えー、そんな訳なんで。
あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願い致します!
さてそれじゃあ何の噺を取り上げようかと。
んー、正月らしい噺ねぇ、『御慶』も『初天神』もやっちゃったし……干支の噺ったって、寅……虎が出てくるネタか、『動物園』もやっちゃったしなぁ……。んー。
ん?
お? あれ?
あ、意外。これまだ取り上げてなかったじゃん、てのがありました。
正月も正月、まさに正月ネタの中の正月ネタ。
『かつぎや』であります。
* * *
とある呉服屋の旦那。この人がまぁ、とにかく縁起をかつぐ人で。普段からそういう人だから、正月ってことになるといつも以上に縁起を気にする。
「お元日の朝だ、ただ井戸で水を汲むんじゃないぞ。橙を供えてな、歌を添えるんだ。『新玉の年立ち返るあしたより若柳水を汲み初めにけり』と。で、井戸に橙を投げ入れて(えーっと、橙は投げ入れるんじゃないかもしんない。うろ覚えです。ごめんなさい)『これはわざっとお年玉』とな、いいか」
飯炊きの権助、そう言われて、
「目の玉のでんぐり返るあしたより末期の水を汲み初めにけり……これはわざっとお人魂で」
とやってしまい、旦那を怒らせてしまう。
さぁ正月を祝おうと、店中の者で雑煮を食べ始めると、手代の餅の中から折れ釘が出てくる。旦那が渋い顔をすると、
「いえ旦那、餅の中から金っけが出ましたんで、御当家ますますカネモチになります」
と、そこはこういう店の手代で、うまくフォロー。ところがまた権助は、
「いや、金の中から餅が出ればカネモチだが逆だぁ。こらぁ身代モチカネるだ」
また旦那の気嫌をそこねてしまう。
年始の客が来始める。誰が来たか小僧に言わせて旦那が帳面につけるのだが、
「伊勢屋勘兵衛さんなら伊勢勘、という具合に縮めて言いな。そうすれば墨も少なくて済む。商人は、そういうところから倹約をしなくちゃいけない」
ところが、縮めると嬉しくない言葉になる人ばかりが来て、旦那は苛々するばかり。
とにかく正月そうそう、かつぎやの旦那の神経は逆撫でされっぱなし。
宝船の絵を枕の下に敷いて寝るといい初夢が見られるという、その宝船売りが来たので呼び入れたが、こいつがまた縁起でもない事ばかり言う。もう、旦那は気が滅入ってしょうがない。
ところが、二人目に呼び入れた宝船屋は、縁起のよい事ばかりをそつなく言うので、やっとのことで旦那は上気嫌。祝儀をはずむと宝船屋も喜んで、
「旦那が大黒柱で大黒様、そこにいらっしゃるお美しいお嬢様はまるで弁天様、お宅は七福神が揃ってますな。」
「おいおい、大黒に弁天じゃ二福だろう」
「なぁに、御商売が呉服(五福)でございます」
「お元日の朝だ、ただ井戸で水を汲むんじゃないぞ。橙を供えてな、歌を添えるんだ。『新玉の年立ち返るあしたより若柳水を汲み初めにけり』と。で、井戸に橙を投げ入れて(えーっと、橙は投げ入れるんじゃないかもしんない。うろ覚えです。ごめんなさい)『これはわざっとお年玉』とな、いいか」
飯炊きの権助、そう言われて、
「目の玉のでんぐり返るあしたより末期の水を汲み初めにけり……これはわざっとお人魂で」
とやってしまい、旦那を怒らせてしまう。
さぁ正月を祝おうと、店中の者で雑煮を食べ始めると、手代の餅の中から折れ釘が出てくる。旦那が渋い顔をすると、
「いえ旦那、餅の中から金っけが出ましたんで、御当家ますますカネモチになります」
と、そこはこういう店の手代で、うまくフォロー。ところがまた権助は、
「いや、金の中から餅が出ればカネモチだが逆だぁ。こらぁ身代モチカネるだ」
また旦那の気嫌をそこねてしまう。
年始の客が来始める。誰が来たか小僧に言わせて旦那が帳面につけるのだが、
「伊勢屋勘兵衛さんなら伊勢勘、という具合に縮めて言いな。そうすれば墨も少なくて済む。商人は、そういうところから倹約をしなくちゃいけない」
ところが、縮めると嬉しくない言葉になる人ばかりが来て、旦那は苛々するばかり。
とにかく正月そうそう、かつぎやの旦那の神経は逆撫でされっぱなし。
宝船の絵を枕の下に敷いて寝るといい初夢が見られるという、その宝船売りが来たので呼び入れたが、こいつがまた縁起でもない事ばかり言う。もう、旦那は気が滅入ってしょうがない。
ところが、二人目に呼び入れた宝船屋は、縁起のよい事ばかりをそつなく言うので、やっとのことで旦那は上気嫌。祝儀をはずむと宝船屋も喜んで、
「旦那が大黒柱で大黒様、そこにいらっしゃるお美しいお嬢様はまるで弁天様、お宅は七福神が揃ってますな。」
「おいおい、大黒に弁天じゃ二福だろう」
「なぁに、御商売が呉服(五福)でございます」
* * *
我々噺家も、こういう商売だからまぁ縁起はかつぐ。高座の座布団は、お客様方と我々との間に縁の“切れ目”が無いようにと、縫い目の無い辺を前にして敷いたりはする。
しかし、三代目の三遊亭圓之助師匠(現三遊亭小圓朝師の父上)は、御自身の著書の中で「噺家自身は意外と縁起をかつがない。むしろ、そういう事を気にし過ぎるのを笑い飛ばすのが落語なのだ」という意味合いの事を書いておられる。そのデンでいくと『かつぎや』は、そのテの噺の代表格といえるだろう。ラストで二人目の宝船屋が、めでたく綺麗に落げをつけてはいるものの、この船屋も口先ではおべっか使って腹の中じゃ舌出してるかもしれないし。
しかし、三代目の三遊亭圓之助師匠(現三遊亭小圓朝師の父上)は、御自身の著書の中で「噺家自身は意外と縁起をかつがない。むしろ、そういう事を気にし過ぎるのを笑い飛ばすのが落語なのだ」という意味合いの事を書いておられる。そのデンでいくと『かつぎや』は、そのテの噺の代表格といえるだろう。ラストで二人目の宝船屋が、めでたく綺麗に落げをつけてはいるものの、この船屋も口先ではおべっか使って腹の中じゃ舌出してるかもしれないし。
正月の寄席での、定番のネタである。かといって、演り手が多いという印象もない。我が落語協会では、たしか柳家小満ん師匠が、初席でよくお演りになる。昔、角川文庫で出ていた『古典落語』というシリーズには、三遊亭圓窓師匠の速記が載っていた。
戦後の黄金期といわれた時代の師匠方では、八代目の春風亭柳枝師匠や三代目の三遊亭小圓朝師匠が演っておられたらしい。
僕ら世代にとって忘れられないのは、数年前に亡くなった桂文朝師匠の『かつぎや』だ。本格の芸でありながら飄々とした味わいだった文朝師匠は、誰にも真似の出来ない独特のセンスも持っておられ、そのクスグリは、クスグリというよりギャグという言葉が似つかわしいように思われた。しかしそれは作品世界の空気を決して壊さず、淡々とした語りながら、マクラから爆笑させられた。
寄席では年始客の記帳の件までで高座を下りていらしたが、年末年始、文朝師匠が『かつぎや』を始めると、若手は心嬉しく、クスクス笑いながらその高座をうかがったものである。
文朝師匠の『かつぎや』が聞けない正月にやっと馴れたが、こうして改めて記すと、六十代前半の若さだった師の急逝が、今でも悔やまれてならない。
戦後の黄金期といわれた時代の師匠方では、八代目の春風亭柳枝師匠や三代目の三遊亭小圓朝師匠が演っておられたらしい。
僕ら世代にとって忘れられないのは、数年前に亡くなった桂文朝師匠の『かつぎや』だ。本格の芸でありながら飄々とした味わいだった文朝師匠は、誰にも真似の出来ない独特のセンスも持っておられ、そのクスグリは、クスグリというよりギャグという言葉が似つかわしいように思われた。しかしそれは作品世界の空気を決して壊さず、淡々とした語りながら、マクラから爆笑させられた。
寄席では年始客の記帳の件までで高座を下りていらしたが、年末年始、文朝師匠が『かつぎや』を始めると、若手は心嬉しく、クスクス笑いながらその高座をうかがったものである。
文朝師匠の『かつぎや』が聞けない正月にやっと馴れたが、こうして改めて記すと、六十代前半の若さだった師の急逝が、今でも悔やまれてならない。
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おかげさまで『落語こてんパン』が一冊の本になりました! ぜひお手元でお目にかかれますように。 ポプラビーチでの連載も続きます。今後とも、どうぞよろしくお願いします。 ~編集部より~ |


