わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第5回 スーダンへ強制送還の危機 ─前編─

 

 日本での生活をのびのび楽しんでいたぼくが初めて危機感をもったのは、2月中旬のことだった。ぼくひとりしかいなかった寮に、新たに3人の盲人留学生が到着したのだ。彼らも鍼灸を学びにきたという。

 最初は、中国の内モンゴルからやってきたワンさん。次に、ブラジルから二人の日系人がやってきた。協会が一気ににぎやかになった。

 ぼくは先に日本へ来たから、身につけた日本語をいろいろ見せびらかしてやろうと思ったら、なんと彼らは日本人と変わらないスピードと余裕で日本語を巧みに操っている。すげぇと思った。ぼくはやっぱり怠け者か?

 「理事長、みなさん日本語が上手ですね」

 不安げにぼくがいうと、理事長は、

 「それはそうでしょう。ワンさんは中国で3年間も日本語を勉強してきたし、マッサージの勉強もしていたんだよ。梶原さんと矢野さんはもともと日系人であるうえに、日本語とマッサージをブラジルで勉強してきている。場違いなのは君だけというわけ。ははは!」

 なるほど。場違いなら、人の何倍もがんばらなくちゃならないんだ。
 気づけば、受験まであと1週間しかなかった。4月から受け入れてくれそうな盲学校の入学試験を受けなくてはならないのだ。
 寮の住人が急にひとりから4人に増えてしまったので、ぼくはあっちこっちに散らかしていた私物を片づけるはめになった。

 一階のダイニングでは、ワンさんがいつも荒木さんに漢字の意味を聞いていた。恥ずかしいことだが、ぼくはこの時点ではまだ、漢字とはなんぞやっていうことを知らなかった。日本の文字はどうやって書くのかさえ考えてみたことがなかった。点字では漢字もひらがなもカタカナも「音」で表示されるので、区別がつかない。こうした外国人部隊の到着によって、ぼくは自分の日本語レベルの低さを思い知ることになった。1週間後の受験への不安が募った。

                                *

 2月下旬、ぼくは栃木県塩原にある国立リハビリテーションセンターに出向いた。理事長がここを受験するように勧めてくれたのだ。

 朝早く、ぼくは理事長と荒木さんと一緒に出かけた。新幹線に乗り、那須塩原駅で降りる。そこで、マッサージ会社の社長であり、自身も全盲の伊藤さんという人と彼の運転手さんに迎えられた。伊藤さんは理事長と荒木さんの古い友人で、その日は仕事を休んで一日空けてくれていた。あいさつが済むと、ぼくらは高級感漂う伊藤さんの車で、国立リハビリテーションセンターまで送ってもらった。

 到着すると、若い女性職員が出迎えてくれた。声がかわいい。ちょっと友達になりたいタイプかな。だが、今はそんなことをいってる場合じゃない。2月の塩原はすごく寒かった。ぼくは相変わらず、叔父が買ってくれたポーランド製のスーツと父が30年前に使っていたコートを着込んでいた。それでもやはり寒い。廊下が外より寒いってどういうことだろう? 緊張でいつのまにか膀胱が満タンになっていたが、トイレは我慢した。

 控え室で20分待たされたのち、ぼくは面接室に通された。先ほどのかわいい女性が手引きしてくれる。これから始まろうとしている面接が怖い。緊張の度合いが震度6強である。
 ぼくは深々とお辞儀をした。
 椅子に座ると、目の前から重厚な声がした。

 「モハメド君、自己紹介をしてくれますか?」

 これは予習済みの質問だったので、すらすら自己紹介をした。すこし安堵したが、次にきた質問の意味がほとんどわからなかった。わからなくても黙りこくっていては負けが決まってしまう。たぶんこういうことを聞いているんだろうなと憶測で返事をした。
 面接官は五人ぐらいいたのだが、好意的な雰囲気はあまり伝わってこない。

 「ここから逃げたい。もうこれ以上ぼくをいじめないで!」

 ぼくは心の中で思った。
 面接はそれほど長くは続かなかった。が、面接が終わると、今度は筆記試験をするという。

 大きな教室に受験者はぼくひとりである。どうも、ぼくの日本語能力をチェックするための試験らしかった。相変わらずトイレへ行けていない。声のきれいな女性職員が試験官になって、ぼくは多少よろしい気分になった。だが、それも束の間だった。試験用紙が配られた。用紙というよりも分厚い点字の本である。
 とにかく上から読み始めた。
 「平成○○年、日本語能力試験1級」とある。

 ぼくはこの国にこのような試験があるとは知らなかったし、そもそも「能力」という言葉の意味がわからない。この試験がいったいいかなるものかも十分に把握しないまま、指を滑らせて読み始めた。

 「次の1から4の中からもっとも適切な答えを選択してください」的な出題があったのだが、1から4までの内容を追ってみても、何を求められているのかさっぱりわからない。

 ぼくはどんどん指を滑らせては次のページに進み、進めば進むほど、自分がいかに深刻な状況に追いこまれているかをまざまざと実感させられた。自信のある答えはひとつもなく、試験開始から15分たったころ、ぼくはパニックに陥って、たまらず泣き始めた。
 女性職員はびっくりしたらしく、不安げに声をかけてきた。

 「だっ、だいじょうぶですか?」

 ぼくは叫ぶように、
 
 「わからないよわからないよ。日本語わからないよ!」

 と試験用紙をこぶしで数回殴りつけた。ぼくはもう立ち上がって、試験用紙を試験官に渡そうとしたが、彼女は、

 「だめだめ。まだ15分だから、時間の半分ぐらい過ぎないと出られません」

 と粘る。頭が真っ白になった。

 「落ちるな……。確実に」

 スーダンへ返される。なんのために父の反対を押し切ったり、ハルツーム大学を中退してまで日本へ来たのだろう。

 「やばい。帰ってまた大学受験しなきゃならないかも」

 ぼくは再び椅子に腰を掛け、先ほどまでサンドバッグ代わりにした試験用紙をめくり始めた。無造作にいろいろな問題に触れてみたが、やっぱりどれも何を意味しているのかわからなかった。今度は力なく机に顔を伏せ、試験時間が1時間を過ぎるころまで何もせずに泣いていた。 

 「1時間です」

 試験官の愛らしい声が惨敗のコールドゲームを告げてしまった。ぼくは力なく立ち上がり、問題の1割も解いていない答案用紙を提出した。

 (終わったな)

 早く理事長に泣きすがりたい気持ちだった。
 かわいい職員さんの手引きでぼくは理事長と荒木さんのもとへ帰った。文句をいっぱいいいたかったが、悲しくなりすぎて何もいえなかった。
 こういう時、ぼくは顔がこわばって、無意識によく瞬きをするようになる。理事長もかける言葉が見つからないようだった。しばらくして、

 「結果が出るまでわからないから、あきらめるなよ」

 となぐさめようとしたが、「なんで日本語をそんなにやっていないぼくが、こんなに厳しい試験を受けなくちゃならないんだ」という不満でいっぱいのぼくには届かなかった。

 トイレを済ませると、理事長と荒木さんの3人で職員の方にお別れをして、迎えに来てくれた伊藤さんの車に乗り込んだ。運転をしていた古千谷さんという方と一緒に高級そうな料亭に向かった。

 到着すると、料亭の女将さんが下駄をとことこいわせながら、うざいぐらいに長い挨拶をしてくる。こちらはとてもそんな気分ではない。
 その料亭では、ごちそうがたくさん出た。理事長と伊藤さんは日本酒をいっぱい飲んだ。ぼくは黙って、盛られた料理をひたすら食べ続けた。食べながら、ぼくはもう日本にそう長くはいられないだろうから、残りの滞在期間を楽しむしかないって思ったり、「もしかしたら、合格するかも」と根拠なく思ったり、気もそぞろで接待してくれている伊藤さんの話に耳をかたむける余裕はなかった。

 その晩、ぼくらは夜中に東京に到着した。ブラジル勢の二人とワンさんが起きて待っていてくれた。試験のことを聞かれて、ぼくは理事長に教えられたように「よかったです」と心にもない返事をした。次の週に受験を控えている3人が不安にならないようにと、理事長はわざわざぼくに嘘をつかせたのだ。

                                 *

 翌週、3人がそれぞれ受験に出かけて行った。ワンさんは石川盲学校、梶原さんは平塚盲学校、矢野さんは奈良盲学校。それとほぼ同時期に、国立リハビリテーションセンターから訃報がきてしまった。肩を落としているぼくに理事長はいった。

 「まぁ、国立リハビリテーションセンターは中途失明者が多いし、年齢が離れた人も多くてたいへんだから、受からなくてよかったかもしれない」

 「なんだよ、だったらなんで最初から受けさせるんだ!」

 そう思ったが、当然ながら口には出せない。他の人が盲学校を受けて、自分だけ国立リハビリテーションセンターを受けさせられた意味がわからなかった。

 次の週、3人に合格の知らせがきた。ぼくは残念ながら、彼らの合格を祝福する寛大な心の持ち主ではないことをはっきりと知った。
 合格が決まった3人は、毎日のように、荒木さんと一緒に入学手続き書類を作ったり、必要な日用品を買いに出かけたり、受け入れ先の盲学校関係者が東京に出張したついでにふらっと協会を訪れ、それぞれの盲学校について説明するのを聞いたりするのに忙しそうだった。

 それを横目に、ぼくは日本語の勉強に一層力をいれようとがんばったのだが、焦りでまったく身が入らない。正直、生まれて初めての大失敗の衝撃は大きかった。受験に落ちただけではない。このまま入学先が決まらなければ、4月上旬に国へ帰らなければならないのだ。これは盲協会の決まりであるから仕方がない。しかし、スーダンへ帰るとなれば、これはたいへんなことである。

 だって、受験に失敗してスーダンに帰ってきたとわかれば、あのライオンにちぎり殺されるに違いない。日本への留学の件をめぐって、あの、ザ・怖いおやじの強い反対を押し切って日本行きをむしり取ったのに、どういう顔をして帰れるというのか。どんな子どもも大人になる過程で親とぶつかることはあると思うが、うちのライオンと戦うために使い果たしたエネルギーと悪知恵はもう二度と使えないのだから、ぼくはこの先ずっと父には逆らえないだろう。陰ながら味方になってくれた家族や父の友人たちも、もう二度とあんな危険な役を引き受けてはくれないだろうし、ぼくに残された選択肢は、父に従順な息子でいるか、家出するかしかなかった。もちろん、切腹などは論外である。ぼくには、自ら命を絶つなんて行動は到底できない。

 ぼくは自分がハルツームに到着したときの父の行動を想像してみた。おそらく、母からは「モハメドはがっかりしているので、咎めたりしないように気をつけてね」といわれているだろう。父も根はやさしいから、そのつもりで最初はいてくれるだろう。そして、父と母だけが空港へ迎えに来てくれて、ぼくは、ちょっとあいさつを交わすとなにも言わずに、1983年に製造されたカローラに乗って家へ向かうだろう。うちでは兄弟がみんなで出迎えてくれ、兄が「やっぱりおまえにはおれらと一緒にいてほしいよ。肩を落とさずにがんばろう」などとなぐさめようとするに違いない。

 ぼくは、相当悲しい気持ちになっているはず。親戚にどう説明すればよいのかもわからない。一応、「ビザの手続き上、日本での受け入れは来年からになった」とでもいうかな。それを聞いた誰しもが、まったく納得がいかないのに、「そうかそうか、来年までまたゆっくり準備ができるし、一緒に遊べるからよかった」なんて意気地のない返事をするだろう。「来年までゆっくり準備できる」って、いったい何を準備するんだよってつっこみたくなるが、まぁ、それほどぼくの言い訳が下手くそなのだから、しかたがあるまい。


 考えれば考えるほど、恐ろしい未来しか想像できなかった。


 ぼくは、こんな状況で3月を迎えた。寒さは幾分和らいでいたが、心のほうは真冬だった。自分をこんな地獄のような状況に陥れた協会を憎んだ。理事長も心配はしているようだったが、ダイニングルームやトイレですれ違うたび、ぼくに低い声でこういうのだった。

 「If there is a will, there’s a way(意思があれば道は開ける)」

 そんなこといったって、盲学校の入試はもう全部終わっているんだよ! やり場のない気持ちばかりがふくらんでいく。
 理事長はいろいろな盲学校にあたってくれた。前向きな反応のところもあったが、それも最初だけで、やはり入試が終わっているということで断られることが続いた。

 3月下旬になり、ほかの3人の留学生が受け入れ先に出かける最終準備に入った。同じ頃、全国の盲学校にちらばった数名の先輩全盲留学生が春休みのために戻ってきた。同期の3人は先輩にあれこれと盲学校のことを聞きまくっていた。
 ぼくは嫉妬、苛立ち、絶望といった気持ちに支配され、次にどうするべきか考えることもできなかった。時はただ過ぎていく。桜が散るころには、自分の希望も砕け散っていくのだろうか?

 

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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