わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第12回 酒って避けては通れない道 ─後編─

 

 冬を無事に越して、2002年の4月、ぼくは2年生になった。

 下級生が入ってきて、おそらくは1か月以内に、ぼくよりも情報処理の知識が豊富になっていった。ぼくは、初来日して以来最大級の、嵐のようなホームシックに襲われた。

 次のステップのためにと思ったパソコンの勉強はうまくいかないし、お酒を飲むようになって自分が誇りに思っていた信仰心がガタガタと揺らぎだし、自分がなんのために日本にいるかもわからなくなった。その時のぼくの姿はきっと、ライオンさんがもっとも危惧していたものだったろう。今の自分には、自信をもってライオンに挑むことは絶対にできないんだって感じた。年もとっていく。ぼくはいつのまにか24歳になっていた。体重も8キロほど増えて60キロに乗り上げたため、来日当初、叔父に買ってもらったポーランド製のスーツがちょうどフィットするようになっていた。

 ぼくは無我夢中でがんばっていた盲学校時代を懐かしんだ。あの闘争心をまた取り戻したいって切実に思った。気づけば、ぼくは挑戦することを恐れるようになっていた。もしかしたら、お酒をやめればまた元通りに、闘争心をむき出しにしてがんばれるのかなとも思ったが、いったんお酒を飲み始め、飲み仲間のようなものができてしまうと、そこから抜け出すのは容易ではなくなる。別に強制されてもいないのに、ぼくは寮の別のユニットの友人から飲み会の呼びかけがあるたんびに断るに断れず、ついついさまざまな寮の飲み会に顔を出していた。

 実際、日本人がお酒を飲むと開放的になって、親しくなるのを、ぼくは自分がお酒を飲むようになって肌で感じた。スーダン人は甘い紅茶を飲むだけでもすごく開放的になるのに……。

 飲み会の席では、ぼくが乾杯して一杯目を飲み干した瞬間、必ずと言っていいほど、だれかが決まり文句のように、

 「アブディンってイスラーム教徒だよね? お酒飲んじゃって大丈夫だったっけ?」

 とぼくが一生懸命振り払ってきた罪悪感を呼び覚ますのである。その都度ぼくは、

 「お酒って、避けては通れない道なのよ」

 とすかさずギャグをかますのであったが、心の裡ではなんともいえない罪悪感に苛まれていた。

 なぜ、つくばに来てから、こんなに心に穴がぽっかり開いた感じになっているんだろうって考えた。きっと盲学校時代はルームメイトやホームステイの家族に恵まれて、ぼくはそれほど寂しさを感じなかったのだろう。つくばには、ルームメイトもいなければ、ホームステイ先もない。ぼくは、田舎から大学進学のために上京する若者と似たような状況に置かれている気がした。そういう時、人はやはり、だれかにすがりたくなるものだ。

 そうだ。彼女だ。彼女がほしいとぼくはまた欲を出し始めた。それだって宗教の掟を破る結果をもたらすものだから、心の葛藤を振り払わなければならない。そういう時にお酒を飲むと、良心の呵責のセンサーが鈍化する。そんな時、ぼくは狩りに出た。恥ずかしい話だが、ご先祖様は絶対に農耕民だったと思うぐらいに、ぼくは狩りにむいていなかった。何度も何度もトライするものの、結果は惨敗なのである。それが悔しくて、またヤケ酒を飲んでしまうのだから、近くのサンクスの発泡酒の売り上げにどれだけ貢献したかわからない。

 ぼくはつくばの町を嫌いになり始めた。つくばは福井とくらべてお天気のよい日が格段に多いにもかかわらず、なんとなく心が晴れない気分にさせる何かが漂っていた。最先端の研究所がひしめく街だから、もしかしたら変な物質が空気中に漏れているのではないかって本気で疑ったくらいだ。つくばには、福井のような人の温かさが感じることも少なかった。というより、つくばの住民に出会うこと自体が少なかったから、つくばの人の心が温かいのか冷たいのか判断する材料に欠けていたといったほうが正確かもしれない。住民の大多数がぼくのような大学関係者だったことも、町にどうも不自然な雰囲気を感じた一因かもしれない。あの福井ののどかな方言がすごく懐かしかった。

 それに、ぼく自身がすごくネガティブなオーラを出していたがために、嫌な目に次々に遭う羽目になったのかもしれなかった。
 ある日、ぼくは病院へ行こうと思い、つくばセンターまでバスで行ってから、タクシー乗り場でタクシーに乗った。バスを乗り継いでいくこともできたが、バス停が遠いということもあってタクシーを使うことにした。毎日歩いたりしている道は覚えていても、目が見えないと、やはり初めて行った場所は自由に歩けないのだ。だから、タクシーを使う頻度は見える人と比べて多い。タクシーにお尻を落ち着かせると、運転手さんにすごく無愛想な声で、「どこまでいくんだ?」と茨城弁で聞かれた。
 ぼくは、「なになに病院までお願いします」と丁寧に返事した。

 「どこかわからないんだっぺ」

 運転手さんは、ぼくが病院名を言い終える前に遮ってしまった。
 ぼくは自分の発音が悪かったせいだと思い、明確な発音で、つくばでも非常に有名な病院名を伝えた。すると、運転手さんは、

 「んだから、それがわからないんだっぺ」

 とまた強い口調で言ってきた。ぼくはとうとう頭にきて、

 「ぼくだって、病院の位置がはっきりわからないんであえてタクシーに乗ってるんじゃないか。なんでわからないんですか?」

 そう強気で責めてしまった。
 運転手さんがこれまでの強い口調を変えて、すごく静かだが決意のある言葉で、

 「んだから、わからないもんはわからないんだっつ」

 と答えたため、ぼくはようやく運転手さんの意図が理解できた。

 「降りろということだね」

 挑発したつもりだったが、相手は何も言わなかった。「そういうこと」だと心の中で言っているのが聞こえた気がした。ぼくはしかたなく、タクシーを降りて次のタクシーが来るのを待つことにした。

 こういった事件みたいなものが、たまにだったらよいのだが、つくばにいた2年の間は何度も起こったので、ぼくは絶対に自分が変なオーラを出しているんだと思って、その都度落ち込んでしまった。
 
 ぼくは毎晩、勉強もせず、テレビをつけてチャンネルを回すようになった。
 2001年9月に9・11テロがあってから、メディアがイスラムに対する偏見を平気で並べ立てるようになっていた。

 「なにいってるんだ」

 そう思いつつ、自分もイスラムの掟を守っていないのだから、イスラムを代弁する資格はない。しかし、ぼくはもともとハルツーム大学の法学部生で弁護士になりたいと考えていただけに、がつんと一言いってやりたかった。周囲の日本人と9・11テロについていろいろ話したかったのだが、まったくといっていいほど聞く耳を持ってもらえず、断念した。

 ぼくはそれまで何度となく、日本の政治の何気ない出来事について、周囲の友人に話を振ってみた。そのたんびに、相手ができればそういう話をしたくないみたいな雰囲気を出していたので、議論がなかなか発展しなかった。

 (この人たちは民主主義と言論の自由の大切さがぜんぜんわかってないな)

 国で言論の自由の恩恵を受けたことのなかったぼくは感じた。スーダンでは政府の悪口をいっただけでも命がけになることさえあるのに、人々はそれに屈せず、政府の腐敗や国のあるべき姿について語り合っていた。日本では、自由に話せる環境があるというのに、誰も真剣に意見を交わそうとしない。

 おいしい店の話とゲームの話をすれば大盛り上がりするのはわかっていたが、ぼくはおいしいものは好きでもおいしい店のうんちくを語るのが大嫌いだった。ぼくはやはり、政治の議論がしたいなって思った。そして、政治とか法律をまた学ぶチャンスがあればうれしいなって、思うに任せない情報処理の勉強からの現実逃避を試みた。

 ぼくはネットで大学のことを調べ始めた。すると「東京外国語大学」という変わった大学のホームページにたどりついた。この大学なら、言語を学びながら、政治、文学など幅広い授業がとれそうである。ぼくにとって実に都合のよい大学だと直感的に思った。

 留学生の受験方法を調べていたら、まず、留学生向けの「日本留学試験」というものを受ける必要があることがわかった。それでそこそこの成績を修めてから、次に大学が行う入試を受けることになるようだ。

 日本留学試験の科目は、日本語、公民、数学だった。試験を受けるにあたって、ぼくは盲学校時代の後輩に国語やら現代社会やらの点字教科書を貸してもらった。段ボール三つ分送られてきたので仰天したが、読み進めると、なかなか楽しいじゃありませんか? 

 特に日本の明治維新初期の混沌とした状況のなか、維新政府が打ち出した国家戦略に関する部分にぼくはすごく興味を持った。日本の歴史を真剣に勉強しようかなって思ったくらいだ。たとえば、従来の年貢制度の代わりに維新政府が導入した地租改正などは、あんな混沌とした時代にこんな細かい制度を導入できたことを考えると、感心せずにはいられない。ぼくは派手な歴史上の出来事よりも、こういった地味な事実が大好きだった。

 一人で読み進めてもわからないことが多すぎたので、筑波大学の博士課程に通う日本人の友人にお願いして、勉強を手伝ってもらった。ぼくは、受験勉強の危な楽しいあの感覚を6年ぶりに味わうことができた。気持ちがすごく前向きになり、この2年間のあいだ影をひそめていた闘争心がじわじわと芽生え始めた。

 ぼくは日本留学試験の公民と日本語でそこそこの成績を修めたが、数学は当然ながら完敗に終わった。点字の数学の記号を読めずに、四択問題の回答を適当に選んでいった。
 幸い、東京外国語大学は主に国語と公民の成績を重視していて、ぼくは外語大の受験資格を与えてもらった。そして、2月に外語大の日本課程という学科の入試を受けた。試験科目は、日本語、日本史(江戸後期から現代まで)と英語だった。日本語と日本史の試験では納得のいく回答ができたが、英語の問題になると、なんだか急に集中力が切れ始め、思うような回答ができなかった。落ちるかも、と英語の試験が終わった時に思った。

 だが、心はすでに外語大の府中キャンパスにお引越ししていた。つくばへはもう帰りたくない。ぼくは、自分が好きで、得意な勉強がしたかった。もう24歳なのだから、人生を無駄にすごしたくないんだ。もう、自分に正直になろうとぼくは決めた。

 2週間後、果報がやってきた。合格だ。びっくりだ。やばい。やったのだ。
 つくばに来た2年前以来の心地良さをかみしめた。ぼくは泣いた。ぼくは挑戦する喜びを存分に味わうことができた。

 すぐにライオンに一本の国際電話をした。ライオンも大喜びしてくれた。ライオンは、ぼくの将来をすごく心配していたのだ。事あるごとに、鍼灸の資格を取っても安心できないぞといわんばかりに、さりげなく不安をほのめかしていた。

 3月末になると、春休みの帰省先や旅行から早く戻ってきた友人たちが祝い酒を振る舞ってくれた。安い居酒屋で、飲み放題にごくわずかな料理がついた。その晩、野球部の師匠でザルの川崎さん以外、ほとんどのメンバーが酔いつぶれていた。調子に乗って川崎さんと飲みくらべをしてしまった自分は、もちろん真っ先に、ぱたんと音を立てて崩れ落ちたのであった。

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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