『ピエタ』特設ページ

『おすすめ文庫王国2015』エンターテインメント部門第1位!!

2012年本屋大賞第3位!!

史実を基に、女性たちの交流と絆を瑞々しく描きだす傑作長編

story

18世紀、爛熟の時を迎えた水の都ヴェネツィア。『四季』の作曲家ヴィヴァルディは、孤児を養育するピエタ慈善院で〈合奏・合唱の娘たち〉を指導していた。 ある日、教え子のエミーリアのもとに、恩師の訃報が届く。 時を同じくして、幼い頃ともにヴィヴァルディに師事していた貴族の娘ヴェロニカから、「先生が私のために作ってくれた特別な楽譜を探してほしい」という奇妙な依頼が舞い込み――。 一枚の楽譜の謎に導かれ、めくるめく物語の扉が開かれる――

news

●『おすすめ文庫王国2015』(本の雑誌社)エンターテインメント部門で第1位に選ばれました!

●大島真寿美さんと、オーディオドラマ『ピエタ』を手がけたNHKプロデューサー藤井靖さんとの対談はこちら。※本対談は、2012年5月に行われたものです。

大島真寿美さん×藤井靖さん対談

from readers

essay

特別寄稿 『ピエタ』文庫化によせて
荻原寛(長崎県立大学経済学部教授、
ヴィヴァルディについてのサイト「赤毛の司祭」管理人カーザヴェーチャ)

 ヴィヴァルディの音楽に惚れ込んで半世紀。細々とヴィヴァルディ専門のホームページを運営する私のもとに、大島さんから編集の方を通じて、ヴィヴァルディとピエタの娘たちや当時のヴェネツィアについていろいろと尋ねたいとのご依頼があり、長年の労苦が報われる思いがしました。その後、短編、長編と筆を進まれ、ついには本屋大賞にノミネートされ、見事第三位を獲得されたときは思わず快哉を叫びました。このたび、目出度く文庫入りが決まりましたので、厚かましくも作品の背景の解説もどきを書かせていただきました。
 ピエタ慈善院の歴史は古く、遠く1346年にまで遡ります。最初は、捨て子の収容施設だったのが、次第にピエタ(慈悲)の名にふさわしい教育機関としての役割が前面に出て、ヴィヴァルディの時代には付属音楽院のレッスンに、施設で暮らす団員だけでなく、通いの貴族の息女までも交じるようになりました。作品の主要人物であるアンナ・マリーアもピエタで育った一人で、実在の人物(1696-1782)です。彼女については後ほど述べることにして、ピエタ慈善院について世間に誤解があるようですので、先に簡単にご説明いたします。
 一千年以上続いたヴェネツィア共和国の法の保護の下で、貴族や富裕層からの寄付と遺贈、慈善院で作られた製品の販売、付属音楽院の団員によるコンサートの収益で運営されていたピエタ慈善院は、孤児院ではありません。やむを得ず子供を手放す親は、将来迎えに来たときに親子であることが分かる品を添えて我が子を職員の手に委ねたのです。「スカフェータ」という回転式の赤ちゃんポストが導入された後もこの習慣は続きました。施設に入った子は健康かどうかの検査を受けたあと、ピエタの子であることが分かるようにピエタの頭文字Pの焼き印を押され、慈善院と契約を結んだ乳母のもとへと送られました。
 施設での暮らしが始まるのは、子供たちが物心が付いてからでした。石工や靴製造、船大工などの技術を教え込まれた男子は、重い障害がないかぎり16歳になるとピエタを出て行かなければなりませんでしたが、女子は施設内で一生を送ることができましたし、望まれて結婚するときは持参金まで支給されました。
 また、女子は音楽の才能によって「合奏・合唱の娘たち」と「手工芸の娘たち」に二分され、前者は徹底した音楽教育を受けて付属音楽院の団員となり、後者は糸つむぎ、裁縫、刺繍、レースなどを教わって製品作りに専念しました。建物の一部が付属教会となっていましたし(現ピエタ教会は後世の建物です。一方、慈善院の跡地に建てられたメトロポール・ホテルのホールには、付属教会の入り口にあった柱がそのまま使われています)、職員には修道女もいましたが、男の子も住んでいたので女子修道院ではありません。ピエタ慈善院はすでにありませんが、同じ敷地の奥にその後身であるヴェネツィア県立慈悲の聖母マリア児童施設があり、出産と幼児養育の両面で若い母親を支援するなど、ヴィヴァルディの時代の慈善院の精神が脈々と受け継がれています。

 卓抜な才能を持つアンナ・マリーアは、25歳でピエタ音楽院に就任したばかりのヴィヴァルディの目にすぐ留まり、楽器を教える年齢を11歳とする音楽院の方針に反して、わずか7歳で、ヴィヴァルディ自らが特別にレッスンすることになりました。師の慧眼に狂いはなく、16歳の夏に、めきめき上達するアンナ・マリーアのためにと、ヴィヴァルディは自分の年俸の3分の1にあたる高価なヴァイオリンを音楽院に購入させています。24歳で正式に「合奏・合唱の娘たち」つまり団員となるも、早くも翌年に音楽院の外に弟子が持てる特待団員となりました。ヴァイオリンだけでなく師と同じくヴィオラ・ダモーレの名手でもありましたが、チェロ、テオルバ、リュート、マンドリン、ハープシコードと怖いもの知らずで弾き、その名声は国外にも及びました。まるで砂が水を吸うように師の教えを次々に吸収していく愛弟子のために、ヴィヴァルディはヴァイオリン協奏曲を22曲、ヴィオラ・ダモーレ協奏曲を少なくとも2曲、それにヴァイオリンとオルガンのための協奏曲2曲など26曲も作曲しています。そして41歳でついにヴァイオリン教師兼、外部の音楽家が任じられる合奏長を補佐して「合奏・合唱の娘たち」を統括する合奏・合唱副長にまで昇りつめました。生涯独身で通し、当時としては珍しく衛生面と栄養面の両方で恵まれていたピエタ慈善院で、82歳の長寿を全うしました。
 ヴィヴァルディとピエタの関係は断続的なものでしたし、音楽院のトップである合奏長には一度もなりませんでした。ヴィヴァルディにはヴァイオリン教師兼器楽・声楽作曲家というピエタでの姿とは別にもう一つの姿があったからです。それはオペラ興行主兼作曲家というまるで別人の姿でした。単にオペラを作曲するのではなく、ヴェネツィアのサンタンジェロ劇場をホームベースに、本土側の国内の都市ヴェローナや、フィレンツェ、ローマ、プラハ、ウィーンなどの他国の劇場でも存分の活躍をするには、フルタイムの合奏長のポストは煩わしさ以外の何物でもなかったようです。
 そこで、どうしてもヴィヴァルディを必要としたピエタ側は「協奏曲長」という耳慣れないポストを用意しました。フルタイムの出勤はなく、月に2曲作品を提供しリハーサルを必ず二、三回行いさえすれば、旅行先から作品を郵送してもよいというゆるい条件でした。司祭の身でオペラの世界に関わるというのは、フランス革命で倫理観がすっかりひっくり返った後の世界から見るといかがわしく見えますが、当時はそれほど珍しいことではなく、特にヴェネツィア共和国は厳格なヴァチカンと一線を画していたので、ヴィヴァルディのように常時平服で、自宅で家族と寝起きする在俗司祭の存在も咎められる筋合いのものではありませんでした。そのためヴィヴァルディも脇が甘く、32歳も年下の愛弟子アンナ・ジローとの関係を、当時はローマ教皇領だったフェッラーラの石部金吉の枢機卿に邪推され、持病の喘息からミサを執り行うのを公に免除されていたことまで攻撃されて、フェッラーラでの興行を二年続けて妨害されてしまいます。当時、興行主は作曲をするだけでなく、台本の選択から編集、アリアの書き換え、キャスティングをはじめ演奏者、振り付け師、大道具係の手配、さらにリハーサルのスケジュールまで、一切合財自分の力で行わなければならず、費用はすべて自腹の前払いなので、大変な負債を背負い込んでしまったのです。
 さて本書は、アンナ・マリーアたちのもとにヴィヴァルディの訃報がもたらされる場面から始まります。ヴィヴァルディは1741年7月27日から28日にかけて、ウィーンのケルントナー・トア劇場が用意してくれた、劇場の一軒置いて隣の瀟洒な4階建ての宿舎で、失意のうちに客死します。ヴィヴァルディのウィーン行きは、その旅立ちがあまりにも急だったために多くの謎解きが行なわれました。最近の研究が明らかにしたのは、ヴェネツィアを捨ててウィーンに移住したのではなく、いつも通りに国外でオペラ興行を打つために出立したこと、リアルト橋近くの大運河に面した高級賃貸マンションでは、嫁がずにいる初老の妹二人が留守を守っていたこと、不運だったのは、ウィーンに向かっていた頃、最大のパトロンであり、ヴィヴァルディの音楽の良き理解者であった神聖ローマ帝国皇帝カール6世がきのこの毒にあたって急逝してしまい、1年間の喪に服すため国内の歌劇場はすべて閉鎖してしまったこと、よってヴェネツィアでの負債をウィーンでの興行で穴埋めし、なお余りある収入を見込めたはずが、逆にスタッフに自腹で補償しなければならなくなったこと、次第に病を得て経済的にも体力的にも帰国が困難になったこと、手持ちの楽譜をピエタに売り払って倉皇と旅立ったのは、債権者の追及がすぐ近くにまで及んだかららしいということです。
 ヴィヴァルディの訃報が、ヴェネツィアにもたらされたのは、意外にも早く、約一週間後でした。亡き兄の冥福を祈って教会で簡単なミサをあげてもらった二人は、兄の遺産を債権者から守るため、すぐに国に願い出て家財道具一切を差し押さえてもらいました。そして、9月4日に国の査定が行なわれて、ヴィヴァルディが10年近く住んだ家の家財の完璧な目録が作成されました。リストからは意外なことにシノワズリー(中国趣味)の箪笥が複数あったことや、壁をかなりの枚数の金唐革が飾っていたことなど事細かに分かるのですが、何と楽器1つ、楽譜一枚も記載がないのです。おそらく債権者の手に渡らないように、姉妹兄弟または有能な写譜屋として知られていた甥達が手早く安全な場所に隠したのではないかと考えられています。本書のテーマは、ヴィヴァルディが書き残した一枚の楽譜をありとあらゆる手を尽くして探すことですが、この史実を大島さんはご存じなかったようです。『調和の霊感』(L'estro armonico)を聴いているうちに、昔の女性の長いスカートの裾がひらひらするイメージが湧き上がったことから、ヴィヴァルディについて調べた結果ピエタの存在に行き着いたという大島さんの、凄い「霊感」の成せる業なのかも知れません。
 『ピエタ』は小説であり、史実とは違いますが、妙に実在感があり、いかにもヴィヴァルディらしい行動やせりふが登場します。また、今のヴェネツィアと違い、どこもかしこも大小の船だらけの町であったことや、当時の小運河の数は今の倍近くあったことや(現在では埋め立てられて道などになっています)、室内のあちこちにいろいろな種類の布が使われていたことなどが、何の説明的描写もないのに自然と目に浮かんできます。そこに作家大島真寿美の真骨頂があると思います。作品全体を包みこむ柔らかな光と影の交差といい、得も言われぬ清清しさと言い、まさにそこに『調和の霊感』の世界が広がっていくさまも特筆に価すると思います。

ヴィヴァルディについてのサイト「赤毛の司祭」

18世紀ヴェネツィア。ゴンドラが運んでいくのは、秘めた恋とかけがけのない友情
――2012年本屋大賞第3位に輝いた傑作。

著者:大島真寿美(おおしま・ますみ)
定価本体680円(税別)
ポプラ文庫

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Auther
ヴィヴァルディの音楽から受け取ったものを頼りに、この小説を書きました。彼の作った音楽が(時空を超えて)、『ピエタ』という物語を連れてやって来たのです。彼が楽譜に込めたであろう〈それ〉を、ちゃんと手渡せたらよいのですが。二十一世紀の日本でゆったり読んでいただけたら嬉しいです。
大島真寿美(おおしま・ますみ)
1962年、名古屋市生まれ。92年「春の手品師」で第74回文學界新人賞受賞。著書に『戦友の恋』『ビターシュガー』『羽の音』『やがて目覚めない朝が来る』『ゼラニウムの庭』『三月』などがある。