わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第11回 酒って避けては通れない道 ─前編─


 福井県での生活が2001年3月で幕を閉じ、いよいよぼくは都会へ行けると思った。入学することになったのは、つくばにある筑波技術短期大学の情報処理学科というところだ。つくばは東京から近いというので、都会大好きなぼくはわくわくしていた。しかも、情報処理という流行りの勉強もできるんだ。盲学校の寮のような門限もないし、部屋は一人部屋だからプライバシーだってちゃんとある。ぼくは浮かれていた。

 福井県立盲学校に入学した時と同じく、今回もぼくは勉強の内容についてはまったくの無知であった。パソコンに触ったことはあったものの、一連の動作をちゃんと一人でやったことはなかった。ここで、じっくりパソコンという魔法の箱の謎が解ければいいなと気楽に考えていた。まさかプログラミング言語やら、数学ったらしい勉強をしなくちゃいけないなんて思ってもみなかった。

 4月初め、ぼくはつくばへ向かった。初来日以来、何かと面倒をみてくれていた東京の友人夫婦の大谷さんが、我が息子のようにつくばへ付き添ってくれた。
 東京駅から高速バスに乗って1時間と10分ほど走ったころ、つくばセンターという名の静かなバスターミナルに到着した。物事を遠慮なくはっきり言い切ってしまう江戸っ子の大谷さん奥さんがきっぱりと、

 「田舎だねここ」

 と吐き捨てた。この発言によって、ぼくが2か月ぐらい温めつづけてきたつくばへの盲想は跡形もなく吹っ飛んでしまった。

 (なんだ、田舎から脱走して都会に行けると思ったのに、結局都会をかすって、またしてもド田舎に命中してしまった。なんでぼくにはこんなに田舎がつきまとってくるんだろ?)

 バスを降りると、今度は自分でも、つくばという町が田舎であることを痛感してしまった。つくばセンターといいつつ、そこにはセンターらしいざわめきがないのだ。通行人の足音らしきノイズも聞こえてこない。4月初めだというのに、つくばは寒かった。福井から来たならこれぐらいの寒さはへっちゃらだろうと思うかもしれないが、ここは寒さの質が違っていた。福井は確かに寒かったが、風がしっとりして丸みを帯びており、寒さの中にも人を包み込むなにか温かいものを感じた。だが、つくばの風はとげとげしく、なんだかこちらが攻撃されているような気分にさせる。しかも、建物に入っても外で浴びた寒さがいつまでも付きまとってくる。

 筑波大学中央行きのバスに乗って、平砂寄宿舎前をめざした。つくばの道には必要以上にスピードを出せないような仕掛けがされているのか、それともただ運転が荒いだけなのかよくわからなかったが、バスがガタガタして気分が悪い。15分ほど走ったところでバスを降りると、つくばセンターで置き去りにしたつもりのとげとげしい寒さが温まりかけた身体を襲ってくる。なんだかいやな予感がしてきた。でも、そうは簡単に悲観的になるまいと、ぼくは努めて明るく大谷さん夫婦との楽しい会話を探した。

 学生寮に到着した。三棟のうち、一番大学の講義棟に近いA棟の最上階、4階の7ユニットというところに部屋を割り当てられた。ユニットに足を踏み入れると、そこにはだれもいなかった。ドアを入るとまず共同スペースがあり、ユニットの住民6人が炊飯器やらトースターなどを置いていた。食卓や共同で使う冷蔵庫、電磁調理器もある。洗面所、洗濯機、トイレもユニットの中にあった。

 さっそく411号の部屋の鍵を開けて中に入った。大谷さんはまた、

 「狭い」

 ってヤジを飛ばすようにいった。
 そのあと、大谷さんは早速うちから持ってきた掃除機をかけて部屋をきれいにしてくれた。そして、「この掃除機、使っていいよ」と言い残し、ぼくに活を入れると東京へ帰って行った。

 日本へ来てもう3年以上たっていたが、大谷さん夫婦が帰った後に感じた侘しさは、それまでにないものだった。晩ごはんを食べようと思ったが、どこに行けばごはんが食べられるのかもわからない。ぼくはめずらしく、食の安全保障戦略をちゃんと考えていなかった。

 しばらくすると、ユニットのドアを開けてだれかが入ってくる音がしたので、外へ出てみた。すると、理学療法学科の新井先輩がいた。新井さんは物腰が柔らかく、優しい感じの19歳で、杖なしでも一人で歩けるぐらいの弱視であったが、一応ここでは22歳のぼくより先輩である。新井さんは、手伝えることがあったら言ってと声をかけてくれたので、さっそくコンビニの場所をうかがった。

 「よし、コンビニまでの行き方を教えるよ」

 ぼくは礼を言ってから、新井さんのひじにつかまり、野郎どうしで仲良く一緒に出かけた。小さな林みたいなところを突っ切ると、すぐそこにコンビニがあった。部屋から4分で行ける場所にコンビニがあったのは意外であった。これだけでも、つくばが大都会のように思える。福井県立盲学校は寮から一番近いコンビニまで、田んぼ道を30分も歩いたところにあったので、こちらのほうがはるかに便利だ。

 入学式までの間、周囲の店やらバス停までの行き方やらを覚えるため、ぼくは迷子になりながらも毎日出掛けた。そうするなかで、「つくばの歩道はすごくでこぼこしていて、スーダンとあまり変わらないんじゃないか」と感じた。手抜き工事のせいというより、もともとあった森がすごい勢いで生き返ろうとして、その邪魔をしているコンクリートをぶっ壊そうとしているんじゃないかって。雨の降った日なんかは、歩道のいたるところが泥まみれになったり、水たまりができたりしている。それは白杖では探知しづらいので、まんまと水たまりにじゃぼん、じゃぼんとはまることが多かった。

 翌週、大学の天久保キャンパス(聴覚障害者関連学科のあるキャンパス)で入学式が簡単に行われ、その後、大学に戻ってオリエンテーションを受けた。クラスには、ぼくを含めて10名の学生がいた。盲学校の4名(のちに3名に減った)のクラスメイトと比べると3倍の人数だ。不思議とえらい多く感じた。クラスメイトのうち4名が全盲で、6名が弱視だった。高校新卒は6名で、ぼくを含め、年齢が高いのは4名だった。クラスメイトの中にはネパール人がいた。鍼灸学科にはエジプト人もいたので、これだけでも、この大学はすごくインターナショナルに思えた。ここまでは、つくばは楽しかった。

 4月の2週目に授業が始まった。パソコンのいろはを基礎から教えてもらえるかと思いきや、なんだか東洋医学以上にちんぷんかんぷんな授業が多い。しかも、クラスの人数が10人であるうえ、パソコンのパの字もわからないのはぼくだけである。先生方が一生懸命フォローしてくれようとしているのは伝わってきたが、到底間に合わない。キーボードのキーの位置や、パソコンに搭載されている音声読み上げソフト固有の環境を一生懸命覚えている間に、授業のほうはずんずん理解しようのない密林のような領域に消えていった。ぼくはどんどんわからなくなっていった。

 福井の大変さとは違った意味で、つくばの経験はつらかった。なぜなら、福井県立盲学校に入学した当初、ぼくはほとんど日本語がわからなかったので、授業がわからなくても日本語に問題があるせいだと解釈できたが、日本語能力試験1級に合格した今では、そのような言い訳はできない。言い訳があるって、こんなにも心強いものだろうかとしみじみ感じた。

 授業が終わって寮に帰ると、近くのお弁当屋さんで安い唐揚げのり弁当を買って食べたり、さびしい時にはお弁当屋さんの人のよさそうなおばさんと立ち話したりして、なんとかやり過ごした。でも、勉強だけには身が入らない。だって、情報処理関係の点字教科書を3行も読めば、必ずと言っていいほどぼくが読めないような数学の、それもいぼのような記号に指が触れて、理解の空白が生まれる。空白のほうが多いのだから問題である。鍼灸を学んでいた時にも意味がわからないことはあったが、点字自体を読めないことはなかった。この先、どうしよう?

 階下からは毎晩のように、サークルの飲み会帰りのにぎやかな会話が聞こえてくる。やっぱりお酒を飲まないと本当の仲間にはなれないのかなって、ぼくは弱気になっていた。

 侘しさに押しつぶされそうになると、ぼくは高価な国際電話料金を惜しまずに国の家族と話すようにした。この時、部屋の壁が薄くて会話が筒抜けだということを知らず、隣人にはすごい迷惑をかけることになってしまった。隣人は物静かな人で、ぼくは隣には音が漏れていないものだと信じていた。

 ある日、隣人が違う棟の部屋に移ったので理由を聞くと、「電話がうるさくて勉強ができない」的なことをほのめかされて、ぼくはすごく落ち込んだ。人間関係はこんなに難しいものなのかって、悲しい気持ちになった。

 この鬱々とした気持ちを振り払うべく、ぼくは盲人野球部に入部した。だが、勉強ができないという事実が頭を離れることは一瞬たりともなく、いくらやっても気分転換にはならなかった。毎日教室へ行くのが苦痛になってきて、ぼくは授業をさぼるようになった。どうにか浮上のきっかけをつかみたくて、夏休みに一時帰国しようと画策した。

 7月中旬、ぼくは東京にあるエジプト航空のオフィスへいってハルツームへの往復航空券を購入した。2001年の夏は暑かった。外が暑すぎたことに加え、シーズンまっただ中のエジプト航空のチケットは28万円と半端なく高かった。ぼくは気温の暑さと懐の寒さにやられて、衰弱していた。ぐったりしている自分を見かねて、エジプト航空まで一緒に行ってくれた友人が昼ごはんをおごるよといってくれて、二人で涼しそうな店に入った。店は快適な温度設定にされていて、この気温を提供してもらっただけでお昼代を支払ってもいいと思ったくらいだ。
 
 店員が近づいてきた。

 「ご注文はいかがですか?」

 友人はぼくが食べたいといった山菜うどんを二つ頼んでくれた。そして、注文を受けて帰ろうとした店員の背中にあわてて、

 「ビールのグラスを二つ」

 と付け加えた。なんと、友人はぼくがイスラム教徒で酒が禁じられていることをうっかり忘れていたらしい。ぼくもぐったりしていて、お酒が飲めない旨を伝える気力を失っていた。

 たちまち店員がビールのグラスを二つ持ってきた。ぼくの前に一つ、友人の前にも一つグラスが置かれた。その瞬間、友人は雷に打たれたかのように、

 「ごめんごめん! お酒だめだったよね」

 って申し訳なそうに騒ぎたて始めた。ぼくは何もかも面倒くさくなっていて、

 「だいじょうぶだよ」

 このままどんなものかを試してみようと思った。友人は相変わらず落ち着かないようだった。

 「ほんとうにだいじょうぶ?」

 声を震わせて、「お願いだから飲まないで」っていわんばかりだった。でも、ぼくはもう、お酒がどんなものか飲んでみる覚悟を決めていた。ぼくはそれまで、酒の場で飲めないことを伝えると、その場の雰囲気がことごとくしらけるのを感じてきた。お酒が飲めないと仲間にしてもらえないんじゃないかという錯覚もあった。だから今、良心の呵責を感じる気力のないタイミングで、お酒たるものがどんなものなのか試してみようじゃないかって思った。友人は説得をあきらめるといった。

 「じゃあ、乾杯しよう」

 二つのグラスが宙に浮上し、キーンと高い音をたてた。
 さて、どうする? ぼくは手が震え始めたのを一生懸命無視しようと、素早く口元にグラスを進めた。ビールの波の一陣がのど仏を通過すると、これまでに感じたことのない恐怖に襲われた。そのせいで、ビールの味はぜんぜんわからなかった。一口、二口、三口と唇からのど仏に滑らすと、ぼくはあっという間にグラスを飲み干していた。その瞬間、ライオンの顔が久しぶりに浮かんだ。

 (このために日本へ行ったのか?)

 その一言を残して、ライオンの姿はすぐに消えた。ぼくはどうすればいいかわからなくなった。よっぱらってはいない。記憶は確かだ。しばらくすると、ぼくは眠くなって友人に帰ろうとお願いした。椅子から立ち上がると、これまでに感じたことのない感覚を味わった。不思議と下半身が軽い。このまま走ったら100メートル走の新記録が出せるのではないかって思うぐらいに軽くて、いつでも出走できそうだった。歩いてみると、なんと、足があっちの方向、こっちの方向へと勝手に動いて、中央制御室の命令に従わない。なんだかへんだ。

 東京駅から高速バスに乗り、ぼくはつくばセンターまでの一時間弱の間、爆睡していた。これはお酒を飲んだせいなのか、それとも暑さにやられたせいなのかはわからないが、こんなに爆睡したことはそれまでになかった。

 その夏、ぼくは一時帰国した。
 ライオンさんはもう、「スーダンにいつ完全に帰ってくるのか」って聞かなくなった。父はぼくが家に招待したハルツーム在住の日本人の友人に会って以来、日本人に対して好意的な感情をもっているようだった。助かった。だが、ライオンには自分がお酒を飲んだなんて、間違っても話せない。

 スーダンに帰ってすこしは気が休まるかと思ったが、ちょうどその頃、大学時代の先輩で兄の大親友が学生デモをリードしたとして秘密警察に暗殺され、遺体が首都郊外の林に捨てられたこともあり、ぼくの気分はどん底をめがけて、すごいスピードで落ち込んでいった。母親は我が家を包んだ暗い空気をすこしでも明るくしようと、一生懸命いろいろな話をしてくれた。いつもは口数の少ない母だが、こういう時にかぎってよくしゃべるようになったりするのだ。母はぼくが日本へ行ってからの変化について、こんなふうに言って家族を笑わせてくれた。

 「昔はあんなに好き嫌いが多かったのに、今はなんでもおいしく食べられるようになったのね。日本に感謝だよ。お父さんも日本へ送りこめば好き嫌いがなくなるのかな。それとも、年をとりすぎてもう無理か」

 9月上旬、ぼくは心を入れ替えたつもりで日本へ戻ってきた。ところが2学期が始まると、たちまち地獄のような理解不能な授業が始まった。ぼくは毎晩打開策を考えた。どうすれば授業がわかるようになるのかな。だが、方法は一つも思い浮かばなかった。

 にっちもさっちもいかなくなったある日、ぼくはヤケ酒を飲むぞと決め、同級生のけんさんに電話した。けんさんとコンビニで発泡酒を1ケースと、するめやらポテトチップスやらを買いこむと、数名の鍼灸学科の連中と別の塔のユニットでお酒を飲んだ。あっという間に1ケースがなくなると、彼らは発泡酒のシャトルショッピングをしてくれた。ぼくは次々に発泡酒の缶を空けていった。お酒を飲み始めると、その瞬間は嫌なことを忘れて楽しくなれるのだが、そのうち、もう少し飲めばもっと楽しくなるだろうと錯覚して限度を超えてしまう。これが、ぼくも含めて若者の飲み方なんだろう。

 12時を回ったころ、会話もままならなくなり、けんさん以外のみんな酔いつぶれ始めた。ぼくも眠くなり、やっとの思いで立ち上がると自分の部屋のあるA棟に向かった。四階までの階段を上りきるのに、何度も踊り場に腰を掛け、気づけばもごもごと独り言をしゃべっていた。

 自分のユニットにたどり着くと、ぼくは部屋のベッドに突進し、ぱたんと倒れこんだ。そして、すいすい深い眠りに落ちていった。夏だったので、ベランダ側のドアを開けて、虫に入られないようにしっかりと網戸を閉めた。

 眠りに落ちてしばらくすると、何ものかがのど仏をよじ登ってくるのを感じた。ぼくは驚いて目を覚ました。

 「やばい、吐いてしまう。トイレだ」

 ベッドから飛び降り、トイレのほうへ走った。つもりだった。酔いと寝起きが重なり、GPSが誤作動して、ぼくはトイレと反対方向のベランダ側にダッシュしていた。その勢いで網戸に突っ込み、手抜き網戸はあっという間にびびびっと破れた。勢いあまって、ぼくはそのまま網戸を突破して、ベランダの柵まで到達してしまった。
 柵にぶつかってようやく目が覚めたが、嘔吐がもうのど仏の堤防を通過しかけて、決壊は確実なものになった。ぼくは思わず柵に両手をかけ、頭を突き出し、下に向かって「うえっ」と酸性雨を降らせた。夜中だったこともあり、通行人もおらず、ぼくの大失態にはだれも気づかなかった、と信じたいのだ。

 ぼくは我に返り、現場検証をしてみた。網戸は完全に破けていた。これからは虫が入り放題になるだろうなと思いつつ、でもそれは仕方のないことだとすぐにあきらめた。なぜなら、施設課に網戸の張り替えを頼んだとしても、網戸が破けた理由は口が裂けても話せない。

 そんな大失態の反省もなく、ぼくは機会があるたびにお酒をたしなむようになった。お酒の楽しさを覚えてしまった。お酒を飲むと、ぼくはついついおやじギャグを飛ばした。そして、そのギャグのほとんどがシモ系であったため、ぼくの近くからどんどん若くてかわいい女性が遠ざかっていった。

 お酒を楽しく飲んでも、自分の部屋に戻ると、また罪悪感に悩まされた。小さい時からタブー視されてきたことだけに、やはり割り切って飲むことはできなかったのだ。ただ、周囲にはそうは見えなかったようで、ぼくは一杯のビールだけですごくハッピーになれる人間に思われていた。お酒は、勉強の挫折を忘れさせてくれる逃げ場でもあった。

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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