わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第10回 雪の上にも3年 ─後編─

 

 夏休みが過ぎたころ、窪田先生がばたばたとスリッパをリズムよく床にたたきつけながら、放課後の復習に備えているぼくに果報を伝えに来てくれた。

 「モハメドー、日本語を教えてもいいという方が出てきたので、今週の土曜日の放課後に教室で待っててね」

 「やった」と思った。やっと勇気のある先生が現れた。
 土曜日に、40代半ばで、声がぼくより数オクターブ高い女性の方が窪田先生と一緒に教室に現れた。窪田先生は、

 「モハメド、こちらは高瀬先生」

 と、まずその女性をぼくに紹介すると、高瀬先生に、

 「これから、モハと話し合って、どうやって日本語を学んでいけばいいのかを決めてくださいね」

 と、めずらしく福井弁を口にせずに話したので、ぼくはわずかばかり緊張した。

 窪田先生がいなくなって、ぼくは高瀬先生に自己紹介をしたり、いつ授業をやればよいかを決めていった。それ以降、週に一度のペースで、ぼくは先生に日本語を本当に楽しく教えてもらった。

 ぼくはそれまで十数年間、いろいろな授業を受けてきたが、高瀬先生の授業ほど楽しい授業は受けたことがなかった。普通は授業が終わったときに「やっと終わった」って安堵するものだが、高瀬先生の授業が終わると、「もう終わったのか」という気分になった。

 それにはわけがあった。先生はもともと看護師のお仕事をしていたのだが、結婚して生まれた長女が脳腫瘍を患い、それを摘出した際に神経を傷つけられ、知恵の発達が遅くなってしまったのだそうだ。先生は、長女ができるだけ普通に日常生活を送れるように、様々な工夫をして洋服の着替えやら、時計の見方やら、箸の使い方などを根気強く教えてこられた。その時、当然ながら、一度だけ、一つのやり方という教え方ではうまくいかないので、常にどういう工夫をすれば長女が理解できるようになるかを考えていたという。

 普通の教え方では理解が難しいという点において、ぼくと先生の長女が置かれた状況は同じだった。先生はぼくがわからなくなれば、嫌がることもなく、どんどんさまざまな引き出しを開けて、ぼくにとってわかりやすい教え方を工夫してくれた。 

 ぼくに日本語をある程度教えてくれたころ、高瀬先生はぼくにこういった。

 「モハメド君、日本語がどんどん上手になってきたけど、ちょっと漢字の勉強をするといいよ」

 何をおっしゃる。こんな盲人を捕まえて漢字の勉強とは非常識にもほどがある、と思ったが、ちょっとがまんした。先生はこう続けた。

 「日本人って、最初に出会ったときに自己紹介をするでしょう? そのとき、たとえばだれだれですといわれたときに、モハメド君が、なにへんの字を書くんですかと聞くと、相手がぐーっとモハメド君に対して親近感を持つのよ。日本人は第一印象で相手との距離を決める傾向があるから、その入り口でちゃんと相手の心をつかむといいよ」

 なるほどな。

 「でも、先生。どうやって、勉強するの?」

 ぼくは先生の話に納得して聞いてみた。先生は、

 「そうだよね、どうやって漢字を教えればいいのかしら? モハメド君は見えないもんね」

 ぼくはその先生の言葉に爆笑してしまった。見えないもんねっておかしくってしょうがない。てっきり先生は盲人に漢字を教える方法を開発したのかと思ったら、なんと、まったくその方法のことを考えていなかった。でも、その場当たり的な考え方が気に入った。先生は、その場であれこれを考えた挙句、いった。

 「そうだそうだ。粘土だね」

 なんのこっちゃと構えていたら、先生がご自宅の2階から何かを持ってきたかと思うと、次に台所に立って何かを持ってきた。

 「モハメド君、ちょっとこれを持って」

 食いしん坊のぼくは割り箸を渡されて、何かにありつけると勘違いした。先生はこう続けた。

 「割り箸で粘土に書いていけば、手で触ってもわかるでしょ? しかもね、終わった後に、また粘土を練り直せるのでちょっと便利かもね。モハメド君、挑戦してみる?」
 
 そこからしばらくの間、ぼくは人偏やら糸偏やら、門構えやらサンズイ偏やら、鍋ぶたやら、いろいろと、人名や地名に頻繁に登場する偏と造りを学んだ。一番気に入ったのは「大」の字である。こんなにくつろいでいいのかと思うぐらい、この字はまったりしているのだ。「大」というよりも「寛」と読ませたいぐらいだ。

 先生が期待した効果もばっちりだった。たとえば初対面の人に名前を尋ねて、「舘山」といわれたときに、

 「『舘ひろし』のほうですか?」

 と聞くと、相手がしばしあっけにとられ、そこから話題もスムーズになる。

 ある程度、漢字の使い方を覚えてくると、ぼくは初耳の言葉の漢字をあてるのが趣味になっていった。しかし、すべて理屈では説明できないのがまた漢字である。

 「留学」という言葉があるが、それを聞いたとき、ぼくは「流」に「学」だと直感的に思った。だって、自分がいるところから動いてどこかへ学びに行くのだから、きっと流れて学ぶのだろう。だが、現実はそう甘くなかった。「りゅう」は流れるどころか、その反対の「留まる」である。その衝撃的事実を聞いたとき、ぼくは怒りさえ覚えた。

 (なんでとどまるんだ!)

 でも、ぼくの一存で漢字が変更されることはないのだから、事実を受け止めて、どうにかして自分なりにその漢字のイメージを作るしかない。「留学」のような言葉は自分が考えたのとは正反対の漢字であるが、それでもがんばって理屈をつくろうと思った。確かに留学はどこかへいって勉強するのだから、本来「流学」がふさわしいのではないかと思ったが、流れっぱなしでは勉強もできないので、流れ着いた先でしっかり留まらなければ勉強できないんだって、かなり無理してその漢字を正当化することに成功した。その後、どんなに自分がイメージした漢字と違うものを使われても、ぼくはそれを頭の中で整理する作業を楽しめるようになった。一番しっくりくる漢字は「姦(かしま)しい」である。やはり女が3人集まると、そうとう騒々しいのだ。

 一年目が終わったとき、ぼくはラッキーなことに良い成績を修めることができた。入学時に、最初の一年で成績が良くなければビザがおりないかもしれないと言われていただけに、ぼくはほっとした。

 このころ、荒川家に加え、もう一つの週末ホームステイ先が見つかり、ぼくは二つの家族を持つことになった。新しい家族は70歳ぐらいのラブラブなご夫婦だった。名前は川岸さんである。旦那さんは、すごくさばけた人であるうえ、大変ユーモアがある。

 「モハメド君、将来奥さんをもらう時は気をつけてね。見えないから美人とそうでない人の判別ができないやろ?」

 なんてお構いなく聞いてくる。

 「いや、ぼくはちゃんと音声データをもとに、その人の輪郭を可視化できるんですよ」

 というと、川岸さんは、

 「それは立派な能力やわ。じゃあ、あの人が美人かどうかをあててみて」

 と具体的人物をさしてきた。ぼくが返答すると、

 「ほんとやわ。ようわかるな。もうモハメド君の心配をしなくても大丈夫やわ」

 と、この世を渡っていける資格を与えてもらった。
 川岸さんはまた、お酒とお寿司が大好きなものだから、ぼくが行くたびに豪華な手巻き寿司を振る舞ってくれた。荒川家のほうでも引き続き、月2回の手巻き寿司をごちそうしてくれたので、ぼくはあのとき、きっと日本人の一人当たりの寿司の平均摂取量をはるかに超えていたに違いない。

 二つのホームステイ先での楽しい会話、高瀬先生の授業、そして、学校や寮でのコミュニケーションを通じて、ぼくはすごく日本語を理解できるようになった。そこから、また欲を出して、日本語能力試験の2級と1級を立て続けに受けておかげさまで合格することができた。

 1級の聴解の結果が100点満点だったのが、ぼくがいかに多くの人と会話したり、ラジオを毎晩聞いたり、録音図書を聞きまくったかを物語っている。

 福井での三年目を迎えるころ、ぼくは鍼灸の先生になるための教員養成科に進むか、それとも、もともと学びたかった政治や法律方面に進むかで迷い始めた。そのとき、また窪田先生が解決の糸口を見つけてくれた。

 「どの道に進むにしろ、モハはパソコンの勉強をせんとあかんね」

 なるほど。視覚障碍者向けに開発された音声読み上げソフトで、視覚障碍があってもパソコンを使うことが可能となったのに、ぼくは盲学校で鍼灸マッサージの勉強に一生懸命になっていたため、それを学ぶ余裕がなかったのだ。

 窪田先生は、つくばにある筑波技術短期大学というところを紹介してくれた。その大学では、視覚障碍者が鍼灸、情報処理などを学び、聴覚障害者が建築やデザインなどを勉強しているという。

 12月に受験して、無事にこの大学への進学が決まったが、そこから2月に行なわれる鍼灸師の国家試験に向けてラストスパートが始まった。

 2001年の冬は厳しいものだった。夜中に起きて勉強することが何度となくあったが、寒くて、手が点字本の上をスムーズに滑っていかないことが多々あった。そういうとき、ぼくは点字本とともに布団の中にもぐり、こそこそ勉強した。こんな格好で勉強できるなんて、ぼくは日本に来るまで想像したこともなかった。
 ぼくは自由というものを感じ始めた。自分が好きな時に読みたいものが読める喜びをかみしめた。だが、寒いのだ。ここは寒い。

 2月の国家試験がやってきた。ぼくは人生で初めて、国家試験を自分の手で読み、自分で回答する経験をした。高校までは人に試験問題を読み上げてもらい、口頭で回答を伝え、それを書いてもらう窮屈なやり方をしてきた。今は、すべて自分でコントロールできる。それができるようになったのも、たくさんの人たちの協力があったり、ちゃんと勉強するしか選択肢がなかったりしたおかげだ。

 福井での3回目の冬の終わりに、ぼくのもとに国家試験に合格したお知らせがきた。なんともいえない安堵感を覚えた。達成感もあった。この雪国での3年間を無事に乗り越えたのだから、これからはなんでもやれるのではないかと過信してしまったぐらいだ。

 あの福井での3年間を振り返ると、文字通り「雪の上にも3年」だったといえる。

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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