わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第3回 初めて日本を食べる ─前編─

 

 ハルツームからフランクフルト経由で、ぼくは招聘団体の理事長と事務局員に連れられて日本へ向かった。理事長は世界を飛び回っていたのでマイレージがたまったらしく、フランクフルトで全日空に乗り換えるとき、ビジネスクラスへの変更が可能となった。

 しかし、ぼくは11歳のころに目の治療のためバルセロナに行って以来、海外へは行ったことがなかったのと、マイレージたるものがなんぞやっていうことを知らなかったので、ビジネスクラスへの変更手続きがうまくいかなかった。
 かと思いきや、理事長が航空会社の職員と粘り強く交渉してくれた結果、ぼくもビジネスクラスに乗れるようになった。ぼくは自分のことをアラブ商人だと思っていたが、この理事長もなかなかのアラブ商人魂の持ち主だということがわかる。ぼくにとって、これは人生初のビジネスクラスだ。にもかかわらず、この記念すべき出来事を、理事長はぼくに一言もいわなかった。ぼくはビジネスクラスだということを知らずに飛行機に搭乗した。

 座席に座ったとたん、ぼくは得意になっていった。

 「日本の飛行機って、すごいね。広くて快適だ。ルフトハンザなんて目じゃないな」

 理事長は爆笑して、フライトアテンダントを呼んでぼくのばかげた発言を伝えた。フライトアテンダントは爆笑をこらえ、プロ魂をもって、つとめて上品に笑った。その時になって初めて、ぼくは自分たちがビジネスクラスに乗っていることを教えられた。

 なんだ、早くいってよ。このかわいいフライトアテンダントの前で失態を演じてしまった。ぼくの株が急降下するではないか。ちょっと考えてくれたっていいだろ、理事長。もちろん、そんなこと口にはしなかったけどね。「聞くは一時の恥」というが、ぼくは成田に到着するまで半日ばかりの間、自分の失言をずっと恥じていて、顔を真っ赤にしていた。まぁ、ぼくの肌は褐色だから、その様子は伝わらないのだ。ラッキー。


                                 *

 出国から丸一日かかっただろうか? ぼくは1998年1月19日に初めて日本の土を踏んだ。マッチ棒のようにほっそりした体に、叔父が餞別代わりに買ってくれたポーランド製のスーツを格好良く着こなしていた(主観だけどね)。その上、父がイギリス留学中の1970年代に着ていたコートをまとって、自信たっぷりにビジネスクラスの全日空便を降りた。

 成田空港内は暖かかったし、成田からの電車も暖房がきいていたから、あまり寒さは気にならなかった。しかし日暮里で電車を降りてタクシーに乗り換えるまでの間、ぼくは空腹と寒さのせいでぶるぶると震え始め、そのうち歯もがたがたと音をたて、タクシーに乗った途端にそれまで凍っていた鼻水がとけ始め、勢いよく鼻下のひげを通過して口元に滴り始めた。

 困ったな。ティッシュ持ってないな。

 ハンカチという発明の存在も知らなかったので、ぼくはあわててコートの袖で鼻と口元を拭いた。気持ち悪いな。いくら腹が減ってたって、コールドスープまがいの鼻水なんて口にしたくないに決まってる。

 25分ぐらい、タクシーは走った。タイヤがときどき建設現場に残った日干し煉瓦のくずを踏んだような音をたてる。同乗していた理事長にそれをいうと、「雪ですよ」と教えてくれた。そして、

 「よかったね。東京の雪景色に迎えられるなんてなかなかの歓迎ですよ」

 なんて皮肉まじりにいう。そんな余計なお世話、いらないと思った。

 「たいへんだ、たいへんだ! 冷蔵庫の中みたいね」

 ぼくは時々窓ガラスをちょこっと下げて、気温を確かめながらいった。
 ある狭い路地に入ると、車はすぐに止まった。ぼくたち3人は車を降りた。
 理事長はぼくの手をつかむと、雪が寄せてある壁際まで連れて行って、ぼくに雪を触らせようとした。

 「痛いよ!」

 ぼくはとっさに、冷たさの感覚を痛みとして感じた。手を放したのはいいのだが、理事長はまだしつこく、雪の塊を持ってぼくのてのひらに乗せてくる。
 痛いっていってるじゃないかと思ったのだが、もちろん口にはできない。なんだか先が思いやられるスタートだなって感じつつ、板橋区蓮沼町にある招聘団体の事務所兼寮の玄関の前に立った。

                                *

 招聘団体が入った建物に足を踏み入れると、ぼくはいったん寒さからは解放された。だが、依然としてお腹が空いているのだ。しかも、日本に向けて出発した当時はラマダンの真っ最中だった。ラマダンというのは、イスラム教で決められた断食月のことをいう。夜明けから日没までのあいだ飲み食いができないので、夜明け前までに食いだめしなくちゃならない。まぁ、本当をいうと、食いだめをすることもよくないのだ。そもそも断食は、普段不自由なく食べられることに感謝することと、貧困でろくにごはんを食べられない人々の気持ちを味わい、それによって助け合いの精神を呼びさますためのものなので、食いだめしたりするとなかなか元来の目的が達成されない。だが、ぼくみたいな食いしん坊にはそのような根性は備わっていないので、夜明けぎりぎりまで食べることが多い。

 寮に入ったのが夜中の1時過ぎだったため、3時間で勝負する必要があった。しかし、果たしてごはんは出るのか? 日本料理になじめるか? ムスリムが食べられない豚料理が出たりしないか? ぼくはさまざまな不安を抱えつつ、到着を待っていてくれた事務局スタッフに習いたての日本語であいさつした。

 ダイニングルームに通されると、すぐにお食事が出た。とても良い匂いがしている。すんとしたかいだことのない鋭い香りが鼻を刺激した。その香りのおかげで、胃袋が活性化されただけでなく、時差ボケのせいで襲ってくる睡魔を追っぱらうこともできた。いわゆる一石二鳥である。

 寮に寝泊まりしつつ、事務方と料理係を担当してくれている50代の女性職員、荒木さんが親しみのわくたどたどしい英語で、「もう食べていいよ」と告げた。
 それを待っていたかのように、ぼくは即座に食べる体制に入った。スーツとネクタイのままだが、かまっちゃいられない。だって、ネクタイのほどき方もわからないのだから、そんなことに気をとられていては夜が明けてしまい、空腹のまま断食に入らざるを得なくなる。いかんいかん。早く食べなくちゃ。

 ……でもやっぱり、人生初のスーツとネクタイを汚したくないな。どうしよう。

 あ。これだ。
 ぼくはお皿の上空に頭を垂れた。ここだったら、食事がこぼれても洋服の上ではなく、手元のお皿に墜落するだけだ。そしたら、またそれをスプーンで拾えるのだから、一口たりとも無駄にせず、食事のすべてを私腹にとりこめる。下品な食べ方だが、これでいこう。

 しかし、まだ問題は山積している。盲人にとって一番大変なのは、初めて口にするものを想像することだ。目が見えれば、その料理が柔らかいのか固いのか、お皿の上のどの辺に盛ってあるのか、おいしそうかまずそうか、おおよその見当はつく。でも見えない人間にとっては、すべて未知の世界である。まして、食文化の異なる地球の果ての日本まで来ればなおさらだ。

 スプーンがあったので、まずはそれを手に取って、そーっとお皿の淵から接近してみた。お皿の淵にあたったのち、方向を90度変えて横のほうに慎重にスプーンを進めた。そうしたら、固くもなく柔らかくもない、実態がつかみづらい物体にぶち当たった。それをスプーンですくおうとしたが、失敗した。依然として、鼻先にすんとした鋭い香りが漂う。墜落した物体の重さとスプーンに乗せた感じからすると、それはどうもジャガイモのようだ。ちょっと大きかったので、スプーンをナイフ替わりに使い、その物体を解体した。これで食べやすくなったはず。

 やっと楽にスプーンに料理を盛ることができた。お皿の上空に待機している我が頭のほうへスプーンを上昇させ、恐る恐る口元へ運んだ。鋭いにおいがどんどんきつくなり、ぼくは眉間にしわを寄せた。これは、初めて何かを食べるとか、苦手なものを口にする前の条件反射である。
 がばっと一口食べると、ぼくは思わず顔の向きを直して、荒木さんに興奮気味に伝えた。

 「very good!!」

 あれだけまずいものを予想して、結果としてうまいものにありつけたのは初めてのことのように思えた。ぼくはそもそも食わず嫌いで、好きなものならいくらでも食べ、嫌いなものは絶対に口にしないタイプだった。日本へ来てしまった以上、そうはわがままも通せないので、心を入れ替えて何でも食べてやるつもりだったが、いま口にしたものは正真正銘うまいものだった。

 「荒木さん、すみません。この食べ物の名前はなんですか?」

 ぼくにとって最上級の日本語をひねり出した。

 「カレーライスですよ。スーダンにもあるでしょ?」

 「そんなの聞いたことないですよ」

 こちらは日本語ではなく、英語で伝えた。荒木さんは、

 「ヂス・イズ・インディアンフード」

 と、また親しみのわくたどたどしい英語で教えてくれた。
 まぁ、インドだろうが、日本だろうが、うまければなんでも「いいんど」と思った。

 そこからぼくは、お皿と口元の間にスプーンを何十往復もさせて、三杯のカレーライスをあっという間にたいらげた。おいしかったぁ。ご馳走様でした。
 鋭い香りがお皿から自分の汗に移動したのを感じつつ、ぼくは次なる睡魔の攻撃にかろうじて耐えた。
 そこでふと我に返った。このネクタイ、どうしようかな?

 先にも述べたが、ぼくはこのとき、生まれて初めてスーツにネクタイをしていた。ネクタイは旧ソ連やイギリスへ留学したこともある父に結んでもらった。だが、ほどき方は残念ながら知らない。ごはんを食べ終わったのが二時をまわったころだったので、ネクタイを結んでいる時間はそろそろ三十時間に達する。これって、すごい記録だね。ギネスブックにでも申請したらどうかと思った。

                                 *

 食事をすませて、ぼくは寮になっている二階へ上がった。そこは、四畳半が二部屋と、二段ベッドが三つほど置いてある洋間と、会議室という構造になっている。お風呂とトイレは、台所とダイニング、荒木さんの部屋、事務室とともに一階にあるのだ。
 荒木さんは、あくびをこらえているぼくに、

 「お風呂が沸いているので早く入って寝たほうがいい」

 とうながした。
 二段ベッドが並ぶ部屋に入り、スーツの上下を脱いだ。次はネクタイなのだが、生まれて初めてのネクタイをほどくのはかなり手こずった。強引に引っ張ってみたり、指先で器用にほどこうと心がけたり、いろいろやってみたが、結び目はほどけるどころか徐々に硬さを増していく。
 ネクタイにしがみついていた両手を一瞬離し、素早くパンツを脱ぎ捨てた。そして、またネクタイと格闘しつづけた。疲労と眠気で指先の動きが鈍くなり、よっぽど「ナイフかはさみで切ってやろうか」と思うほど手こずったあげく、ひょんなことから結び目がやわらいだ。これだ、と思い、一気に両手でネクタイを引っ張ってほどいた。

 あー。大変じゃん。こんな面倒くさい発明をした人間の心情がどうも理解できない。よっぽど暇人で、やることがないから、こんなスーパー面倒くさい発明をしたに違いない。 
 ま、とにかく、ネクタイがほどけたので、とりあえず今晩は寝られる見通しが立った。
 ネクタイに続けて、ワイシャツを素早く脱ぎ、着替えをして、風呂場のある一階へ降りた。

 風呂場でまず体を洗った。ずいぶん温かい水だなと、水道の蛇口から出るお湯に関心しつつ丁寧に洗った。
 「最後に浴槽に入るのよ」って荒木さんからしっかり説明を聞いていたので、体を洗うのが終わるやいなや、浴槽に向かって勢いよく飛び込んだ。
 その瞬間、お風呂ってほんとうに「地獄の簡易版だ」と思った。

 「あっちっちっちい! なにこれ?」

 ぼくは浴槽から逃げるようにして洗い場のほうへ出た。
 これで、一気に眠気がふっとんじゃった。おいおい、こんなアトラクションはいらんぞ。平気でこんな熱湯につかる日本人の気持ちを想像するのは、当時のぼくには容易ではなかった。

 

 

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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