坂の上の坂

はじめに

 

 『坂の上の雲』から「坂の上の坂」へ


 司馬遼太郎さんの名作に小説『坂の上の雲』があります。
 明治維新から日露戦争の時代の日本人の心意気を、見事に描いた作品でした。この小説がどのくらい日本人に大きなインパクトを与えたかというのは、シリーズ累計で千九百万部という驚異的な部数にも表れていると思います。それだけ日本人は、あの『坂の上の雲』の時代が好きなのではないか、と思うのです。
 あの時代、人々の視線の先にはロマンがありました。夢がありました。そして目の前の坂の上には、見上げる「雲」がありました。

 私は一九五五年生まれであり、そうした時代とはまったく違う時代を生きてきました。しかし、私たちの年代も『坂の上の雲』に惹かれてしまうのは、実は私たちも明治・大正・昭和を生きた、上の世代の人たちの人生観を引きずって生きているからではないか、と感じています。
 しかし、日本への、さらには過去に生きた日本人への思い入れを持つことはさておくとして、今と昔では大きく違うことがあるのを忘れてはならないと思っています。それは、日露戦争を戦った約百年前、「坂の上の雲」世代の平均寿命は、今の半分だったということです。
 子ども時代をゆったりと過ごして一人前になり、兵役を果たすなり、家業を継ぐなりして、夢中で一生懸命に仕事をしていたら隠居の時期を迎え、やがて死に至った。言ってみれば、「雲」を眺めたまま走り続けていたら、余計なことを考える必要もなく、あっさりと死を迎えることができた。あの時代はそうだったのだと思うのです。
 ところが、現代に生きる私たちはそうはいかないのではないでしょうか。例えば六十歳から六十五歳で仕事をリタイヤしても、死ぬまでの時間はまだまだ相当にあります。平均寿命を考えただけでも、二十年、三十年とあるのです。『坂の上の雲』の時代に比べて、人生が圧倒的に延びました。

 老後という言葉は、今の日本ではあまりに簡単に使われる言葉です。しかし、私たちの世代の老後というのは、前の世代の人々が口にしていた「老後」とは、かなりニュアンスが違っていることに気づいておく必要があります。
 異なる言い方をすれば、前の世代の人たちと同じ感覚で、やがて始まる長い長い「老後」を生きるのは、極めて難しいのではないか、ということです。『坂の上の雲』時代と違って、雲を見つめたまま途中で人生は終わってはくれないからです。

 しかも、医療はさらに進歩していくでしょう。もしかするとサイボーグ技術によって、人工臓器、骨、皮膚など、部品の交換が可能になるかもしれません。遺伝子操作によってガンの克服が達成されるかもしれません。あるいは、予防医学の進展で、高脂血症や糖尿病などの慢性疾患が抑えられるかもしれない。寿命は、これまで以上に、さらに延びる可能性があるのです。
 とすると、坂の上にあるのは、『坂の上の雲』の時代のような、ぼんやりとした「雲」では、もはやないのではないか。私はそんなことを思うようになりました。
 待ち構えているのは、実は「雲」ではなく、次の新たなる「坂」なのではないか、と。「老後」が二十年、三十年とある。それは、これまで一生懸命に仕事をしてきた時間とほとんど同じだけあるということです。
 
 しかも、六十代になっても、体力、気力とも十分な人が多い。「老年期」などと言われてもピンときません。間違っても「老人」などと呼ばれたくはない、という人も多い。テニスもサッカーもまだまだやれるし、物忘れもごくたまにしかない(これは人によりますが)。
 そんな状況の中で、五十代からの“三十年間”をどう過ごすのか。
 イメージしたことは、おありでしょうか。今を惰性のように進めたところで、乗り切れるかどうか。私は、「坂の上の坂」を上るには、そのための準備が、新たな心構えが必要な気がしてなりません。
 私たちは、過去に生きた世代とは、違う生き方を求められているということです。
「坂の上の坂」をしっかり意識しておかないと、やがて目の前にやってきた坂を目にして、呆然と立ち尽くすようなことになりかねない、と思うのです。

 団塊の世代の少し下の世代として、裁判所に勤める父と専業主婦の母との間に生まれた私は、戦後社会が求めた“いい子”として成長しました。一生懸命に勉強し、スポーツに邁進する。私は東京大学という、当時の社会が子どもに求めた一番高い山の頂に登ることになりました。
 しかし私は就職するにあたり、そのレールをあえて自ら外しました。私が選んだのは、当時まだ中小企業で、ほとんど知名度のなかったリクルートという会社でした。同級生の誰もが官庁や大企業に就職していく中、研究室で先生や秘書に笑われながらも、私は自らの選択を貫いたのでした。
 
 リクルートという会社には、日本の重厚長大産業的なものとは正反対の文化がありました。若い平均年齢。年功序列のない柔軟な組織。学歴も性別も出身校も関係がない。次々と新しい事業に挑む積極果敢な姿勢……。徹底した成果主義のもと、急成長する会社でトントン拍子に出世した私は、三十代前半ですでに営業本部長のポジションを得ていました。その後は、新規事業を担当して次々と大型プロジェクトに挑み、「これからの日本は成熟社会がやってくる」という予測のもと、成熟社会の先進国たるヨーロッパにも駐在しました。
 四十歳のとき、まだ幼かった三人の子どもを養う身ながら、リクルートを退職。
 新しい時代に向けて、サラリーマンではない新しい働き方を自ら実践しようと、個人と会社で対等なパートナー契約を結ぶフェローになります。成熟社会に向け、関心を持っていた住宅、介護を中心とする医療、教育分野で新規事業を模索することが、私のミッションでした。
 そしてその延長上に待っていたのが、東京都では義務教育初の民間人校長就任でした。私は四十七歳で、東京都杉並区立和田中学校の校長になりました。五年後に退任してからは、和田中で成功した教育改革を全国に広めることができないか取り組みを進めていく一方、これからの個人はどのように生きていくことができるのか、生きていくべきなのか、大震災の被災地支援も合わせ、模索しています。

 一般のサラリーマンの道からは多少はずれた道を歩んできた私ではありますが、実は世の多くの人たちと同じように、「坂の上の坂」問題に直面しています。
 だからこそ、これからの人生を少しでも楽しんで、悔いなく過ごすために、考えなければいけないことがたくさんあるのではないか。そんなことをここ数年、ずっと考えていました。

 実際のところ、「坂の上の坂」世代では、人生は大きく二分されていくに違いない、と想像しています。これからやってくる「坂」の存在にいち早く気づいて準備を始め、五十代から「上り坂」を歩む人と、残念ながら、ひたすら「下り坂」を歩む人です。
 もっと言ってしまえば、ますます「上り調子になる人」と、前の世代そのままの人生の価値観に支配され、惰性のまま生き続けて「落ち目」を迎え、寂しく死んでいく人です。

 本書は、「坂の上の坂」を意識し、上り調子に坂を上り、これからの時代にふさわしい人生を歩むためには何を準備しておけばいいのかを、みなさんと共に準備するために生まれました。
 四十代から五十代のどこかで意識を転換できたなら、あとはうまくいくのではないか。私はそう考えています。
「坂の上のさらなる上り坂」は、ビートルズが歌った「ロング・アンド・ワインディング・ロード」かもしれません。その長くて曲がりくねった道を、楽しく歩いて行くことができるかどうか。それは、私たちがいかに視点を転換させられるか、にかかっているのです。
 しかし、意識して行動できれば、「坂の上の坂」はもはや怖いものではない、とも思えるのです。
 人生が終わりを迎える、その瞬間まで。ハラハラ、ドキドキ、ワクワクしながら。
 顔をほてらせ、やや上を向きながら。
 

プロフィール

藤原和博(ふじはら・かずひろ)
1955年東京生まれ。1978年東京大学経済学部卒業後、株式会社リクルート入社。1996年同社フェローとなる。
2003年より5年間、都内では義務教育初の民間校長として杉並区立和田中学校校長を務める。
2008年、当時の橋下大阪府知事の特別顧問に。
著書は『人生の教科書[よのなかのルール]』(ちくま文庫)、『リクルートという奇跡』『つなげる力』(ともに文春文庫)、『35歳の教科書』(幻冬舎)、『父親になるということ』(日経ビジネス人文庫)など多数。

「藤原和博のよのなかnet」 
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