illustration:宮尾和孝
第九回


(3「もう一人のメサイア」つづき)

     7

「山辺さんは先代の目利きの話をご存知ですか」
 時田に問いかけられた啓が頷く。国内外のセリ市で数々の名馬を発掘した天条猛の相馬(そうま)
(がん)は、神、と関係者から呼ばれていた。
「娘の社長さんにも目利きの才能は受け継がれている、と言うことですか」
「いえ、とんでもない」
 時田が首を横に振る。先代に敬意を払ったのか、と啓は思ったが、現実はまるで異なっ
ていた。
「先代が競走馬のセリに出かけるとき、その傍らには必ず社長の姿がありました。社長が
幼いときからずっとです。それがなぜだかわかりますか? 先代に溺愛されていたから、
という答えも間違いではありません。ですが完全な解答は、買う馬を社長に選ばせていた
から、となります」
「…………」
「二人の兄が社長を閑職に追いやった理由。それは妹の図抜けた資質によって、自分らの
立場が脅かされるのを恐れたため、となります」
 とてもじゃないが、信じられない。京にまつわる二つの大げさなエピソードを聞いた、
それが啓の率直な感想だった。
「稚拙な作り話と思いましたか?」
 その気持ちを見越したように時田が言う。
「それが常識的な反応でしょう。だからこそ、世間にこの話は広まらない。ですが山辺さ
ん、安価な牝馬ばかりのレジェンドの馬が、順調な勝ち上がりを見せていることをご存知
ですか。それは社長の眼力の為せる業なのです」
 細い目を見開き、時田が今日一番の熱弁を振るった。だがやはり、啓には信じ難い話だ
った。それにそもそも時田は啓に助力を願う理由として、京の目利きを語り始めたはずで
ある。馬を見る目と人を見る目を混同されても困る。
「私のクラブでの役割は、社長の意思を可能な限り実現させること。これに尽きます」
 ただ、続けてそう語った時田が、京に絶対的な信頼を置いているのは間違いなかった。
神の相馬眼についても、京がその持ち主だと時田は信じ切っている。
「レジェンドの運営を軌道に乗せるために苦心するのは、社長さんの選択肢を増やすため
ですか」
 啓は含みのある質問をぶつけた。限りなくグレーと言える故障した牝馬の引っ張り行為。
主導したのは天条牧場かもしれないが、時田がそれを容認しているのは事実である。
「はい」
 躊躇する様子を見せずに、時田は頷いた。
「社長さんのこと、どうしてそこまで信じられるんです」
 啓がたずねると、時田は自身と京の出会いについて語り始めた。

     8

 時田は競走馬を生産する牧場の三男として生まれた。天条のような大牧場ではなく、家
族経営の小さな牧場だった。同規模の牧場が数十軒も存在する地域が時田の故郷だった。
 成長した時田が天条牧場で働き始めたのは、強い馬作りの秘訣を盗んでやろうという、
若者らしい野心によるものだった。厩舎であれ放牧地であれ、馬のいる場所ならどこにで
も現れる京とは、日常的に顔を合わせた。挨拶も交わした。とはいえ二人で話し込むよう
な機会はなかった。
 そして数年が経ち、時田は挫折した。巨大牧場で培われた馬産のノウハウを学んだとこ
ろで、小牧場では活かし切れない。そんな問題もあったが、それ以上に悩まされたのが天
条で働く自分への、地元からの風当たりの強さだった。冷え込む景気の影響で小牧場の倒
産が目立つようになると、あたかも同業者の力を吸い上げるようにして成長する天条への
敵意が、地元で露骨に膨らみ始めたのである。天条で働く時田は、いつの間にか裏切り者
扱いされるようになった。親兄弟からは早く家に戻れと頭ごなしに言われた。
 時田の心は疲弊した。ある日、作業時間が過ぎた夕暮れの厩舎に一人で居残ると、時田
は自身の担当馬の前に立った。
「俺は、強い馬を作りたかっただけなのにな」
 それは牧場の活力を取り戻す手段にもなり得るだろう。地元の人々の気持ちもわかるが、
天条への反感をいたずらに募らせるだけでは、状況の悪化に歯止めはかからない。
「これから一体、どうすりゃいいんだ」
「簡単なことだ」
 こぼした愚痴に、返事があった。
「日本の競馬をよくしよう」
 声のしたほうを時田が振り向く。厩舎の入り口に立っていたのは、京だった。
「日本の競馬の誤りを正す。それを繰り返せば、よい環境ができあがる。強い馬が育つの
は道理だ」
「…………」
「世界に追い付くだけでは満足できないぞ、私は。日本の大企業を見るがいい。どこも海
外に販路を拡げている。我々も早く世界のレベルを追い抜いて、各国の馬主から日本馬を
求められるようにしなくてはならない。そう思うだろう」
「……お嬢さん、どうしてこんなところに」
「それはこちらの台詞だ。私は毎日来ているぞ、この時間の厩舎に。馬の気持ちを勉強す
るためにな」
「気持ち、ですか」
「うむ。たとえば飼い葉を残す馬がいたら、表情を見る。仕草を見る。昨日の様子と比較
して、さらに前の日とも比較する。じゃれ付く馬がいても、イラ付いた馬がいても同じだ。
かれこれ五年も観察を続けているからな。だいぶ馬の気持ちを理解できたと自負している
ぞ」
「そう、ですか。だったら邪魔しては悪いですね」
 屈託無く語る京をその場に残し、時田はそそくさと厩舎から立ち去った。
「日本の競馬をよくしよう」
 京の発言が耳に残っている。あとから思えば、時田はこのときすでに京に共鳴していた
のかもしれない。だから大言壮語を笑わなかったし、翌日からも京の言動に関心が向くよ
うになった。相馬眼の噂を笑い話として同僚から教わると、その検証を地道に進め、それ
が真実であると確信を抱くまでになった。
 だが、時田に共鳴したと言う自覚はなかった。時田は自分と京の差を感じていた。あい
だに高い壁があると思っていた。だからこそ逃げるように理想を語る京の前から立ち去っ
たのであり、その後も遠目に見守るだけで、京と積極的に交流を持とうとはしなかった。
 二人には牧場の子供という共通点があった。そのうえどちらも第三子で、強い馬を作り
たいと願ったのも一緒だった。しかし、違う。実家の牧場を念頭に置く時田に対し、京は
日本の競馬全体を見渡していた。自分とは世界が違う。それが時田の正直な思いだった。
 やがて時田は天条牧場を辞めた。実家の牧場が倒産したのである。馬作りのノウハウを
学ぶという大義名分が意味を失ったことで、天条を憎む親兄弟の声に逆らい難くなった。
また、時田自身も頃合のように感じていた。もうなにをしても無理だし、無駄である。ど
んな角度から検討しても、未練などない。納得して、時田は会社員として再出発した。
「日本の競馬をよくしよう」
 当時、京は大学に通うため上京していた。卒業して北海道に戻ったとき、京は一体どん
な行動を起こすのだろう。自分には想像すらつかない、大胆な取り組みに着手してくれる
のではないか。そんなことを胸の片隅で、あくまで他人事として期待しつつ、時田は会社
勤めに励んだ。
 だが、その日が来る前に、天条猛が急逝した。かつての同僚に時田が連絡を取ると、兄
たちに疎まれた京は、実権のない地方向け一口クラブに押し込められ、牧場からは半ば切
り捨てられると言う。
 このままでは、日本の競馬はよくならない。
 時田はそう思った。自分とは世界の異なる話である。自分などにできることはないと、
理屈ではわかっている。しかし、心が動いた。このままではいけない。大志を抱く京には、
結局、なにもできなかった自分のようになってほしくない。焦りすら抱くほど、時田は強
くそう思った。
 伝手を頼り、時田は京と話す機会を得た。猛の代わりとなり、その後ろ盾になることは
できない。それでもなにかしらの支えになりたくて、時田は京の下で働くことを願い出た。
実家にも会社にも相談していなかった。抑え難い衝動に時田は突き動かされていた。
 クラブが企業としてまったくの未完成だったこと。
 京の兄二人がクラブの運営に欠片すら関心を抱いていなかったこと。
 これら二つの状況が上手く作用し、誰より早く就職を希望したという一点のみの功績で、
自分は社長から思いがけない厚遇を受けることになった。東京事務所所長に抜擢された理
由を、時田はそのように考えていた。

     9

 時田の長い話が終わる。
「日本の競馬を、よくしよう」
 声に出して言ってみたが、雲をつかむような感覚を啓は消し去ることができなかった。
時田も世界が違うと感じたそうだが、競馬と無縁の家に生まれ、まだ見習い厩務員の啓で
ある。時田以上に縁遠い話と感じたとしても、それは致し方ない。
 ただ、現在も京と時田がその目標に邁進しているとしたら、確認すべきことがある。
「さっき時田さん、地方競馬の重要性を話していましたよね」
 日本の馬産には地方競馬という受け皿が必要不可欠。時田はそう主張していた。
「今、うちの競馬場は閉鎖の危機に瀕しています。日本競馬のことを考えたら、救う必要
がある。そういうことになりませんか。虫のいい話ですけど、レジェンドはうちに救いの
手を差し伸べるタイミングのはずです。外厩なんて使ったりせずに」
「私たちも競馬場の厩舎に預けるつもりでした。中田厩舎であれ、大浜厩舎であれ。考え
てもみてください。私たちは安さをウリにしているクラブです。地方競馬の厩舎に預ける
からこそ、預託料は安くなる。最新鋭の設備を揃えた天条トレセンを利用すれば、中央並
みの経費を取られます」
「だったらどうして。競馬場の厩舎を使ってくれれば、競馬場の救世主として、レジェン
ドは諸手を挙げて歓迎されるはずなのに」
「すべては社長の判断です。失礼な言い方になりますが、馬を預けられるレベルにない。
それが今回の厩舎視察の結果でした。旧態依然とした馬の扱い方。その改善を考えない向
上心の低さ。思い当たる節はあるのではないですか」
「…………」
「ただ、そうかと言って中央並みの経費を出資者の皆様に要求するわけにはいきません。
愛馬のためとは言え、それはさすがに怒られます。なので私は交渉を持ちかけたのです。
レースの進上金を納める代わりに、月々の預託料を引き下げてもらえないか。そう天条ト
レセンの場長に対して」
「時田さん、地方競馬の財政難は知ってますよね。うちの厩舎も大変なんです。進上金を
搾取されたら、厩舎の環境整備になんてますます手が回らないですよ」
「そうやって努力を放棄していたら、いつまでも根本的な問題解決に至りません」
 啓の抗弁をさえぎり、時田が言い切る。
 啓は苛立ちをおぼえた。同時に落胆もおぼえた。まただ、と思った。飼い葉や厩務員の
人数について話したときもそうだったが、レジェンドの人間の意見は、どうしても現場を
無視した絵空事に帰結する。理屈はわからなくもない。けれどそんな奇麗事を言っていた
ら、競馬場は救えない。理想にこだわるうちに競馬場は閉鎖してしまいました。そんな結
末を迎えたあとも、日本の競馬をよくしよう、などと京や時田は放言するつもりだろうか。
 ――間違っている。
 啓は確信した。現在の状況で正しいのは、競馬場を閉鎖させないこと。頭の中で繰り返
し検討しても、この判断が間違っているとは思えない。
 啓の脳裏に、競馬場での奈津の勇姿が浮かび上がる。
 時田を真っ向から見据えて、啓は告げた。
「一つ提案があります。聞いてもらえますか」

     10

 厩舎街の全休日。啓はいつも通り早起きして、小雨の中、始発電車に乗り込んだ。目指
すは天条トレーニングセンターで、隣の席には奈津がいる。両者とも、そのまま調教に出
向けるような軽装だった。
 先日、啓は時田に一つの提案をした。
「レジェンドの人気を上げる方法を思い付きました。聞いてください」
「……それは?」
「新川奈津に騎乗を依頼するんです」
「女性ジョッキーの新川さん、ですか。今年デビューで、最近話題になっていますね」
「初勝利は遅れましたが、このところ勢いに乗って勝ち星を積み重ねています。アリスマ
ジックの次走、重賞なんですよね」
「予定では」
「だったらそれは、新川奈津の重賞初騎乗になります。競馬雑誌もスポーツ紙も、こちら
が頼まなくても記事にするはずです。新川奈津とアリスマジックのコンビが、競馬ファン
の関心を集めるのは確実でしょう」
 その宣伝効果はレジェンドにばかり寄与するわけではない。世間の奈津への関心が高ま
れば、競馬場の入場者数は増加する。馬券の売り上げも伸びる。それこそが、奈津にもと
もと見込まれていた役割と言うこともできた。厩舎街の非協力的な態度によって、一度は
頓挫した計画だが、それを改めて正しい形で機能させるのである。
 時田は首を縦に振らなかった。インターネットで高まる奈津の人気を啓は説明したが、
時田の返事は変わらなかった。
 ただ、時田は首を横に振ったわけでもない。
「騎手の起用も判断するのは社長です。私にお答えできることではありません」
「はい」
「ただ、これは私の推測ですが、社長は騎手の話題性より実力を重視するでしょう。技術
面もそうですが、騎乗する馬との相性も配慮して」
「望むところです」
 啓はあくまで強気に奈津を推した。わかりました、と時田がようやく頷く。
「新川さんの件は社長に伝えます。約束します。なので山辺さん、話を戻しますが、アリ
スマジックの厩務員の件、受け入れてもらえますか」
「わかりました」
 啓も頷き、話は決まった。それから後の時田の行動は迅速だった。面会をしたその日の
晩に、啓に連絡を入れてきたのである。
 アリスマジックの騎手にふさわしいか、奈津のことをテストしたい、と。
 早朝の出発だったが、啓と奈津が天条トレセンに到着する頃には、午前十時を過ぎてい
た。雨は降っていなかったが、地面はぬかるんでいる。啓が先頭に立ってペンション風の
事務所を訪れると、ロビーで待ち構えていた京と時田がソファーから立ち上がった。
「来たか、山辺」
 青年、ではなく苗字で京が啓のことを呼ぶ。
「厩務員の話、よく引き受けてくれた。競馬場でアリスマジックを扱うのはお前になる。
頼むぞ」
「はい」
 短く答える啓の隣に、奈津が進み出る。
「社長さん、今日はよろしくお願いします」
「新川奈津か。私は天条京。こちらこそ、期待している」
「では、私は準備に」
 小声で言い残し、時田は足早に事務所を後にした。
「ちょうど晴れたからな。私たちも外で待つとしよう」
 言うなり歩き始めた京に続いて啓と奈津も屋外に出る事務所の前は広い芝生のスペー
スになっていた。立ち止まった京が空を見上げる。
「場長にお願いして、昼はここでバーベキューをさせてもらうことになっている。雨なら
中止だったからな。空気の読める太陽さんに感謝だ」
「タイヨウサン、って太陽のことですか?」
 奈津が背後からたずねる。
「おかしいか? 大学時代もよくからかわれたが、地元ではみんな太陽をさん付けで呼ぶ
ぞ。寒さの厳しい土地柄が影響して、太陽への感謝の念が強いのかもしれないな」
「太陽さん、私は可愛くていいと思います」
「そうか。……ふむ」
 視線を下げて振り返り、京は奈津と向かい合った。
「ずいぶんリラックスしているな、新川奈津。少し意外だ」
「そうですか?」
「時田が言うには、山辺の入れ込みぶりは凄まじかったらしいからな。新川奈津をアリス
マジックに乗せろ、と」
「私も乗りたいです!」
「気合不足、と言うわけでもないか。それならいい。実のところ、こちらもお前のような
騎手が現れるのを待っていたのだ」
「どういうことです」
 首を傾げる奈津を、京は眼光鋭く見やった。
「アリスマジックは乗りづらい馬だ。ここ二戦は騎手が呼吸を合わせられなかったために、
大敗を喫している。だから私は移籍を区切りに自分で騎手を選ぶつもりでいた。調教師に
口を挟まれることなしに、自分の基準でテストをしてな。今日も駄目なら駄目と遠慮なく
言うから、覚悟してほしい」
「はい!」
「乗りづらいって、気性が荒いんですか」
 快活に返事をする奈津の横から、啓がたずねる。
「そうだな。牧場では、密かに変態と呼ばれていたらしい」
「へ、変態?」
「ああ。私も聞いた話でしかないが、幼い頃は身体の弱い馬だったようでな。お腹を下し
て栄養失調にかかったり、原因不明の裂傷で脚からいつも血を流していたり、ウイルス性
の腸炎になったりしていたそうだ。おかげで軽い脚捌きを見せるわりに売れ残っていたん
だが、一歳の秋頃から急に丈夫になった。今では他馬よりずっと頑丈なくらいに成長した。
ただ、やはり一歳の秋頃から性格面の頑固さも見せるようになってな。たくさん武勇伝を
作っている。私が一番驚かされたのは、苛立ち紛れに調教コースでラチに突撃したときだ」
「暴れん坊なんですか。でも、そのわりに可愛い名前ですね」
 奈津がおかしそうに言う。
「馬名は会員に決めてもらっているからな」
 京は無責任な発言をした。
「それに私は気に入っているぞ。馬にとって気の荒さは勝負根性につながる。言い換えれ
ば、アリスマジックは頑張り屋の女の子と言うわけだ。これならさほど変でもあるまい」
 そして京は都合のいい理屈を展開した。奈津は笑っていたが、啓は眉をひそめた。やは
り、レジェンドのやることには不快な部分がある。どこまでも自分本位で、ずうずうしい。
きっと出資者を集める際にも、気の荒さを勝負根性と言い繕って売り込んだのだろう。そ
んなことを思いつつ、啓は再び歩き始めた京に従い、奈津とともにトレセン内を移動した。
 やがてたどりついたのは、柵に囲まれた坂路コースの入り口だった。道々、京に聞かさ
れた解説によると、坂路の長さは千五百メートル。中央競馬のトレーニングセンター以上
の規模で、浸透性が高いため降雨時でも水溜りができず、冬場の凍結も防げるポリトラッ
ク仕様となっている。主としてこの坂路を用いて、天条トレセンでは午前、午後にこだわ
ることなく、一日を三つに分けて調教を行っているという。
「迫力あります」
 京の用意したヘルメットをかぶりながら奈津が呟く。啓も同感だった。斜度は最大で八
パーセントと教えられたが、現場で目の当たりにすると壁がそびえているような威圧感が
ある。
 ややあって、坂路の入り口に時田が現れた。鹿毛の馬を曳いている。
「アリスマジックです」
 時田は告げた。牝馬にしては大きな身体に、鞍や(あぶみ)、手綱といった馬具がしっかり装
着されている。額の白い模様が奇麗な扇形をしている馬だった。
 もっとも、それら外見的な特徴よりも、啓はアリスマジックの大人しさが気になった。
周囲の人間たちなど無視するように、アリスマジックはとび色の瞳で空を悠然と見つめて
いる。京から聞いた話とはだいぶ印象が違う。
「さあ、まずは乗るところからテストだ」
 その京が言った。プロの騎手に対して乗るところもなにもないと啓は思ったが、奈津は
素直に指示に従った。左横からアリスマジックに近付く。
 不意に、京が啓の手を取った。
「離れるぞ」
 言うと同時に坂路の外へと走り出す。啓に拒否権は与えられなかった。奈津がアリスマ
ジックの背に跨る。直後に時田も啓たちのもとへ走り出した。
「え?」
 啓はあっけに取られた。視界に奇妙な光景が広がっていた。まず、アリスマジックが二
本の後ろ脚で立ち上がった。それだけなら特筆するほど珍しくもない。ただ、アリスマジ
ックは坂を登っている。一歩、二歩、三歩、四歩。馬が二足歩行を開始したのである。
「へ、変態だ……」
「この一芸のおかげで、牧場でそんな呼ばれ方が定着したわけだな、アリスマジックは。
しかしやるじゃないか、新川奈津。巧みにバランスを保っているぞ」
 京が指摘する通り、奈津は腰を浮かして鐙を踏み、自身も半ば立ち上がることによって
落馬を回避していた。しかも口笛を吹いてアリスマジックをなだめようとしている。傍目
にも余裕があった。努力の甲斐あってか、アリスマジックが前脚を地面に下ろす。
 次の瞬間、アリスマジックが今度は後ろ脚を高く跳ね上げた。着地する。再び後ろ脚で
立ち上がる。着地するなりまた後ろ脚を跳ね上げる。いつまでもその繰り返しだった。さ
ながらロデオ状態の奈津は手綱を握り、膝を締め、どうにかアリスマジックの背にしがみ
ついている。
「何なんですか、一体。あの馬、無茶苦茶ですよ」
「だから話しただろう。乗りづらいと」
 詰め寄る啓に京が平然と言い返す。啓は狂奔するアリスマジックに視線を戻した。
「でも、どうして。さっきまでは大人しかったのに」
「人間にもあるだろう。そこに触れた途端いきなり怒り始める、スイッチのようなものが。
アリスマジックの場合、人が背中に乗ることがそれに当たる。だから乗り役が降りるなり
落ちるなりすれば、あの馬は瞬く間に大人しくなるぞ」
「それ、競走馬として致命的な欠陥じゃないですか」
「背中に人を乗せると元気が出る。これは得難い資質でもある」
 啓の非難を京は胸を張って跳ね除けた。そうするうちに、アリスマジックが静かになる。
四本の脚を地面につけたが、まだ終わらない。アリスマジックは走り始めた。まっすぐ坂
を登るのではなく、ラチに向かって、斜めに駆ける。
「危ない!」
 思わず啓は声を張り上げた。かつてアリスマジックはラチに突撃した。そんな話を耳に
したばかりである。
「気が悪くても、頭が悪いわけではない。同じ失敗は繰り返さない」
 京の発言が聞こえたかのように、アリスマジックはラチの手前で急停止した。慣性の法
則が存分に働いて、奈津の身体が浮き上がる。
 宙に放り出される寸前に、奈津はアリスマジックに抱き付いた。どうにか馬上に留まり
続けた。
「おお!」
 時田が大きな歓声を上げる。
「今のアリスマジックの動きは、どんな乗り役でも一度は振り落とされる必殺技ですよ。
それを新川さんはしのいでみせた。これは、凄い」
「なら!」
 啓は京のほうを振り向いた。強い光を宿した瞳に視線をぶつける。
「うむ!」
 京は満足げに頷いた。やっとのことで諦めたのか、それとも背中の人間のことを認めた
のか、坂路の端ではアリスマジックが大人しく立ち止まっている。

     11

 採用テストは一日では終わらなかった。全休日のたびに、ときにはそうでない日も奈津
は天条トレセンに呼び出され、カメラを使って騎乗フォームを解析されたり、ストップウ
ォッチで体内時計の精度を調べられたりした。京と一対一で面接をさせられたこともあり、
なにより暴れ馬のアリスマジックと体育会系のスキンシップを、顔を合わせるたびに取ら
された。それでも奈津はへこたれずに、最後まで頑張り抜いた。
 そして、騎手が決まった。レースも決まった。
 アリスマジックは新川奈津との新コンビで、重賞競走、チャレンジジュニアに出走する。
「……と、言うことになったんだ」
「ほう。それはたいしたもんだな」
 普段より長引いた厩舎作業がようやく終わると、友人であり恩人でもある装蹄師の大基
に、啓はことの顛末を報告した。時刻は午後四時近く。予定通りなら、アリスマジックの
最新情報が今日の午後三時過ぎ、レジェンドの公式サイトで発表されたはずである。騎乗
者の選定については事前に外部に洩らさないよう、啓は時田に頼まれていた。
 大基のギョロ目が啓を見据える。
「テストに合格したのは新川だとしても、テストを実施させたのは啓、お前なんだな」
「そういうことになるのかな」
「よし、ちょっと待ってろ。菓子をやる」
「え? なにそれ。褒めてくれるの?」
「勘違いするんじゃねえ。美晴から北海道土産をもらったんだが、新川がいるときに出し
たら恨まれそうだからな。いい機会だと思っただけだ」
 大基の古い友人、西脇美晴の土産と言うのは、生キャラメルやチョコレートをコーティ
ングした厚切りのポテトチップスや、バタークリームと干し葡萄を挟んだビスケットなど、
いかにも太りそうな菓子ばかりだった。それらを袋詰めにして大基から渡されると、啓は
厩舎街をあとにした。地平に落ちかかる赤く大きな太陽を正面に見ながら、自転車で道路
を進む。橋を渡り、自宅アパートに到着する。
 インターネットが既存のメディアに勝るのは、レスポンスの速さ。奈津とのコンビ結成
を知ったアリスマジックの出資者は、奈津の重賞挑戦を知ったファンサイトの住人は、今
頃どんな反応を見せているだろう。
「ただいま」
 玄関で乱雑に靴を脱ぎ捨て、啓が廊下に上がる。直進して居間に入ると、父がノートパ
ソコンと向かい合っていた。今日、重大発表が為されることを、すでに父には教えてある。
「話題になってる? 掲示板」
 啓は背後からたずねた。父が振り返る。
「そうだね、さっそく関心を集めている。とても荒れている」
 いつもどおりの穏やかな調子で、父は不穏な発言をした。

※「もう一人のメサイア」参考文献
 藤澤和雄 『競走馬私論 プロの仕事とやる気について』(祥伝社黄金文庫・2003年)
 木村幸治 『吉田善哉 倖せなる巨人』(徳間書店・2001年)


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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