わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第1回 トライ(渡来) ─前編─

 大学大通りの車のクラクションが一瞬、ふと鳴りやんだとき、アミン先輩の言葉がぼくの耳に忍び込んだ。

「ヒシャム君、信じてくれよな。ほんとうに日本へ行けるらしい」

「なにそれ」

 ぼくらは驚いた。さっき、アミン先輩がベンチに座るぼくと法学部の全盲の同級生・ヒシャムの声を聞きつけるなり、白杖を左右に大きく振り回しながら地面を強くたたいて、こちらへ方向転換してきたときからぼくは黙っていた。アミン先輩とヒシャムは盲学校時代の先輩後輩だが、普通学校に通っていたぼくはあまりアミン先輩のことは知らない。知らないだけではない。アミン先輩はいつも香りのいい高価な香水をつけて、嘘かまことか判断しようのない話をもちかけてくるから、ぼくはちょっと彼のことを不得意にしていた。

 今日も例のごとく、「日本留学」という完全な作り話を伝えにきた。アミン先輩は続けた。

「あのね、わかりやすくいうと、日本へ留学して、鍼灸を学べるよ。日本では、目が見えなくても鍼灸を学んで、それを仕事にできるんだ。今回、スーダンにも募集がきてる」

「おいおい、どこまで想像力が豊かなんだよ」とぼくは思ったが、もちろん口にはしない。

 ヒシャムもあきれた様子だったが、盲学校時代からの先輩の話とあって耳を傾けなければならない使命感に駆られたらしく、失礼にならない程度に適当にあしらっている。

「条件はなに?」とヒシャムが聞く。

「来週日曜に試験がある。教科はたしか、点字と英語だけだった気がするね」

 アミン先輩は即答した。

「ヒシャム君、応募しなよ」

 アミン先輩の話を聞いているうち、だんだんこの話がほんとうのように思えてきた。彼の熱の入った説明は、なにかしら説得力を帯びていたし、そのときのぼくは、なんだかどこかへ行きたい心境だったので、この作り話に飛びつかずにはいられなかった。
ぼくは重たい口を開いた。

「アミン先輩、申し込み期間はいつまで?」

「昨日までだったけど、行けば受け付けてくれるよ」

 ぼくはおしりをベンチから浮かしかけながら言った。

「ヒシャム、行こう」

 だが、そこで予想しなかった返事がきた。

「ぼくは行かない」

「おいおい、どいつもこいつもおかしいぞ」

 アミン先輩の持ちかけてきた信じがたい留学話と、それに応募しないというヒシャムがおかしくってたまらなかった。おしりをもう一度ベンチに落ち着かせて、ヒシャムに怒りにも似た口調で尋ねてみた。

「なぜ行かない?」

「ぼくは大学を卒業してから行く」

 ヒシャムがきっぱり言った。

 ぼくは一生懸命、状況を冷静に分析しようと心がけた。

(日本へ行って、よくわからない鍼灸を学ぶ? そのために大学を辞める? 学びたかった法律はどうなるんだ? でも、このチャンスは自分のためにきたんじゃないか? だって、苦手なアミン先輩がわざわざ大学が休みなのに、ぼくとヒシャムが久しぶりに大学に来た日に合わせて来て、日本留学話を切り出しているんだよ。おまけに、点字も英語も大得意なヒシャムがこの話にはのらない)

 頭の中でぐるぐるいろいろな考えが飛び交った。
 ぼくの気持ちは急速に日本へ行く方に向かい始めた。その気持ちを大きくするため、ぼくは頭の中の考えを正当化しはじめた。

(日本へ行けば、鍼灸以外にも点字、日本語、日本文化が学べる。それだけじゃない、視覚障害者に鍼灸なんていうあぶなっかしい仕事をさせる日本は、きっとさまざまな面で進んでいる。鍼灸をさせてもらえるぐらいだったら、きっと車の運転もへっちゃらだろう) 
  
 そんな夢みたいな考えに、ぼくはさらに調子にのって妄想を膨らました。

(この機会に日本へ行かなければ、ぼくはきっと後悔するに違いない。今はスーダンの政治状況が悪化して、大学は4か月も閉鎖されたまま、再開するめどもたっていない。この調子だと卒業まで少なくとも7年ぐらいかかるだろうな。それに、大学は目の見えない自分をサポートしてくれることもなければ、同級生も、高校までと違って忙しくて、本を音読してくれる余裕がない。このままいけば、進級できないかも。しかも、ほとんどの法学部の女子学生はまじめくさっていて、色気に乏しい。だから、スーダンを離れてもまったく未練はない)

 このように、ぼくは日本への希望と、スーダンの当時の状況に対する絶望を武器に、突如舞い込んできた日本留学にトライすることにした。

                   *

 ぼくはヒシャムとアミン先輩に断って、大学を出た。
 バスを乗り換えて、スーダン盲人リハビリテーションセンターという場所へ行き、応募の意志を伝えた。見たことのない職員が、愛想もなく、口頭でのぼくの応募申し込みを受け付けてくれた。ぼくは嬉しくなって、それだけでもう日本へ行ける気がした。うちへ帰るバスの中で、日本のことが頭から離れない。どうしよう。家族にはいつ打ち明けたらいい? 
 ぼくは日本留学というこれまでの人生で最大レベルの不思議なネタに完全に支配されていた。

 バスを降りて家までは、約500メートルの距離がある。この間、商店の店主や立ち話をしている近所のおばさんたちに日本のことを伝えたい気持ちをかろうじて抑えた。

 家の玄関をノックすると、弟のハーティムが出てきた。

「よう」

 それだけ言うと、彼はまた中へ消えていった。

 ハーティムはぼくより四つ下であるが、すこし前まで目が見えていたのに、少しずつ視力が低下し始めている。ぼくや兄より発病や経過がゆっくりなぶん、お気の毒と思った。 
 ぼくたちの場合、早くから開き直って耳で勉強するほうに切り替えたが、ハーティムは自分で読み書きすることに慣れてしまったので、これからがちょっときついだろう。

 ハーティムには妙な趣味があった。
 彼はうちの塀の内側にチョークで大きなサッカーグラウンドを描く。大きさは約10メートルぐらいだろうか? 太陽が西に傾いた4時ごろ、そのサッカーグラウンドはちょうど日陰に入る。するとハーティムは、自分の指を選手の両足に見立ててグラウンドじゅうを動き回り、サッカーの試合の真似事をする。それが10分くらいでありゃまだ理解できるが、ハーティムの場合は、実際の試合と同じまるまる90分をつかうのだ。ときには早いカウンターもあって、そうすると本人が走る。

 ハーティムが玄関を開けて「よう」とだけ言い残して中へ引っ込んだとき、ぼくは「これは試合中だな」って思った。これでは日本行きの話を打ち明けたところで、聞く耳を持ってもらえないだろう。

 ハーティムの妙な趣味の一番楽しいところは生放送である。本人は指を動かしてサッカーの真似をするだけではない。同時に実況放送をしてくれる。ぼくと兄はよく、彼の実況放送に聞き入った。試合は国内リーグ戦からチャンピオンズリーグまでと飽きさせないもので、そのうえ、必ずしも本人がサポートしているチームの勝利で終わるとはかぎらない。

 このサッカー中継は、我が家の大切な娯楽だった。試合が終わると、本人は汗びっしょりになっていた。父も、チョークで塀の内側をめちゃくちゃにされているのに、ハーティムが幸せそうに試合をやっている姿を見ると文句を言えなかった。

 うちの中に入ると、ハーティム以外だれもいなかった。母はまだ勤め先の銀行から帰っていないらしい。
 父は1989年の現政権発足以来、無職だった。それまではエンジニア労働組合の副会長を務めていたが、バシール政権がクーデターを起こすと、すぐに解雇された。解雇されたのは父だけではない。正確な数こそわかっていないが、およそ10万人の公務員がバシール政権に忠誠心を持っていないという理由で解雇されたと言われている。

 暑さのせいで熱湯のようになったシャワーを浴びると、冷たいものが飲みたくなった。しかし、例のごとく停電で、冷蔵庫の中の温度は押入れとほぼ変わらない。
 冷たい水をあきらめて、ハーティムの実況放送に耳を傾けることにした。
 5分もたたないうちに両親が帰宅した。続いて兄、一番下の弟バクシャ、妹のライアンがおばのうちから帰ってきた。

 そろったな。
 いつ打ち明ければいいのかな。

 さっきまで打ち明ける気まんまんだったくせに、父を前にするとやっぱり言い出しづらい。
 父はとても尊敬できる人間だが、いくつかの欠点を持ち合わせていた。
 ひとつ目の欠点として、まず子どもの提案は却下することから入る。それも静かな調子ではなく、かなり攻撃的に言ってくるので心の準備が必要だ。熱湯シャワーを浴びて脱水症状に近い今の状態では、粘り勝ちするのは不可能だろう。
 ふたつ目の欠点は、論理的でなく、きわめて非民主主義的にさまざまな決定をしてしまうこと。日本へ来て、「地震、雷、火事、親父」という言葉を聞いたとき、なるほどなって納得した。

 家族そろって昼食(スーダンでは朝ごはんは10時ごろ、昼ごはんは4時ごろ、晩御飯は8時ごろ)を終えると、母が紅茶を淹れてくれた。父は新聞を読みながら紅茶をすすっているが、いつもより表情は穏やかそうである。こちらは目が見えないため、相手のご機嫌をチェックするのにさまざまな指標を使う。新聞のページをめくるときに荒っぽいかどうかとか、トイレの扉を開く音で測ることもできる。新聞のめくり方を聴いて、これはちょっとしたらいけるんじゃないかと思って、母がリビングに入ってきたタイミングで、勇気を振り絞って話しかけた。

「お父さん」

「なんだ」

「あの、今ちょっといいですか」

「いいよ。どうした?」

 新聞をたたむ音とともに、父が言った。もう後戻りできなくなった。
 ぼくの顔がこわばっているのを見たのだろう、母は父が横になっているソファーの端に静かに腰かけた。

「今の大学の状況はぜんぜん駄目です。いつ授業を再開するかもわからないし、政府の味方した連中が威張ってて、それを許さないんだ」

 ぼくは父が嫌いな政府の批判から入って父を味方につけようとした。

「そうだね。でも君たちはこの状況に負けてはいけない。立ち向かわなければならないよ。これは大学生のもっとも重要な役割だろう」

 父は正論を語ってきた。さすがにエンジニア労働組合の旧副会長だけあって、でかいことを言うのがうまい。父は高校生時代、軍事政権に対するデモ抗議に参加したことを理由に、15人の同級生とともに退学になって、3か月間の異議申し立ての末、復学が認められた。1980年代前半にも、ストライキを主導したとして解雇処分がくだり、1985年のヌマイリ軍事政権崩壊後、復業となったが、バシール政権が発足した24時間後にまた解雇となった。それでも、まだ懲りることなく理想を語っている。

 一番困っているのは、銀行勤めをしている母である。家計を支えつつ、家事全般を一人でやっている。母はほんとうにすごい人だ。父はぼくが取っかかりとして言い出した話をつぶしてしまったので、ぼくは違う切り口を探した。緊張で論理的に話せないのが自分でもわかったため、用件を一気に畳みかけるように乱射することにした。

 今日、日本留学についての情報を耳にしたこと、それに応募しにいったこと、分野が鍼灸であることなどについて、間を空けずに吐き出した。
 話が終わると、ぼくは心の中で伏せる体制に入った。この後にくることはわかっている。
 猛反撃に備えたが、なかなか爆発音が聞こえてこない。

 父は思いがけぬ行動に出た。新聞を床に静かに置いて、座りなおし、来るぞと思った瞬間、立ち上がってバスルームに入った。用を足してからくるのかなと思ったら、シャワーの音が聞こえてきた。

(なんだ、相手にされていないぞ)

 屈辱的である。父はぼくの話を信じていないようだった。あんなにまじめに話したのに、ぼくの頭がちょっとおかしくなったんじゃないかと思ったに違いない。
 無理もなかろう。話の内容がおかしすぎるもん。
 にほん! 針灸! しかも、視覚障害者がそれを学ぶ!
 よくわからんぞって思われても仕方あるまい。

 正直言うと、自分もこの話の内容は腑に落ちていなかった。だが、女子もこない閉鎖された大学へ行っても、面白くもなんともない。この間に日本へ行って、やばかったらまた逃げて帰ればいいじゃないかって、自分を説得することに懸命だった。まぁ、深く考えるのはやめよう。
 ソファーの端のほうに座った母が静かに言った。

「この話、あなたは納得してる? ほんとうに日本へ行きたい? 針灸を勉強したい? 念願のハルツーム大学の法学部での勉強を断念してもいいの?」

 母の言葉は穏やかだったが、ぼくの胸に刺さった。確かにぼくは、針灸についてなんの興味もない。母は、ぼくが逃げに走り始めたんじゃないかと心配しているようだった。でも、あんまり母の言葉に心を開くと、日本へ行くモチベーションが下がってしまう。ぼくはしっかり心を閉ざして母の説得にあたった。親心に訴えないことには、母がぼくを論破してしまいそうだ。まずい。
 ぼくは母に言った。

「ほんと言うと、日本にも針灸にも興味はなかった。でも、それは今までその選択肢を知らなかったからだよ。このままスーダンに残ると、ぼくはなんにもできない。日本は、目の見えない人が勉強する環境が整っている。大学の同級生は、みんなそれぞれの勉強で忙しいからだれも本を読み上げてくれない。このままだと、ぼくはなんにもできなくなる」

 最後のセリフはかなり母の心を動かした。ぼくの口調はお涙頂戴的な番組のナレーターの切羽詰まった声に似ていた。上手いなって我ながら感心してしまった。

 母は、ぼくらが本を読みたくても、だれも読み手がいなくていらいらしているのを何度となく目撃している。大きな試験の前、母はいつも無給休暇をとって、よく本を読み上げてくれたものだ。日本は盲人の教育環境が整っていると聞くと、母は反対するのを断念したようだった。母は最後に言った。

「もしもあなたが、ほんとうによく考えてから日本へ行きたいと結論を出したなら、私は応援します。私は行けとか行くなとか、絶対に言わない。自分で決めなさい」

 いつになく強い口調でそう伝えてきた。ぼくは母の気持ちが大変うれしかった。
 日本についてなんにも知らないのに、ぼくが憶測で「教育の環境が整っている」って言ったのを信じてくれた母。

 しかし、ライオンはまだシャワー中だ。戦いはこれからである。気が抜けない。この待ち時間がすごくいやだ。
 父がシャワーを浴びている間、兄のワーイルが来て話を聞いてくれた。兄はためらいもなく「行け」とひとこと言った。同じハルツーム大学の法学部の先輩で、しかも目が見えない兄からのこの言葉は、最もぼくを勇気づけた。「よし」と思った。ぼくは、自分が言い出した話がまぁまぁ人様に受けいれられる範囲のものであることを確認して、すこしではあるが、ほっとした。

 シャワーが止まってライオンが出てきた。
 ぼくは相変わらずソファーの向かい側のいすに前かがみの姿勢で座っていた。ちょっとお小水したい気分だったが、ここで決着をつけないと話が流れそうで怖かった。ぼくの膀胱が満タンになるとともに、父は向かい側のソファーに座った。また新聞を拾う音がした。 

 このまま流されてしまうなって思った。おそらく、父は今回の件については取り合う必要性を感じていないのだろう。しばらく放っとけば忘れるだろうと父は思っているに違いない。そう察したとき、ぼくは負けてたまるかって親譲りの頑固頭で考えをめぐらせた。

(どどーっと攻めてこう)

 ぼくは心に決めてから父に話しかけた。

プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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