illustration:宮尾和孝
第十回


(3「もう一人のメサイア」つづき)

     12

「荒れているって、どうして」
 父の横に移動して、啓がノートパソコンを覗き込む。画面に表示されているのは奈津の
ファンサイトの掲示板だった。
『なっちゃんすげーぜ』
『チャンスだね』
『勝てば本当に全国区だ』
 歓迎の書き込みが目立つ。けれどそれが全てではない。
『俺の馬に乗らないでください。マジで』
 アリスマジックの出資者だろうか、そんな書き込みをしている人がいた。
『というか少しおかしくないか? 最近、急に騎乗回数が増えて、今度は重賞の騎乗依頼
まで来るなんて』
『それが勢いってもんじゃないの』
『可愛がられているんじゃない? 調教師に』
『性的な意味ですね。わかります』
『セクハラとかされてそうだよな』
 掲示板で一番盛り上がっていたのは、そんな話題だった。
 啓は戸惑った。奈津の重賞挑戦が発表されたら、ファンサイトの掲示板は歓喜の声で埋
め尽くされる。そんな想像を抱いていたのである。どうしてこんなくだらない書き込みが
増えているのか。わからない。奈津を非難する書き込みが為された理由は、もっとわから
ない。
「他の掲示板はどうなの」
 啓が聞くと、父は無言でパソコンを操作した。画面が一口馬主伝言板に切り替わる。数
ある一口クラブの中で、一番初めにレジェンドのスレッドが表示されているのは、書き込
み頻度が高まっている証拠だろう。父の言ったとおり、そして啓が狙ったとおり、奈津と
アリスマジックのコンビは関心を集めている。
『新人でしかも女とか、勘弁してくれ』
『あからさまにクラブの宣伝だよな、これ』
『大浜雄平を乗せろよおおぉ!』
 怨嗟の書き込みが何件も続いていた。
『新川奈津とかふざけてんのか』
『女性騎手は応援したいが、自分の馬に乗るのは激しく微妙』
『会員バカにすんな』
 いくら読み進めても、奈津とアリスマジックのコンビを歓迎する書き込みは現れない。
『クラブのおもちゃだな、アリスマジック』
『終わったな。もう引退でOK』
『最悪』
 寒気がした。全身に汗がにじんだ。胃が縮こまるような不快感を啓はおぼえた。
 今、画面に映し出されているのは、人々の放つ露骨な悪意に他ならない。インターネッ
トの匿名性が過激さを助長しているのだと頭ではわかっている。それでも啓の心はきしん
だ。
 これではまるで、自分が間違ったことをしたみたいではないか。
 正しいことをしたはずなのに。
「……何とかならない?」
 啓は父にたずねた。
「このパソコンから書き込みをして、奈津をフォローするとかさ。嫌な意見を書くやつを
黙らせるまで」
「それは、できない」
 あっさりと父は答えた。
「不快な書き込みはスルーするのが一番なんだ。下手に反応したら議論が際限なく続く。
お互い自分の意見を持っているわけだからね。どうしても不毛な言い争いになる」
「けど、奈津が悪者扱いされているのに……」
「争いをしたところで、どうにもならない。これはインターネットの掲示板に限ったこと
ではないんだ。啓、恨みの連鎖って言葉を知っているかい? 争いは勝敗を生む。負けた
ほうは恨みを抱く。その恨みがまた争いを生む。虚しいことだよ」
「だからって……」
 啓は反駁しようとしたが、そのまま口をつぐんだ。父の発言に感化され、言い争いの無
益さを悟ったわけではない。不意に父の過去の言動が頭をよぎったのである。それを現在
の父の態度と結び付けたとき、協力を仰ぐことの無益さを、啓は悟らざるを得なかった。
 もともと、父は地元の競馬場に否定的な感情を有していた。
 けれど啓が競馬場で働き出しても、父はまったく反対しなかった。
 競馬場で働くことについて、啓が事前に相談を持ちかけていたら、父は反対していたか
もしれない。
 しかし啓は事後報告したから、父は反対しなかった。
 自身の意見を抑え込んだ。
 啓のことを応援するような態度まで取るようになった。
 ――そこまで怖いのか、対立することが。
 独立という争いに敗れて以来、ずっと継続している父の無気力の正体を、啓はようやく
理解した。

     13

 翌日、荒れるインターネットを放置したまま厩舎街に出向いた啓は、漫然と昼休みまで
仕事をこなした。ミスはしなかったはずである。ただし注意力は確実に低下していた。
「アンちゃんさ、ひとことテキに謝っとけよ」
 庭掃除を終え、厩舎の壁に竹箒を立てかけていると、啓はひげ面の厩務員からそんな忠
告を受けた
「レジェンドの馬のことで、揉めてたみたいだからよ。乗り役とさ」
 大浜厩舎と大浜雄平ほど緊密な関係ではないものの、中田厩舎にも主戦と呼ぶべき騎手
がいる。ひげ面の厩務員の話によれば、アリスマジックの鞍上が自分でないことに不満を
抱いたその騎手に対し、中田が謝罪するような一幕が、今朝の調教中に起きていたらしい。
「新川の嬢ちゃんに騎乗依頼が来たのは、やっぱりアンちゃんの意見が大きいんだろう? 
気持ちはわかるが、ひとこと詫びたほうがいいんじゃねえか」
「それは違う」
 ひげ面の厩務員に返事をしたのは、啓ではなかった。
「見くびってもらっては困る。アリスマジックに新川を乗せると決めたのは、私だ」
 声のしたほうを振り向くと、庭の入り口から若い女が近付きつつあった。
 京である。
 庭の中央を堂々と歩いた京が、啓とひげ面の厩務員の前で足を止める。
「社長さん、どうしたんですか、一体」
 戸惑いながらたずねる啓に、京は深く頷いてみせた。
「うむ。まずは連絡が一つ。山辺、お前に仕事を頼みたいと時田が言っていた。詳細を記
したメールが送られるはずだから、確認しておいてくれ」
「はあ、わかりました。でも、それを伝えるために来たわけじゃないですよね」
「ああ。じつは市のお偉いさんに呼ばれていてな。競馬場の存続について討議するから参
加してほしい、とのことだ。お前の師匠も出席すると聞いているが、知らなかったか」
「そういえば、そんなことを言って出かけた気も……」
 注意力が低下していた部分もある。けれどそれより市側と競馬場側の会合が日常化して
いること。さらにそれが形骸化しつつあることで、啓は中田の発言を気に留めずにいた。
 あのう、とひげ面の厩務員が京に声をかける。
「社長さん、どうするつもりなんで」
「どう、とは」
「うちの厩舎と言うかうちの競馬場で馬を走らせるんだから閉鎖には反対してくれるっ
てことですかね」
「閉鎖には反対だな。とはいえ今のままでは、お前たちを応援する気にもなれない」
「どうして!」
 予想外の返答だったらしく、ひげ面の厩務員は声を荒らげた。それを耳にしたようで、
厩舎脇の大仲にいた二人の厩務員も庭に顔を出す。ひげ面の厩務員から事情を聞くと、皆
が厳しい視線を京に向けた。
「人に頼る発想自体がいけないのだ」
 京にひるむ色はない。
「競馬の歴史を紐解いてみろ。レースで勝利をもぎ取った馬のみ血を残す。弱い馬は排除
される。絶え間ない淘汰こそ競馬の歴史だ。それは馬主についても、騎手についても同じ
こと。競馬場とて例外ではない。例外にしてはいけない」
 京の熱のこもった演説を、厩務員たちは憮然とした面持ちで聞いている。そんな大口を
叩けるのは、絶対的権力を持つ天条の人間だから。厩務員たちはそう感じているのかもし
れない。
 だが、啓は知っている。ホースクラブ“レジェンド”は決して強者ではない。それなの
に京は語るのである。自分の力で戦い、勝ち残れと。
「ピンと来ないようだな」
 厩務員たちを見回した京が、軽く眉根を寄せる。
「決断に迷ったとき、あとでもっとも悔いるのは決断をしないこと。私の父ならそう言う
ところだが、これは前にも話したな。おぼえているだろう」
「…………」
 話を向けられたひげ面の厩務員は、沈黙を以って返事とした。京が軽くため息をつく。
「否定はしない、と受け取らせてもらうぞ。だというのに考えを改めずにいるのであれば、
そうだな。私は部下の時田にこう説かれたことがある。無理とか無駄とか考えるのは、あ
と回しでいい」
 京は啓のほうを向いた。意味ありげな微笑を浮かべる。
「あとにも先にも、時田に説教されたのはその一度きりだ。当時は私も悩んでいたからな。
なにをすればいいのかわからず、なにをするのも無駄に思えた」
「レジェンドの社長になると決まった頃の話ですか」
 啓の言葉に京は首を縦に振った。
「うむ。私が牧場の厩舎で一人で落ち込んでいたら、馬の仕事を辞めたはずの時田が押し
かけてきてな。怖い顔で言ったんだよ」
 やるべきことなら、やる。
 やるべきときなら、やる。
 無駄とか無理とか考えるのは、あと回しでいい。
 どうしても考えてしまうようなら、それはきっとやる必要のないことだ。
「あのとき私は、目の覚めるような思いがしたものだ。お前は今、どう感じた、山辺」

     14

 自転車から降り、ガードマンに挨拶しながら啓は厩舎街の入場門を通過した。砂の道に
入る。再びサドルに跨ろうとしたところで、少し先を黒のキャップの男が歩いていること
に気付いた。調教師の中田である。
「先生」
 自転車を引きながら、啓は声をかけた。足を止めて中田が振り返る。
「どうした、啓。家に戻っていたのか」
「はい」
 啓が追い付き、二人は並んで歩き始めた。
「レジェンドから仕事の連絡がメールで送られたと聞いて、確認に」
「そうか。そういう約束だったな。具体的にはなにをやらされるんだ」
「コラムを書けと」
 ネット上の公式サイトに、担当馬の紹介記事を書いてほしい。よそのクラブならプロの
ライターに依頼する仕事だが、そこは経費削減で。それが時田からの指示だった。コラム
の分量は四百字詰め原稿用紙で五枚。
「たしかにお前が適任だろうな」
 口の端を持ち上げ、中田は渋く笑った。
「他の厩務員は、どいつも作文なんて柄じゃねえ」
「先生、市の代表との話し合いはどうでしたか」
「話し合いというか、天条京の独演会だったな。あのお嬢さん、厩舎にも寄り道したんだ
ろう?」
「はい」
「相も変わらず、正論ばかりを聞かされ耳が痛かったんじゃないか? 会合でもな、俺は
ともかく他の連中は面食らっていた。可愛い顔して大したタマだよ、まったく」
「……すみませんでした」
 中田から視線を逸らすように、啓は頭を下げた。
「アリスマジックの騎手のこと。先生に相談もしないで、黙っていて」
「…………」
「最終的に判断したのは社長さんですけど、言い出したのは俺ですから」
「啓、あのお嬢さんの口癖じゃないがな」
 答える中田の声は、啓の想像よりもはるかに温かかった。
「それが正しい、とお前は思ったわけだろう」
「……はい」
 たしかに、啓は正しいと思った。レジェンドの間違いを自分の正しさで矯正するくらい
の気持ちでいた。しかしそれは今考えると、自分にとって正しい、と言うだけでしかなか
った。だからこそ、ネットの掲示板で反感が渦巻いているのである。中田にも迷惑をかけ
てしまったのである。
「俺はな、啓。さっきあのお嬢さんに聞いてみたんだ。経験の浅い新川が、レースで騎乗
ミスをするとは考えられませんか、とな」
「先生も反対なんですね。奈津を乗せることに」
「話は最後まで聞け。俺の質問にお嬢さんはこう答えた。私の見込んだ騎手が、愚かしい
ミスはしないはずだ。ただし万一ミスをしたなら、次走の騎手は一から考え直す、と」
「…………」
「不満か、啓。騎乗依頼を受けるために、新川はずいぶん苦労したらしいな」
「それは……」
 誤りを正すことに京は全力を注ぐ。そういう結論に至るのは理解できる。それが啓の素
直な感想である。
「……社長さんらしいと思います」
 しかし、不満がないと啓は言い切れなかった。わがままだとわかっているが、奈津を続
けて乗せてほしい。それが啓の本音だった。
「そうだな。そういうことなんだよな」
 何度も頷きながら、中田が足を止める。自厩舎に到着したのである。啓は庭の片隅に自
転車を停めた。厩舎の一番端、トタン張りの住居の前で待つ中田のもとへ向かう。
「あのお嬢さんに、俺は他の質問もした」
 壁に取り付けられた厩舎の看板を見ながら、中田は言った。
「もしも飼い葉の問題を解決したら、馬を預けてくれるのか。そのときはまた考え直す。
それがお嬢さんの返事だった」
「…………」
「俺は納得した。新川のことや普段の発言をひっくるめて、あのお嬢さんの考えがわかっ
た気がした。だから、賭けることにした」
「賭ける?」
 啓は驚きをおぼえた。それは京の正しさに賭ける、と言う意味だろうか。だとしたら、
中田は時田のように京の意見を全面的に受け入れていくのだろうか。そうすれば、京の覚
えはよくなるに違いない。けれど初対面のときも、アリスマジックの管理を打診されたと
きも、衝突してばかりで距離の詰まらなかった二人である。京の指示に中田は抵抗なく従
えるものだろうか。
「先生、厩務員を増やしたりするんですか」
「まさか」
 中田が笑う。
「そんなことをすればうちの厩舎は潰れる。厩務員の数を増やせば馬を丁寧に世話できる。
それは当然で、絶対的な正しさがある。だが、俺たちにとっては間違いでしかない」
「社長さんのことを信じるから、賭けるわけですよね」
「まあな。俺たちが真の力を見せたとき、その正しさを、正しく認める。それだけの度量
があのお嬢さんにはあると、俺は踏んだ。自分の意見を引っ込めてでも、考え直し、より
正しいものを追求してくれる。そういう勇気を持っているとな」
「真の力、ですか」
 啓が聞き返すと、中田は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「チャンスはある。外厩といってもな、たとえばその制度を認めていない中央に遠征する
ときは、名義上の所属厩舎に滞在しなくてはならない。最終追い切りは競馬場で行うこと
になる。そのとき俺たちは完璧な仕事をして、お嬢さんに力を認めさせればいい」
「でも先生、それだと比較対象が天条トレセンになりませんか」
 実際に足を運び目の当たりにした大迫力の坂路を、啓は思い浮かべた。
「勝てるわけが……」
 呟いたところで、先ほど京に聞かされた時田の言葉が頭をよぎった。
 無理とか無駄とか考えるのは、あと回しでいい。
「まあ、施設面では敵わないわな。だがな啓、天条トレセンは遠いだろう。レース当日、
何時間もかけて競馬場まで輸送するのは、あきらかに馬に負担をかける。マイナスだ。プ
ラスとマイナス、総合点で勝負するなら、まるきり戦えない相手じゃねえ」
 すでに腹は決めたのだろう。もう迷わないで突き進むのだろう。晴れやかと言っていい
表情で、歯切れよく中田が語る。
 対照的に、啓の心は曇っていた。厩舎第一の中田と自分とでは、正しさが一致しない。
それがわかっているのである。たとえ中田の意見に正当性を認めたところで、変わらない。
自分が厩舎街に飛び込んだ理由。どれほどもっともらしい理由をつけたところで、それは
変えられない。
 自分はなにを救いたかったのか。閉鎖寸前の競馬場ではない。
 自分はなにを支えたかったのか。拾ってくれた厩舎ではない。
「お前も早く、一人前になってくれよ」
 啓の思索を打ち破るように、中田が言った。
「厩舎を背負うのは俺だ。けれど競馬場までは背負い切れん。競馬場を背負うのは、厩舎
街の全員になる。だが啓、お前はまだ見習いだ。半人前だ。本当の意味で、厩舎街の一員
になったわけじゃねえ」
「……俺は、一人前になれないかもしれません」
「ふざけるなよ」
 きつい口調で応じた中田が、厳しい表情で啓を見据える。
「俺はお前がモノになると踏んだからこそ、財布を空にしてまで雇ったんだ」
 その顔付きが次第にゆるんで、苦笑いになる。
「いつまでも半人前でいられたら、厩舎の死活問題だってわかりやがれ」
「…………」
「啓、一つでいいんだ」
「一つ?」
「人生は一回きり。命は一つきり。だから一つでいい。大事なものを、しっかり背負い込
んでみろ。それで倒れなかったら、俺もお前を大人だと認めてやる。まずはそこからだ。
そのことだけを考えていろ」
「……先生」
 啓は頭を深く下げた。先ほどは奈津のことで謝った。今は違う。
 恵まれている、と啓は思った。
「ありがとうございます」

     15

 啓は競馬場のパドックを周回していた。右隣には、牝馬ながら五百キロを超す堂々たる
体躯のアリスマジックがいる。肩を揃えて、人馬がリズミカルに歩を進める。
 二歳重賞、チャレンジジュニアのレース当日を迎えていた。発走時刻はおよそ三十分後、
十五時四十五分の予定となっている。
 右手に持ったアリスマジックの引き綱が張り詰める。啓はすかさず歩幅を調節した。馬
の一歩と人間の一歩は当然ながら幅が異なり、歩調を合わせるには人間が大股に歩く必要
がある。多少疲れるのも事実だが、馬は人がそばで並んで歩くと集中力を増す。レースに
向けて人事を尽くすと言うなら、関係者として、パドックでも馬の状態を上向ける努力を
すべきなのは間違いない。
 止まれの合図がかかり人馬がパドックの周回を中断する色鮮やかな勝負服姿のジョッ
キーたちが控え室から登場して、整列する。一礼して、それぞれの騎乗馬のもとへ小走り
に向かう。啓のもとには奈津が来る。
「横断幕、凄い数です」
 客席のほうを向いて奈津は言った。パドックと客席のあいだには金属の柵が設けられて
いて、派手な色彩の横断幕がたくさん取り付けられている。新川奈津の名を染め抜いたも
のがある。他の騎手を応援するものも少なからずある。一頭の馬を数百人で所有している
強みか、アリスマジックの横断幕は三枚も張り出されていて、他の出走馬を応援するもの
も何枚かあった。
 どの馬も関係者の想いを乗せて走る。ファンの祈りを乗せて走る。
 しかし、レースで勝つのは一人と一頭のみ。
 だとしたら、俺は。
「奈津」
 執事のように曲げた片腕を、啓はやや下げ気味にして前へ出した。それを足場に奈津が
アリスマジックの背に跨る。
「勝とうな、絶対」
「はい、勝ちましょう」
 白い日差しの中で、馬上の奈津は微笑んだ。啓の正義がそこにある。
 ――それにしても。
 啓は驚きをおぼえた。
「まったく暴れないな、アリスマジック」
「しつこく付きまといましたからね。もう乗るくらいでは暴れませんよ。大丈夫です」
「……なるほど」
 啓が納得したのは、アリスマジックの落ち着きについてだけではない。初めての重賞競
走を前に、奈津が平常心を失わずにいることにも驚いていたのだが、パートナーと築いた
信頼関係が大きな自信となっているようである。
 奈津を背に、啓に曳かれたアリスマジックが、パドックでの周回を再開する。
「あ、あった」
 半周ほど歩いたところで、奈津が唐突に言った。
「啓くん、気付いてました? あの横断幕、啓くんのことを応援してますよ」
「……はい?」
 アリスマジックの足取りに合わせて、奈津の視線が正面から横へと向きを変えていく。
啓がそれを追いかけると、たしかにあった。信じ難いことだが、横断幕に自分の名前が書
かれている。まるで想定外だったことに加え、表記がローマ字で読みにくいこと。さらに
サイズが他の横断幕の三分の一に満たないことが、ずっと気付かずにいた要因だろう。
 啓は横断幕から視線を外した。
「意味不明だ。それにしてもよく見つけたな」
「インターネットの掲示板で予告されていたんです。啓くんの横断幕を張るって」
「え?」
 先ほどから驚いてばかりだと自覚していたが、意外なことが続くのだから仕方がない。
啓は口を半開きにして奈津を見上げた。
「お前のファンサイトのことだよな。あれを見ているのか? 家にパソコンはないよな」
「三瀬先生の家でときどき確認していたんです」
「荒れていなかったか?」
「それはそれは……。というか、啓くん。その言い方だと見ていないんですか、掲示板」
「気にしないと決めたからな、当面は」
「それ、正しい判断だったかもしれません」
 客席の目を気にしてか、奈津が顔をうつむけるようにして笑う。
「私、てっきり啓くんが書き込みに怒って、ネットの話題に触れなくなったのかと思って
いましたから」
 もし、奈津を攻撃する書き込みが続いていれば、たしかに腹は立つだろう。奈津本人に
気付かれないよう、意図的に話を逸らすというのも考えられる対応である。ただ、それだ
と今、奈津が可笑しそうにしている理由がわからない。
「……もしかして、コラムか」
「はい、コラムです。とても話題になっていましたけど、しょうがないですよね。アリス
マジックの紹介コーナーのはずなのに、あの内容では。掲示板も炎上しますよ」
「俺、こいつの世話をしているわけじゃないからな」
 アリスマジックの横顔を見ながら啓が言う。暴れて目を剥いたりしなければ、額の模様
も品があるし、整った顔立ちの馬である。これからコラムを執筆するなら、その点に注目
することもできただろう。
 しかし、実際には事情が異なった。啓が文章にできることといえば、自身が天条トレセ
ンで目の当たりにしたアリスマジックの暴れぶりだけだった。当然、それを奈津が華麗に
乗りこなしたことにも触れた。原稿用紙五枚というのは思いのほか長く、啓は文字数を埋
めるために奈津のことをさらに掘り下げて書いた。応援よろしくお願いします、と言うの
が結びの一文だった。
「あれ以外、俺には書くことがなかった」
「そうかもしれませんが、おかげで怒らせてしまったんです。私がアリスマジックに乗る
ことに反対していた人たちを。この厩務員がすべての元凶だって。しかもですよ、啓くん
のコラムをアリスマジックの悪口と受け取った人も、一部にはいたみたいなんです」
 過去四戦のレースぶりから、アリスマジックの気難しさは周知の事実だったはずである。
だがそれでも、愛馬の悪口を他人に言われるのは我慢できない。出資者ならではのそう言
う心理は、啓にも理解できる気がした。
「でも、そこで颯爽と現れたんです。啓くんのファンが」
 顔を上げて奈津は言った。前方にはトンネルのような地下馬道の入り口が近付いている。
すでに先頭の馬はスロープを降り始めていた。
「啓くんを非難する書き込みに、必ず反論するんです、その人。啓くんは悪くないって。
凄いのは朝、昼、晩、どの時間の投稿にも、即座に反論することで、レジェンドの社員が
火消しに回っているのか、って最初は騒がれていました。けど、クラブの悪口には反論し
ないんです、その人。一口馬主伝言板の書き込みでも」
「そんなところもチェックしていたのか、お前」
「あはは。それで、もしかして啓くん本人が書き込んでいるんじゃないか、って疑われ出
したところで、そのファンの人が発言したんです。レース当日、啓くんの横断幕をパドッ
クに張るから、文句があるならかかってこいよ、って。男らしく」
「無茶苦茶だ……」
 地下馬道へ降りる途中、啓は横断幕の張られていたほうを振り向いた。
 一瞬、啓のよく知る人物の姿が見えた気がした。
 それはありえない話だった。その人物は朝、昼、晩、どの時間も家でパソコンと向かい
合っているのである。
 けれど啓は、父の姿を見た気がした。
 本馬場まで馬を誘導するのが厩務員の仕事である。再度その人物の姿を確かめるため、
パドックに引き返すことはできなかった。
 チャレンジジュニアはダートの千四百メートル戦。重賞の中では格の低いGV戦だが、
十二月に行われるダートのGT、全日本二歳優駿に向けたステップレースとして重要な地
位を確立している。昨年の覇者は明けて三歳の今年、ダート短距離界の王者を決めるJB
Cスプリントを制覇していた。
 スターターが赤い手旗を振り、地元ブラスバンドの生ファンファーレが演奏される。出
走馬はフルゲートの十二頭で、その内わけは中央競馬から四頭、地方の他地区から四頭。
地元馬が四頭。直線入り口のスタート地点に設置されたゲートに、奇数番の各馬が誘導さ
れる。一番人気に推された二戦二勝の中央馬、スターサムートも九番枠に収まった。偶数
番のゲート入りに移行する。六番の馬が後ろ扉の前でごねる中、八番のアリスマジックは
すんなり枠内に収まった。係員の長鞭で急かされ、ようやく六番の馬もゲート入りを完了
する。最後に十二番の馬が誘導を受け、態勢が整う。
 バネがはじけて扉が開いた。アリスマジックは弾丸のようなスタートを決めた。馬なり
で楽に先手を奪取する。これも好発を決めたスターサムートが二番手に付け、その後やや
距離を置いてひと塊の馬群が続いた。
 一コーナーを回る。馬なりのまま、アリスマジックがリードを広げる。
 二コーナーを回る。アリスマジックとスターサムート、スターサムートと後続との差が、
およそ五馬身ずつの等間隔となる。
 向正面に入る。アリスマジックはリードをいっそう広げにかかった。かつて名騎手の大
浜雄平が、今のアリスマジックと正反対の戦法を披露したことがある。一番人気の実力馬
に雄平は離れたシンガリを追走させた。それは他馬のハイペースに惑わされることなく、
自身だけ適切なラップペースを守り続けた結果だった。
 アリスマジックが向正面の半ばを過ぎる。
 ペースは、速い。
 三コーナーに差し掛かり、残り四百メートルを切る。
 ペースが、落ちた。
 二番手を進むスターサムートの騎手が手綱をしごいた。一気に加速する。後続の集団も
進出を開始する。
 アリスマジックが四コーナーに入る。猛烈な勢いでスターサムートが迫る。
 内ぴったりを回ってアリスマジックが直線を向いた。直後、コーナーを膨れ気味に回り
切ったスターサムートに、ジョッキーの激しい鞭が飛ぶ。一発、二発、三発、四発。叱咤
に応え、スターサムートがアリスマジックに並びかける。
 奈津が鞭をかざした。鋭く振り下ろした。
 刹那、アリスマジックは躍動した。待ってましたと言わんばかりの反応は、三コーナー
から息を存分に整えていた成果だった。残り百メートル。短く絞った手綱をしごき、奈津
が全身を使って馬を追い出す。アリスマジックが四肢を伸ばし、蹄を突き立て砂を蹴る。
人馬の動きが一体化して、最大効率の速度が生まれた。一馬身。二馬身。瞬く間にリード
が広がる。力が違った。
 後続に三馬身の差を付け、アリスマジックがゴールをトップで駆け抜ける。重賞初騎乗、
初制覇の快挙を成し遂げた奈津が、手綱を緩めて全身の力を抜いた。労わるようにパート
ナーの首筋を軽く叩く。
 アリスマジックは力を抜かなかった。まだ物足りないのか減速せずに一コーナーへひた
走った。馬の力を信じて大胆なレース運びを見せた奈津も、この暴走にはさすがに慌てた
ようである。手綱を強引に引っ張った。
 今後の活躍をご照覧あれ。
 天に向かって訴えるように、アリスマジックが顔を上げて口を割る。さほど速度を落と
さないまま、二コーナーに突入する。
 その姿が場内の映像装置に大写しになる。罵声とため息の染み付いた競馬場に、拍手と
笑い声がさんざめく。
 その音色は、近付く冬を忘れさせるほど温かい。

※「もう一人のメサイア」参考文献
 藤澤和雄 『競走馬私論 プロの仕事とやる気について』(祥伝社黄金文庫・2003年)
 木村幸治 『吉田善哉 倖せなる巨人』(徳間書店・2001年)


今回で「きみはジョッキー」の連載は終了いたします。
ご愛読いただき、ありがとうございました。
本連載分に書き下ろし原稿を加え、ポプラ文庫ピュアフルで今夏刊行を予定しております。
 


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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