船に乗れ!

第十八回

 

僕がハイデルベルクへ行く前後から、南は情緒が不安定になった。僕を気持ちよく送り出してあげたいという気持ちを見せるかと思えば、自分がそんな贅沢を許されない「めん類」で、僕が親の金に飽かせてどんどん演奏技術を身につけているあいだも、そば屋の上の小さな部屋でいつまでも自主練習をしていなきゃならないといって、鮎川の前で泣いて悔しがった。自分の努力でどうなるものでもないことだけに、南の悔しさと敗北感は、心の中で肥大する一方だった。
「だからね、私、いったの」鮎川はべそをかきながら語った。「そんなら津島君ができないような、したことないようなことをすればいいじゃん、って。それってどんなことって枝里子がいうから、私考えたの。男の子と一緒にどっか遊びに行っちゃうとか。南は全然乗り気じゃなかった。それはほんとだよ。でも夏休みになっても、どこにも行かないで一日中ヴァイオリン弾いてるだけだし、それだってふっと、今ごろ津島君がのうのうと西ドイツでレッスン受けてるんだなって思うと、もう自分が日本で練習してるのが空しくなってきちゃう、なんていってるんでしょ? 私、見てられなかったよ。だからいったの。一日海で遊んでくるだけじゃん。そんなの別に浮気じゃないよ。津島君が枝里子のこと、ほっとくからいけないんだよ、って」
鮎川には、自分の計画がまったく他愛のない日帰りの海水浴でしかないことをよく知っていた。彼女がいっていた「男の子」というのは、彼女が赤ん坊の頃からよく知っていた従兄弟だったからだ。僕たちよりも七つも年上の従兄弟は、かっこいい自動車を持っているという、さらに年上の会社の友人を連れてきた。
「その人のクルマに乗って、房総の海岸まで行ったんだけど、枝里子はずーっとふさいでた。誰が話しかけてもいい加減な返事ばっかりして、えんえん窓の外見てたの。従兄弟なんかすっかりイヤんなっちゃって。私もこりゃ失敗だな、って思ってたの」
夏休みには、千佳たちと海水浴に行きました。
鮎川の話を聞きながら、僕は南がくれた手紙を思い出していた。
帰ってきてほしいかどうか、わからなかった。すごい考えた。
そのときも南は、僕に帰ってきてほしいかどうか、自分に問いかけていたのだろうか。
海岸に着いても南は海水浴もしなかったし、海の家に入っても食事に手をつけなかった。最初のうち機嫌をとろうとしていた従兄弟は、やがてあきれて相手にするのをやめてしまい、友人に彼女の面倒をすっかり任せてしまったという。
「それからのことは、よく判らないの。私は従兄弟の相手をさせられちゃったし、二人でずーっと喋ってるなあとは思って見てたけど、枝里子は無言だったんじゃないかな。
そんなだったから、もう夕方になったら、帰ろうか、ってなったのね。従兄弟の友だちが、じゃ金谷まで送ってあげるよ、っていったの。その友だちは千葉市までクルマで帰るけど、時間かかっちゃうから、みんなフェリーで金谷から久里浜まで行って、そこから横須賀線で帰ればすぐだから、って。南がずーっとダランとしてたのに、その人ずっとニコニコしてたから、私助かったなあ、あんな女子押しつけちゃって、悪いことしたなあって思ってたの。
そしたら、金谷でフェリーの切符買って、もう乗るってなって、従兄弟が乗り込んじゃったあとになって、いきなり南が、千佳、先に帰って、っていって、ばって駆け出しちゃったの。それで見送ってた友だちのところへ行ったの。そんな! って思ったけど、従兄弟は乗っちゃってるし、切符は買ってあるし、もう私は乗るしかなかったの。甲板から見たら、友だちは手を振ってるけど、枝里子は白い顔してその隣で、ただ立ってた。
私、すごい嫌な予感がした。でもその時は、ちょっと枝里子に頭に来てたのね。人がせっかくいろいろ気にしてあげて、楽しませようと思ってたのに、一日中不機嫌で、こっちのことなんか全然考えてくれてなかったから。それにその時は、帰るっていっても六時過ぎくらいだったし、カッコイイ年上の男と、ちょっと遠回りしてドライブしたっていいかも、って思っちゃったの」
鮎川はそこまで話すと、ちらっと僕を見た。僕が殴ってくる、僕に怒鳴りつけられる、と思ったらしい。僕はその時、話をしている鮎川が、そこにいるとさえ感じていなかった。
「次の日に枝里子から電話かかってきて、昨日はみんなで一緒に帰ってきたってことにしてくれない? っていうの。私びっくりしたよ。でもさ、高校生のときって、そういうこと、よくあるらしいじゃない? その時はマイッタナアって思ったけど、ちょっとだけは、いい思い出になるかもって思ったよ。次の次の日に電話かけたら、枝里子、ごめんねっていって、しょげてるみたいだったけど、そんなにいつもと変らなかったし。でも夏休みのあいだは、もう会えなかった」
二学期になって、すぐに鮎川は、南の様子がおかしいことに気がついた。
「できるだけ普通にしてようって、してる感じがしたの。でもいっつも顔色悪いし、気分が悪いって、しょっちゅういってたの。私その時からちょっと、まさかって思ってた。でも、いろんなこと、想像したくなかった。枝里子がいわないんだから、そんなことなかったんだって思ってた。そしたら、津島君がドイツから帰ってきたの。あの頃、私も変だったでしょ。でもしょうがなかったんだよ。本当に何にも知らなかったんだから。枝里子だって知らなかったくらいなんだから。ただ身体の調子がおかしくて、蒼い顔して、脂汗かいてただけだもん。そんなの私の空想で、本当なんかじゃないって思いたかったんだよ。病気だって思いたかったの。枝里子も私も。でも恐くて、枝里子は病院にも行けなかったの」
十月になって、ようやく南は病院に行った。鮎川が付き添った。南は医者から「妊娠」という言葉と、「堕胎」という言葉を、いちどきに聞いた。高校二年生の、ヴァイオリンを学ぶ女子が二人、こっそり選んだ見知らぬ町の病院で、学校からも家族からも、全世界からもはじかれてしまったように気持ちで、脅えて抱き合わなければならなかった。産むことはできないけれど、堕ろすこともできないと、南は震えながら鮎川に訴えた。自分たちの無力と無知と無策を嘆くだけの、長い長い逡巡と嘆きの日々が過ぎていった。
従兄弟の友人に話さないわけにはいかなかった。南は連絡先を知っていたが、電話はかけられなかった。鮎川が電話をして、三人で会った。話を聞いた男は、うなずき、鮎川の見ている前で、南に結婚を申し込んだ。そのとき南は人形のように全身をこわばらせて、男の申し込みを受け入れも拒否もしなかった。
「二週間前に、枝里子、千葉に引っ越した」鮎川はくたびれはてた老婆のように、背中を丸くして座っていた。「親ともいろいろあったみたいだし、心の整理だって全然ついてないはずだけど、枝里子が自分で選んだことだもんね。私だって疑問に思うことはいっぱいあるけど、でも枝里子にしてみたら他にどうしようもなかったんだし、彼女なりにベストの選択だったと思う。他人が考えたってどうしようもないよ」
それは芝居のせりふを棒読みしたみたいな口調で、明らかに前もって考えてあった言葉だった。鮎川はそうやって、一方では僕を牽制し、もう一方では長い話を打ち切りたかったのだろう。
ずっと後になって鮎川から聞いた話では、彼女が本当に知っているといえるのは、従兄弟の友人に会い、その男が結婚を口にしたところまでだった。そこから先の南が何をどう考えたか、彼女の家族や周囲が、結婚に向けてどんな思いでどう動いたか、鮎川は詳しい話を彼女から打ち明けられることはなかった。退学すら、南は鮎川に気持ちを打ち明けることなく、いわば勝手に決めてしまったらしい。学校に通わなくなっても、鮎川にはこれから何度でも会えるのだから、という意味のことを、南は語っただけだという。
こういう話はしかし、この時の鮎川はしなかった。他人が考えたってどうしようもないよ、と、血気にはやった僕をいさめるようなことをいうと、すっと立ち上がっただけだった。今の鮎川(今の彼女はもう結婚しているから「鮎川」ではないけれど)も認めるように、この時の彼女には、僕への思いやりが欠けていた。彼女だって、そんなことに気が回せる精神状態ではなかったのだ。
「そういうこと」立ち上がった鮎川はいった。「じゃ、二時間目が始まっちゃうから、私は行くね」
僕も立ち上がった。何もいうことはできなかった。ただ、こんなところにいつまでもいるわけにはいかないから、教室へ行こうと思っただけだった。絶対に行くべきではなかったのに。
これだけの話だったら、それはただの世間にいくらもある、高校時代の苦い失恋の思い出でしかなかっただろう。それですんでいただろう。これを書きながら今の僕は、再びあの日の僕に心の中で絶叫している。
どこへも行くな!

 

 

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プロフィール

藤谷 治
1963年東京都生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業。03年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』でデビュー。『いつか棺桶はやってくる』が三島賞候補に。下北沢で書店『フィクショネス』を経営しながら執筆活動中。
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