わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第8回 同時に3カ国語を学ぶ ─後編─

 

 翌日、ぼくは初登校をした。クラスに到着すると、寮生の玉森さんのほか、もうふたり、女子の同級生がいた。ひとりは3人の息子を抱えた30代後半のTさん、もうひとりは18歳のH さん。Tさんは旦那さんの転勤で数年前に福井に来たそうで、ぼくが親しんだ音声教材に似ている話し方だからわかりやすい。一方のHさんは生粋の福井県人のうえ早口なので、彼女が話している内容を理解するのはなかなか苦労した。

 福井弁にはしばらく翻弄されるだろうと腹をくくったその矢先、ぼくはまたさらなる試練に直面した。授業が始まったのだ。

 そうだ。そのためにぼくははるばる日本へきた。これが本分である。鍼灸を学ぶのだ。だが、それは想像を絶する厳しいものであった。ぼくが最初の授業を受けた日は、ちょうど日本語を始めて4か月ほどすぎたころだった。

 最初の授業は、経絡経穴概論(けいらくけいけつがいろん)だった。わかりやすくいうと、鍼灸を刺すつぼの名所に関する授業である。つぼの名前もさることながら、それが位置する人体部位の専門用語などわかるわけがない。たとえば「首」ということばがわかったとしても、それが「頚部」とも呼ばれることは知らない。そこにのっかったつぼの名前がさらにわからない。加えて、担当の矢部先生の福井なまりもさらに未知の領域である。手元にある点字教科書は読めるには読めるが、「が」「は」やら、「に」「から」「へ」やら、あるいは指示代名詞の「そこ」「ここ」以外、ぼくには何も理解できなかった。

 そうだそうだ、句読点もわかったので、センテンスの切れ目もわかった。ぼくは耳をそば立てて、知っている語彙を探し求めた。残念ながら45分の間、ぼくは自分の名前が呼ばれたとき以外はほとんど授業の内容につながる手がかりを見つけることができなかった。あっけにとられ、ぼくはショックすら受けることができなかった。

 得体のしれない授業が終わると、すぐさま生理学の奥田先生が教室に入ってきた。奥田先生はけっこう英語ができるので、生理学が英語でなんというのかを説明してくれ、幸いそれで授業のタイトルがわかった。それだけで、ぼくは一歩前進した気になった。
 
 問題はそこからだ。ぼくはもともと文系だったうえ、生物学の授業にまじめに耳を傾けたことがなかった。まじめに生物学のうんちくを聞いたところで、将来的にその方面に進むことはないだろうと思って、受験科目以外の授業を完全にシャットアウトした。さもなければ、限られた本の読み手を有効に利用することができなかったのだ。やむを得ない措置である。いずれ得体のしれない日本語で生理学を学ぶ日がくるのをわかっていたら、少しは備えをしてこられただろうが、時すでに遅しだ。

 奥田先生は、努めて日本語と英語で説明してくれようとしたが、残念ながらぼくには英語の専門用語もわからない。まいったな。やばいやばい。ぼくは焦り始めた。ベルが鳴ると、気を取り直して次の授業に備えた。今度こそ大丈夫だと、根拠もなく楽観的になった。それがぼくの持ち味である。きっと大丈夫だ。

 次の時間は、またぼくにとって空白の時間であった。公衆衛生という名の授業である。
 いろいろなばい菌の名前や、消毒方法などの記述がひしめく教材を読み進めたって、ぼくには理解できないよ。やっぱり無理なのか? 今まで無防備に調子に乗りすぎたのか?   
 落ち込みそうになったころに、昼食の時間を知らせるベルが鳴った。これからはぼくの大得意な時間帯である。

 食堂に行くと、大勢の人がいた。校長先生から幼稚部の児童まで、みんな同じ食堂で食べる。おいしいごはんに舌鼓を打ったのもつかの間、また午後からの授業が始まった。

 今度は少しだけ大丈夫だった。科目は解剖学である。担当の澤田先生がいろいろな模型をぼくらに触らせつつ説明してくれた。ぼく以外の3名のクラスメイトは弱視だったこともあり、先生はぼくにじっくり説明してくれた。解剖学の授業にはたくさんの専門用語が出るものの、模型を触りながら場所を確認できるという意味で、とらえ所のない生理学や衛生学よりわかりやすかった。ベルが鳴ったとき、ぼくは午前中の全敗を忘れて、ひとつ理解できたことを素直に喜んだ。最初の授業で、ぼくは人体の主な部位の専門用語を覚えることができた。問題は、一般的な言い方を覚えることができなかったことである。

 たとえば、腰部という言い方を覚えても、それが一般的に「腰」と呼ばれることに気づかず、のちにいろいろと混乱することになった。「腰部」だったらまだましだが、たとえば、「外くるぶし」は専門用語で「外踝(がいか)」と呼ばれる。盲学校の鍼灸コースと関係のない寮母さんなどに、たとえ「外踝が痛い」と言っても誰もわかってくれない。ぼくはすごく変な入り口から日本語に入ってしまったんだって思った。

 放課後、寮に帰る支度をしていたら、窪田先生が教室に入ってきて言った。

 「モハメド、いるか?」

 ぼくはそのとき初めて、窪田先生が全盲であることに気づいた。

 「はい、います」

 そう答えると、窪田先生は、

 「おまえ、ちょっとここで待っててくれる? すぐに来るんでえ」

 しばらくすると、窪田先生が教室に帰ってきた。

 「モハメドはさ、今日の授業の内容ぜんぜんわからんやろう?」

 と得意げに言う。
 「くそっ」と思いつつ、現実を認めざるを得なかったので、「はい、わからない。ほとんどね」と、ちょっと見栄をはると、

 「なんだ、ほとんどわからない? ぜんぜんわからんかったやろ。これからはの、わからんことをわからんと言わんと、モハがいちばん困るんやぞ」

 そこまで尋問を受けると、さすがに大筋で罪を認めなくちゃならんような気がした。
 窪田先生は続けた。

 「これからはしばらくのう、放課後に、その日に受けた授業の復習をするので、ここで待ってて。それからのう、モハの点字を読むスピードがおそいんやわ。それをどうにかせんと、3年後の国家試験の時に問題集を読みきれんのやって。ということで、点字を読むスピードをあげる練習をします。いいかい?」

 窪田先生の言い方は多少乱暴だったが、その乱暴さを忘れさせる温かい心遣いが、素直になれない自分にも十分伝わってきた。それから一学期の間は、毎日のように、ぼくは窪田先生のノックを受けることになる。

 一日目の終わりに、ぼくは思った。

 「これからは、三つの言語を同時にマスターしなければ日本にはいられない。正当な日本語と福井弁、東洋医学や西洋医学の専門用語、そして点字だ」

 寮への帰り道、ぼくはその厳しい挑戦を引き受けることにした。これからの福井での3年間はしんどいものになりそうだと予感したが、始まってみると意外と苦痛ではなかった。人間は一つの選択肢しか与えられなければ、それなりにがんばっていけるのかもしれない。迷うのは、複数の選択肢を与えられた人間なのだろう。ぼくは生意気にもそう悟ったようなことを考えた。

 


プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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