illustration:宮尾和孝
第七回


3「もう一人のメサイア」

     1

 竹箒を手に厩舎前の庭に立った啓は、吹いた風の予想外の冷たさに首を軽くちぢめた。
季節はいよいよ秋に入るらしい。時刻は午前十時を過ぎたところで、高みに迫りつつある
太陽が白い光を庭の全面に投げかけている。ただ、夏の頃の苛烈な勢いは完全に鳴りを潜
めていた。
 庭の入り口に移動して、啓が掃き掃除を始める。厩舎で働き始めて三ヶ月ほど経過した
が、毎日の仕事に変化はない。まごうことなき雑用係である。
 厩務員の技術は一通り手ほどきを受けた。寝藁の掃除もできる。飼い葉作りもできる。
ブラッシングに脚部のバンテージ巻きも一人でできる。啓を競馬の世界に引き込んだ女性
ジョッキー、新川奈津の指導によって、馬に跨り歩かせることもできるようになった。
 それでも啓は、調教師の中田吾郎から一頭も馬を任せてもらえずにいる。
 馬主からの預かりものである競走馬を、厩務員に託すこと。それを中田は、信頼の証、
と表現していた。その通りだと啓も思うし、新入りの自分が先輩厩務員ほど信頼を得てい
ないのも分かる。分かるのだが、これ以上の信頼は、実際に馬を世話することでしか高め
られないのではないか。そうとも啓は思うのである。
 いずれにせよ、きっかけが必要だった。何故なら厩舎で管理する馬の頭数は限りがある。
啓に馬を任せること。それはすなわち別の厩務員から馬を奪うことに他ならない。中田が
慎重になるのは当然だった。どの厩務員も毎日忙しそうに働いているが、だからといって
担当馬を手放したいと思うはずもない。
 厩務員の収入には、調教師から支払われる基本給の他に、進上金と呼ばれるものがある。
担当馬がレースに出走して賞金を獲得すると、その五パーセントが厩務員に分配されるの
である。ちなみに残りの九十五パーセントは、馬主が八十、調教師が十、騎手が五パーセ
ントと言う形で振りわけられる。
 賞金の安い地方競馬だから、一戦ごとの進上金は雀の涙といっていい。とはいえ小遣い
程度にはなるし、一月貯めれば贅沢もできる。担当馬が減ることは、この進上金の減少に
直結した。
 現在、啓は父親とアパートで暮らしている。働いているのは啓だけだが、家計を背負っ
ているわけではない。せいぜい食費を入れるくらいである。対して他の厩務員はみな一人
暮らしで、必要経費は全額自分でまかなっていた。平均年齢が四十を越える面々だから、
そろそろ老後の貯蓄を考え始める時期でもあるだろう。
 ――俺が首尾よく馬を預かるには。
 中田だけでなく、他の厩務員にも自分を認めてもらう必要があるかもしれない。その道
のりの長さに軽くため息をついたとき、啓は気付いた。砂の敷かれた厩舎街の道を、女が
一人、歩いている。
 若い女だった。ニットのアンサンブルを着ていて、おそらく年は二十代の前半。
 女が近づく。目と目が合う。
 女は啓の前で足を止めた。肩までの髪が秋風に揺れる。
「庭掃除か、青年」
 ごく自然に、女は上から目線の口の利き方をした。はあ、と気圧されるように啓が頷く。
「掃除は日に何度している」
「午前と午後に一度ずつ。先生から厳しく言われているんで」
「箒の目を立てるほど、丁寧な掃除をしているのだな」
「はい」
「うむ!」
 女は力強く頷いた。端整な顔立ちには似つかわしくない、燃えるような輝きが双眸(そうぼう)にや
どる。
「私の父もよく話していた。蹄を傷つける厩舎に馬は預けるな、と。庭に石があれば馬は
すぐに蹄を痛めてしまう。定期的に掃除をすれば石を取り除ける。さらに箒の目を立てて
おけば、掃除のあとに石が紛れ込んでも容易く見つけられる」
「庭に足跡があると石が隠れる。先生にもそう注意されています」
「ならば青年、担当馬の蹄に油は三度塗っているのか。朝の調教後と夕方、二度しか油を
塗らない厩舎も多いが、蹄にもっとも負担がかかるのは朝の調教だ。忙しくなるが、調教
前にも油を塗ったほうがいい。それが正しい厩務員のあり方と言うもの」
「俺は厩務員の見習いなんで。担当馬はいません」
「ふむ……」
 滑らかに言葉を紡ぎ続けた口に、女がようやく休みを取らせる。代わりに力のある目で
啓を見つめた。
「うむ!」
 女は笑顔で頷いた。
「心配するな。お前の師は正しい指導をしている。このまま励めばお前は立派な厩務員に
なるだろう。それにな、お前はトキタに雰囲気が似ている。あれはできる男だ」
「トキタ?」
「それでは少し、厩舎を見学させてもらうとするか。構わないだろう」
 一方的に告げると、女は啓の横を通り過ぎた。厩舎の入り口へまっすぐ向かう。
「厩務員を正しく育てる調教師が、馬を正しく育てるのは道理。期待できそうだ」
「ちょっと」
 啓は慌ててあとを追った。ただ、女を力ずくで止めようとまでは思わなかった。厩舎
が無人ならともかく、現在は複数の人間が作業している。侵入者にはすぐに気付くはず
だし、それに女は競馬に精通していた。いたずらに馬を刺激したりはしないだろう。
 ――と言うか、誰だ。
 女が厩舎内に消えたとき、啓は今更ながらそう思った。
 よく通る女の声が厩舎から響いたのは、その直後である。
「この飼い葉を作ったのは誰だ! 厩務員を呼べ!」

     2

 泡を食って啓が厩舎に入る。馬房から顔を突き出す鹿毛の馬を挟んで、女とひげ面の厩
務員が向き合っていた。廊下の奥からは黒のキャップを斜めにかぶった中田が迫っている。
 馬房の前に吊るされた銀色の飼い葉桶を、女が指差す。
「この飼い葉、水を混ぜたな。臭いがきつい」
 その言葉に反応するように、鹿毛の馬が桶に顔を近付ける。
「日本では昔から、飼い葉に水を混ぜる習慣があった。それは私も知っている」
 食事を始めると思いきや、桶を鼻でつついて遊び始めた鹿毛の馬の前で、女がさらに言
葉を重ねる。
「だが、それは飼い葉の量を文字通り水増しする工夫。時間が経つほどくさくなるような
食事を、馬が本心から喜ぶはずがない。その不満はストレスにつながる。正しい状況とは
言えない。改善すべき悪習だろう」
 年長の男を相手にしても、女の口調は変わらず威張っていた。対するひげ面の厩務員、
さらにその隣で足を止めた中田は、女の話を黙って聞いている。納得したわけではない。
啓はそう思った。二人はあっけに取られているのである。主として厩務員に根付いていた
若い女への抵抗感は、奈津が中田厩舎に顔を出すようになったことで、だいぶ緩和された。
とはいえ厩務員にせよ中田にせよ、見ず知らずの相手に飼い葉の作り方を駄目出しされる
経験が、過去にあったはずもない。そのうえ相手が若い女なのだから、困惑するのも致し
方ない。
 啓も女の行動には戸惑っていた。意図が読めない。ただ、啓は女と先に出会ったぶん、
落ち着きを取り戻すだけの時間的余裕があった。
 ――信頼。
 それを中田や他の厩務員から獲得するには、今がチャンスかもしれない。啓の心に期待
が膨らむ。己の話術で言いたい放題の女を黙らせて、この混沌とした状況を落ち着かせる
のである。幸いなことに、飼い葉作りは得意分野といっていい。
「飼い葉に水を混ぜれば、馬は食事と同時に水分も補給できます」
 啓は横から口を挟んだ。女が即座に振り返る。
「混ぜる水の量を調節すれば、馬が水を飲みすぎる心配はない。逆に飲まなすぎる心配も
ない。必要な量を確実に摂取させることができる。そう言いたいのだな、青年」
 啓が披露するつもりだった知識を、女は一息に語ってしまった。
「たしかに一理ある。だが、水分を取らせることを重視するあまり、馬の食欲を落として
しまうのなら、どうかな」
「…………」
「それに馬が水を飲みすぎるのも、飲まないのも、裏に必ず理由がある。馬は人の言葉を
話せない。だからこそ、人は馬の行動の一つ一つからメッセージを読み取ってやらねばな
らない。私はそう考えるぞ。ちなみにな、たとえ通じなくても厩務員が馬に声をかけるの
は重要なことだ。やさしく、やさしくな。海外であれば常識だが、日本人はどうもシャイ
でいけない」
 軽やかに動く女の口が、大ボリュームの反論を流れるように紡ぎ出す。圧倒され、啓は
口を閉ざした。女が厩務員のほうに向き直る。
「一つ、確認する。この厩舎では、飼い葉を各馬にまちまちに与えているのか? 見ろ」
 そう言って女が指し示したのは、隣の馬房だった。芦毛の馬が首を目いっぱい外に伸ば
している。そのうえ桃色がかった鼻をしきりに動かしている。
「物欲しそうな顔をしているだろう。隣の飼い葉が気になって仕方ないのだ。察するに、
早朝に調教を終えて、何時間も前に食事を済ませているのではないか? ちょうど小腹が
すき始めたところで、遅くに調教を終えた隣の馬が食事を始めた。まるで自分に見せ付け
るように。これではストレスも溜まる。悪しき行いだ」 
「でも、飼い葉の時間は先生も考えていて、午後はなるべく揃えるように調節して……」
「もういい」
 やっとのことで抗弁を始めた啓を、中田が制止した。ひげ面の厩務員を庇うようにして、
中田が女の正面に立つ。
「飼い葉に水を混ぜるのは、仰るとおり水増しの意味もあります。飼い葉の時刻について
も、中央競馬ではもっと工夫をしているようですね」
 やけに丁寧な口調で中田は話しかけた。女が得たりと頷く。
「そうとも。第一、中央の厩舎は飼い葉の時刻に何時間も差をつけない。しかもだ。気の
利いた厩務員は、後から調教する馬に少し飼い葉を与えてから、先に調教する馬と厩舎を
出たりする。その馬を厩舎に戻し、飼い葉を与えたら、今度は待機していた馬と調教に向
かう。戻った馬が本格的な食事を始めていても、すでに少し食べているので、待機してい
た馬は後ろ髪を引かれることなく外に出られる。どうだ、この気配り」
 女は胸を張って語った。素直な態度で中田が頷く。
「よく考えられていると思います。私たちはそこまでの工夫をしていません。そうしたく
ても、することができないのです」
「なぜだ」
 首をかしげる女に対し、中田は苦笑を浮かべた。
「経費の問題です。私たちには余裕がない。あなた、おそらく馬主の娘さんでしょう? 
今まで中央ばかりを見ていたのなら、これは理解しにくい問題かもしれません」
 馬主の娘。言われてみると、その中田の推測は啓にも納得がいった。競馬への造詣の深
さに加え、女は塀で隔離された厩舎街にこうして足を踏み入れている。一般人とは思えな
かった。女の徹底した上から目線も、馬主と言う身分に即したものと考えれば、一応説明
が付く。
「地方はレースの賞金が安い。だから一頭あたりの預託料を上げてしまうと、馬主さんが
寄り付かなくなります。飼い葉代を抑える必要があるわけです。それに中央では一人の厩
務員が二頭の馬を世話しています。うちは一人当たり四頭です。中央の工夫をそっくり取
り入れるには、現在の倍の厩務員を雇わなくてはなりません」
「それでは経営が破綻する、と言うわけか。なるほどな。しかしそれは、貧すれば鈍す、
と言うやつだろう」
 迷いのない口ぶりで女は答えた。
「正しいことを実践する。気付いた過ちを放置しない。そうすれば厩舎の成績は自ずと上
向く。結果を出せば馬主は集まる。多少飼い葉代が高くなろうと、人件費が嵩もうとな。
調教師、あなたの話を聞いて、私の父ならこう言ったぞ。決断に迷ったとき、あとでもっ
とも悔いるのは決断をしないことだ」
「…………」
 中田はなにも言い返さなかった。痛いところをつかれた、と言うわけではない。苦い気
分になっているのだろう。啓はそう感じた。厩舎の経営難は、厩舎の勤め先と言うべき、
競馬場の経営難が大本に存在する。一厩舎の飼い葉事情を改善したところで、土台、解決
する事象ではない。
 ここ最近、中田は頻繁に調教師会の集まりに参加していた。競馬場の閉鎖問題について、
その回避手段を検討しているのである。けれど万策尽きたと言うのが実情のようで、啓が
働き始めて以来、厩舎街が力を合わせてアクションを起こすようなことは一度もなかった。
大人しく、質素に、現状維持のまま日々を過ごしている。
 女の意見はあまりに楽観的で、現実味がなかった。絵空事と言ってもいい。ただし女が
最後に付け加えた言葉に、啓はいくらか心を動かされた。
「状況が好転する見込みがあって、そのために選ぶ道があるとしたら、言う通りかもしれ
ません」
 だから啓は女にたずねることにした。決断は選択と同義だろう。選択はスタートでしか
なく、大事なのは選択後の努力であることを、啓は競馬場での奈津の姿から学んだ。
「でも、八方塞がりな状況に置かれたのなら、どうしますか」
「うむ。それでも私は動くな」
 さして考える様子もなく女が答える。啓が理由を重ねて問おうとしたところで、外から
男が厩舎に踏み込んできた。小太りで紺色のスーツを着ている。目が糸のように細く、歳
は三十くらいだろう。
「社長」
 男は女に向かってそう呼びかけた。
「どうしてこんなところに。大浜厩舎はもっと先です」
「知っている。お前が入場門でガードマンと話し込んでいるとき、背中のラインが綺麗な
馬が歩いているのを見かけてな。あとを追ったら、そこが奇しくも大浜厩舎だった。見学
を申し込んだら眼鏡の男に追い払われたがな。失敬な話だ」
「今日は突然来たんですから、仕方ないでしょう」
「いや、そんなことはないぞ。そのあと来た道を引き返していたら、この青年に会ってな。
見学を許可された」
 女は勝手なことを言った。おかげで周囲の視線がすべて啓に集まる。中田厩舎の人々の
表情がやけに冷たいように映るのは、啓の見間違いではないだろう。
 大切な信頼が加速度的に失われつつある。一刻も早く、真実を知らしめる必要があった。
そのためには、一切の曖昧さを省く必要があった。
「ところで、あの、一体誰です?」
 自身の聞きたいことは後回しにして、啓は女のことを一からたずねた。
「私か? 私は天条(てんじょう)
 堂々と名乗った女に対し、正しく説明してください、と隣に立ったスーツの男が促す。
「うむ。私は天条(みやこ)。ホースクラブ“レジェンド”の社長をしている」
 忠告を聞き入れ、女が言葉を付け加える。

     3

地方から、世界へ

 昨年、皆様の夢を叶えるために設立されたホースクラブ
 それが“レジェンド”です
 日本各地の地方競馬から、中央競馬へ。そして世界の競馬へ
 愛馬とともに、皆様とともに、ホースクラブ“レジェンド”は夢を追い続けます 』

 テーブル上のノートパソコンに表示された、ご挨拶、と言う題目の文章を一読すると、
啓は左ボタンをクリックした。パソコンの画面が切り替わる。入会方法。出資の仕組み。
募集馬案内。記念品の販売。要パスワードの会員専用ページ。多数の項目が所狭しと表示
される。
 午前の厩舎作業のあと、普段は装蹄師の西島大基の家に転がり込むことの多い啓だが、
今日は自転車を飛ばし自宅アパートへ引き返していた。食事も取らずに居間のパソコンと
格闘している。
 インターネットで、ホースクラブ“レジェンド”について調査する。それが啓の帰宅の
目的だった。タッチパネルをぎこちなく操り、啓が公式サイトの情報を読み取っていく。
 ホースクラブ“レジェンド”は、一口馬主の会社である。一頭の馬の所有権利を数十口、
数百口に分割して、馬主資格のない一般人が一口いくらで出資する。それが法制上は商品
ファンドに分類される、一口馬主と言うシステムだった。
 不意に、玄関ドアの開く音がした。目で見て確認するまでもない。父が帰宅したのであ
る。数年前に事業に失敗して以来、啓の父は傷心を癒すと言う大義名分のもと、さながら
ニートのような生活を送っていた。啓の母とはとっくに離婚している。
「帰っていたのか、啓」
 父が居間に足を踏み入れる。啓が振り返ると、父は手にした白いビニール袋を軽く持ち
上げた。
「昼はまだか? これ、食べるか?」
 そう言って父が袋から取り出したのは、カップラーメンである。角ばってすらいる袋の
膨らみ具合からいって、父は相当数のインスタント食品を買い込んだらしい。
「もらう。置いといて」
「啓、インターネットをしているのか」
 一つは自身のぶんだろう。カップラーメンを二つテーブルに並べた父が、啓の背後から
パソコンを覗き込んだ。
「調べものがあってね。この、一口馬主のクラブのこと」
 画面に視線を戻しながら啓は答えた。おや、と父が呟く。
「これ、レジェンドじゃないか。もしかして、レジェンドの所属馬が啓の厩舎に来るのか
い?」
「それは分からない。でも、来たとしても別の厩舎じゃないかな。知ってるでしょ、ナン
バーワンの大浜厩舎」
「残念だな。あの天条グループが経営する地方専門の一口クラブと言うことで、父さん、
レジェンドには前から注目していたんだ」
「天条って、そんなに凄いの」
「それはそうさ。日本で競馬に携わる人間にとって、天条の名を知らぬ者はいない。ある
いは世界でもそうかもしれない」
「まあ、俺も名前は知っていたけど」
 少し複雑な気持ちで啓は答えた。競馬場で啓が働き始めて以来、父は無尽蔵の休み時間
を使って、来る日も来る日もネットで競馬を学んでいる。実技はともかく知識では、現場
で働く啓よりも、最近の父は格段に競馬に精通しているのである。
「いいかい、啓。天条(たける)と言うのは伝説的人物なんだ」
 父が手を伸ばし、啓の代わりにパソコンを操作する。たちまちのうちに画面は天条グル
ープの情報で埋め尽くされた。
 戦後まもなく北海道でサラブレッドの生産を始めた天条牧場。その地位を他の追随を許
さない高さまで押し上げたのは、ひとえに先代の馬主兼生産者(オーナーブリーダー)、天条猛の手腕だった。
 仔馬を買えば大レースを勝ち、種牡馬を買えばその子供が大レースを勝つ。
 猛の卓越した相馬眼は周囲から、神、とまで称された。なかでも特筆すべきは猛が晩年
に購入した一頭の種牡馬だろう。さしたる競走成績や血統背景の持ち主ではなかったにも
かかわらず、その種牡馬は『記録破り』の二つ名を与えられるほどの成功を収め、莫大な
利益を天条グループにもたらした。
 また、牧場を拡張したことで生産過多となった競走馬が値崩れを起こしたとき、一口馬
主のクラブを設立することで新規の需要を開拓。経営をたちどころに軌道に乗せ直すなど、
猛はビジネス面での優れた感覚を持ち合わせた人物でもあった。
 今から二年前、猛は繁殖牝馬のセリへ参加するため訪れたアメリカで急死。現在は猛の
子供たちが天条グループを切り盛りしている。
「いわばブランドだよ、天条は」
 画面を最後までスクロールさせたところで、父が言った。
「大きなレースを勝つたびに、またか、と感慨なしにファンに迎えられるほど、圧倒的な
存在感を持つブランド。それが天条なんだ。そんなブランドの馬が集まる地方向けクラブ
ができたとしたら、注目しないわけにはいかないだろう」
「まあ、ね」
「ただ、レジェンドには最近よくない評判もある」
 父がパソコンの画面を切り替える。表示されたのは、一口馬主総合ちゃんねると言う、
じつに分かりやすいネーミングの匿名掲示板だった。

※「もう一人のメサイア」参考文献
 藤澤和雄 『競走馬私論 プロの仕事とやる気について』(祥伝社黄金文庫・2003年)
 木村幸治 『吉田善哉 倖せなる巨人』(徳間書店・2001年)


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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