北野武監督にその資質を見いだされ、『ソナチネ』『HANA-BI』などの北野作品で役者としての才能を開花させた寺島進さん。是枝裕和、SABU、石井克人、熊切和嘉、篠崎誠など、日本映画界を代表する監督からも絶大な信頼を寄せられており、その活躍の場はとどまるところを知らない。いま、もっとも脂の乗っている役者が語る志。
下町の粋な畳職人だった父親
――寺島さんは東京・下町の生まれなんですよね。
19歳まで深川に住んでました。
――ご実家が畳屋さんで。代々続いていたんですか?
おじいちゃんと父親の二代ですね。
――ご兄弟は?
三人です。次男で。
――誰もお父さんの跡を継がなかったんですか?
ねえ、本当に親不孝な子供で。
――お父さんに「継げ」とか言われませんでした?
親父は時代的に継がざるをえないような状況だったんだけど、俺が高校生ぐらいの頃には、商売自体が斜陽になってましたからね。あまりそういうことは言われませんでしたね、面と向かっては。「好きな仕事をやんな」とは言われましたけど。その好きな仕事が何かっていうのが、なかなかわからないんだけど(笑)。
――中学生とか高校生の頃は、「何をやりたい」という夢みたいなものはありました?
うーん、中学、高校のときっていうのは何にも考えてなかったですね。小学生の頃は、「将来の夢」みたいな作文書かされるでしょ、あそこに「畳屋になりたい」って書いてたけど。その理由が「いろんな人の生活が見られるから」っていう、のぞき見趣味みたいなのがあって(笑)。おもしろいんだよね、親父と一緒に畳の敷き込みに行くんだけど、とても整理整頓されている家もあれば、もう畳が見えないくらい散らかし放題の家もあったりして。畳業ってちっちゃな「引っ越し屋」でもあるんだよね。
――職人としてのお父さんを尊敬していました?
してましたね。仕事が丁寧だったし腕もよかったみたいですよ。「寺島畳店を知らないヤツはもぐりだ」ってうちの界隈じゃあ言われてましたから(笑)。でもそういうのって、死んでから気づいたりするんですよね。ある料亭で、廊下にゴザを敷いてくれって言われて親父がそのゴザを作ったらしいんだけど、親父が亡くなってから、別の人が同じゴザを作ってくれって言われても、作れないらしいんだよね。ゴザって作るのがすごく難しいらしくて。「親父、ちゃんと仕事してたんだなあ」と思って。「酒ばっかり飲んでたんじゃねーんだ」って(笑)。
――お父さん、お酒はかなり?
たまに昼間から、台所でコップ酒煽ったりしてましたからね。「なに昼間から飲んでんだよ」って言っても、「ガソリン代わりなんだよ」って。でも確かに酔っ払うわけじゃなくて、仕事がはかどるんだよね、飲んだ方が(笑)。
――典型的な下町の、いい職人さんだったんですね。
まさに「志事人」の「志」で仕事をした人っていうかね。気持ちで仕事をするという部分が、結果的に技術を高めてたというところもあったと思うし。「仕事のための仕事」じゃない、そういう親父の仕事の仕方は、俺も見習わないといけないと思いますね。
「普通」の中学・高校時代
――寺島さんは、中学、高校時代はごく普通の少年だったんですか?
普通にやんちゃもしてましたけど、「人に迷惑をかけちゃいけない」っていう思いはすごくありましたね。
――それはやはりお父さんから?
「なにやってもいいけど、人に迷惑はかけるな」って言われてたんで。
――じゃあ、人に迷惑をかけない学生生活を?
まあかけてましたけどね(笑)。一度、夏休みに部活が終わって、いつもは帰りに近所の駄菓子屋でコーラを飲んで帰るんだけど、「こんな甘ったるいの飲んでられねーな」と思って。で、昼間っからビール飲んじゃったんですよ。でも親父はさすがに酒飲みだからそういうのは敏感なんだよね。「なんだお前、顔赤いじゃねーか」って。「日に焼けたんだよ」って言ったんだけど、その日はずっと曇ってたんですよ(笑)。
――ハハハ。バレバレだったんですね。
親父は中卒で、自分が働いてるそばで友だちが高校へ行くのをじーっと見てたらしいんだよね。それで「息子は高校ぐらいは出さなきゃいけないな」っていう気持ちがあったらしくて。「俺がどんな気持ちでお前を高校に通わせてると思ってんだ。そんなみっともないことやってんだったら、明日っからやめちまえ」って言われたんだよね。親父はめったに怒らないから、俺も反省しちゃって「わかりました。もうこれからはしません」って。まあやってたんだけどね、その後も(笑)。でもバレないようにうまくやってました。
――高校を卒業するくらいまでは、何をしようとか、決めてなかったんですか?
畳屋に関連する仕事っていうのは頭にはありましたね。でも、その頃知り合いが「進は目立ちたがりやのところがあるから、こういうのが向いてるんじゃない」って、『三船芸術学院』っていう俳優養成所のパンフレットを持ってきたんですよ。よく身内の集りの宴会なんかでくだらない芸とかやってたからだと思うんすけど。まあそれで、ちょっと興味もあったんで、高校卒業後にそこへ行くことにしたんですよ。
――三船芸術学院の授業料はお父さんが?
全部自分で払いました。だからめちゃくちゃバイトしてましたね。
――でも授業料って、高いんじゃないですか。生半可なことでは貯められないと思うんですけど。
まあ自分で決めたことだし、高校時代にちょっと中途半端だった時期があって、自分ではじめて学費を払ってやってるんだから、「この二年間はまじめにやろう」っていう気持ちがすごくあったんですよ。だからほぼ無欠席でまじめに行ってましたね。女遊びもしなかったし。
――全然?
パーフェクトじゃないけどね(笑)。でも本当にまじめにやってましたね。
――学校ではどのような授業を?
いわゆる基礎の勉強ですね。発声練習とか滑舌をよくする練習とか、いろんなカリキュラムがあって。新劇の方が講師で来たりするんですけど、あんまり自分には舞台は向いてないと思ってて。もっと自然にやれるのがいいなって。まだ右も左もわからない時期なんですけど、「俺は映像の世界に向いてるんじゃないかな」って漠然と思ってましたね。
――学校を卒業するときには、進路は決めていたんですか?
カリキュラムのなかに「殺陣」があったんですけど、体を動かすのが好きだったんで、体張って仕事ができるっていうのはいいなと思っていて。立ち回りとか受け身とか、すごく魅力的に見えたんですよ。役者とはまた違う、演者でもあり裏方でもあるっていう部分も面白いと思ったし。それで、学校の講師で来ていた殺陣師の宇仁貫三さんに弟子入りしたんです。師匠の運転手として、一緒に現場へ行かせてもらえるわけですよ。まず現場見学ができるっていうのが、俺にはすごく尊かった。現場だと、役者さんはもちろん、助監督さんとか制作の方にも出会えるし。そこで、たとえば自分が喉が渇いてるから、みんなも喉が渇いてるっていうのがわかるでしょ。そうすると飲み物をみんなに持っていったりして、最初は「いいよ」とかって断られるんだけど、だんだん「ありがとう」って受け取ってもらえるようになって、現場の人たちと少しずつコミュニケーションがとれるようになっていく。そうすると現場の空気感とか雰囲気とか、だんだんわかってくるわけ。お金にはならないんだけど、俺のなかでそういう経験は、今でも大切な財産ですよ。
●優作さんと出会って映画が好きになった
――師匠の運転手をしていないときは、どうしていたんですか?
毎日のように稽古ですよ。もうその頃は木刀振って、上から落っこちたりとか、トンボ切ったりとか、乗馬をしたりとか、とにかく稽古して技術を身につけるっていうことを一心不乱にやってました。
――それは、早く殺陣師になりたかったから?
殺陣師になりたいとか、役者になりたいとかじゃなくて、とにかく目の前の課題をクリアすることでしか前に進めないって思ってましたね。何かになりたいなんて、そんな気持ちの余裕はなかったですよ。
――では実際に「役者」を志すきっかけになったのは?
殺陣師をめざしてる先輩が、ある劇団の芝居で殺陣をつけたりしてたんです。そのときに俺も客演で呼ばれて、その芝居に参加したんですけど、その稽古場に松田優作さんが遊びに来てたんですよ。それで優作さんに「いいな」ってほめられたんだよね。その当時優作さんは『ア・ホーマンス』っていう映画を撮ろうとしていて、それでヤクザ役のひとりで呼んでもらったんです。映画に出演できるっていうのは素直にうれしかったし、しかも優作さんから直々に声をかけてもらってだから。それまでもいろんな現場を踏んでたんだけど、映画の現場をとてもいとおしく感じたというかね、「映画好きなんだな、俺」ってはじめて感じた瞬間だったのかな。
――実際に松田優作さんとお仕事をしてみて、どのような印象をもちました?
取り組み方がとにかくまじめだし、常に先のことを考えてるし、人を育てるし、現場の一体感や緊張感、そして現場がすごく神聖な場所だっていうことも教えてもらいましたね。理屈じゃない部分、言葉では表現できないいろんなことを、たくさん感じさせてもらったなと思う。ただ、『ア・ホーマンス』の後は、なるべく優作さんとは関わらないようにしてたんですけどね。
――それはどうしてですか?
なんかね、もってかれそうな気がしたんだよね。
――もっていかれる?
自分のなにかをもってかれる気がしたんだよね。本能的になんだけど、とにかく優作さんと距離を置きたかった。もちろん、あれだけのスターさんだから、取り巻きみたいになるヤツとかもいたんだけど、俺は距離を置きたかった。それは全然悪い意味じゃなくて、自分のスタンス、自分のラインでやっていきたいっていう、ただそれだけの話なんだけど。でも、優作さんが亡くなったとき、すごく後悔しました。もっといろんなことを話しておけばよかったと思った。ちょうど同じ頃に親父も亡くなったんで、後悔がダブルでドーンてきちゃって。そのとき「なるべく後悔しないような人生を歩もう」と思ったんだけど、そうしたら翌年に北野さんと出会ったんですよ。
北野武監督との出会い
――やはり、寺島さんにとって、武さんとの出会いというのは、大きかったんですね。
いや、それはもう本当にデカいですよ。原点というかね。育ての親的な存在ですよ。役者として何もないときから、いろんなことを教わったしね。じゃまなものを削除してもらったし。
――じゃまなもの?
たとえば、「いらない芝居」っていうのがあるんだけど、どこかでそういうクサい芝居を覚えてくるんだよね、俺が(笑)。それを北野さんの現場でやると、「こういうの必要ないんだよなあ」ってブツブツ言われるんですよ。面と向かって直接「こういう芝居すんな」とは、あの人は絶対に言わないんだけど、『あの夏、いちばん静かな海』とかでも、監督から編集中のフィルムを見せられて、チンピラ役の俺がおまわりさんと絡んでるシーンがあって、俺がポケットに手ェ突っ込んで貧乏ゆすりしながら「ああ、ああ」って聞いてるんだけど、北野さんが「チンピラ役ってみんなポケットに手ェ突っ込んで貧乏ゆすりしてしゃべるんだよなあ…」とか言うわけ、俺を見ながら(笑)。俺からすれば「『だよなあ…』の『…』を読みとれよ、お前」って言われてるような気がするんだよね。だから次からはそういう演技はやめようと思って。北野さんは、一から十までああしろこうしろって強制的に言う人じゃなくて、短い言葉の中にいろんな行間があったりして、その行間を役者が読みとるんだよね。
――北野作品の中でも、とくに寺島さんの印象に残っている作品はありますか?
まあターニングポイントは、やっぱり『ソナチネ』ですね。当時の俺に、あんな大きい役をくれる監督ってあの人だけだと思うよ(笑)。「勇敢な人だなあ、よくこんな役俺に振るなあ」と思って。あの仕事をして、いろんな反省点もできたし、人とのコミュニケーションについてもそうなんだけど、とにかくいろんな勉強をさせてもらいましたね。すごく好きな作品だし。あの作品がきっかけで、『おかえり』の篠崎監督とか『空の穴』の熊切監督とか、『幸福の鐘』のSABU監督とお仕事させてもらえましたからね。熊切監督は、『ソナチネ』が上映されてる当時は大阪芸大の学生で、リアルタイムで『ソナチネ』を観ていて、「いつか自分が監督をやるときにはこの人と一緒にやりたい」と思ってくれたらしいんだよね。
――へえ。それで『空の穴』を。
そういうのってすごくうれしいじゃない。「ああ、映画ってずっと生きてるんだなあ」と思って。そういう意味でも、『ソナチネ』はターニングポイントでしたね。あと『HANA-BI』もそうかな。『HANA-BI』のときは、もう芝居っていうのがなんだかわかんなくなっちゃって(笑)。
――本当ですか?
はじめて芝居が怖くなっちゃって。なにやっていいかわかんなくて現場行くのが怖くてしょうがなかったんだよね。
――それは、武さんからいままでと違うものを求められたから?
『HANA-BI』に入る前に、連ドラをやってたんですよ。それが原因かどうかはわからないんだけど、『HANA-BI』の初日に北野さんとメシ喰いに行って、そのときに北野さんと「そういえば、助監督が寺島のこと言ってたぞ。『寺島さん、最近どこかでうまい芝居を覚えて、それをやろうとしてる感じがしますね』だって」「ああ、そうっすか」みたいな話をして。それでまた違う日に北野さんとメシ喰いに行ったら「そういえばスクリプターの人が言ってたぞ。『最近、どこかでうまい芝居を~』」って同じこと言われるんだよね(笑)。で、同じことを三回くらい言われて神経まいっちゃって。もうこれは悩んでもしょうがないから直接聞こうと思って。それでスクリプターの人に「すいません、なんか監督から聞いたんですけど~」って言ったら、「ああ、それ監督が言ってるの。直接言えないから、人の名前借りて言ったんじゃない」って(笑)。でもそれはそれで余計苦しむなあと思って。それで直接北野さんに「すいません、俺、うまい芝居をやろうとしてるみたいなんですけど、どうしたらいいかわかんなくなっちゃったんですよ」ってはじめて質問したんだよね。そしたら「うーん、間かな」って言われて。でもそれでまたわかんなくなっちゃったんだよね(笑)。
――「間」ですか。この言葉だけで理解するには確かに難しいですね。
実は去年北野さんにあれはどういう意味だったのか聞いたことがあって、そうしたら「あれはね、自分に言い聞かせたいことを言ったんだよ」って言われて。まあ照れもあったんだろうけどね。
――では『HANA-BI』の撮影中は、ずっと迷いの中に?
もう迷迷(まよまよ)。でもね、わかんなくてもいいと思ったの。わかろうとしちゃダメだって。感じとるものなんだって思ったんだよね。
――なるほど「演じるとは感じること」だと。
それで改めてベネチア(映画祭)で『HANA-BI』を観たときに、「ああ、迷っててもよかったんだな」って。迷いながら演じてるその顔がまたいいのかなって勝手に思ったりして(笑)。まあ、でもベネチアで金獅子獲れて世界的に評価されて、監督の笑顔を見れたときに、そういう苦しみはぜんぶ飛んじゃったね。監督が「俺はいろんな人間に出会ってきたけど、寺島、お前は粘り勝ちだな。運がいいんだよ」って言ってくれてね。それでなんか本当に荷が降りたっていう気がしましたね。
50歳を迎えてからが役者の本領
――寺島さんの気持ちのなかで、映画とかテレビドラマとか、CMとか、メディアに対しての区分けってあるんですか?
5年くらい前まではすごくありましたね。やっぱり映画の現場が好きになって本格的に役者を志したから、「映画俳優でいたいな」っていう気持ちが強かった。その頃は自分に自信がなかったんだろうね。芯がないというか。時代の風潮に流されたくないという気持ちもあったし。それが、これも感覚的なんだけど「あ、俺の軸、もうブレないかな」と思ったときに、もっといろんな世界を見てみたいと思ったんですよね。それからテレビドラマにも出させてもらうようになったんですけど、テレビドラマの世界にも素敵な人がたくさんいるし、才能のある人がたくさんいるんだなあって改めて感じましたね。
――これからこういうことをやってみたいという希望はありますか?
今、ちょっと刑事づいてるから、犯人役をやりたいね(笑)。まあ長い話でいえば、50歳を迎えたときにどういう面構えになって、人としても役者としても、どう成長しているのかを見てみたいっていうのはありますね。そのために、出会った縁を大事にして、自分自身もっと精進して、その50歳を迎えるまでに何をすべきかが今の俺の課題ですね。
同時に、人にはチャンスとか出会いっていうのは平等にあると思うし、偶然は必然だと思うから、そういうチャンスとか出会いが巡ってきたときに自分のすべてを出せるように、今自分にできることを一生懸命にやるしかないなと。50代からメシ食えなくなっちゃったら、俺は本物じゃないんだな、って思うから。
――では、最後に寺島さんにとって「役者」とは?
生き様、かな。
――ものすごくかっこいい締めですね。ラストシーンみたいです(笑)。どうもありがとうございました。