×月×日


どういうことかなあ、どういうことかなあ。そんな言葉だけが頭の中をぐるぐるとまわっている。言葉はおなじなのに、ものの数秒で心は動き、「何が」どういうことなのかわからなくなる。わたしは珍しくCDをかけた。ピアノの曲だった。

それは即興演奏で、ぽろぽろと音が零れ落ちたかと思えば、失った音をふたたび拾い集め高く昇っていく。そんな音楽を聴いていたら、心の硬いところに一音一音が水滴のように落ちた。すると、次々、その場所の結束が解かれ、なにかが動き出すのを感じた。まるで小さな子供が何がおかしいのか弾むように笑いながら歩き回り、大人たちの心を開いていくように、その音はわたしの心を遊ばせる。不思議だなあと思いながら、わたしは子供のあとをついていく。

×月×日

生物学者ルネ・デュボスの『人間であるために』(野島徳吉・遠藤三喜子 共訳/紀伊国屋書店)のなかに面白い言葉を発見した。

生物学的には、人間は動物王国のアマチュアのままにとどまっている。つまり、人間はからだの構造および働きが専門化していない点でユニークなのである。

動物王国のアマチュア。なるほど。そんな気がする。いや、もしかしたらアマチュアどころか、自分たちがなんの競技をしているのかさえ、まだ人間はわかっていないのかもしれない。

×月×日

この数日、メイ・サートンの『独り居の日記』(みすず書房)をそばにおいて読み返している。常連客ばかりの喫茶店で、あるいは誰もいない公園のベンチで、深夜の台所で読む。60歳になろうとするメイはひとり、田舎の一軒家で二月の雪が波のように窓を洗い続ける音を聞いている。手紙を書き、日記をつけ、詩を書き、お茶を入れる。外から見れば窓の灯はいつも温かに燃えているだろう。

だが、外見は穏やかそうなひとり暮らしの中に、なんという危険が、孤独が、喜びが、厳しい克己の感情が渦巻いていることか。わたしは少し読んでは休む。露悪的なところの一切ない澄み切った正直さで、彼女は自分の内側で起こったことをありのまま書く。メイは椅子に座って動かないときも、激動を生きている。自分の緊張に、感情の高揚に、流砂に飲み込まれるような不安に耐え、心の世界を歩き続ける。老いの入り口に立ったメイは自分自身のなかをどこまでも進んでいく。ついに、あらゆる変化に引き裂かれることなく、メイという個性はひとつの流れとなる。困惑し、取り乱し、あまりにも多感なこの人の文章には、不思議な力強さがあった。彼女はやっかいな自分自身を、すっかり引き受けて生きたのだ。近くで見ればばらばらにみえるものが、離れてみると大きな軌道を描いている。

思いがけないことがわたしたちを新しくする。

野村浩介
(第三編集部長)
 


*ポプラビーチを読んだ感想をぜひお寄せください。


webマガジン〜ポプラビーチ〜