わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第2回 トライ(渡来) ─後編─

 「先ほどの話ですが、お父さんはどう思いますか?」

 丁寧な口調で聞いた。

 「本気でいってるのか」

 父が聞き返す。

 「冷やかしでこのような話をする無責任なやつに見えますか?」

 ぼくは挑戦的に出た。父はどんと手に持った新聞をひざの上で叩きつぶした。ぼくはどきっとしたが、これがいわゆる威嚇射撃だということがすぐにわかって、平静をよそおった。

 「おまえはハルツーム大学で法律を勉強したいって高校1年生から一生懸命がんばってきたんじゃなかったのか? 日本で針灸の勉強をしたいとはどういうことだ? 説明してくれ」  

 父が声を荒らげた。ぼくはあくまで平静さを保って切り札の反撃をとっておいた。
 そして母にした説明をもう一度繰り返した。でも、「説明してくれ」といいつつ人の話は聞かないのが父の戦略だ。あくまで威圧的に提案をつぶしていく。

 「そんなのおかしいだろう。日本のなに大学で勉強をするんだ?」

 思いがけぬやばい質問をしてきた。それだけは触れてほしくなかった。父がいうのはもっともだった。
 日本の留学先は大学ではなく、盲学校の専攻加療科というコースである。これは盲学校の高等部であるため、大学の卒業資格をもらえるものではない。父は学歴を重んじる男であることに加え、自分の子どもたちの目が見えないことに複雑な思いを持っているため、盲学校で学ばせることに対して積極的ではない。
 ぼくは堂々と返事をした。

 「大学の名前はわからないけど、けっこういいところだそうです」

 真っ赤なうそだった。うそも方便ってこういうことだろう。我ながらうまいことをいったもんだ。
 父はこの話に対する反対を宣言したが、ぼくが面接で落ちる可能性にかけて、まだマックスの反撃をしてこなかった。

                   *

 日曜日までの1週間は、長いようで短かった。ぼくはあれから、毎日点字の特訓をしている。面接は英語と点字だが、点字のほうは「できる」というには程遠い感じだった。 
 でも、ぼくはあきらめなかった。父に反対されればやはり燃える。点字を読む速度はなかなか簡単には上がらないが、手で点字をなぞりながら読み上げることにはずいぶん慣れてきた。

 土曜日の夜、当然ながらぼくは寝られなかった。面接は11時からなのだが、気になって眠るどころではない。

 朝8時、ぼくは幼馴染のハーキムと一緒に出かけた。
 バスを乗り継いで目的地の全国盲人連合に到着した。面接まであと2時間ある。
 ぼくとハーキムは中庭のベンチに座った。周囲は盲人だらけだ。面接を受けにきたのであろう連中が大勢いる。20代から40代までと、年齢は実にさまざまである。20歳以下はおそらくぼくだけだろう。でも、こいつらはみんな点字ができるのか。どうすれば勝てるかな。もう、まな板の上の鯉だ。

 11時から一人ずつ面接に呼ばれた。面接を終えた人は、何を聞かれたか、まだ受けていない連中に教えている。ぼくはこっそり聞き耳を立てた。聞こえてきた感じだと、どうも英語に力点が置かれているらしい。もしこれがほんとうだったらいけるね。ぼくは進学前の休みの間、国が運営している安価な英語塾にずっと通っていたので、頭にはストックがあった。

 12時を回ったころ、ぼくの名前が呼ばれた。幼馴染のハーキムが面接室の入り口まで連れて行ってくれて、「がんばれ」と肩をぽんとたたいてくれた。
 部屋に入ると、ぼくは机に座らされた。向かい側から太い声のおっさんが英語で聞いてきた。

 「簡単に自己紹介をお願いします」

 自己紹介なんて英語塾で何十回もやらされている。ぼくは自動音声が流れるかのような迷いのないしゃべりっぷりで自己紹介をした。

 「おー」という低い声が聞こえたとき、ちょっと肩の力が抜けた。

 次にいくつかの質問がきた。「大学を辞めても大丈夫なのか?」とか、「まだ19歳だがホームシックにならないか?」とか、「一人で行動するのは大丈夫なのか?」とか。

 当然ながら、ぼくの返答はすべて面接官のお望み通りだった。英語の質問セッションは、思った以上にうまくいった。

 次に、ぼくが一番危惧していた点字の試験がきた。
 面接官は盲学校の超ベテラン教師のファルーグ先生という50歳くらいの男性だった。当然ながら面識はない。ファルーグ先生はすごく甲高い声でしゃべるが、人がよさそうな言葉遣いだ。ぼくは一枚の紙を渡された。

 「3行目から5行目まで読んでもらえますか」

 想定していなかった変化球が飛んできた。ぼくは点字を触るとき、しばらくしてからようやく認識プロセスが始まるので、いきなり「3行目から読んでくれ」っていわれても困る。3行目を見つけるのに1分はかかっただろうか。
 ぼくは大変たどたどしく点字を読み始めた。2行目に移ったあたりで、ファルーグ先生がいった。

 「もうけっこうです」

 口調はやさしいが、ぼくは初めて「落ちるな」と弱気になった。
 ファルーグ先生は、面接終了間際にすかさず聞いてきた。

 「点字を何年やってる?」

 「1か月ぐらいです」

 ぼくは答えた。先生は、

 「あ、そう?」

 と驚いた様子だった。

 翌週の日曜日の朝。
 ぼくは半分あきらめて、一人で合格発表に出かけた。すると、なんと自分の名前がリストに入っていた。落ちるところを人様に見られまいと一人で来たが、合格したのを知って、「なんだ、だれかを連れてくればよかった」って思った。
 多くの応募者の中から選ばれたのは4名だった。

 ぼくらはそこから1か月ほど、ファルーグ先生の点字の集中講座を受けることになった。
 1か月の間に、ぼくはかなり上達した。それはそうだ。毎日朝から晩までずっと、点字を読みっぱなしだったんだから。ヒシャムも手伝ってくれた。

 その後、日本から面接官がやってきて、1日目は4名に対して面接をおこなった。
 面接の中身は、例えばこうだ。普通に話をしていると、急に「この番号を覚えておいてね」と面接官が10桁くらいの番号を読み上げる。ぼくは高校まで耳で勉強していたおかげで、その番号を覚えることができた。30分たってからまたその番号を聞かれたが、ぼくは運よく答えることができた。

 2日目は、午前8時から午後9時まで日本語の点字の特訓だった。日本語をぜんぜんしゃべれないというのに、日本語の点字というマニアックな入り口から入った。

 うちへ帰ると、家族がみんな心配して「どうした? なんでこんなに遅くなった?」って聞いてきた。父は、まさかぼくがまだあの変な考えにとりつかれているとは思っていなかったようだ。日本へ行くとか、そんな話は出さなかったし、父はどうせうまくいかんだろうとタカをくくっていた。ぼくもあえて父を刺激しないよう、この話に触れないようにしたり、父と1対1の直接対決を避けたりして冷戦構造に甘んじていたのだ。

 11月中旬頃、日本からお知らせがきた。4人中、なんとぼくだけが選ばれていた。
 理由はいろいろだったが、ぼくがまだ若いので、日本の生活に慣れるのがほかの人より早いだろうとか、面接の成績がよかったとか、点字はまだまだ勉強しなくちゃならないが1か月間の伸び具合をみると見込みがあるとか、ぼくに都合のよいことばかりが並んでいた。

 お知らせの内容を知った瞬間、ぼくは表現できないほどの喜びを感じた。が、次の瞬間、自分でもわけがわからないぐらいに落ち込んでしまった。それは飛行機が1万メートルの高度から3000メートルまで急降下するよりも、急で激しい感情だった。

 なんでだろう? 

 ぼくは頭のなかで理由を探した。
 そうだ。ぼくはこれまで、とりあえず試してみようって火遊びをしてただけじゃないのか? 自分がどこまでいけるか、知りたかっただけなんじゃないか?

 うちへ帰って、まず兄のワーイルにこのお知らせのことをこっそり伝えた。すると、いつもどっしりして冷静な兄が、甲高いおたけびをあげてぼくに抱きついてきた。
 兄は185センチ100キロの巨体の上、眼が見えない。咄嗟に抱きついてきたのはいいが、正確な位置をあやまってぼくをつき飛ばしてしまった。

 幸いなことに、ぼくのすぐ後ろにはベッドがあったため、そのベッドに倒れこんだ。兄もバランスを崩してぼくの上になだれ込んできた。「重すぎ」と思ったが、兄がぼくのために喜びを抑えきれない気持ちがすごくうれしかった。その気持ちにこたえるためだけにでも、ぼくは日本へ行きたくなった。

 でも、日本へ行きたいほんとうの理由は、父に、「ぼくはもう子どもじゃない。自分で決めたことを貫くんだ」ってわかってもらうためだった。こう書いてみると、まるで自分が偉い人間のように思えてしまう。実のところ、ダメだといわれればいわれるほど、それを破りたくなるのがぼくの原動力なのだ。

 ひとしきり兄と喜びを分かち合ったあと、父にどう伝えるかについて話し合った。しかし、話し合ったところで簡単に結論が出るものではない。
 兄は最後に、こういい残して部屋を出た。

 「どうせぼこぼこにされるんだ。父さんの猛攻撃の途中から反撃に出たらどうだい」

 なるほどなと思った。父は責めるほうは得意だが、責められることには慣れていない。そこを突いていこう。

 その日、父は夕方6時ごろに帰宅した。
 疲れているだろうから、結果はいわないほうがいいかなと思った。でも、すぐに考えが変わった。むしろ疲れているところをついて先制攻撃をしかけていこう。
 前触れもなく、ぼくはど真ん中に直球を投げ込んだ。

 「お父さん、例の日本留学の件なんだけど、ぼくは選ばれました」

 当然ながら、ぼくは父の祝福の言葉を待っているわけではない。父は不意をつかれたのか、しばらくなんにもいわなかった。初めてこの話を持ってきたときと同じく、父はトイレに逃げ込んだ。

 まずい。充電してくるのだろう。

 お手洗いから出ると、その扉をガンッと閉めた。きたきた。父お得意の威嚇射撃である。手当たり次第、あちこちの扉を全力で開け閉めしている。 
 ぼくには、ひとことも話さない。家中で爆発音が聞こえる。ぼくは戦闘人だから大丈夫だが、家族はみんなその巻き添えとなっている。父の行為は、明らかな国際人道法違反である。だが、父はアメリカと同じく世界の主であるから、だれにもとがめられない。 
 父から見れば、これはたんなるテロとの戦いの一環として行われる正当な掃討戦に過ぎず、これにはみんなが協力すべきだと思っている。
 父はいった。

 「このうちに、私のいうことを聞くやつはもういないのか」

 ガンッとまたどこかのドアが激しく閉まる音がした。ぼくには直接話を向けてこない。
 家中の雰囲気がますますまずくなってくる。ぼくがこれで引き下がるとでも思ったんだろう。「お父さん、甘いぞ」とぼくは心の中でつぶやいた。
 ぼくを作ったのはお父さんかもしれないが、今のぼくはだれの言葉にも耳を傾けないつもりだ。この関係はアメリカとビンラディンとの関係によく似ている。

 父は寝室に入ったきり出てこない。ぼくは、さらにライオンの檻に踏み込んだ。

 「お父さん、なんで反対するんですか?」

 父はあっけに取られた。やはり攻められることには慣れていないようだ。父は仕方なく、

 「なんでわざわざ地球のはしっこまで行って、よくわからないような勉強をするのか説明してみろ」

 と弱腰に聞いてきた。ぼくは手を緩めなかった。

 「まず、地球にははしっこなんてありません。地球は丸いから」

 ぼくは、もうここにはいたくない。大学に入ってみたものの想像した場所とはぜんぜん違っていた。そう続けざまに訴えた。
 だが、父はいった。

 「私は反対だといってるだろう。私の話を聞かないなら、勝手にどこへでも行ってくれ」

 ずるいと思った。
 ぼくは切り札を使うことにした。

 「お父さんだって昔、ハルツーム大学を辞めて、旧ソ連へ留学したじゃないですか? なんで自分はよくてぼくはいけない?」

 父はハルツーム大学工学部の2年生のとき、旧ソ連から奨学金をもらってハルツーム大学を辞め、そちらへ留学した。
 父が大学生だった1960年代は、冷戦構造の真っ只中だった。東側と西側が、競って第3世界の大学生や知識人を味方にしようとして、奨学金をはじめいろいろな誘惑をしていた。 
 父は子どものときにお父さんを亡くし、一番上のお兄さんが学校を辞めて家族の面倒をみていた。だから、ソ連への留学の話があったとき、家族に迷惑をかけなくて済むと思い留学を決めたそうだ。
 父はすかさず、

 「それが子どもが父親に向かっていう言葉か」

 と論理的に攻め込んでいったぼくの攻撃をかわした。
 ぼくは父を説得することをあきらめた。だが、仮に父が反対したとしても、日本行きは実行することにした。ぼくが母にそのことを伝えると、母はいった。

 「お父さんが反対するのは最初だけだから、心配しないで。しばらく険悪な雰囲気になるかもしれないけど、もしほんとうに日本へ行きたいのなら、乗り越えなければね」

 母はやはり賢い女性だ。声を荒らげることもなければ、扉を全力で開け閉めしたりしない。あくまで穏やかに、冷静にものごとを考えて話す。母の遺伝子が自分に受け継がれなかったことを残念に思った。ぼくは完璧に父の頑固さを受け継いでいる。この先が思いやられるな。

 ぼくは母にパスポートを作る必要性を伝えた。当時のパスポート発行代は、母の毎月の給料の3分の1に相当する額だった。それでも母は、例のごとく静かにお金を出してぼくに渡しながらいった。

 「お父さんにパスポートを作っていることをいわないように。それと、お父さんの友だちのユシフさんとメルガニーさんにお願いして、お父さんを説得してもらってね」

 なるほどな。問題を国際化することによって、独裁者の住民弾圧を難しくしようというわけね。
 ぼくはユシフさんとメルガニーさんに電話して用件を話した。ユシフさんはうちまで20分ほどのところに住んでいたが、メルガニーさんは、スーダン第2の都市マダニーに住んでいるため、ハルツームからバスで約3時間はかかる。だから、メルガニーさんはきっと電話で父を説得してくれるだろうと期待した。

 2日ほどたって、ユシフさんはうちを訪ねてきた。ユシフさんの強みは、父と同じく物事を感情的に声を張り上げて押していくところである。だが、論理的展開は期待できない。
 一方のメルガニーさんは、ほんとうに静かな声でロジカルに話すので、このコンビが同時に攻め込んでくれたら、父もお手上げだろうと思った。

 ユシフさんは出された紅茶を音をたてて啜りつつ、まずは父に「おめでとう」っていった。父は驚いたふりをして、

 「なにがめでたい?」

 と聞いた。ユシフさんは、

 「なにがってあんた。息子の日本への留学が決まったろう」

 あたかも父の反対を知らぬかのようにふるまった。父は、

 「決まったが、行かない。本人もわかっているはずだ」

 「本気でいってるのか?」

 ユシフさんは驚いたようすだった。

 「ぼくがいつ冗談をいった?」

 父が皮肉そうに鼻で笑った。

 「おまえはさ」

 ユシフさんは父をたしなめるようにいった。

 「こんなたいへんな時代に、息子のすばらしいチャンスをつぶす気か? ちゃんと子どものことを考えてるのか」

 ぼくはびっくりして、その部屋を出た。父があんな口調でとがめられるのは見たことがない。部屋を出たとたん、抗戦が開始された。ユシフさんと父の激しい口論が聞こえてくる。その声は道路まで響き渡っていたと、外から帰ってきた兄がいった。

 ときどき、テーブルをたたく音が聞こえる。木材のテーブルが低い音をたて、そのたびに上に載った紅茶のトレーが高い音で揺れた。会話の内容は聞きとれない。ほんとうは聞こえているが、おっかなくて何をいっているのかは頭に入ってこなかった。
 
 口論がしばらく続いた後、ユシフさんが出てきた。父は出てこない。
 いつもならお客さんは玄関まで送るのが礼儀だが、あんなにけんかしたら、父だってそういう気分にはならんだろう。
 ユシフさんは怒っているだろうと思って謝りに行ったら、くすっと笑って、

 「これでずいぶんやわらかくなるぞ」

 と得意げにいって出ていった。途中で思い出したように振り返ると、付け加えた。

 「きみは2、3時間くらい家を離れたほうがいいかもしれないな。だってきみは、お父さんのことをちくったんだから。でも大丈夫だ。きみの父ちゃんとは40年ごしの付き合いだが、最後には認めてくれるよ」

 「お父さんはちょっと過保護なところがあって、いつまでたってもきみらを子ども扱いする悪いくせがあるけど、きみがそれをぶっ壊してやればいいさ」

 ユシフさんを見送ると、ぼくもその足で近所に住むおばのところへ潜伏しに行った。
 3時間ほどたった頃、ぼくはおそるおそるうちへ帰った。
 控えめにドアをノックしたら、中からハーティムが出てきた。
 ハーティムはうちで何があろうともまったく表情を変えない。うらやましいかぎりだ。ハーティムはぼくを見るなり、

 「逃げて正解だぜ」

 といった。

 「でも、今は大丈夫だよ。あのあとメルガニーおじさんが来て、父さんと静かに話してる」

 なんてこと! メルガニーおじはわざわざ3時間もかけて父の説得にきてくれたんだ。ぼくはそのとき、自分がしでかしたことの重みと、味方してくれているたくさんの友人や親戚への感謝の気持ちをかみしめた。
 
 その後、ユシフおじとメルガニーおじ、ふたりの仲裁は成果を出し始めた。食卓を囲んでいるときや家族全員で集まって紅茶を飲んでいるとき、父は妙に優しくぼくに声をかけてくるようになった。
 だが、例の留学の話はやはり振りたがらない。ぼくは、父はもう留学の件を承諾したのだと思った。でも父のプライドを傷つけぬよう、あえてそれ以上は何もいわなかった。そのいっぽうで、手続きはしっかりと進めた。
 不思議なことに、父から「日本へ行っていいぞ」と明確な承諾をもらった記憶はないのだが、自然にぼくは手続きを進め、1998年1月の初め、ぼくが持ってきた誓約書に、父はサインしてくれた。
 この3か月、人生で初めて父と長期的ゲリラ戦を展開したが、それがあったからこそ、最後にオーケーしてくれたのだと思う。

 1月19日、わざわざ日本から来た受け入れ先団体の代表と、そのアシスタントの人とともに、ハルツーム国際空港を発った。
 空港ではいろいろなハプニングがあった。ぼくらが記念に集合写真を撮ったのを見て、空港警察の連中がやってきてぼくらを取り囲むと、カメラを没収してしまった。そうなのだ。写真は禁止だった。父が直談判したが無駄だった。

 チェックインして、ゲートの中に入る前、父は涙ぐんでいった。

 「おまえを信じてるよ。体にだけは気をつけろ」

 ぼくはそれまで父が泣いている姿を見たことがなかった。ぼくは必死に歯を食いしばっていたのに、ついに崩れてしまった。意味もなくぼくは、

 「大丈夫、大丈夫だよ」

 しきりにそう繰り返した。
 何が大丈夫かはよくわからんが、父の涙はいたくぼくの胸を刺した。ぼくは一人のときに泣くことはあるが、人前で泣くなんて格好の悪いことをしたことはほとんどない。それだけに、父との別れ際にそれまでかたくなに守ってきた自分が崩壊するのを感じ、不安に襲われた。それに、日本から来たこの二人にこれからどんなところへ連行されるのかと思うと、それまで感じたことのない寂しさと心細さにつぶされそうになりながら、父や家族に別れを告げて出発ロビーに向かった。

 出国手続きを終えると、ぼくら3人はルフトハンザ航空フランクフルト行きの便に乗った。もう後戻りはできない。

 飛行機は滑走路を蹴って、宙に浮いた。
 そのときぼくは、これまであった葛藤を振り払い、前に進むことに決めた。
 格好つけたがりのぼくには、失敗なんか許されない。ちゃんと成功してみせるぜ。
 お父さん。ぼくの判断はまちがってなんかいないぞ。ぼくはもう大人だ。
 ハルツーム大学のかわいい女子大生と離れるのはつらいが、きっと日本にはもっとかわいい女性がいるに違いない。口説くにはまず日本語を覚えなくちゃならないけど、それができるようになるのは時間の問題だろう。
 ぼくは、人生最大の「トライ」へ向けて、日本渡来を果たしたのであった。

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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