緯がある。

 まぁ、ぐだぐだした言い訳はやめておこう。ぼくは炎が燃え上がるようなイラク戦争の議論を、英語ではなくて得意な日本語でさえぎった。

 「初めまして、アブディンと申します。スーダンから来ました。今年から外語大で勉強することになりました。よろしくお願いします」

 わざとらしい丁寧な日本語であいさつを終えると、「オー、クール」やら「すげぇ」やら、雑多ではあるが非常に肯定的な反応が返ってきた。ぼくはそこに座ると、みんなに根掘り葉掘り、ここに来た経緯などを聞かれた。ぼくが学部に入学できたことをうらやむ者も多かった。それはそうだろう。この留学生寮の住民のほとんどは、母国の大学で日本文化や日本語を専攻していて、やっとの思いで一年間、日本に留学するチャンスをつかんでいた。同じ留学生で、しかも漢字を使わない国の出身者が正規の学部生になるのはめずらしいことだった。

 良いのか悪いのかはわからないが、彼らはぼくの障害に対して、なんらの興味も示さなかった。あくまで、得体の知れぬこいつはなんでここまで流暢な日本語をしゃべるのだろう、と不思議でしかたないようだった。
 彼らが日本のどんなことに関心があるのか聞いてみると、ある文学好きのエジプト人は村上春樹の大ファンだといい、イタリア訛りを前面に出した女子は、「私は林芙美子が大好きなの」といった。日本語があまり得意でないスペイン人の男子は、「ぼくは将来、日本のアニメのスペイン語翻訳者になりたいんだ」という。本当にみんなそれぞれ夢を持っていた。ぼくも負けられないなって闘争心をかき立てられた。ぼくは外出していた連中が帰ってくるたび、新たな話の輪に加わった。
 ウズベキスタン人が外から帰って来るなり、ぼくの白杖を持って、

 「これはなんですか」

 とストレートに聞いてきたので、事情を説明したら、

 「じゃあ、気に入らないやつがいたらこれで叩けばいいよね」

 って、マジでこの手を使えるぼくをうらやましがった。すこしピントがずれている同居人たちだったが、ぼくには素直に嬉しかった。

 部屋へ帰る前に、ぼくは仲良くなったシリア人に学校への行き方を聞いた。返事を聞いて唖然とした。彼によると、まず、ちんちん電車で町屋まで行って、そこで千代田線に乗り換え、新御茶ノ水まで行く。新御茶ノ水でJR中央線に乗り換え、武蔵境まで行く。武蔵境で西武多摩川線に乗りかえて、二つ目の多磨で降りるのだという。あたかも簡単そうに説明してくれたが、

 (これは歩行訓練師に教えてもらわないと絶対にたどり着けない未知の領域だな)

 って気がついた。とりあえず、考えるのは明日にして、寝よう。

 ぼくは自室に戻るとユニットバスのバスタブに湯を張った。

 「やったね。初めてマイトイレアンドマイバス付きの個室に住めるね!」

 ささやかな喜びを感じつつ、温かい湯船にどっぷり身を任せた。(心ゆくまで、あったまれ)とぼくは心の中でゆっくりつぶやいた。

 深い眠りに入り、慣れない部屋で初めて寝たときのご多分にもれず明け方に一度目を覚ましたが、再び眠りに落ちていった。しかし、楽しいはずの二度寝に異変が起きた。
 5時半過ぎだっただろうか。ぼくは凄まじいわめき声と木刀が激しくぶつかり合う音で目を覚ました。声のもとは、ベランダ側の10メートル先あたりから湧いているようだ。

 「なにこれ? やくざ同士の抗争だろうか? チンピラかな」

 スーダンでたまにテレビ放送されていた黒沢明監督の映画に出てくる音が再現されたようで目を真ん丸にした。真ん丸にしたところで、別に見え方が変わるわけでもないのにな。ぼくは慌てて、いつでも110番できるように準備した。パジャマを着替えて靴まで履いた。パスポートをポーチに入れて、もうこれでいつでも逃げられる体制を整えた。

 わめき声は一段と激しさを増していたが、こちらに火花が散ってくる様子はないのでぼくは110番をする手前で思いとどまった。しばらくすると、急にそれまで繰り広げられていた激しい戦いがぴたりと止まった。空気中に充満していた騒々しさに変わって、沈黙があたりを怪しく包んだ。その時、ぼくはさらなる恐怖を覚えた。

 沈黙は目の見えないぼくにとって「無」を意味するのではなく、「仮面をかぶった見えない危険」そのものだ。さきほどまでのアクションは確かに怖いが、危険の領域が声で認識できるだけでも、ある程度対応できる類いの危険だ。沈黙は怖い。何をされるかわからない。

 ぼくは我慢できずに、まだ6時前にもかかわらず、昨夕知りあったばかりのウズベキスタン人の部屋に内線をかけた。
 安眠を損なわれたJさんから「ぼしぼし」と苦情をはらんだ応答が聞こえた。ぼくは、さきほどまでの騒ぎについて尋ねた。相手はしばらく考えているようだった。鼻息がしばらく続いたあと、生気のない声で、

 「もしかしたら、警察の朝練じゃない」

 ってやっと言葉が絞り出された。

 「アブディンさんの部屋のすぐ裏に警察署があるから、うるさいかもしれない」

 安眠を損なわれたわりには、かなりサービス心旺盛な説明をしてくれた。

 「ちぇっ」

 ぼくは慌てふためいた自分がばかばかしく思えて、またとぼとぼと眠りに落ちていった。
 そして次の日からは、勇ましい警察諸君の剣道の朝練を目覚まし代わりにしてやったのである。

 その日、東京にある視覚障碍者団体に、至急、歩行訓練を受けたい旨を伝え、ぼくが初来日した際に担当してくれた大槻さんと訓練できることになった。翌日、大槻さんと5年ぶりに再会すると、早速、地獄のような三日間の日程が始まった。

 ちんちん電車で町屋へ行って、駅構内のおいしそうなシュークリームの匂いに食欲をそそられるところまでは、なんとか覚えることができた。問題はそこからだ。

 まず、千代田線に乗って、五つ目の新御茶ノ水で下車する。そこから地上に出るまで、信じられないほど長い上りのエスカレーターに乗って、さらに階段を上り、外に出る。道を渡って、JR御茶ノ水駅の改札口に入る。10歩ほど前方に進んだら、今度は左へ曲がり、数段を降りる。右に曲がって5、6歩ほど歩くと、今度は左右に階段があり、いずれも中央線快速と中央総武線の乗り場につながる。目が見えればもちろん朝飯前のことだろうが、目が見えなければ、電車やエスカレーターに乗る位置や、利用する階段を見つけること、距離感をつかむこと、外に出たら道を慎重に渡ること、いずれも至難の業である。それ以前に、自分が住んでいる寮から都電荒川線の駅の行き帰りの道を正確に覚えることだって困難を極める。幸い、寮への帰り道は、大通りから路地に入る角にガソリンスタンドがあったため、ガソリンくささを頼りに寮への道を比較的簡単に見つけることができた。

 話は御茶ノ水に戻るが、この駅はほんとうにクセモノだ。なぜなら、ホームが狭いだけでなく、ホームのところどころに段差がある。わかりやすくいうと、ホームの端っこに近いところの左右の線路の高さが違っていて、総武線千葉方面を降りて、向かい側の東京駅の快速電車に乗る際、1、2段、階段を降りることになる。どんだけ怖いんだよ。見えないで、かつそのことを知らないと、9割がた線路に転落するとぼくは直感的に感じた。そのクセモノホームの険しい起伏になれるのに、3時間ほどかかった。大槻先生いわく、まちがってもその辺で乗り降りしないことが一番だそうだ。

 御茶ノ水で中央快速線に乗り、武蔵境までおよそ30分かかった。そこで、すぐに向かい側の西武多摩川線に乗り換えられる(10年前の武蔵境の駅構造)。武蔵境で西武多摩川線に乗って、二つ目がキャンパスのある多磨だった。すべての地図を脳裏に刻まなくちゃならないぼくらは毎日慎重に確認しながら、数往復した。ちなみに、最寄りの駅から大学までの5分ほどの道については、大学の関係者に教えてもらうことになった。

 都電荒川線、千代田線、中央線、西武多摩川線までの練習の合間を縫って、休み時間にはコーヒーショップで大槻さんといろいろな世間話をした。

 「モーハメドくん、視力が5年前と比べて、また落ちましたね」

 するどく突っ込まれた。さすがだった。ぼくは日本へ来た当初、物の影がすこし見えていたのだが、今はもうそれすらわからなくなっていた。

 「先生、なんでわかるんですか?」

 ぼくが聞くと、

 「歩き方が上手になったからや。ほら、前は自分が視覚障碍者であることに対して反感があったかしらんけど、杖を使ってても、自分の目で見ようとするくせがあったんや。今はもう立派に全盲らしい振る舞いをしてる。身の安全のためにはこれがいいで」

 関西弁でずけずけと本心を言い当てられた。ぼくは大槻先生の観察力に脱帽した。

 大学まで一人で通学できるようになり、ぼくはまた新たな喜びをかみしめた。大学に通いだすと、ぼくはもろにラッシュアワーにぶつかった。ちんちん電車はだいじょうぶだが、千代田線と中央線は地獄のような混雑をみせた。駅構内の誘導ブロックに沿って忠実に歩こうとすると、人の波をまともに受けることになったが、ぼくはどんどん人の波に飲み込まれ、もがきながらも毎日大学へ通った。

 日本課程のクラスメイトは45名で、その3分の1が日本人、残りはほぼ中国と韓国の学生が占めていた。中国と韓国の学生は外人と思えぬずば抜けた日本語力を備えていたため、ぼくは天狗になりかけていた鼻をへし折られた気分になった。漢字を使わない国の出身者は、ぼくとラオスの女の子のたった二人だけだった。

 授業では、1年生と2年生の間に専門科目を受講する必要があったため、ぼくは、古典から現代にわたる日本語や日本文学、日本史の科目を受講した。どの授業も面白かったが、特に日本の近代文学の授業が面白かった。夏目漱石贔屓のS先生の漱石作品の分析は、弾むような声がすごく印象的で、90分の間、息継ぎの間さえ惜しむように、どんどんどんどん言葉が溢れだした。まるで漱石の作品世界の美しさを一肌ずつ露出していくようだった。聞いているこちらにも楽しさが伝わってきたが、なにせよ、S先生はぶっ続けでしゃべり通しなものだから、質問があっても聞く間すら与えてもらえないのだ。

 日本史の授業では、日本と東アジアの歴史関係について議論をする時間があり、ぼくがあえて日本の植民地政策を正当化する立場をとって議論の発展を狙うと、逆に同級生たちに引かれ、クラスに異様な沈黙が漂った。やっぱり日本と東アジアの関係ってまだ生々しくて、議論をするには注意しなくちゃならないなと再確認した。でも、先生に一方的に教えられるのに物足りなさを感じて、ぼくはついつい地雷を踏んでしまうのだった。おかげで、同級生、特に韓国と中国の留学生に嫌がられているのを感じるようになった。まぁ、そうなるのも無理はないなって、後になってから気がついた。

 2年生に進級したころ、府中キャンパスに新しい留学生寮ができた。ぼくは特別に入居が認められたため、大学の敷地内の寮に引っ越した。寮に入ると、なんと、ベランダ側の窓に網戸がない。ぼくは守衛のおじさんに、

 「なんで網戸がないんだ? 外人だって蚊に食われるぜ」

 って冗談を飛ばしたら、その日から守衛さんたちに「あみどさん」というあだ名をつけられてしまった。

 地獄のような一年間の通学の苦労から解放され、ぼくは5分で教室まで行けるようになった。これ以上ないぐらいに完璧な学習環境だった。これで、勉強に没頭して首席で大学を卒業し、近い将来教授になり、10年後ぐらいにノーベルうんちゃら賞でももらえるのではないかと、すこぶる楽観的になった。

 だが、そう一筋縄ではいかないのが人間だ。ぼくは、一年生の間ほとんど時間通りに授業に出席していたにもかかわらず、住まいが大学から目と鼻の先になった途端、遅刻や欠席が急増してしまった。なんでだろう。そうだ。余裕という悪い奴だ。これだけ近くに住むと、つい二度寝、三度寝をしてしまい、「あと五分で起きよう」ってほっかほかの布団から出るのを惜しんでいると、いつの間にか授業の時間を過ぎてしまう。先生方はぼくが近くに引っ越したのを知っているので、こんなに近くに住んでてよく遅刻するねって思われるのが恥ずかしくて、授業をさぼってしまうという最悪のパターンに発展した。ぼくの「潜在的ダメ人間」がどんどん顕在化してくるのを認識しつつ、ついついそのサイクルにはまってしまった。

 だが、つくば時代と違って不思議と気分は晴れていた。それは、留学生会館で多くの留学生と友人になり、国際政治やサッカーなどなど、ぼくが好きなネタを話せる相手ができたからだ。それに、文学と政治という二つの学問の間で揺らいでいると、不思議とお母さんに優しくゆすられた赤ちゃんのように、迷いというよりも安らぎを感じられた。

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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