わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第9回 雪の上にも3年 ─前編─

 


 あれから、ぼくは猛勉強生活に突入した。
 朝は6時半に起床し、5分で顔を洗い、そこからの5分で割り当てられた寮の廊下をモップ掛けし、食堂へ行って朝食をすませて、7時45分頃に徒歩2分の校舎に向かう。
 火曜日と金曜日の朝食はパンだったので、すごくうれしかった。福井で生活を始めた当初は、ごはんを食べることには慣れたものの、朝食だけはパンのほうがよかったのだ。

 ぼくは、毎日のようにぎりぎりに学校に出掛けていた。これは、小学校1年生からの習慣だからなかなか修正できなかった。学校に到着すると、またそこでもモップ掛けをする。教室を掃除するのは、中学校以来のことであった。スーダンでは、生徒が自分のクラスや校庭の掃除を担当するのは中学校までのことが多い。
 福井県立盲学校では、掃除の時間中、朝の放送が入ったり、青山校長が巡回して掃除中の生徒や教員らにおはようのあいさつをしたりするので、結果として手抜き掃除はできない。

 掃除の時間が終わると、長い長い一日が始まる。毎日、1限から6限まで授業があり、その内容も東洋医学やら、西洋医学の基礎やら、考え方の違う医学論を同時に学ばざるを得ないのだから、頭がついていけない。

 しかし、ぼくはもう、まな板の上の鯉だった。ここからどこかへ逃げようにも、逃げ方がわからない。それに逃げるための資金も持っていないし、逃げたところで、ライオンさんがおなかをすかして獲物を待っているのだ。

 授業は依然として一言もわからない状態が続いていたが、放課後の窪田先生の復習の後は、少しばかりではあるが理解した気分になった。その気分が長続きしないのが、また問題である。復習を終えて寮に戻るまでの間はすごくいい気分になるが、自分の部屋に帰って着替えをすませたとたん、また、なんにもわからない状態に戻る。

 もしかしたら、窪田先生が教えてくれたことは、ぼくの頭ではなくてお洋服に染みて、さらにその奥へいかないのかな、などと馬鹿げたことを考えたぐらいである。だから、寮に帰ってもすぐに着替えないようにしたりと、あの手この手を使ってみたが、結果は同じであった。それを先生に伝えると、先生はこてこての福井弁で、

 「あほか、一度で覚えられたら誰も苦労はせんやろ。いいかモハ、毎日寮へ帰ったら、ひたすら教科書を読まんといかんのやって」

 と当たり前のことをいった。だが、それはぼくにとっては当たり前のことではなかった。

 ぼくは日本へ来るまでの12年間、自分で教科書を読む習慣がなかった。授業中、すごく集中して、試験に出そうな大切な情報を耳から頭にたたきこみ、数少ない友人に手伝ってもらいながら勉強する際に、そのポイントを中心に覚えるやり方をしてきた。こつこつ毎日勉強するやり方には慣れていなかった。だが、そんな甘ったるいこともいっていられなかった。昔、自分が友人に頼らざるを得なかったとき、

 (もし、自分で本が読めるようになれば、絶対に誰にも負けないし、きっと本を目から離さない)

 と、自分に言い訳をしてきた。日本へ来て、点字を学び、教科書が全部手元にあって、おまえが長年祈願した夢がかなったぞといわれんばかりの状況が整っていた。まずいな、あんな願いをするんじゃなかった。

 ぼくはとりあえず、肌触りのいい教科書から読むことにした。授業のすべてがほとんどわからないのだから、何から始めても同じだ。生理学の教科書が一番肌触りがよかったため、ぼくはしばらく生理学を中心に勉強していた。というよりも、とりあえず手でなぞっていた。1冊の教科書が点字に直されると、それは平均して普通の教科書の5、6冊ぶんの厚さになる。

 生理学に飽きると、ぼくは東洋医学関係の本に手を伸ばした。その本は2番目に肌触りが良かった。そして、気持ちがいいぐらいにちんぷんかんぷんである。そこまでわからないと、むしろ気持ちがよいぐらいだった。

 ある日、ぼくは東洋医学の授業の後に、肩を落として、何もいわずに机に顔を伏せていた。すると後ろの席に座っていたTさんがそうっとやってきて、ぼくの背中に小さなてのひらを載せた。

 Tさんは40歳前後で子どもが3人おり、その一番上はぼくとほぼ同い年だと先日教えてもらったばかりだ。Tさんはどの授業でも、「もう年だから覚えられないのよ」と口癖のように連発していた。Tさんは、ぼくの背中に置いた小さな手を数回リズムよくぽんぽんとたたきながらこういった。

 「モハメド、どうした? わからない?」

 ぼくは答えられず、さらに涙がこみ上げてきた。

 「あのね、モハメドがこの授業の内容をわかったら、私たちの立場がないんだから、わからないでいいの」

 そういって、笑いながら背中をたたき続けてくれた。ぼくは、やっとの思いで、

 「Tさん、日本語わからないよ」

 というと、Tさんは小さなてのひらに力を入れて、ぽんっと強くたたきながら、

 「何いってるの、これは日本語じゃないよ。私たちにとっても外国語なのよ。モハメドと一緒だよ。私だって泣きたいぐらい」

 ぼくは思わず、ふきだしそうになった。
 「私たちにとっても外国語」だといわれると、すごく肩の荷がおりた気がした。ぼくはTさんの言葉に救われた。Tさんは続けた。

 「がんばろうね、モハメド。そしておばちゃんが学校をやめそうになったら止めてね。生活が懸かっているんだから」

 Tさんがそういうと、続いて玉森さんとHさんもTさんと同じことをいってぼくを励ました。そのとき、ぼくはすばらしいクラスメイトに恵まれたと思った。
 最初に来たとき、「なんだ4人しかいないのか」と見下していた自分がばかばかしく思えた。ぼくの小学校のクラスメイトは70人だったし、中学校、高校も大体65名のクラスだったし、ハルツーム大学のクラスも120名だったため、日本で急にクラスメイトの数が激減して、すごく不安な気分になっていた。だが、このクラスメイトたちの励ましを受けて、むしろ少ない人数の中で勉強したほうが楽しいじゃないかって思えた。

 月曜から金曜の間、ぼくはずっと授業で苦しみ、週末を心待ちにしていた。
 ぼくのいた「まどか寮」は毎週末閉鎖され、寮生は実家に帰らざるを得なかった。帰るところのないぼくは、盲学校職員の荒川さん宅にホームステイすることになった。そもそも、福井での受け入れを検討してもらう際、週末の宿泊先が最大の難問だった。そこで、荒川家が得体の知れない盲外黒人の受け入れを承諾してくれたからこそ、入学が認められたようなものだった。

 厳しい平日が終わると、ぼくは第2の家族である荒川家へいって、休日を過ごした。あのころといえば、学校ではまだ月に2回、土曜日も授業をやっていた。
 金曜日の夕方、あるいは土曜日のお昼になると、荒川家の長男の能守(たかもり)くんが迎えに来てくれて、点字本のぎっしり詰まったバッグをぼくから取り上げた。そして寮から30分ぐらい田んぼ道を歩いたところにある荒川家へ一緒に向かった。

 能守くんは、当時5年生高校の2年生だった。
 荒川家の家族構成は、高校教師の父・義弘さん、盲学校職員の清美さん、高校2年の能守くん、そして中2の無口な真臣(まさおみ)くんだ。後でわかったが、真臣くんは特に無口なほうではなくて、この年頃になると、日本の大半の中学生が家の人間とあまり口をきかなくなるという。なるほど、おもしろいなと思った。これって、スーダンとはまったく逆の現象である。

 スーダンのティーンエイジャーたちは、むしろ家族の中で存在感を見せつけようと、にわかにおしゃべりになったり、でしゃばりになったり、親と対等な関係になろうとかなり自己PRをしはじめる。子どもが自己主張を始めると、スーダンの親たちは比喩的に「こいつはもう自分のわきのにおいをかぎ始めたからね」といって子どもたちをいじるのだ。

 荒川家に来て、ぼくは日本の家庭の雰囲気を味わうことができたし、年の近い能守くんといろいろなお話ができた。ぼくが寿司好きだとわかると、月2回のペースで手巻き寿司を振る舞ってくださった。ぼくは当時、月に2回手巻き寿司を食べるのは日本家庭の平均的回数だと勘違いしていた。

 義弘さんと能守くんは英語が上手だったため、ぼくの知らない日本語を一生懸命英語で説明しようとしてくれるのだが、ぼくにとって英語は母語ではないので、その説明自体がわからないことがあった。でもおかげさまで、ぼくは日本語と同時に英語を学ぶことができた。

 荒川家で一番困ったのが、なんといっても、義弘さんに毎晩おやじギャグ講座を強制されたことである。晩御飯が終わると、二人の息子は戦略的にいつのまにかリビングから撤退し、清美さんは台所で洗いものを始める。ぼくはいつも逃げ遅れ、食卓をはさんで、ちょっと酔いがまわった義弘さんにさまざまなおやじギャグを聞かされたり、「もつけいねいの(かわいそう)」だの、「かたいけの?(元気ですか?)」だの、今どきの若者が使わなくなった福井弁を仕込まれたりした。
 しかも、そのレッスンが2時間続いた後に、

 「モハメド、マッサージの練習をしなくていいの? 協力しますよ、実験台として」

 と時間外労働までさせられた。

 ぼくは、義弘さんが教えてくれたとんでもない福井弁を使いたくなって、月曜日の朝を心待ちにした。学校へ行くと、窪田先生に早速、

 「かたいけの?」

 といってみた。窪田先生は、

 「あほか、モハメド。だれに教えてもらったんや? そんなのを東京で使ったらあかんで。誰もわからんのやって」

 とうれしそうにしていた。

 義弘さんが教えてくれたおやじギャグと福井弁を使えば使うほど、ぼくは不思議と周囲の人々と打ちとけていくことができた。そして、おやじギャグ病にとうとう感染し、休日の晩御飯の後には自分からおやじギャグを仕掛けるようになってしまった。すると、義弘さんが負けじと、日本のおやじたちを代表して、とっておきのネタを放出してくるようになった。おかげで、ぼくの日本語の語彙は格段に増えていった。

 以来、ぼくはおやじギャグばかりを考えて過ごすようになった。タイミングよくギャグに気づいて、それを口にすると、なんだか威勢よくクシャミが出たときのような快感を覚えた。義弘さんにマッサージをしているとき、「内臓が悪いですか」と聞かれて、ぼくは咄嗟に「そんなことはないぞう」と切り返せるようになった。

 残念ながら、当時はぼくのギャグに笑ってくれるのはだいたい人生の下り坂に差しかかった年齢の方々ばかりで、まちがっても若者には笑ってもらえなかった。こんなに面白いことをいっているのに、なぜ若者に笑ってもらえないのだろう。きっと、外人にうまいこと言われて、悔しくてへそを曲げているのだろうと、ぼくは自分のギャグの成績不振の原因を都合よく診断していた。

 ぼくはおやじギャグを通じて、漢字も勉強することができた。目が見えなくて、かつ、出身地が非漢字圏になると、漢字の意味や違いを想像することは容易ではない。
 日本語は子音が少ないだけに、作れる音のパターンも少ない。すると、違う言葉を同じように発音することが多くなる。いわゆる「同音異義語」というやつだ。たとえば、「学生が講義の内容に不満をもって抗議した」という時の「こうぎ」という言葉は、「抗議」「講義」「広義」「厚誼」など、他にも同じ音の言葉がたくさんあるので、これは漢字を見て判別するしかなくなる。しかし、漢字を見ることのできないぼくは、おやじギャグを使って同音異義語を覚えていった。ぼくにとって、音の似た言葉を見つけて言葉遊びをするのは、見える人に比べて日常的なことなので、すごく簡単にでき、それを楽しむこともできた。

 たとえば、ぼくは初対面の人に「スーダンはどんなところですか」と飽きるほど繰り返し聞かれて、その都度、返事に困っていたのだが、ある時、「数段」という言葉を見つけて、以来、この質問に「スーダンは日本より数段広くて、数段熱い国だ」と返事をして、初対面の人と打ちとけるのにもってこいのネタをつくった。

 ある時、「スーダンはどこにあるんですか?」と聞かれたぼくは、「ヨルダンという国があるだろ?」といった。相手は相当真面目な人間だったため、迷わず「はい」と答えた。続けてぼくが「その隣にヒルダンがあって、その真南にアサダンとスーダンがある」と、とんだことをいったら、相手は「あ、そうなんですか? 初めて知りました」と真に受けた様子である。こういうのは、実に厄介だ。

 「ギャグをいう相手を考えなくちゃいかん」と、その時ぼくは本気で思った。とにかく、ギャグ作りにのめりこんだおかげで、ぼくは語彙を短期間で増やすことができたし、漢字の重要性を認識することができた。

 日本語の勉強に欠かせないもう一つの秘密兵器があった。それはラジオである。
 実は、ぼくは大のラジオ好きである。小さい時から、テレビよりもラジオにくぎづけになっていた。テレビだと、視聴者が映像を見ている前提でナレーターやアナウンサーが補足説明をすることが多いのに対して、ラジオの場合は、聞いている人の条件がみんな同じである。たとえば、サッカー中継はテレビで聞いても何が起きているのかわからない。試合が流れているのに、アナウンサーときたら、各選手の記録やら、解説者といらん話をすることが多く、見えない自分が蚊帳の外になりがちである。

 ラジオのサッカー中継の場合はそうはいかない。だから、ぼくはいつもラジオでサッカー中継を聞いた後、見たことがないのに、アナウンサーの言葉から状況を思い浮かべて、近所の子どもたちに自分なりの試合解説をすることができた。意外と、この盲想に基づいた解説が周囲の子どもたちから高い評価を受けていた。

 サッカー以外にも、夕方のトーク番組やラジオドラマ、ニュースなどは毎晩欠かさず聞いていた。しかし、実家にはラジオが1台しかなかったので、自由にラジオを使うことができなかった。
 日本へ来てからはマイラジオを手に入れたので、ぼくは存分にラジオを楽しむことができた。もちろん、内容はわからないのだが、好きな時間にラジオを聞ける喜びをかみしめた。

 毎晩、ぼくは勉強が一段落するとラジオのスイッチをひねって、ニュースやら野球放送やら、トーク番組やら、歌謡曲やら、いろいろな番組を楽しんだ。NHKラジオの歌謡曲を聞いて流行りの歌を覚えたつもりでいたら、なんと、そのほとんどが数十年前のヒット曲だったようで、若者にはまったくわかってもらえない。「南こうせつの『妹よ』がいいよね」といったって、二十歳前後の友人にわかってもらえるはずがなかった。

 その頃、一番苦手だったのが野球放送であった。ぼくは日本へ来て初めて野球というスポーツの存在を知ったので、ルールについてまったくの無知で、長ったらしい野球放送が一番退屈だった。それに、野球はサッカーと違って毎晩試合が行われるうえ、同じ相手と三日連続で試合をするのだから、日本語がまだままならない当初、なんで毎晩、試合の再放送を聞かされなきゃいかんのだ、日本の放送局はよっぽど暇でやることがないんだなって勘違いしていた。しかも、放送される試合の大半はジャイアンツ戦であり、だいたいジャイアンツの勝利に終わるので、ぼくは自然とジャイアンツが嫌いになった。

 ある日、たまたまラジオをつけると、広島カープがジャイアンツに勝利したため、ぼくは原爆を落とされた広島が立ち上がって、殿様のジャイアンツをやっつけてくれたのを喜んで、以来なんとなくカープファンになってしまった。もちろん、カープが強いチームだと勘違いしてファンになったのだから、今になってもうちょっと考えておけばよかったと反省することはある。でも、好きになったものはしょうがないので、ぼくはずっと勝ち目のないカープを応援し続けてきたし、これからもそのつもりである。日本を離れる前に、一度ぐらいは優勝してほしいものだ。それ以前に、せめて一度ぐらいはAクラスになってくれないかな。

 ぼくが野球を理解できるようになったのは、盲学校で盲人野球というスポーツを始めてからのことだ。盲人野球は、ハンドボールを転がしてそれを打つスポーツだが、普通の野球とはいくつかの点で違っている。
 人数が10人だったり、弱視と全盲の扱いが違ったり、スチールがなかったりなど、視覚障碍者向けに工夫されたスポーツになっている。

 あるとき、人数が足りないということで、ぼくは半ば強制的に野球部に入れられた。そこから、ぼくは野球が大好きになり、毎晩野球放送を聞くようになった。
 聞いて思ったのが、野球放送のアナウンサーって、特に民放は非常に日本語がうまい。プレーが止まっていることの多い野球の隙間をうめるのに、アナウンサーがいろいろな話題を繰りだして、弾むような口調でリスナーを楽しませてくれる。それに、どんな平凡なフライでも、あわやホームランになるかのように興奮しながら、そのシーンをかなり水増しして放送を盛り上げていく。それに比べてNHKのアナウンサーは、正直に、かつ客観的に実況しないといけないので、聞いている側としてはたいへん退屈である。

 ぼくは野球放送を通して、説明の難しい微妙な表現を学ぶことができた。たとえば、大きな当たりがファールになった時にアナウンサーが、

 「会場のざわめきがどよめきに変わりました!」

 というと、ぼくは一気に「どよめき」と「ざわめき」という二つの語彙を理解できるのだ。

 「甲子園のライトスタンドの向こうから、雨雲が低く垂れてきました。その雲の間から時折日差しがのぞいています。傘を持ったお客さんの姿がまばらです」

 などというアナウンサーの情景描写も、実に見事である。

 ラジオやおやじギャグ講座のおかげで、ぼくはある程度日本語がわかってきたが、依然としてスムーズに読み書きができない状況は続いていた。ぼくはちゃんとした日本語の専門家に日本語を教えてもらいたいと思い、窪田先生に話をしてみた。先生はすぐに福井国際交流センターというところに連絡して、お願いしてくれた。

 しばらくして、その件について先生に尋ねると、先生はちょっと申し訳なそうに、目の見えない人にどう教えればよいかわからないと、いろいろな先生が戸惑っていると伝えてくれた。それはそうだよなと思いつつ、ぼくはチャレンジ精神旺盛な先生の出没を心待ちにしていた。


プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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