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工藤彰彦 from
『クローバー・レイン』
(ポプラ文庫)

クローバー・レイン

これまでそつなく仕事をこなしてきた文芸編集者の彰彦は、偶然出逢って惚れ込んだ原稿のために、初めてなりふりかまわず奔走する。
思いを、伝えるために。
誰かにとってやさしい雨になるために。

新見佳孝 from
『プリティが多すぎる』
(文藝春秋)

プリティが多すぎる

主人公は、彰彦と同じ千石社に勤める新見佳孝。週刊誌からローティーン向けのファッション誌に異動になり、あまりの違いに戸惑うばかりだったが――。

「へー、かわいいじゃないの」
 机の上にずらりとPOPを並べ、彰彦が悦に入っていると横から声がかかった。同じ編集部の赤崎だ。日頃からずけずけものを言う女性で、心にもないお世辞など口にしないとわかっているので、素直に嬉しい。
「いいでしょう。著者のコメントも入り、ばっちりですよ」
 十日後に発売される新刊、『おひさまクレヨン』のために、見よう見まねで作った自信作だ。販促物は通常、営業部が制作する。POPももちろん。けれど今回は、大々的にディスプレイしてくれる書店向けに、著者の直筆コメントやサインの入った特製POPを作りたいと、彰彦から持ちかけた。その時点で著者には快諾してもらっていたので、営業部もすんなり乗ってくれた。
 出来映えにはこだわった。『おひさまクレヨン』の主人公は小学五年生の女の子だ。タイトル通りのキュートな作品で、かわいいだけでなく、鋭い観察眼が上質のユーモアにくるまれ、随所でくすりと笑わされる。カバーイラストには色とりどりのクレヨンをちりばめた。
 その持ち味を最大限に生かすべく、縦10センチ、横14センチの白い厚紙に水玉模様やチェック柄をあしらい、紹介文はぎりぎりまでそぎ落として、わかりやすさをめざした。ハートや星のシールも貼って、一枚ずつデザインに変化をつけた。
「日曜日に何をしてるのかと思ったら」
「作ったのはだいぶ前ですよ。余白に著者のコメントを入れてもらい、届いたところです。営業部との約束が月曜の朝イチまでなので。あとで持っていかなきゃ」
 木曜から出張で、帰宅したのが昨日だった。宅配便の受け取りも細かな作業も、日曜日にずれこんだ。営業部のほとんどは休みだろうが、ひとりふたりは出社しているはずなので部屋には入れる。担当者の机に置いたら、ひと仕事完了だ。
「赤崎さんこそ、忙しそうですね」
「事務処理が溜まってるのよ。日曜日まで出たくないけど、邪魔が入らない分、はかどるのよね」
 同感だ。午後になり、新たに顔を出す編集者がふたり、三人と増えている。中には平日、外にばかり出ていて、ちっとも出社してこない人もいる。
「それにしても工藤くん、こんなかわいいPOPを作るなんて、隅に置けないわ」
「愛ですよ、愛。いい作品なので、売場でも目立ってほしいんです」
「だけど、これだとまだじゃない? 完成までもう一歩」
 上機嫌の彰彦に水を差すように、赤崎がにやりと笑った。
「何が足りません?」
「立体感よ。ポップアップ! 今どきは何かくっついてるのが多いでしょ。だからって、本物のクレヨンをつけろとは言わないわ。子どもがもぎ取って、イタズラ書きでも始めたら大変だものね。にせものを作るのも大変。だったら……そうね、リボンなんかどう? ちょうちょ結びにしたり、先っちょをくるくるまるめたり。アレンジがいろいろできるわよ」
 彰彦の脳裏に書店の平台がよぎった。たしかに最近では紙粘土などで作ったモチーフがPOPを飾っている。キャンデーだったり、猫の顔だったり、鍵だったり。
「リボンか」
「健闘を祈っといてあげるわ」
 ポンと肩を叩かれ、彰彦はあらためて、完成したばかりの力作をのぞきこんだ。
 
 日曜日のフロアはいつものざわめきが嘘のように静まりかえり、廊下ですれちがう人もほとんどなく、空気まで穏やかでのんびり感じる。彰彦の所属する文芸編集部は六階だが、三階に下り、渡り廊下を通って別館に向かう。
 途中の階で、あわただしい物音や話し声が聞こえた。校了前の雑誌編集部がヒートアップしているのだろう。総合出版社の社内は三百六十五日、昼夜を問わず、誰かがどこかであたふたしている。この臨場感がきらいではなかった。スクープもアクシデントも時や場所を選ばず起きて、いいことも悪いこともない交ぜにして、世界は動き続けているのだ。
 別館はめったに足を踏み入れない場所で、窓越しの風景さえ妙に新鮮だった。雑誌が隆盛を誇っていた頃はここにもたくさんの編集部が入り、賑やかで活気づいていたらしい。彰彦が入社した七年前はすでに翳りが出始め、今は見る影もない。別館はほとんど使われていない状態だ。日曜日でなくてもがらんとしているのだろう。
 暗い階段をあがると、めざす編集部があった。灰色の殺風景なドアに不似合いの、やけにかわいらしいプレートが貼りついている。雑誌のロゴマークを、ピンク色のハートがぐるりと囲んでいるのだ。
 ほんの一瞬躊躇した。大げさでもなんでもなく、ここはどこだろうという思いがかすめ、首を傾げたくなる。閑散とした建物全体の雰囲気にそぐわないだけでなく、自分が入社した千石社という、老舗出版社のお堅い社風にもかけ離れている。あらためて噛みしめるまでもなく、目の前の編集部が発行しているローティーン向けファッション誌「ピピン」は、社内でも浮いた存在だ。
 彰彦自身は入社後二年間を「週刊千石」で過ごし、そののち新書編集部に同じく二年いて、今の文芸部門に移った。どれも本館内にフロアを持っているので、別館には馴染みが薄い。部署がちがえば勝手もちがう、というのはなんにでも通じる一般論だが、そもそも女子向けファッション誌というのがお手上げだ。未知なるジャンル。千石社がこの手の雑誌を出していることを、知らなかったとまでは言わないが、おそらくたぶん自分には関係ないと思っていたのだろう。気にも留めていなかった。
 意識するようになったのはほんの最近だ。大学の後輩がこの編集部に異動になった。可哀想にと言うささやきを何度となく耳にし、どれくらい保つかと大っぴらに笑う者を見かけ、初めて書店でくだんの雑誌を探した。みつからなかった。女性誌のコーナーをうろついてみてもわからない。正しくは、見分けが付かない。「ピピン」という雑誌名を知っていても、ロゴマークを学習しても、平台にずらりと並んだファッション誌は強敵だった。部外者をはじく特殊加工でも施されているのだろうか。目が滑って、あっという間に頭がぼうっとかすむ。立ちすくんでいると不審者に思われかねない、というハンデまである。
 発行部数からすると中小の書店まで行き渡っているはずだ。必ずどこかに積まれている。けれど空振りが続き、いつしかころりと忘れ今に至る。
 ノックして、ドアノブをゆっくりまわした。中は明るくさまざまな色があふれていた。赤、黄、みどり、ピンク、オレンジ、水色、青。それらが机の上のぬいぐるみやハンガーラックにかかった服、壁に貼られたポスターの色であることに一拍遅れて気づく。
「工藤さん」
 視線をさまよわせていると、席を立つ男がいた。四学年下の後輩、新見だ。ついさっき、リボンのアイディアを言われたとき、奇跡的に彼を思い出した。文芸の雄を気取る老舗出版社の中にも一カ所だけ、ファンシーでカラフルなリボンがふんだんにあるかもしれない場所があったのだ。
 内線電話をかけると新見本人が出た。まんざら偶然ではなく、彰彦が出社したときに姿を見かけていた。雑誌の要であるローティーンモデルたちは皆、中高生なので、平日は学校に通っている。土日に撮影や打ち合わせが集中し、編集者たちもフル稼働で仕事にあたる。ここの休みは月曜と聞いた。
「すみません、今、メールを一本出したら手が空くんで」
「忙しいところ、いきなり悪いな。こっちは急がないから」
「リボンやシールなら売るほどありますよ。ちょっと待っててくださいね」
 にっこり笑って席に着く新見に、助かるよと声をかけ、彰彦は部屋の隅へと移動した。彼の他には女性が三人いて、それぞれ電話をしたりパソコン画面に向かっていたりと仕事中だ。目があった人にだけ会釈した。
 そしてはじっこの空いてる机の上、最新号らしき「ピピン」をみつけた。これかと、ひとり感激してしまう。同時に、書店で空振りした理由にも気づく。雑誌名が埋没してしまうほど、表紙にはいろんなものがごちゃごちゃ写っていた。メインはモデルの女の子ふたりだろうが、キャッチコピーがあの手この手でひしめき、その子たちすら目立たない。これでは店頭でみつけられっこない。
 深く納得して表紙をめくり、さらにページを繰り、再び感動なのか感嘆なのか声をあげそうになった。同じような顔をした女の子たちが、笑顔でさまざまなポーズをとっているのだが、どのページもぎっしり鮨詰め状態だ。編集部同様、色が氾濫し、アイテムが切り貼りされている。
 圧倒されてばかりでは能がないので、気を取り直し、どういうテーマが企画されているのか真面目に拾い読みすることにした。なんといっても意を決しないとはじかれる。腹に力を入れて黄色やピンク色の活字を追うと、バラやガーベラ、スズラン、マーガレットなど、花をあしらったおしゃれアイテムに、花言葉をひっかけ紹介している……らしい。恋が叶うバラの髪飾りだの、緊張をやわらげてくれるスズランのネックレスだの、すてきな出会いに恵まれるマーガレットの鞄だの。
 こういうのを、女の子たちは本気にするんだろうか。
 首を捻ったところで、新見がぱたぱたとデスクまわりを片づけ始めた。ひと区切りついたらしい。と思ったのもつかの間、彼の携帯に電話がかかり、それに出て表情を曇らせた。
「え? どういうこと。一緒じゃないの? いや、知らないよ。ううん。どうして。いきなりそう言われても……」
 困っているようだ。
「わかった。探してみる。大丈夫だよ。ほんと。そんなに心配しないで。気をつけて、まっすぐ帰りなよ。また来週ね」
 切ったとたんにため息をつくので、どうしたのかと尋ねた。
「今日は七階の会議室で、モデルを三人交えて物撮りがあったんですよ。さっき終了して別れたんですけど、ひとりだけ別行動になったみたいで。今のは、ふたりの方からの電話で、地下鉄駅まで来たけど、その子がちゃんと帰ったかどうか心配だと」
「モデルの子か」
「はい。まだ中にいるのかなあ。そんなはずはないんですけど。念のため、警備室に聞いてみます」
 通常ならば一階の正面受付だが、休日は警備室が出入りのチェックをする。新見は内線電話をかけ、受話器を置くなり今度は首を横に振った。
「入館証は戻ってないそうです。ってことは、中ですね」
「君が別れたのはいつ?」
「工藤さんから電話がある少し前です。かかってきたのが、ここにもどってすぐだったので」
「だったらせいぜい三十分前か」
「どこかで、それこそ長電話でもしてるのかな」
 女の子の電話なら、三十分でも一時間でもおかしくないだろうが。
「先に帰った子たちは心配してるんだろ」
「そうなんですよ。撮影が終わって帰り支度をするまでは、いつも通りだったと言うんです。でもそのとき、携帯にメールが届いていたみたいで、見てから急に元気がなくなったと」
「どんな子?」
「『ピピン』の中では一番年上です。この四月から高校一年生。愛称は『エミリン』で、今のところのトップモデル。ああそうだ、今月号の表紙も彼女ですよ」
 ついさっきまで彰彦がめくっていた雑誌を差された。表紙には頬を寄せ合うように女の子がふたり写っているが、強いライトが当たっているらしく、目鼻さえほとんどわからない。
「高校一年生で、最年長か」
 さすがローティーン誌だ。
「中一からなのでモデル歴は三年を超えてます。分別のあるしっかりした子なので、大丈夫だと思うんですけど」
 言いながら新見の視線は何度も廊下に向けられる。気を揉むような、不安にかられているような複雑な表情で、こいつはこんな顔もするのかと物珍しさが先に立った。
 同じ大学の出身というだけで、四学年離れているのでキャンパスはすれちがいだった。ゼミやサークルの後輩でもない。初めて顔を合わせたのは、彼の就職活動のさい。OB訪問にやってきて挨拶を受けた。その後、入社が決まり付き合いが始まったのだ。
 新見は頭の回転の速い、明るく快活な男だ。鼻っ柱の強いところが嫌味にならない程度に愛嬌もあり、ちっとやそっとでへこたれない根性も持ち合わせている。心身ともに丈夫そうだ。欠点は、やる気と自信がありすぎなところだろうか。それも長所に数える人はいるだろうが、あくまでも自分の好みからすると、わかりやすい上昇志向に染まってない人間の方が面白い。彼の率直な点、見かけによらず努力家のところは買っているので、これまでも顔が合えば話をするような付き合いを続けていたが、ひどく繊細な横顔を目の当たりにして、印象が少し変わる。
「すみません、リボン、探さなきゃいけないのに」
「いいよ、ほんとうに急いでないから。それより、モデルと言うからにはその子、背は高いんだろうね」
「低い子もいますよ。でも彼女は百六十五あるので、まあまあ高い方ですね」
「だったらここに来る途中、見かけているかもしれない」
「ほんとうですか」
 彰彦の言葉に、新見の目が大きく見開かれる。
「やけに美人とは思ったけれど、高校生には見えなかったからな。ちがうかもしれない」
「どこですか。どこにいました?」
「二階の喫茶コーナーの近くだよ」
 別館に来る前に喫茶コーナーに寄り、自販機で缶コーヒーを買ってひと息入れた。平日は簡単なスナックメニューや飲み物が注文できる場所だが、休日はそういったサービスがなくなりテーブルスペースが無料解放される。持ち込みの飲食は自由だ。
 彰彦が立ち寄ったときには数人がばらけて座っていた。コンビニの弁当を食べていたり、ペットボトル片手に雑誌をながめていたり。美人を見かけたのはその手前、エレベーターを降りてすぐだった。目の前を右から左に横切った。喫茶コーナーとは逆の方向に、うつむき加減で通りすぎたのだ。
 新見に説明すると、彼はすぐにも部屋を出かかったが、その足を引き止めるように机の上の電話が鳴った。他の人も手一杯なので、「ちょっと待ってください」と彰彦に目礼し、電話を取る。
「もしもし、ああ、おれです。すみません、今ちょっと取り込み中なんで、すぐかけ直しますから……え? いや、それはだめですよ、待ってください、言ったじゃないですか。ミニのワンピでいくって。メーカーの希望ですよ。まずいでしょう。ひらひらした裾がなきゃ。いや、ジーンズも悪くないですよ。でもですねえ」
 緊急の電話らしい。しかも長くなりそうな雲行きだ。彰彦はひと足先に出ることにして、新見に目で合図して編集部を後にした。

 三階の渡り廊下から新館に戻り、階段で二階に下りた。エレベーターホールや喫茶コーナーを足早に見てまわったがそれらしき人影はない。彼女が歩いて行った廊下の先に向かうと、角を曲がって突き当たりに窓が見えた。そこにもたれかかり、長い髪の女性がたたずんでいる。顔はよく見えない。うつむいているし、髪の毛がかぶさっているし。
 手に携帯を持っているのが見えて、彰彦は歩み寄った。カーペット敷きの廊下なので、足音は響かない。近づくまで彼女は気づかず、ほんの一メートル手前まで来たときに、ハッと顔を上げた。
 きれいな子だった。形のいい大きな瞳、すんなりした淡い眉、細い鼻筋、小ぶりの口元。色白で、引き込まれそうな可憐さをまとい、顔形だけ見たらまるで妖精だ。彰彦に驚き、次の瞬間、怯えたような顔をしたのでよけいにそう感じたのかもしれない。
 なだめるように片手を挙げた。
「文芸編集部の人間なんだ。君のところの新見くん、知ってるだろ、『ピピン』の編集者、彼と一緒に君を捜してて」
「私を?」
 見開く目は、瞳の部分が茶色がかっている。
「たまたま用事があって彼のところに行ったら、君のモデル仲間から電話があったんだ。ひとりだけ別行動になったから心配だって」
 何かしら合点がいったように彼女はかすかにうなずいた。
「ジュリちゃんかな。すみません。なんだかすごくひとりになりたくて」
「いいんだ、それは。そういうときもあるだろうしね。驚かせて、かえってごめん」
 女の子はほほをゆるめ、頭を左右に振った。ふわふわした髪が動き、いっそう物語のヒロインめく。高校一年といえば十五、六歳。自分とはひとまわり以上ちがう。まだほんの子どもといっていい年頃なのに、存在感は半端ない。ほっそりした華奢な体つきで折れそうに儚げなのに、一瞬で自身を印象づける特殊な力を持っている。
 これがローティーンモデル、それもトップモデルと言われる子なのか。
「二階に喫茶コーナーがあるのは知ってたので、自販機で冷たいものを買って、飲んだらすぐ帰ろうと思ってたんですけど」
「何かあったの? ああ、自販機じゃなくて」
「メールが届いたんです。中学の頃の仲良しから」
 彼女は手にしていた携帯を胸の高さまで持ち上げた。
「地元のお祭りがあって、みんなで行ったらしくって。楽しそうな写真が送られてきました」
 ちっとも楽しそうじゃなく言う。口元が不自然に吊り上がったのは、笑ったのかもしれないが、ひどく無理をしているような痛々しさばかり感じてしまう。
「お祭りね。そういや今日は日曜日か」
「ほんとうに、楽しそうなんですよ」
 彼女は携帯を操作し、彰彦に向かって差し出した。「いいの?」と声をかけてから、首を伸ばしてのぞき込む。
 高校生らしい女の子と男の子が仲良さそうに笑顔で枠の中に収まっていた。背景に見えるのは屋台だろうか。じっと見ていると賑やかな笑い声が聞こえてきそうだ。なごやかな写真の雰囲気とは裏腹に、目の前の彼女はさらに沈み込んで唇を噛む。
「私、この子が好きだったんです。右端の岡島くん」
「は?」
 桜貝のような人差し指の爪が、ディスプレイを指し示す。それに吸い寄せられる。なんのへんてつもないふつうの学生が、愛想のひとかけらもなく棒立ちしていた。これが、この妖精みたいな女の子の「好き」の相手? まさか。冗談だろうと笑いたくなった。
「何も言えないまま卒業して、こっちの高校に入ったんですけど、みんなは地元の県立に進学しました。こうやって、どんどん私のことなんか忘れちゃうんだなと思ったら……」
「こっちって、東京?」
 うなずいて、彼女は顔を歪め、芸術的にうるわしい瞳を惜しげもなく潤ませた。本格的に、あわてずにいられない。思わずあたりをうかがうと、近づく人影が見えた。新見だ。
 この場合、タイミングがいいのか悪いのか。彼は彰彦と泣いてる女の子を見比べ、ぎょっとした顔になるも、いたずらに騒ぎ立てたりせず静かに歩み寄ってくる。わかっていますよと言いたげな目配せまでよこした。
 なぜかむっとする。けれど冷静に考えれば、自分より落ちついている理由はちゃんとある。ローティーンモデルとの付き合いなら、彼の方が長くて深いのだ。配属されて今までの分だけ。
「この写真は誰が送ってきたの?」
 バトンタッチできる相手が到着したおかげか、彰彦にも少しだけ余裕ができて訊いてみた。
「まっちゃんです。岡島くんの横に並んでいる子。そのとなりにいるユイちゃんとはうまくいってて、幸せいっぱいなんだと思います」
 なるほど、大口開けて笑う男が写っている。
「だったら送られてきたことそのものに、悪気はないんだね。お祭りに行けない君に、雰囲気だけでも味わってもらいたかったのかな」
「だと思います。よく、わかっているんですけど……」
 割り切れない、わだかまりがあるらしい。
 写真に収まっているのは女の子ふたりに男の子がふたりだ。単純に考えるとダブルデートと見えなくもない。それを気にしているんだろうか。
「これまでは、君を入れた五人で遊んでいたの?」
「いいえ、もうひとり男の子がいました。でもその子はスポーツの盛んな高校に入ったから、部活が忙しいんだと思います。今までのようには出られないんじゃないかな」
 三対三のグループ交際の中で、カップルがひと組できて、もうひとりずつ男女が抜けた。残るは彼女の好きな男の子と、一番はじでにっこり笑っている女の子のふたりだ。人気雑誌の少女モデルに比べたら、写真の子はあまりにも平凡な容姿をしているが、精一杯のおしゃれをしていることはうかがい知れた。特に、花のついた髪飾りが目を引く。
「ひょっとして、この子は岡島くんに気があったりするのかな」
 うなずいて、彼女はまた涙ぐむ。
「ずっと前からそうだったんです。アイちゃんも岡島くんが好きで、でも私がいるからきっとセーブしてたんだと思います。これからはちがいますよね。わかっていたのに、どうしようもなくて。モデルの仕事を続けたいなら、『ピピン』を卒業した後もこの世界でやっていきたいなら、今、東京で頑張らないとだめなんです。だから決心して、親にも友だちにも大丈夫、絶対頑張るって、にこにこ笑って出てきたのに。でも私――」
 思い切り動揺を誘う写真が送られてきて、冷静ではいられなくなった、というわけか。
 ぽろぽろこぼれる雫をかわいらしいミニタオルが受け止め、きれいに吸い込む。そうか、それはきついねと心の中で相槌を打つも、彰彦はまじまじと、一歩も二歩も離れたところから彼女に見入ってしまう。美少女のけなげな涙ではあるが、こうも無防備に泣かれては、驚くか感心するかだろう。
 どんなに妖精っぽくても、人気雑誌の人気モデルでも、その道数年のベテランでも、先々の仕事のために親元を離れて上京する背水の陣でも、そのストレスが山のようにかさんでいても、好きな男の子を思い手放しで泣けるのだ。モデルの仕事にすべてを囚われているわけでもなさそうだ、というのがすごい。たぶん見かけよりずっとタフな子だろう。
 彰彦はポケットをまさぐり、新見に見せようと持ってきたPOPを取り出した。著者のコメントが入っていない、試作品だ。差し出すと、彼女が目元を抑えて首を傾げた。
「もうすぐ出る本の販促物なんだ。キャッチコピーはこれ。『自分のこころには、自分でおひさまを描くの』『人なんか、あてにしないもんね』、小学五年生の、主人公の言葉なんだ。逞しいだろ。君にあげる」
「私に?」
「この先、いろいろありそうじゃないか」
 にこやかに笑いかけると、彼女は神妙な面持ちでそれを受け取る。そこに絶妙なタイミングで新見が横入りした。
「いいPOPですねえ。リボンをつけたらもっとよくなりますよ。楽しみだ」
「新見さん!」
「あれ? 今、気がついた? さっきからいたんだよ。そんな顔するな。心配して探しに来たんだから」
「ジュリちゃんが何か?」
「うん。でも、元気そうでよかった」
 新見が大らかに相好を崩すので、彼女も引きずられるように頬をゆるめた。とりあえず浮かべたような冴えない微笑だ。そして細くさらさらした髪の毛を耳にかけ、ミニタオルですばやく目元を抑える。携帯と一緒にタオルを鞄にしまった。彰彦から渡されたPOPだけを、まっ白な指先で持つ。
「これ、ありがとうございます。大事にします」
「来週には本が出来上がるんだ。もしよかったらあげるよ。読みたくなったら、新見くんに言って」
「いいんですか。うれしい。ぜったい読みます」
 今度は泣き笑いではない、生き生きとした笑顔をのぞかせた。それこそ仕事用の、かわいらしくも賢い受け答えなのだろうけど、それが出てくるだけしゃんとしたのだろう。背筋もすらりと伸び、腰の位置の高いこと。丸襟のブラウスとパールをあしらったネックレスがとてもよく似合っている。
「いきなり泣いたりして、ほんとうにすみませんでした。恥ずかしいです」
「大丈夫だよ。誰にも言わないから」
 深々と頭を下げてから、彼女はPOPも鞄にしまい、帰りますと言った。
「そこまで送っていこう」
 新見も一緒に歩き出す。窓辺から離れ廊下の角を曲がり、エレベーターで一階まで降りた。彰彦と新見に気づいた警備員は訝しそうな顔になったものの、入館証を差し出す彼女に対しては思い切り目尻を下げた。別人かと見まごうごとき笑顔とはこのことだ。「気をつけてね」などと言葉をかけ、手まで振る。
 内心、咳払いをひとつついて、彰彦もまた、新見と共に何度も振り返る彼女を見送った。
「ありがとうございました。すっかりお世話になりましたね」
「来てくれて助かった。ちょうど涙ぐみ始めたところだったんだ」
「いや、おれも驚きましたよ。あんなふうに泣く子じゃないんで。初めてです」
「そうなんだ」
 彼女の姿がすっかり見えなくなったところで、警備員に目礼して建物の中に入った。
「『ピピン』のモデルとしては最上級生になって、目に見えてしっかりしてきたんですけど、もともと野原でのんびり花を摘んでいるような子なんですよ。マイペースでおっとり。親元を離れて東京の高校に進学して、ストレスが溜まっているのかな、とは思いました。元気がないと聞いて、真っ先にホームシックを考えたんですけど、それにしても泣くというのは意外です。まして、家族や生まれ育った町を恋しがっての涙ともちがう? 携帯に送られてきた写真には、あの子の好きな男の子が写っていたんでしょう? ちらりとしか見えませんでしたけど、ふたりの会話からするとそんな感じで」
 立ち話してる間にもエレベーターが到着したので乗り込む。渡り廊下のある三階までのつもりが、行き先のボタンを押すときに二階にしてしまった。いいかなという彰彦の目配せに、新見は眉をくっと持ち上げ軽くうなずく。ついさっき乗り込んだフロアで降りて、さっきとは逆方向の自動販売機へと向かった。
 やれやれという思いで缶コーヒーを二本買い、一本を新見に手渡した。喫茶コーナーのはじに腰かけ、まずはふたりして喉を潤す。
「誰もが憧れるトップモデルになっても、ふつうの女の子なんですね。中学のときの同級生が好きなんて」
 本来なら彰彦が口にするようなセリフだが、苦笑いを浮かべた新見が言った。
「もっと大人かと思ってました。十五歳だとわかっていても、仕事ぶりを見ているともっともっと大人かと。あんなふうにひとりの男の子を思ってさめざめ泣くような、純情でかわいい、子どもっぽいところがあるなんて。予想外もいいとこですよ」
「うん」
「微妙にショックでもあります。おれにとってはまったくもって掴み所のない、ふわふわした女の子なんですけど、工藤さんの前では素を出すんですね。そういう、話しやすい雰囲気が工藤さんにあるのかな」
「いや、ないね。ちがうよ、そうじゃない」
 きっぱり言い返すと、缶を揺らしていた新見の手が止まった。
「何がどうちがうんです?」
「あの写真には四人、写ってた。右端が、さっきの彼女の好きな男の子。岡島くんって言ったな。左端が、その岡島くんを好きなもうひとりの女の子、アイちゃんだっけ。言わば恋のライバルだ。そのアイちゃんは、ピンク色のバラの花がついた髪飾りをしていた」
 新見はきょとんとした顔になる。
「君のところの編集部で見たんだよ。最新号の『ピピン』だ。その中の記事に花をモチーフにした、おすすめファッショングッズの紹介ページがあった。ピンク色のバラの髪飾りは、恋の叶う最強アイテムだって。アイちゃんはわかってつけていたんだろうね。写真は彼女が撮って送ったわけじゃない。でもそういう流れになる可能性くらいは考えていただろう」
 瞬きした新見は眉をひそめ、首をひねり、じっと考え込んでおもむろに口を開く。
「だったら、あれですか、恋のライバルが上京して近くにいない。圧倒的有利な立場になったアイちゃんが、必勝のアイテムを誇示して宣戦布告?」
「モデルの彼女はそれに気づいたから、泣きたくもなったんだよ」
「うわっ」
 新見が水鉄砲の水でも当たったような奇声をあげた。
 肝心なのは相手の男の真意だ。岡島くんが一番好きなのは誰なのか。それに関してもっとも重要な大問題がライバルの猛アタックであることを、あの子はちゃんとわかっている。しくしく嘆き悲しむのも、地団駄踏んで口惜しがるのも、この場合同じことに思える。いずれにせよ、彼女は現役ファイターなのだ。
「だったらその、何がどうなっているんですか。大人なんですか、子どもなんですか。女の子なんですか、女なんですか」
「わからない。たぶん、ごちゃまぜなんだよ」
 テーブルに両腕を起き、若干身を乗り出すようにして、重々しく答えた。重く言うには理由がある。相手がひとまわり以上も離れた、ふわふわキラキラしたわけのわからない、いい歳した男からすればわかりたくもない、わからなくてもちっとも困らない異生物であっても、かんけーない、ではすまされないからだ。
 新見は彰彦の言葉によけいなコメントを挟まず唇をぎゅっと結ぶ。その目は真剣だ。よし。
「さっきのPOP、見たろ。タイトルは『おひさまクレヨン』だよ。主人公は生意気で耳年増の小学生。かわいいけれど、かわいげがないんだ、これが。でもよけいな先入観なしに読めば、なかなか面白い。読み終わったとき、すごく面白いとも言えてしまう。その子もごちゃまぜの、一筋縄ではいかない女の子だ。作者もそうで、読者もそうなのかもしれない。新見くん、編集者はわけのわからないものにも、食らいついていくしかないんだと思う」
 テーブルの上に置かれた彼の拳が握り込まれる。
「どんなに振り回されても、ですね?」
「ああ。暴れ馬のたてがみを掴んで、荒野を突き進むんだ」
 その先に、多くの者を魅了する創作物があると信じて。実を結ばない努力も負け試合も断腸の思いも、最初から織り込み済みの、避けて通れない職業なのだ。きっと。
「工藤さん」
「ん?」
「我々も心して進化しましょう。リボンやバラの花を、軽々使いこなせるような進化」
「おっ、いいこと言うな。進化して、POPのグレードアップをはかろう」
 笑って立ち上がった。暴れ馬は同時に、ほれぼれするほどの名馬でもあるのだと、多くの人に知らしめたい。素質を見抜き、丁寧にブラシをかけ、いくつものハードルを共に超えたのだ。新たなる荒野に躍り出るときに、ふさわしいのがリボンならばとびきりキュートに結ばなくては。
 渡り廊下を歩きながら、もうすぐ始まるという、「ピピン・モデルオーディション」の話を聞いた。その応募数に舌を巻く。新見は新見で文芸新人賞の話を聞きたがった。どちらにも、全国津々浦々から熱いエントリーが届く。
 迎え撃つ方は日々進化して、たてがみを震わせる名馬との出会いを待っている。

PROFILE

大崎梢(おおさき こずえ)
東京都生まれ。2006年『配達あかずきん』でデビュー。
著書に『サイン会はいかが?』『平台がおまちかね』『背表紙は歌う』『片耳うさぎ』『夏のくじら』『キミは知らない』児童書『天才探偵Sen』シリーズほか多数。
本作と同じ千石社を舞台にした作品に『プリティが多すぎる』がある。

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