わが盲想 モハメド・オマル・アブディン

第0回 はじめに


 ぼくはいま、33歳だ。考えてみると、日本に来てから、もう今年で2度目のぞろめの年齢を迎えてしまったことになる。
 月日が経つのはなかなか早いものだ。

 ぼくは19歳のときにアフリカのスーダンから日本にやってきた。
 この14年間の日本生活は、文字通り波乱万丈の人生だったといってもいい。だって、あのはるかかなたのアフリカ大陸から、言葉もまったくわからない盲人が急に東京の地に出没したのだから、不思議でたまらない。これには当の本人も驚きであるが、それよりもこのめずらしい生き物に出くわした人々のほうが、もっと驚いたにちがいなかろう。

 ぼくは、1978年にスーダンの首都「ハルツーム」で生まれた。名はモハメド・オマル・アブディンだ。
 スーダンではファミリーネームという概念が存在しない。あえて当てはめると、ぼくの姓はアブディンだ。モハメドという名の人は掃いて捨てるほどいるし、オマルは父の名前だが、それは日本のみなさんが子ども時代にお世話になったアレを連想させてしまうので、ぼくはあえて、アブディンで通している。ときには「デブディン」だとか「ハゲディン」だとか「エロディン」だとか、シチュエーションによっていろいろな名をつけられてはいるが、正式にはアブディンということにしよう。
 
  冗談はさておき、ぼくの家族は、両親と、ぼくをいれた5人兄弟だ。5人のうち、男は4人、そのうち3人は目が見えない。理由は、親が親戚同士で結婚をしているせいじゃないかと思う。

 ぼくの父と母は、はとこだ。スーダンでは親戚同士の結婚は一般的で、子どもが障害をもって生まれたりすることが日本に比べて多い。
 ぼくらの目の病名は、網膜色素変性症という。この病気の症状の経過や度合いは、人によって違うそうだ。生まれつき全盲になる人もいれば、病気が一生発症しないケースもある。
 ぼくらの場合は、生まれたときは弱視で、暗くなるとものが見えにくくなる、いわゆる夜盲症の症状もあった。
 それでも、子どものころは「自分たちだけ目が見えていない」とは気づかずにいた。むしろ、近所にある小学校に通いだすと、クラスでメガネをかけているのが自分だけだったので、それは自分が特別な人間だからだと都合よく解釈していた。黒板がよく見えないのは自分だけらしいとわかっても、それはそのうちに治っていくものだと父からは言われていた。小学6年の時点で完全に文字の読み書きができなくなったが、1メートルほど離れた人の顔の輪郭はまだその時点では見えていた。だから、美人さんとそうでない女性の見分けがちゃんとついた。

 父は、1989年まで、浄水場の建設技術者として国営の水道局みたいなところに勤めていた。母は銀行員だったし、家族はそれなりに余裕のある暮らしをしていた。でも、親が貯めたお金はほとんど、ぼくらの治療代につぎこまれていた。
 小さいとき、スペインのパルセロナによく旅をした。親の目的は、ぼくらの目の治療だったが、子どもたちはといえば、スペインで何を買ってもらえるのかということで頭がいっぱいだった。実際、スペインで念願のマイ自転車も買ってもらえたし‥‥‥。残念ながら、病気は治らなかったけどね。

 ぼくらは、近所の小学校で障害のない子どもたちと一緒に勉強し、そのまま大学まで普通の学校に通った。日本では、最近になってようやく、障害のある子どもが普通学校で気兼ねなく勉強できるようになったと聞いた。昔は特殊学校という選択肢しかなかったのが、最近すこしずつ変わってきたのだとか。

 スーダンでは、昔から障害のある子どもが普通学校で勉強することができた。その点、スーダンのほうが進んでいるんだ‥‥‥と威張ってみたいところだが、事実はそうではない。特殊学校は障害別に全国に一校ずつしかなく、しかもその存在はほとんど知られていなかったから、親は盲学校に相談することを思いつかなかったのだ。それに、両親は、ぼくらはすこし目が悪いだけで、時間が経てば治ると信じたかったから、あえて他の選択肢は考えなかったのかもしれない。

 普通学校に放り込まれたはいいが、なんのフォローもなく、ぼくらは自己流で学習せざるを得なかった。先生が板書した文字は当然ながら読めない。数学の解説で使われる指示代名詞などは、ぼくは大嫌いだった。先生が黒板を指さしつつ、「これとこれは3、これとこれは2」などとすらすら授業を進めていくと、何が起きているのかまったくわからなくなる。
 ぼくは数学の時間中、よくお弁当のサンドイッチを食べていた。すると、お昼どきには手持無沙汰になってしまうから、いろいろと悪知恵を働かせ、上級生と同級生の間に戦いをしかけて時間をつぶした。

 こんな感じで、ぼくと二人の兄弟は、耳で勉強しながらなんとか大学まで進学した。それは決して頭がよかったからとかそういうことではない。ぼくらの母は父と違って、すごく冷静な人だ。ぼくらが勉強もせず遊びほうけていると、よく「あのね、あなたたちはよその子たちと違って、体をつかった仕事ができないのよ? 大学に進んで、弁護士だとか、視覚を使わなくてもできる職に就かないと飢え死にするわよ」と、ぼくらに言い聞かせた。そのたびに、食いしんぼうのぼくは「飢え死にする」という言葉に身震いした。そして「やばい、勉強しなくちゃ」と耳から勉強することに力を入れた。ぼくらは己の立ち位置を子どもながらによくわかっていた。

 父と母は、視覚障害を持った上の3人の子どもたちを、どんな思いで育ててくれたのだろう。
 ぼくらの子ども時代のスーダン社会のあり方はともかくとして、ぼくは、障害もなく普通に育った人と比べて、まぎれもなく、桁違いにはらはらドキドキさせられる経験をしてきたと思う。たとえば、ある日、学校からの帰り道を自信たっぷりに歩いていたら、前方50センチのところからひひんと妙な声がする。驚いて立ち止まると、また「ひひん」と数回。固まったのち、我に返ると、それはなんと、店の前に止まっていた馬車だった。あと2、3歩足を運んでいたら、ぱくっと馬に喰われるところだった。うまくないのにな。

 あとは、目が見えなくなるにつれ、よく人にぶつかるようになった。ぼくは見た目で視覚障碍者だと気づかれにくいため、わざわざぶつかりに来たと思われがちだった。ある日、マッチョなにいさんの胸に頭突きをした際、相手がぼくの頭を捕まえて頭突きをしてきた。びびって、あわてて目が見えないことを伝えると、また頭突きを喰らって、「うそつきやろう」と罵られたりした。車に轢かれそうになったことは数え切れない。これまでぼくは、何度も死ぬチャンスを逃してきた。よかったよかった。
 挙句に、ハルツーム大学の法学部に通っていたとき、ひょんなきっかけで日本へ渡ることになる。

 初来日した1998年の時点で、ぼくにはもう物の影がかすかに見えるほどの視覚しか残っていなかった。日本は、それまでに住み慣れたスーダンとはまったく違う世界だった。町を歩いているときに耳に飛び込んでくる音や、町のにおい、人の歩くスピード、そして得体のしれない日本語に翻弄されながら、これまでいろいろなピンチに見舞われた。当時はぜんぜん笑いごとではなかったが、今ではぼくの貴重な思い出になった。やっと、それを振り返ってみる日がきたのだと思う。日本での濃すぎる体験は、子どものころに直面した命に関わるさまざまな危険よりもスリリングで多彩である。

 この連載は、ぼくが日本へ来たいきさつや、東京という大都会での暮らし、東京に慣れ親しんだ後に、福井県の田舎の学校に通うようになった話、そして、夢を叶えるために再び上京した話。東京で出会ったさまざまな不思議な人々のことや、目で見たことのない日本を、見えない世界でどのように想像してきたかを読者のみなさんと共有したくて書くことにしました。
 盲人であるぼくの「盲想」が作り上げた日本像と、実世界の日本を比べつつ、楽しんでいただければ嬉しいです。


プロフィール

モハメド・オマル・アブディン
1978年、スーダンの首都ハルツームに生まれる。
生まれた時から弱視で、12歳の時に視力を失う。19歳の時、視覚障害者を支援する団体の招きで来日、福井の盲学校で点字や鍼灸を学ぶ。その後、ふるさとスーダンの平和を築くための学問を学びたいとの痛切な思いから、日本の財団から奨学金を受け、東京外語大大学院で研究者となる。犠牲者200万人、2005年まで20年に及んだスーダンの内戦の歴史を検証しつつ、2011年の南部独立後のスーダンを見守り、祖国平和のために発言を続ける。ブラインドサッカーの選手としても活躍しており、たまハッサーズのストライカーとして日本選手権で優勝を3回経験している。
Twitterアカウント  @Abdinkun

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