illustration:宮尾和孝
第八回


(3「もう一人のメサイア」つづき)

     4

 ホースクラブ“レジェンド”のスレッドを、父は画面に表示させた。
「クラブの発足した去年、レジェンドが出資者を募った一歳馬は、今年の夏から地方競馬
場でデビューしている。募集価格は総じて安めだったし、勝ち上がり率も今のところ高い。
かなり好評ではあるんだよ、レジェンドは。ただ先月、デビュー目前の二歳牝馬が怪我を
した。出資者を抽選で絞ったほど人気の高い馬だったんだけど、脚の板状骨折と言う重傷
を負ってしまった。獣医の見立ては完治まで一年」
「怪我するような募集馬を用意するなってこと?」
「それもある。だけどなにより出資者の反感を集めたのは、クラブがその馬を引退させな
かったことなんだ。怪我の回復具合を慎重に見守って、可能な限り復帰を目指す。クラブ
はそんなコメントを発表した。子供から大人へと、馬が一番成長する時期に、ずっと馬房
で安静にして暮らすわけだからね。その馬が活躍する見込みはもう薄いだろうに」
「それ、そんなに悪いことなの」
 八方塞がりの状況でも、自分は動く。そう言い切る女が社長を務めるクラブである。一
パーセントでも可能性があるなら、復帰を目指すのは当然だろう。それは愚かな決断かも
しれない。けれどその選択に全力を尽くすのであれば、印象は悪くない。啓はそう思った。
むしろ応援したい気持ちになる。
「個人馬主が同じ判断をしたなら、採算を度外視した馬本位の姿勢と賞賛されるかもしれ
ない」
 父は淡々と応じた。
「けれど一口馬主のクラブの場合、諸々の経費は全額出資者が払うわけだからね。自分の
懐が痛まないから、そんな善人ぶった態度を取れる。出資者はそういう印象を受けるだろ
う。それに出資者は毎月クラブに会費を納めている。馬の引退を延ばせば延ばすほど、ク
ラブにとっては利益が見込めるんだよ。だから故障した馬の様子をいつまでも見守る。こ
れは俗に引っ張りと呼ばれる手口だそうだ」
「事実なの、それ。憶測に過ぎないんじゃ……」
「そうとしか思えないケースを、一口馬主のクラブは過去に繰り返してきたらしい。やっ
ぱりか。お前もか。そんなふうにレジェンドは思われたんだろう。そうそう、補償制度の
問題もある。一度もレースを走らず引退した馬の出資者には、馬代金の半分ほどを返還す
る。そういう規約があるため、クラブはとても走れる状態にない馬でも、一度はレースに
出したがるそうだ」
「…………」
 真相はまだ定かではない。けれど父の言葉には妙な生々しさがあった。先刻、厩舎の資
金繰りに悩む中田に向かって、貧すれば鈍す、などと京は言い放っていたが、あれはそん
阿漕(あこぎ)な金儲けをした上での発言だったのだろうか。啓の胸に不快感が滲み出る。
「レジェンドの社長、その件についてなにか言っていないの?」
「社長? 一口馬主のクラブは制度上の問題でどこもトップが二人いるようだけどどっ
ちのことかな。会員と契約を結ぶ愛馬会の社長と、競馬関係者と契約を結ぶクラブ法人の
社長と」
「天条京、って人」
「ああ、それならクラブ法人のほうだね。天条猛の末娘らしいけど、さすがに若すぎるし、
お飾りだろうと会員は噂している。デリケートな問題に口を挟むことはないんじゃないか
な」
「お飾り? 何にでも口出ししそうな人だったけど」
「何だって」
 いつもゆっくりしている父の口調が、珍しく早くなる。
「啓、お前、天条京に会ったことがあるのか」
「今日、厩舎街に来たんだよだからレジェンドのことが気になってこうして調べに帰っ
てきたわけ」
「話す機会もあったのか」
「一応」
「何だ、何だ」
 歌うように言いながら、父が啓の斜め前へと移動する。顔を啓の視界に無理やり割り込
ませる。
「隅に置けないな、啓。なっちゃんに続いて、天条のご令嬢と知り合いになるとは。お前、
もてるな」
「……バカバカしい」
「なっちゃんと言えば、非公式のファンサイトを見つけたぞ。そこの掲示板も盛り上がっ
ていてな。お気に入りに登録してあるから、ちょっと覗いてみろ」
 言われるまま啓がパソコンを操作する。表示された掲示板の一番上の書き込みは、ナン
バリングが三桁を軽くオーバーしていた。
 先週の競馬開催で奈津は区切りの十勝目を挙げた。そのニュースをスポーツ新聞と競馬
雑誌が取り上げたことが、ネットの世界にも大きな影響を与えたのだろう。ちなみにその
十勝目は、中田厩舎の馬によるものだった。啓の乗馬の指南役として、奈津は何度も中田
厩舎に足を運んだ。それがきっかけとなり騎乗の機会が生まれたのである。
 二つの意味で記念すべき勝利だった。奈津と啓はお祝いのパーティーを開いた。場所は
奈津の希望で啓の家。いつも家にいる啓の父は、そのとき奈津と面識を持った。
「全部読むの大変だな、これ」
 啓が辟易したように呟く。けれどその書き込み数こそ、高まる奈津の人気の証明に他な
らない。
 ついつい頬を緩めた啓を、父が微笑を浮かべて見守っている。

     5

 午後一時。厩舎街に引き返しての、奈津の部屋でのティータイム。
「そんなことがあったんですか」
 啓から天条京の来訪を聞かされた奈津が、つぶらな瞳を輝かせる。
「私たちとそう変わらない歳なのに、社長だなんて凄いですね、京さん」
「お飾りって噂もあるらしいけど、俺にはそう見えなかったな」
「それにしても、いいことです」
 奈津の表情がほころぶ。
「一口のクラブから馬をたくさん預けてもらえるようになれば、この競馬場も活気付く。
以前、うちの先生がそう言っていました。若い馬が増えるわけですから」
「預けてもらうのは、大浜厩舎みたいだけどな」
「一番有名な厩舎ですからね。実績も断然ですし、どんな馬主さんも、預ける第一候補は
大浜厩舎になりますよ。そういえば、レジェンドの募集馬は、牝馬が多いと聞いたことが
あります。大浜厩舎に来るのも牝馬でしょうか」
「分からないけど、女社長だから牝馬なのか?」
「どうなんでしょう。日本でも海外でも、ここ数年は牝馬の活躍が目立ってますからね。
あえて揃えてみたのかも」
「女は強い、か。それは奈津もだな」
 啓が軽く笑う。
「初勝利から十勝目まで、あっという間だった」
「まだまだです。私なんて」
「いいや、強い。それに凄い」
 啓は自分の荷物から紙の束を取り出した。
「だからインターネットに誕生したんだ。新川奈津のファンサイトが」
 厩舎に併設された奈津の住まいにネット設備はない。また、奈津の使う携帯電話は古い
タイプでブラウザ機能が非常に粗末にできている。そこで啓は自宅でファンサイトの内容
をすべてプリントアウトし、こうして持参したのである。
「掲示板の書き込みがとくに凄くてな。数も多いが、ここまで好意的な内容が続くのは珍
しい」
 それはネット社会に精通した父の評言だった。
「…………」
 黙ったまま、奈津は紙の束に目を通している。表情は真剣そのもの。
 奈津はいつも一生懸命だった。その純粋さが啓には嬉しい。
「レジェンドの掲示板も荒れていたからな。そういう意味では天条京より凄いんじゃない
か、お前」
「……頑張ります」
「え?」
「馬に乗ることしかできませんが、私、頑張りますから!」
「あ、ああ」
 掲示板の書き込みに刺激されたのか、急にみなぎった奈津の気迫に啓が圧倒されたとき、
ポケットの中の携帯電話が着信音を奏でた。取り出して応答すると、中田からである。至
急厩舎に戻れと言う。
 呼び出し自体も珍しいし、それが昼休み中となると初めてのことである。奈津にお茶の
礼を告げると、啓はすぐに部屋をあとにした。すっかり見慣れた風景の道を足早に進む。
 啓が自厩舎の庭へと入る。中田の姿は造作なく見つかった。軒下に立ち、窓から厩舎を
覗き込んでいる。
 啓が厩舎に近づく。足音が聞こえたのだろう。振り向いた中田の顔を見て、啓は思わず
息を呑んだ。
 厳しかった。
 そして暗い。
 もともと苦みばしった顔の持ち主だが、中田の表情はあきらかに普段と異なっていた。
啓の胸中で緊張感が増幅する。咄嗟に思い浮かんだのは、自分がミスを犯した可能性であ
る。たとえば庭掃除。イレギュラーなイベントに見舞われた今日の自分は、その後の掃除
を普段通りこなせただろうか。記憶は曖昧だった。
 啓が足を止める。中田が口を開く。
「お前に馬を任せたい。そう話している馬主がいる」
「ほ、本当ですか!」
 中田の前置きなしの発言で、啓の不安は一気にどこかへ吹き飛んだ。
「馬の名前はアリスマジック。二歳の牝馬。馬主はホースクラブ“レジェンド”だ」
「レジェンド?」
「ああ。午前にやってきた連中が、俺の厩舎に馬を預けたいと言ってきた。条件付きでな。
まず始めに、厩務員にお前を指名した」
「ちょっと話したからですかね、女社長と」
 興奮冷めやらぬ声で啓は答えた。が、中田は渋い表情のままでいる。それに気付くと、
啓もいくらか落ち着きを取り戻した。インターネットで騒がれていたたレジェンドの疑惑
にも意識が向く。
「でも、あの二人、大浜厩舎に用がある感じでしたよね」
「大浜さんは馬を預かることを断ったらしい」
「どうしてです。天条の馬はブランドでしょう」
「成績を見る限り、アリスマジックはそれほどの馬でもない」
「え、もうデビューしているんですか。二歳馬ですよね」
「夏の北海道で走った馬だ。向こうは雪と寒さで冬の競馬開催がないからな。今くらいの
時期に多くの馬が本州以南の競馬場へ移籍する」
 アリスマジックのこれまでの成績は四戦二勝。デビュー戦、二戦目と連勝したが、相手
の強化された三戦目、四戦目では惨敗を喫した。一本調子のスピード馬で、底が見えつつ
ある。それが中田の分析だった。
「次走はうちの競馬場で行われる二歳重賞を考えているそうだが、参加賞が限度だろうな。
大浜さんはバックに有力馬主がいる。そっちの線から活きのいい二歳馬が入るんだろう。
それでアリスマジックには興味が湧かなかった」
「でも、一応つながりを残そうとしませんかね。レジェンドって言うか、天条と。今後の
ことを考えて」
「条件付き、と言っただろう。大浜さんの判断には、おそらくその点も影響している」
「大浜厩舎でも厩務員を指名したんですか」
「それだけが条件じゃない。レジェンドはな、外厩を利用すると言うんだ。馬の管理をす
べて外厩で行うつもりらしい。天条グループ自慢の外厩で」
 顔を俯け中田が舌打ちをする。競馬の主催者から調教師に貸与される厩舎を内厩と呼び、
それ以外の私設厩舎を外厩と呼ぶ。この外厩で調教した馬を、内厩を通すことなくレース
に出走させることを、中央競馬は禁じている。けれど地方には許可する競馬場もある。
「新規に馬主を獲得する手段として、外厩制の導入の是非が問われたとき、俺は反対しな
かった。馬主が集まるならそれもいいかと思った。だがいざ自分の厩舎に外厩利用の話が
来てみると、な。俺の厩舎の馬といっても、調教するのは外厩の人間だ。要は名義貸しで
しかない。当然、預託料も入らない。啓、担当厩務員といってもな、お前の役割はレース
前のパドックを馬と一緒に歩くことくらいだぞ」
「それは……」
「何とも気の抜ける話だろう。だがそれだけじゃない。レースで得られる進上金も、俺た
ちから巻き上げると言うのさ、レジェンドは。名義を借りる代わりに、内厩の人間には進
上金を分配する。よその競馬場ではそれが通例だってのに」
「…………」
「嫌な話はもっとあるぞ、啓」
 中田は呪われたような顔で啓を見据えた。
「レジェンドはな、お前に仕事を手伝ってほしいと言っていた」
「それは、外厩で働けってことですか」
「詳しくは知らん。だが、人手不足だから協力してほしいそうだ。見習いの厩務員で担当
馬がいないのなら、手が空くこともあるだろう。そんなことを言っている」
 その身勝手な申し出に、啓は腹を立てなかった。あまりにセコく、けち臭い。啓は呆れ
てしまったのである。業界最大手、天条グループの経営するホースクラブ“レジェンド”
が、そんな調子でいいのだろうか。偉大な先代の顔に泥を塗りまくっているように思えて、
他人事ながら心配になる。
「それらの条件を呑まなければ、馬を厩舎に預けないそうだ。姿のない馬をな」
「なんだかもう、まるっきり悪玉ですね、レジェンドは。権力をかさに着て。噂だと会員
にもあくどい真似をしているようですし」
「だから伝えはしたが、この話はすぐに断るつもりだ」
 吐き捨てるように言うと、中田は少しだけ表情を和らげた。
「心配するな、啓。じきにお前にも馬は預ける。ちゃんとした馬を」
「……いや、先生」
 悪い予感がして、啓は慎重に現状を整理した。
「俺のことはともかく、大浜厩舎に続いてうちまで断ったら、馬を移籍させる競馬場自体
を、レジェンドが変更してしまう可能性がありませんか」
 たしかにレジェンドは傲慢かもしれない。しかし、クラブ馬主の強みで個人の馬主より
ずっと多くの馬を所有している。競馬場で走る馬が多くなれば、俄然レースは面白くなる。
盛り上がる。馬券も売れる。スタンドに集うファンにしてみれば、走っている馬の暮らす
厩舎がであれであれ、まったくもって関係がない。
「その点については釘を刺された。こちらとしては、他の競馬場に預けても構いませんよ、
とな。本当に悪玉の台詞だ」
「レジェンドとのパイプ、誰かが持っている必要がありますよね」
「…………」
「俺、頑張りますから。競馬場のために」
 言ってから、どうやら先ほどの奈津にあてられたらしい、と啓は内心で苦笑した。
 苦渋を目一杯にじませた顔で、中田が深いため息を洩らす。
「無理だけはするなよ、啓」

     6

 呼び出しは続いた。午後の厩舎作業が終わるのを見計らったようにして、ホースクラブ
“レジェンド”からの呼び出しを、啓は中田経由で受けたのである。
 待ち合わせ場所は駅前のファミリーレストランだった。四人がけの席で待っていたのは
スーツを着た小太りの男で、天条京の姿はない。席に着いた啓に男が名刺を差し出す。
 ホースクラブ“レジェンド”東京事務所所長、時田繁和(ときたしげかず)
「社長は牧場に行きました。天条トレーニングセンターと言う、競走馬の育成牧場です」
 啓がたずねる前に、時田が言った。
「外厩として利用する牧場、と言ったほうが分かりやすいでしょうか。外厩の話、中田先
生からお聞きになりましたよね、山辺さん」
「先生、怒っていました」
「それはその、申し訳ありません」
「一つ、質問していいですか」
 本心なのか演技なのか、視線を逸らして恐縮した様子を見せる時田に、啓は硬い口調で
言った。時田が首を縦に振る。
「ええ、ええ。構いません。それはもしかして、進上金の分配の件でしょうか。それとも
仕事の手伝いをして頂くことでしょうか。どちらも申し訳ないと思っているのですが……」
「俺が訊きたいのは、レジェンドの所属馬についての話です。自分の厩舎のことでは、客
観的になれないと思うので」
「なるほど」
「インターネットで話題になっていますね。重傷を負ったデビュー前の牝馬を、出資者の
払う会費と、補償減らしを目当てに引退させずにいるって。本当なんですか、それ」
「…………」
 本当です、などと認めるはずがないことは啓も分かっていたが、時田は言下に否定もし
なかった。想定外の指摘を受け、返答に困っているのかもしれない。ただ、ここで時田が
過敏かつ過剰に否定してくるようなら、逆に真相は真っ黒に違いないと、啓は事前に予想
していた。現在の時田の落ち着きぶりは、指摘が的外れだった可能性も含んでいる。
 本音を引きずり出すべく、啓は少し挑発することにした。
「社長さんは言ってました。決断に迷ったとき、あとでもっとも悔いるのは決断をしない
ことだ、って。それはつまり、たとえ阿漕な金儲けでもやらなきゃ損だ、ってことなんで
すか」
「それは、違います。その発言は社長のもの。故障した牝馬を引退させずにいるのは、私、
時田の判断です。こう見えてクラブの運営を任されていますので」
「社長さんはお飾りって噂もありますね」
「いや、むしろ独裁ですよ。独裁だから、社長はやりたいことしかやっていない」
 時田が言葉遊びのような返事をする。
「でね、山辺さん。あなたは勘違いをしている。骨折した牝馬はですね、天条牧場から預
かった良血馬で、引退後は繁殖入りすることが決まっているんです。競走成績にかかわら
ず」
「なら、無理に復帰を目指すことはないですよね」
「あります。今、牧場で休んでいるその馬を、すぐに引退させたとする。それだと怪我を
治し、子供が産める体調を整えるまでのあいだ、牧場は飼い葉代や人件費を捻出しなけれ
ばなりません。しかしその馬が現役復帰を目指しているのであれば、費用を全額、クラブ
を通して出資者に請求できる。怪我の回復を見守ると言っておけば、好きなタイミングで
引退させることもできる」
「天条牧場がクラブに要求してきたって言うんですか、引退を先送りにしろって」
「信じられませんか? けどね山辺さん、うちのクラブは低価格が売りなんです。会費で
儲けるといっても、それ、月々いくらか知っていますか。月千円です、千円。よそはどこ
でも月三千円。うちは三分の一です。評判を落としてまで会費集めに執着するのは、むし
ろ損だと思いませんか」
「それは……」
「どうして会費を安くできるのか。分かりやすいのは会報でしょう。よそのクラブは愛馬
の写真と最新情報、それに競馬コラムを載せた立派な会報を毎月発行して、すべての会員
に郵送しています。私たちは違う。情報発信はすべてネットで済ませています。だから安
い」
 レジェンドはネット展開に力を入れている。父が何気なくそんな感想を漏らしていたの
を、啓はふと思い出した。
「さて、山辺さん。質問には答えましたが、本題に入ってよろしいでしょうか。アリスマ
ジックの厩務員の件です。中田先生からは当人の考えを尊重すると、先ほど電話でおうか
がいしましたが」
 時田が糸のように細い目で啓を見る。福々しく、いかにも人のよさそうな顔をしている
男だった。人に嘘をつけるタイプとも思えない。
 啓は首を横に振った。
「すいません。疑問が新しく一つ増えました。何故、レジェンドが牧場の言いなりになっ
ているんです?」
「ああ、そうですね。そこをきちんと説明しなくては、今後も勘違いが生まれるかもしれ
ません。端的に言えばですね、山辺さん。うちのクラブは弱小なんです」
「謙遜ですか? それはないでしょう。天条グループなのに」
「そのグループ内での立場が弱いと言うことです」
「社長さん、あの天条猛の娘なんですよね」
「社長には歳の離れた兄が二人います。先代が亡くなられたあと、長男は日本最大級の天
条牧場を受け継ぎました。日本最大級の一口クラブ“天条レーシング”を次男が受け継ぎ
ました。当時まだ大学生だった三女に与えられたのは、近く設立が予定されていた、地方
向け一口クラブの社長の座でした。二人の兄から押し付けられたのでしょう」
「押し付けられた?」
「地方で一口馬主の制度が解禁されて以来、既存の中央向け一口クラブにおいても、地方
馬を募集するケースが生まれました。ただ、どこも片手間でしか実施しませんでした。需
要が低いと判断されたからです」
 それは地方のレースの賞金の安さによるものだ、と時田は語った。地方の厩舎の預託料
が、たとえ中央の五分の一だとしても、賞金が中央の十分の一では割に合わない。
「もっと単純に、ファンの絶対数が中央のほうが多い、と言う事情もありますがね。ただ、
日本の競馬界にとって、地方競馬は絶対に必要なものです」
 毎年日本で生まれる七千頭以上のサラブレッドの受け入れ先は、大半が地方競馬である。
言い方を換えれば地方競馬があるからこそ、日本は毎年七千頭のサラブレッドを生産でき
ている。地方競馬がなくなれば、生産されるサラブレッドの頭数も減り、日本の馬産は確
実に衰退する。
「地方の競馬場が閉鎖されていくのを、日本の馬産の代表者たる天条が見過ごせないのは
自明の理です。それで先代は地方専門の一口クラブを着想したのかもしれません」
「なら、押し付けたと言う表現はおかしくありませんか」
「代が変わりましたから。現在の天条にとってレジェンドは、地方を見捨てないと言うポ
ーズにすぎないんです。だから形だけ整えて、中身には力を入れない。本来、社長のよき
パートナーになるべき愛馬会法人の代表は、先代夫人、つまり社長の実の母親から名前を
借りている格好ですし、なにより東京事務所所長の人選が杜撰でしょう? ……と、これ
は答えにくい質問かもしれませんね」
 は、は、と時田が笑い声を立てる。京の若さに隠れている格好だが、たしかに時田も若
い。クラブの運営を任されていると言う話が事実なら、天条の親族と言うアドバンテージ
がないぶん、京より異例の人事と言えるかもしれない。
「そんなわけで、予算も最低限の我がクラブなのですが、社長はやりたいようにやります
からね。裏でやりくりする必要が生じます。クラブが倒れてしまわないように」
「天条牧場からの要求を呑むことも、やりくりですか」
「そうですね。貸し一つ、と言うわけです。出資者のみなさまの不満については、ぎりぎ
り抑えられると判断しました。もちろん、もっと健全にレジェンドの会員を増やす努力も
していますよ」
「地方の一口馬主は人気が出ないと言ってましたよね」
「はい。中央はハイリスクですがとてもハイリターン。地方はローリスクですがとてもロ
ーリターン。この図式を崩さない限り、中央の人気に抗うことはできないでしょう。そし
てレースの賞金はこちらの都合で増やすことができない。であるなら、リスクを減らすし
かない」
「それで会費を下げたんですか」
「あとは募集馬のラインナップですね。うちのクラブは牝馬の数が多い。それは単純に牡
馬より安いからと言えます。基本的に半値以下ですので」
「俺に仕事を手伝わせるのも、経費削減の一環ですか」
「いえ、違いますよ」
 時田が首を横に振る。話の流れから同意されるのを前提に確認した啓にとって、それは
意外な反応だった。
「山辺さんに手伝ってもらおうと思った理由は、別にあります」
「それは?」
「社長が、いい、と言ったので」
 時田が真顔で答える。冗談かと啓は思ったが、時田の真剣な表情はいつまでたっても崩
れない。
「社長はですね、目が利くんです」

※「もう一人のメサイア」参考文献
 藤澤和雄 『競走馬私論 プロの仕事とやる気について』(祥伝社黄金文庫・2003年)
 木村幸治 『吉田善哉 倖せなる巨人』(徳間書店・2001年)


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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