わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第7回 同時に3カ国語を学ぶ ─前編─

 

 「よし、出発しよう」

 勢いよく理事長が言った。
 荒木さんとぼくと理事長はすぐさま協会の食卓を離れると、荷物を運び始めた。鞄やら段ボールやら、大きな荷物は前の日に福井県立盲学校宛てに宅配便で送ってあった。日本にはずいぶん便利なサービスがあるもんだと感心したよ。スーダンの場合は宅配サービスどころか、郵便物もろくに届かない。届くとしても自宅にではなくて、郵便局に設けられた私書箱にしかいかないのだ。

 それはさておき、ぼくは残り二つの鞄を担いで、1階まで持っていった。まだ朝の7時前である。3か月ほど過ごした本蓮沼町の協会を離れる日がきたのを、手荷物の重みを通じて実感した。

 ぼくらは新幹線と特急スーパー雷鳥を乗り継いで、昼下がりに福井県立盲学校に到着した。
 盲学校の広すぎる職員玄関に入ると、目の前の10メートル四方から一斉に「ようこそいらっしゃいました」やら、「こんにちは」やら、聞き取れないあいさつらしき言葉が飛び交った。それは、どこかの大統領の出迎えに負けないぐらいの歓迎ぶりに聞こえた。いきなり有名人になったようで、ちょっとこそばゆかった。
 大統領を含む3名のゲストは深々とお辞儀をした。そして、ぼくらは校長室に通された。
 
 そこでは、ぼくの入学に尽力してくれた窪田先生が司会役だった。
 校長の青山先生はすごくやさしい声のトーンでぼくを激励してくれた。まだなんにもしていないのに、福井に来たこと自体を賞賛してくれているように感じた。

「こちらこそ、チャンスをくださり感謝しています。みなさんの期待に応えられるように一生懸命がんばります」

 新幹線とスーパー雷鳥の中で理事長に特訓していただいたセリフを間違えずに言ったら、青山校長が安堵した口調で「日本語が上手ですね」とまたほめまくる。このほめ言葉がぼくの不安を和らげてくれた。

 そのあと、担任の矢部先生(40代前半の女性)や、寮のトップのK先生、寮でぼくの担当をしてくれる定年間際ですごく優しいY先生が入れ替わり立ち代わり校長室に入ってきては、日本語で一生懸命いろいろな説明をしてくれた。ぼくは相槌だけうまく合わせるよう努めたが、内容はほとんど理解できなかった。

 最後に栄養士の堀井さんが入ってきて、丁寧に食事の説明をしてくれた。そこだけはなんとなく理解できた。イスラム教徒のぼくが食べられない豚肉のメニューが出る日は、それに代わる別の物を作っていただけるようだ。食の安全を保障され、ぼくは安堵した。ほんとうに感謝だ。

 長ったらしい校長室での説明が終わると、ぼくら訪問団と窪田先生は一緒に寮に向かった。理事長と荒木さんは「これからよろしく!」と簡潔にぼくのことをお願いした。寮母さんたちからうらやましくなるぐらい元気な声で「こちらこそ」とあいさつが返ってきた。

 理事長は帰る間際にこう言ってぼくに活を入れた。

「ここに来られたのは何かの縁なんだから、しっかりベストを尽くしてください」

 確かに縁でもなければ、ぼくは日本、それも日本の中でも十分に存在をアピールできているとはいえない福井県へ来ることなどなかっただろう。ぼくは理事長の言葉に共感した。

 理事長が寮を出て行くと、ぼくはたちまち置き去りにされたようで心細くなった。
 担当のY先生と自分の部屋に行くと、そこに一人の大男がいた。ぼくは緊張した。これから同じ屋根の下で過ごす人間とはうまくやらないといけないと理事長からよく聞かされている。こわばった口調であいさつを終えると、その大男の同居人、北村さんは、すさまじい福井なまりの日本語で愛想のよい挨拶をしてくれた。

「モハメドさん、こんな田舎にきて大変やのう」

 ぼくの緊張をほどくように優しく話しかけてくれたのだが、それが逆にさらなる緊張を呼び起こした。「やのう」ってなんだろう……? ぼくは初耳の語彙に戦慄した。

 正直いって、北村さんの言葉は日本語なのかを疑うほどに、それまで習ってきた日本語と違っていた。福井弁のなまりについては一言で語りつくすことは到底できないが、一番苦しめられたのは、センテンスがしり上がりに変化していくことと、「そう」が「ほう」に変わったり、「だ」が「や」に変わったり、「ね」がさりげなく「のう」にすりかえられたりすることである。

 例えば「そうだってね」は「ほうやってのう」になるし、その「のう」の部分も微妙に聞き手の耳元でぶれるから、聞き取れるようになるまですごく時間がかかった。もう一つの例は「なになにでしょう」が「なになにがのう」になったり、ひどい場合は「なになにがしい」になる。例えば「ちゃんとそこにあるでしょ」は「ちゃんとそこにあるがのう」、または三国地方では、「ちゃんとそこにあるがし」だとさ。習いたての日本語では、とてもそのような変化球には対応できない。
 
 Y先生が帰っていき、ぼくは北村さんと話し始めた。定番の年齢に関する質問をすると、彼はなんとぼくと同じ年の同じ月生まれだった。彼のほうがぼくより20日ほど人生の先輩であった。学校では一つ先輩である。そして、彼は弱視だった。

 北村さんは福井県立盲学校のことについてひと通り説明してくれた。彼によると、全校生徒数は50名ぐらいだという。なんだ、ぼくの小学校のクラスメイトより20人少ないじゃないかと思ったが、説明の続きを聞くことにした。

 50人のうち、10名ほどは専攻科理療科(鍼灸、あん摩を学ぶコース)、6名が保健理療科(あん摩のみを勉強するコース)に在籍して、あとは幼稚部、小学部、中学部、そして高等部普通科の生徒たちだそうだ。専攻科理療科と保健理療科も高等部の一部であると北村さんは教えてくれた。要するに、ぼくはハルツーム大学を辞めて、日本の、しかも辺境にある高校へ入り直したということだ。その上、幼稚部の子どもたちと同じ敷地で勉強したり、入学式や卒業式には一緒に校歌を歌ったりしなければならない。この事実が父にばれれば、在日スーダン大使館を通じて身柄がスーダン当局に引き渡されるに違いない。なんて受け入れがたい現実だと思いつつ、ぼくはもう後戻りするチャンスをことごとくつぶしてきたので、深く考えないようにした。

 時計の針は5時半に迫るところだった。北村さんに誘われ、ぼくらは食堂へ向かった。ひとまず、同居人がいい人だったことを喜んだ。食堂に入ると、結構いい香りが漂っていた。ぼくの好きな魚のフライに間違いない。

 テーブルにつくと、北村さんがほかのメンバーにぼくを紹介した。いきなり外人を紹介されたみなさんはしばらくフリーズしてから、外人さんにもわかるように、ゆっくりと「初めまして」とあいさつしてくれた。ぼくが普通のスピードの日本語であいさつを返すと、何人かが「おー」と歓声を上げ、日本語すごいね、とほめてくれた。一言あいさつしたくらいで日本語の上手下手がわかるのかいなと思いつつ、彼らの心遣いに感謝した。

 食事が始まると、寮母さんが何度となくこちらのテーブルへ来ては、

「お箸が使えるんだ。えらいね」

 だとか、しばらくしてからまた来て、

「お魚が食べれるんだ」

 とか、寮生のみなさんに逐一報告するかのように大きな声で、ぼくの個人情報を漏らしていった。

 ぼくが福井にいる間、一番苦しめられたのが、なんといってもこの寮母さんたちの人を子ども扱いした言葉である。ただ、確かに寮母さんたちも4歳の子どもから大の大人までを担当しなければならないのだから、スイッチの切り替えが難しかろう。
 寮母さんに声をかけられるたびいちいち表情を険しくするぼくを見て、同居人の北村さんが「モハメド、大変やのう」と定番の福井弁で慰めた。

 その日の魚のフライはすごくおいしかったが、なんと晩御飯が5時半だったので、寝る前にまたおなかがすくのではないかと気が気ではなかった。

                                   *

 部屋へ戻ると、北村さんから風呂に行こうと誘われた。

(きたきた、心配していたことが)

 東京にいたときは、協会の風呂場が一人用だったため、集団で風呂に入る機会はなかった。もともとスーダンでは、いや、スーダンだけではなくイスラム教の教えでは、自分の裸を他人に見せてはいけない規則がある。ぼくは6歳から一人で風呂に入れるようになったし、それ以来、親を含め、自分の裸を他人に見せたことはほとんどなかった。しかし、面接で風呂のことを聞かれたとき、集団では嫌だと言えばきっと落とされるだろうと思ったから、その場しのぎでみんなと入ることを承諾してしまったのだ。でも、まさかその日がこんなに早くやってくるとは!

 快く風呂に誘ってくれた同居人をがっかりさせるわけにはいかない。それに、風呂にずっと入らないわけにもいかないだろうと思い、ぼくは着替えの準備をして、北村さんと一緒に風呂に向かった。脱衣所に入ると、数名の寮生が着替え中だった。ヒュヒュウッとパンツたちが脱がれていく音がかすかに聞こえた。

 ここまできては、おそるおそる着替えるわけにはいかない。ぼくもヒュヒュウッとパンツを脱ぎ捨てたが、やはり恥ずかしくなった。タオルで格納庫を覆って風呂場に入ると、まずはシャワーを浴びた。同居人とぼくの同級生らしき男が、浴槽に移って楽しそうに話をしている。ぼくはシャワーを終えて、そのまま脱衣所に逃げようとしたが、運悪く同居人に呼ばれた。仕方なく、ぼくは4人収容の浴槽に入って、部屋が違う同級生の玉森さんとあいさつを交わし、話し始めた。

 なんで野郎3人で裸になって浴槽で語り合わなくちゃならないんだと思った。だが、同級生とは仲よくしなくちゃならないので、ぼくは努めて楽しそうに振る舞った。これがいわゆる「裸のお付き合い」だと誰かに教えられたが、ぼくは当初、その習慣をなかなか受け入れられなかった。

 玉森さんは北村さんと比べて早口の上、話している内容が非常に聞き取りづらい。風呂上りに、部屋で北村さんにそれを言うと、

「玉森さんは三国という町の出身だから、ちょっと話し方が違うんだよ」

 とぼくの聴解力をほめてくれた。なんだ、同じ福井弁の中でも、さらにミクロレベルの違いがあるのかよ。ぼくは「日本語」という底知れぬ深い落とし穴にはまってしまったことに、遅ればせながら気づいたのだった。

 

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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