わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第6回 スーダンへ強制送還の危機 ─後編─

 

 ぼくは崖っぷちに立たされた。努めて冷静さを装っていた理事長もさすがに焦り出した。
 3月も20日を過ぎたころのある日、理事長は重い雰囲気でぼくにいった。

 「仮に今回だめだったとしても、また来年、必ずスーダンに迎えにいきます。その間、しっかり日本語を勉強してね」

 これって、もうだめだという意味? 
 ぼくはこれまでに悲しい思いをしすぎていて、もう何をいわれても、それ以上さらに悲しいという感情が湧かなかった。あの時のぼくは、まさに絶望のどん底にいた。

 ぼくは理事長に、来年の受験まで日本に残れないものか現実的な交渉を始めた。理事長は、協会の財政状況がよくないのでそれはできないのだといって、ぼくの最後の望みを絶ち切った。

 「そうか、帰るしかないか」

 力なくぼやくと、理事長も困ってしまったようだった。

 3月26日の夕方、理事長がぼくを階下から呼んだ。
 降りていくと、理事長は元気よく、

 「もしかしたら、受け入れてくれるところがあるかもしれない」

 という。こういうセリフはもう何度も聞いていたので、オオカミ少年に嘘をつかれた住人の気分だった。

 「本当ですか?」

 半信半疑でぼくがいうと、理事長は、受け入れを前向きに検討してくれている福井県立盲学校の話をしてくれた。おまけに、

 「刺身がおいしいよ。カニもね」

 と福井県のPRまでしてくる。へそ曲がりになってしまっていたぼくの心は、魚がおいしいというだけで動きはしなかった。だが、とにかく日本に残りたい一心で、藁にもすがる思いで受け入れ先からの前向きな返答を願った。
 
 返事がきたのは、3月31日だった。

 「明日、受験に来てください」

 4月1日に入試を受けに行く受験生は、全国津々浦々を探したっておそらくぼく一人だろう。
 その日、ぼくは理事長と荒木さんと飛行機で福井へ飛んだ。小松空港から高速道路で移動する途中、理事長はぼくにいった。

 「試験は口頭試問だから、落ちついてはっきりした日本語で答えるんだよ」

 4月の福井は寒かった。この時期になってもわずかに雪が残っているということは、きっと本物の雪国だろう。だが、どんなに寒い地方に飛ばされようと、受験に失敗してスーダンに帰り、周りから冷ややかなまなざしを浴びることに比べればぜんぜんラクちんだ。
 
 口頭試問の会場には数名の先生がいたが、特に入試担当のトップであるらしい窪田先生が印象深かった。窪田先生は、ぼくがこれまで習った標準語とちょっと違う感じのしゃべり方で、

 「モハメド君、君は日本で鍼灸を学んだら、その後どうするつもり?」

 だとか、

 「寮は二人部屋だけど、だいじょうぶか?」

 「もちろんお祈りしていいぞ」

 だとか、ほんとうに親身になってくれているのが伝わってきた。
 面接を終えて東京に戻った次の日、福井県立盲学校から条件つきの合格通知がきた。
 条件は、まず1年ぐらい受け入れるので、成績がよければそのまま進級し、日本語が上達せず勉強についていけなければ、受け入れを終了するということだ。

 ぼくは合格のお知らせを聞いて奇声を上げた。やっと受かった。やった。残った残った!
 なんというドラマだよ。心臓に悪いじゃないか?

 「ほんとうによかったね。これを日本語で、“捨てる神あれば拾う神あり”っていうんだよ」

 と理事長が教えてくれた。なるほどね。ぼくはまたひとつ賢くなった。

                                                          *
 
 福井県立盲学校への入学を見込んで、ぼくは4月2日から3日間、ひとりで外出できるようになるための集中歩行訓練を受けた。具体的な訓練内容は、協会のある三田線本蓮沼駅から福井へ向かう夜行バス乗り場の東京駅八重洲南口まで、ひとりで点字ブロックを伝って歩けるようになることだ。もちろん、乗車券の購入や、駅員さんに行き先を尋ねることも重要な要素になっている。だが、歩行訓練を受ける前に、ぼくは思いがけぬ形でずっとネックになっていたある問題を解決することになった。

 ぼくは歩行訓練士の大槻先生のレッスンを受けることになっていた。当日まで、大槻先生がどんな人なのか、男性か女性なのかも知らなかった。

 「きっと、きれいで若い女性だろうな。外人の訓練ができるんだから英語も大丈夫だ」

 英語ならナンパするぐらいのコミュニケーション能力はあると、ぼくは高をくくっていた。いいことばっかりじゃないか。歩行訓練だから、肩ぐらいは触れるだろう。ぼくは妄想にふけった。

 「いかんいかん」

 ベルの鳴る音で我に返り、不純なことを考えていた自分を軽蔑した。断っておくが、当時のぼくにとって、女性と肩が触れあうということは人生最大のアバンチュールだった。その頃の自分が懐かしくてしょうがない。

 寮のドアが開くと、冷たい冬風とともに、ぼくが一時間もかけて作り上げた大槻先生のイメージをひっくり返すような、ごっつい声の、田舎くさい、しかも声の様子から察するところ、中年太りの見本のような体型をしたおじさんが「寒い寒い」を連発して入ってきた。ドアを閉めても、靴を脱いでも、その一言しかいわない。
 
 自分の方がよっぽど日本語のレベルは上だとささやかな自負を持つほか、ぼくの前向きな妄想を働かせる材料はなかった。

 このおっさんじゃあ、肩に触れる必要もなければ、英語をしゃべることもないだろ。
 リビングに座ると、大槻先生はやっと「寒い」以外の言葉を発した。

 「モハメド君ですね?」

 これまでに聞いたことのない独特のしゃべり方だった。後でわかったことだが、それはぼくが本格的な関西弁と初めて出会った瞬間だった。

 大槻先生はたんたんと歩行訓練の説明を始めた。ぼくは適当にあいづちを打っていたが、そのタイミングがどうやら不自然だったようで、やっと先生はぼくの日本語能力を見定めた。

 すると先生はいきなり、流暢だけど、どっしりと関西弁が腰を据えた英語に切り替えた。ぼくはあっけにとられた。

 (こんな田舎くさい、中年太りのいかついおっさんでも、英語を話せるんだ)

 大槻先生、なかなか面白い人物じゃないか。
 しばらく談笑してから、ぼくら二人は寮を出た。その日は白杖の正しい使い方を練習することになっていた。一時間前までの大槻先生となら、白杖の使い方どころか、ボタンの掛け方、トイレの後のおしりの拭き方、あるいは数字の数え方といったつまらなさを極めた作業でもやる気が出ただろうが、現実世界の大槻先生じゃあ、何もやる気がわかない。第一、こんなに寒いのになんで外出しなけりゃならないのかな。あれこれ心の中で不満を漏らしつつも、ぼくは運命を受け入れる準備を始めた。

 と、そのとき歴史が動いた。

 大槻先生は突然、

 「モーハメド君、靴のひもが解けてますよ」

 と声を掛けてきた。

 「余計なことをいうな、おっさんのくせに」

 ぼくはそういいたいのをぐっとこらえて、これまでいつも使ってきた技を試みた。ひもを適当にぐちゃぐちゃに絡めて丸めるのだ。が、プロの大槻先生には通用しなかった。先生はぼくのぐちゃぐちゃになった靴ひもを一瞬にして指で解くと、いった。

 「モーハメド君、今から寮に帰りましょう。そして、靴ひもの結び方を練習しましょう」

 ぼくはそれを聞いて、嬉しさのあまり、こみ上げてくるものを感じた。おそらく、大槻先生はぼくの抱える最大の苦しみをわかってくれたのだろう。

 寮へ帰って、靴ひもの結び方を練習するとばかり思っていたら、大槻先生はぼくにリビングへ向かうよう指示すると、事務室へ入っていった。
 しばらくして、ようやくリビングにやってきた先生は、ときには英語、ときには日本語で、靴ひもの結び方についてだったり、結ばないことによって生じるさまざまな危険性について熱く語りだした。

 (もうわかったから、練習しようぜ)

 と思ったが、これだけ延々と語られると、ぼくが抱えていた問題は、生死に関わるぐらい根本的な問題なんだと思えてくる。こんなに熱く演説めいたことをやられたら、人類はみな大槻先生に一票を投じたくなるに違いないね。でも、大槻先生すみません。ぼくには投票権なんかないのだ。

 30分ほどの熱弁が終わると、いよいよ実践に入った。といっても、最初は先生が持ってきたリボンと本を使って、本の表でリボンを蝶々結びするというメニューだった。

 「モーハメド君、靴ひもの先は、右と左に分かれてますね。触ってみてください」

 「はい、わかりました」

 ぼくはプライドを軽く傷つけられた気分になりながら、いやいや手を伸ばして確認した。

 「モーハメド君、君はこの作業を15年前にできてないとあかんかった。プライドが許さないのはわかるが、これが最後のチャンスだと思って真剣にやってくださいな」

 大槻先生はごっつい声でいった。確かにその通りだ。大槻先生も靴ひもの結び方を教えにはるばる埼玉から来たわけではないだろう。ありがたくレッスンに打ち込む姿を見せねばならんと思った。

 「次に、左側のひもを右側のひもの前で交差させますね」

 「交差ってなんですか?」

 「クロスや、わかる?」

 「はい、わかりました」

 ひもの結び方よりも「交差」という新しい語彙を覚えたのを喜んだ。

 「次に、右側のひもの前でクロスさせたひもをぐるっと右ひもの後ろに回して、左右のひもの間にできた隙間からひもを通しますね」

 (なんだって? パズルみたいじゃん)

 大槻先生は実際にぼくの手を持って、この作業を文字通り手取り足取り教えてくれた。
 そこまでは、比較的順調にいったが、そこからはぼくの頭がついていかなかった。

 「隙間から通したひもをぐっと引っ張って、結び目をつくること。その次に、ひもを持って輪っかをつくること。その次、右ひもを輪っか状になったひもの後ろで交差させ、新たにできた隙間に輪っか状になった右ひもを通すんだ。最後に両側を引っ張れば、蝶々結びができるよ」

 言葉にすれば1分足らず、文字にすればひと段落で済む作業を身につけるのに、ぼくは20年近くかけてきたと思うとばかばかしくてしょうがなかった。わかったところで、それをちゃんと実現しなくちゃならないということは頭でわかっても、果たして自分にできるのか不安だった。それぞれの段階で手こずり、輪っかはいくらつくっておいても引っ張った瞬間に崩れ、また元の形に戻すのに、いちいち大槻先生に手順を確認しなければならなかった。ひも結びって、ものすごく力加減が大切なのだ。結び目をつくるのに失敗したときの苛立ちは、リハビリテーションセンターの受験に失敗したときとほぼ同レベルである。

 のらりくらり、3時間もかけて、ぼくはやっと初めての蝶々結びに成功した。小泉総理じゃないけれど、ほんとうに感動した。
 その後、三日間の集中訓練を受け、ぼくは確実にひとりで靴のひもを結べるようになった。

 その日の夜、ぼくは思わず母に国際電話をかけて知らせた。だれより先に知らせたかったのだ。興奮冷めやらぬまま、この大事件について報告すると、そのテンションになんと母が驚いていた。どうも母は、靴ひも結びがぼくの人生最大の山場だということを知らなかったらしい。それもそうだ。ぼくは幼いころから、学校で靴ひもが解けると、怒鳴るような声で「おい、○○くん、これを結べ」と命令していた。呼べば誰でも、素直にそれをやってくれた。

 ぼくはどちらかというと、クラスの中で恐れられる存在だった。腕っぷしが強いからではない。ぼくは乱暴もので、怒ったりすると、あたりかまわず近くにあるものを投げつけていた。狙ったところに命中すればいいが、当時弱視だったぼくにはうまく当てることができなかった。すると、それは罪のない市民を巻きこむ、いわゆる無差別テロになる。

 そんなわけで、何かを命じられたクラスメイトは直ちに命令に従ってくれた。それは、クラスメイトなりのうまい「集団安全保障」の方法であった。しかし、その従順すぎるクラスメイトの対応は、ぼくの大いなる勘違いの育成に貢献してしまったのだ。ただひとつ言い訳をさせてもらえば、ライバル関係にあるクラスメイトたちに腰を低くして靴ひも結びを頼むようなことをすれば、それはぼくのクラスにおける地位を決定的におとしめることになる。だから、仕方なくぼくは強気をはっていたのだ。

 ひょんなことから、長年コンプレックスであった靴ひも結びに成功して、ぼくはうれしさで胸がいっぱいになった。生後19年と9か月めのことだった。
 その時、ぼくはやっと足元を固めて、日本でいろいろな困難に立ち向かえる気がした。

 大槻先生、肩に触れることこそできなかったが、ぼくの人生を大きく変えるきっかけになってくださったことに、心から厚く御礼申し上げます。
 靴ひもを結ぶことに成功したのと同時に、ぼくは心につかえていた何かがふーっと解けていくのを感じた。福井での3年間のスタートに先立って、ひとつの成人儀礼を成し遂げ、大人として福井へ旅立つ覚悟ができた。

 ふんどしではなくて、靴ひもをしめてがんばるぞ。

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

ポプラビーチを読んだ感想をぜひお寄せください。
皆さまのおたよりお待ちしております。
感想を送る
WEB マガジン ポプラビーチ powered by ポプラ社
ポプラビーチトップへ戻る