illustration:宮尾和孝
第六回


(2「厩舎街のペルソナ」つづき)

     13

 約束に遅刻されたら困る。そんな理由で啓は大基に食事をおごってもらった。そのあと
男二人で向かったのは、待ち合わせ場所の喫茶店である。競馬場からしばらく歩いたのは、
厩舎の人間と偶然出くわしたりしないよう、男二人が配慮した結果だった。
 店に入るとほどなく奈津が現れた。こわもての大基の前に出ると、奈津は人形のように
黙り込んだ。人見知りだから気を付けて、と啓があらかじめ念を押していたが、それでも
奈津の萎縮ぶりに大基は面食らった様子だった。
 最後に西脇美晴が現れた。
「えっと、ごめんね、色々と」
 席に着くなり謝った美晴は父親には似ていなかったまずはじめに背が高い今はテー
ブルの下に隠れている脚も長くて、ジーンズ姿がよく映えていた。目と口が大きい割に
鼻が低く、特別美人とはいえなかったが、しごく健康的な印象の女性である。年齢は大基
と同じ二十代後半といったところだろう。
「新川奈津さん、よね」
 大基の隣に座る美晴が、差し向かいの奈津を見据える。
「もう一度、ごめんなさい。父があなたに騎乗を依頼すると話したそうだけど、それはや
めさせたわ」
「西脇さん、納得したんですか」
 過敏に反応したのは奈津の隣に座る啓である。驚きだった。裏にある思惑の是非はとも
かく、騎手起用について西脇が徹底抗戦の構えを見せていたのは、昨日の今日である。
「きみが噂のアンちゃんね」
 啓に視線を移すと、美晴は表情をゆるめた。
「昨日は大変だったのよ? 仕事のあと、父の様子を見にアパートを訪ねたら、泥酔して
前後不覚になっていて。介抱する最中に、さっきまで部屋にいたアンちゃんの話や、奈津
さんへの騎乗依頼のことを、私は延々と聞かされたの」
 美晴が俯き、深々とため息をつく。
「父はもう、限界なのよ。大勢の人に迷惑をかけることになるから、奈津さんには悪いけ
ど、騎手起用でごねるのは終わりにするよう説得したわ。父が厩舎に強い態度に出られる
のは、私の問題があってこそだもの。父は私に逆らえない」
「西脇さん、これからどうするんです」
 啓がたずねる。奈津と大基の視線も美晴に集まる。
「厩務員、辞めてもらうわ」
 迷いの無い口調で美晴は応じた。
「ずっと考えていたことだけど、昨日、話を切り出したの。父には北海道に帰ってもらう。
母も待っているし、弟もちゃんと働いているから心配はいらない。そもそも私がこっちに
働きに来たのは、一人暮らしの父が不安だったからだもの」
「西脇さん、その話を受け入れたんですか」
「なにも言わなかった。けど、反対もしなかった」
「…………」
 おそらく西脇は完全に納得したわけではないだろう。啓はそう思った。にもかかわらず
反対しなかったのは、美晴の提案に西脇がいくらかでも心を動かされたことを意味してい
る。
 もう終わりにして、帰ってもいいか。
 そう一瞬でも思ってしまえば、意地を張り続けるのが辛くなるのは当然だった。それに
美晴も言っていたが、啓の目にも、西脇はもう限界のように映っていた。
「あの……」
 そこでおずおずと発言したのは、奈津だった。
「怒ってないんですか? 雄平さんとのこと」
 自身の騎乗依頼とは無関係のことを、奈津は訊いた。
「怒ったわよ。泣いたしね」
 言葉とは裏腹の笑顔で美晴が答える。
「親の肝煎りで縁談が持ち上がった途端、恋人のことが邪魔になる。あんまりな話よ」
「…………」
「でも、わかっちゃうのよね。雄平じゃ親の言うことに逆らえないって。あのね、雄平や
ここにいるダイちゃんとは、私、昔からの知り合いなの」
 十年以上も前のことである。小学生だった美晴は、夏休みのたびに父に会うため厩舎街
を訪れた。毎年、一週間は父のアパートに滞在した。父の仕事に付いて回るうちに歳の近
い大基や雄平と知り合い、一緒に遊ぶようになった。
「雄平はね、当時から照れ屋で大人しかった。馬と暮らしているのに、犬が怖くて近寄れ
なかったり。しかもどこか抜けていて、木登りをしたときなんか、鳴いているからいるに
決まっている蝉に触って驚いて、お尻から地面に落っこちてみたり」
「雄平さんが、ですか」
「おかしいでしょ? でもね、すごく頼りないけど、私は雄平のこと嫌いじゃなかった。
いつもツンツンしているダイちゃんと比べたら、ずっとやさしかったし」
「うるせえよ」
 そっぽを向いて大基が答える。
「それで私がこっちで働き始めてから、雄平と付き合うようになったんだけど、初めは同
情もあったの、正直なところ。私以外、この人のよさはわかってあげられないんじゃない
か。そう思って。だからこうして私が袖にされるのは意外だった。それも雄平らしいとは
思うんだけど、何だか不思議な気分なの。ダイちゃんもそう思わない?」
「知らねえよ。それより、お前」
 ギョロ目の三白眼を、大基はいきなり奈津に向けた。
「残念だったな。スーパーガッツに騎乗できたら、初勝利は間違いなかっただろうに」
「…………」
「しかも初勝利がいきなりメインレースの快挙だ。惜しかったな」
 大基が一方的に喋り終える。啓は奈津の反応を窺った。シャックリをしていた。
 美晴が自分に話を向けるのを嫌がった部分もあるかもしれない。しかし大基のいささか
強引な話題の切り替えには、奈津を会話に参加させようという意図が感じられた。さすが
善人、啓の期待に大基は応えてくれたのである。
 だからこそ、奈津の返事がほしかった。ここは自分が後押しすべきタイミングかもしれ
ない。啓はそう思った。
「あら、なっちゃんもまだ勝ったことないの、競馬」
 すると美晴が会話に割り込んだ。会ったばかりの奈津に早くもあだ名を付けている。
「じつは私もまだ未勝利なのよ、競馬。昔ね、父の馬の応援に競馬場へ行ったんだけど、
一度も勝たなくて。おかげで私、今では競馬嫌いだったりするのよね」
「そんなこと競馬関係者の前で言うんじゃねえ」
 大基がすかさず突っ込みを入れる。
「だいいちお前、騎手と付き合っていたんだろうが」
 さらに厳しく突っ込んだが、美晴は平然と聞き流した。竹を割ったような性格、という
のだろうか。いろんな意味で美晴は強いと啓は思った。そもそも普通ならタブーになって
おかしくない雄平との出来事を、美晴は己の胸中ですっかり処理し切っているのである。
「……あは」
 そのとき、奈津が笑った。
「あはは、だったら今度、競馬場に来てください」
 そう言って正面の美晴を見つめる。
「できれば私がレースに出るときに。それで応援をお願いします。二人で一緒に未勝利を
脱出しましょう。あと……」
 奈津が大基のほうを向く。
「心配してくれてありがとうございます。私、なるべく早く勝てるように頑張ります」
「勘違いをするな。俺はお前を心配したわけじゃねえ。競馬場を盛り上げるには、なにか
話題になるものが欲しいと考えただけだ」
「いい人だろ、大基さん」
 大基の弁解にかぶせるように、啓が奈津に同意を求める。大基が再度そっぽを向くのと
同時に、奈津は啓のほうを振り向いた。
「うん。大基さんも美晴さんも啓くんも、みんないい人」
 はっきり言われて、啓は照れた。奈津から微妙に目を逸らす。
「そうか。なっちゃん、競馬で勝ったことないんだ」
 妙に小難しい顔をした美晴が、そんなことを呟いて奈津を見る。
「悪いことをしたわね。もっとやれ、ってお父さんをけしかけるべきだったかしら」
 そして過激なことを口走る。奈津は慌てた様子で手を横に振った。
「いえ、そんな。スーパーガッツのことはいいんです。元からおかしな話だって啓くんと
も話していましたから。それに私、もっと大切なものを美晴さんにもらいました」
「でも、初勝利できそうだってぬか喜びさせたわけよね」
「私、もう一度頑張ろうって思ったんです」
「そうだ!」
 啓にとっては感動的な奈津の発言を遮って、美晴が勢いよく横手を打つ。
「なっちゃん、私に任せてよ。騎乗依頼、必ずゲットするからさ。秘策があるの」
 なにやら胡散臭い言葉が出た、と啓は思った。見れば大基も苦々しげな顔をしている。
それが地なのか、美晴の快活さはどうも先ほどから暴走の兆候を見せ始めている。
「本当ですか? でも、どうやって」
 一人純粋な反応を見せる奈津の前で、美晴は力強く胸を叩いた。
「大丈夫、絶対上手くいくから。私だって、フラれっ放しじゃ癪だもの」

     14

 一周千百メートルのダートコースを見下ろすように建つ、三階建てのスタンド。その一
階にある厩務員席の窓辺で、啓は双眼鏡を覗き込んでいた。
 円形の視界が捉えているのはレースの発走地点である。ホームストレッチの入り口にス
ターティングゲートは設置されていた。そのすぐ後ろでは、メインレースに出走する九頭
の馬が輪乗りを始めている。真夏の厳しい太陽の下、地方転入初戦を圧倒的一番人気で迎
えたスーパーガッツも、腹の下から汗を滴らせながら歩いている。
 スーパーガッツの鞍上は、雄平である。啓はその表情をレンズ越しに確かめた。一見し
たところ、厩舎街にいるときと変化ない。むしろ常よリラックスした印象がある。しかし
それは異様といえることでもあった。雄平はレースの数分前になっても目を眠たげに細め、
口を締まりなく半開きにして、馬の背の上で揺られている。
「落ち着いているだろう、雄平は」
 啓に横から話しかけたのは、康徳だった。
「そうでなければ、あれほど自然体ではいられない」
 康徳は誇らしげだった。たしかにそういう見方もできる、と啓は思った。雄平以外の騎
手たちは、大半が硬い表情をしている。幾人かは引きつり気味の笑顔を浮かべていた。一
人だけ弛緩した顔付きで、雄平がヘルメットにかけていたゴーグルを目の高さまで下げる。
 スターターが赤い旗を振り、場内に長めのファンファーレが鳴り響く。メインレースは
有力馬が集うA1クラスの競走で、距離は二千四百メートル。コースを二周と少し回る長
距離戦だった。
 出走各馬が次々とゲートに収まる。いずれも歴戦の馬である。スムーズに発走の態勢が
整った。バネがはじけて扉が開く。
 図抜けたダッシュを決めた馬は、スーパーガッツではなかった。出遅れた馬はいない。
逃げた一頭を他馬が横一列のまま追走する形で、スタンド前を通過した。逃げ馬が身体を
傾けながら第一コーナーに入る。ようやく列を崩した後続がそれを追いかける。
 観客が大きくどよめいた。スーパーガッツがしんがりまで後退したのである。
 地方の競馬場は直線が短い。そのため序盤のポジション争いが熾烈となる。後方に控え
てのラストスパート勝負では力を余しやすい。だからといって強引に先手を主張するのは
オーバーペースで自滅の危険を孕む。逃げ馬をマークして、いつでも先頭に立てる構えで
レースを進める。それがどんな展開になっても対応できる、言い換えるならあらゆる場面
で間違いのない、汎用性の高い戦法と見なされていた。
 スタンドのどよめきが止まらない。スーパーガッツが前の八頭から取り残されていくの
である。鞍上の雄平ともども、スーパーガッツは優雅にしんがりを追走している。
 バックストレッチに入る。レースが動いた。鼻面の白い栗毛の馬が、おそらく騎手の指
示を無視して馬群を抜け出したのである。外から逃げ馬に馬体を併せ、バックストレッチ
半ばまで並走する。ひと暴れして満足したのか、やがて栗毛の馬はペースを落とし、元い
た後続馬群に吸収された。
 その後レースは淡々と流れた。三コーナー、四コーナーを経てホームストレッチに至る。
再びスタンド前に差しかかり、ゴールを通り過ぎて、残り一周。逃げ馬のあとに団子状態
の七頭が続き、最後方をスーパーガッツが追走する。
「いいんですか、この位置取りで」
 啓は隣の康徳にたずねた。
「前の馬との差は開かなくなりましたけど、詰まってもいませんよね」
「雄平に任せている」
 康徳が落ち着いた声で答える。レースが二周目の一コーナーに進む。二コーナーに入る。
「きたか」
 康徳が呟いた。バックストレッチの入り口で、スーパーガッツがペースを上げたのであ
る。それは機械のスイッチを入れたような突然の加速で、前方の馬群との差が見る間に狭
まった。再度スタンドがどよめき出す。
「いいんですか」
 先ほどより早口で啓は聞いた。遅れを取り戻すのはいい。しかし、少し焦りすぎではな
いだろうか。通常、三コーナーから四コーナーにかけてレースのピッチは上がる。なのに
雄平は遅れを挽回するため、早くも全力のスパートを開始してしまった。啓の目にはそう
映った。
「こんな早仕掛けじゃ、スタミナがもちませんよ」
「もし、レースのペースが乱れているとしたら」
 先ほど同様、答える康徳の声は落ち着いていた。
「むしろ雄平のペースだけが正しいとしたら」
 ついにスーパーガッツが馬群に取り付く。外から並ぶ間もなく一頭抜き去る。
「雄平がペースを上げたわけではなく、他の騎手がペースを下げているとしたら。そう、
彼らは少し前半に飛ばしすぎた。勝負どころの三コーナーを前に、馬にひと息入れさせよ
うと懸命になっている」
 康徳が話すあいだにも、スーパーガッツは一頭前の馬を追い抜いた。さらにもう一頭。
「しかし、こんな戦法、初めて見ます」
「そうだろう。雄平以外の騎手がこんなことをすれば、スタミナ切れを起こすのは必定だ。
雄平だから、成功する」
「どうして言い切れるんです」
 スーパーガッツの勢いは止まらない。一頭だけ早送りされるように他馬を抜き去って、
ついに二番手まで進出した。気付けば客席のどよめきは歓声に変わっている。
「ラップタイムだ」
 康徳の返事は簡明だった。
「山辺、あとでスーパーガッツのラップタイムを確認するといい」
「他の馬と比較するんですか」
「その必要はない。雄平は二百メートルを十三秒で走らせている。スタートからゴールま
で、どの区間を取ってみても」
 驚くべきことを康徳は告げた。逃げ馬が三コーナーに突入する。スーパーガッツが直後
に迫る。外から馬体を併せ、いつでも抜け出せる体勢を作って、スーパーガッツが直線を
向く。
「雄平は、天才だ」
 康徳は双眼鏡を下ろした。鞭を一発、雄平がスーパーガッツに振り下ろす。前に出た。
雄平はもう鞭を使わなかった。一馬身、二馬身とそれでもリードが広がった。馬を激しく
追うことはない。軽く手綱をしごくだけで、後続とのあいだに生じた二馬身差が、絶対的
な壁に変化する。
 走破時計は二分三十六秒ジャスト。競馬場のレコードタイムだった。雄平を背に、スー
パーガッツは完勝した。

    15

 優勝馬を祝福する場所、ウィナーズサークルがこの競馬場には存在しない。口取りと呼
ばれる記念撮影も含め、関係者の表彰は地下馬道からコースに抜け出てすぐの地点で行わ
れる。
 満面の笑顔の馬主と大浜調教師に対し、馬を曳く西脇がしかめ面でいるのが、事情を知
らない者には奇妙に映ったかもしれない。雄平は写真を撮られるのが恥ずかしいのか、終
始目を泳がせていた。
 口取りが終了する西脇とスーパーガッツは地下馬道の奥に消えたが他の面子はスロー
プの手前に居残り、会話に花を咲かせていた。化粧を念入りに施した中年の女に声をか
けられた雄平が、頭を掻いてしきりに照れた素振りを見せている。
「本当なら、談笑している暇はなかった」
 一連の様子を厩務員席から眺めていた啓に、横から康徳が声をかける。メインのあとの
最終レースに、雄平の騎乗予定はない。大浜厩舎のオレンジミントという馬が出走するに
もかかわらず、である。
「あの女め」
 康徳は舌打ちした。珍しく感情をあらわにしていた。オレンジミントに騎乗するのは奈
津だが、雄平のいうあの女とは、まず間違いなく奈津のことではないだろう。
 奈津への騎乗依頼をゲットする。そう豪語した美晴は、数日後に大浜厩舎へ乗り込んだ。
居合わせた大浜家の面々に、私の頼みを聞いてくれなければ、自分への理不尽な仕打ちを
白日の下に晒す、と脅しをかけた。雄平は震え上がった。大浜調教師は落ち着いていたが、
もとからある程度の代償を覚悟していたようである。常に強硬姿勢を見せる康徳が美晴の
要求――スーパーガッツ以外の馬に奈津を乗せること――を呑んだのは、美晴の厩舎に訪
れた時刻によるところが大きかった。もうじき、著名な女性競馬ライターがスーパーガッ
ツの追加取材に訪れる。そういうタイミングを見計らって、美晴は厩舎でごね出したので
ある。マスコミに醜聞を嗅ぎ付けられるのは、厩舎にとってあまりにマイナス面が大きい。
 この女性ライターを活用した交渉術を、美晴は父から聞き出したという。はた迷惑だと
父には実践を思いとどまらせたが、奈津を勝たせる算段を考えるうちに、むしろ有効活用
すべきだと考え直したそうである。
「ひどい話だ」
 気持ちが収まらないのか、康徳が続けて言葉を吐き捨てる。返事をすることなく、啓は
厩務員席の出口に足を向けた。美晴への仕打ちを反省しない康徳の態度が不快だったし、
そろそろパドックに奈津が現れる時刻である。様子を見に向かおうとしたのだが、なぜか
康徳まで部屋の出口に歩き始めた。二人並んで通路に出る。
「どこに行くんです」
「雄平に助け舟を出してやらないとな」
 啓が聞くと、前を向いたまま康徳は答えた。
「あまり慣れないことをさせると、あいつは精神的に参ってしまう」
「新しい恋人と話すのが、そんなに辛いことなんですか」
 続けて啓がたずねると、ようやく康徳は振り向いた。
「わかったみたいだな。この競馬場にスーパーガッツが来た理由が」
「雄平さんの縁談の相手は、スーパーガッツの馬主の娘。そういうことなんでしょう」
 その事実を啓に教えたのは、当事者の美晴である。さすがに勝ち目がないわ、と美晴は
笑っていた。
「ああ、そういうことだ。だがな山辺、誤解はするなよ。親父はスーパーガッツを預かり
たくて、縁談を進めたわけではない。理由はもっと別にある」
「何です、それは」
「閉鎖だよ」
 康徳の発した短い言葉は、啓の胸に深く突き刺さった。負債が二十億を突破したこの競
馬場は、市長にも見放され、もはや閉鎖は時間の問題と囁かれている。啓が厩舎で働くよ
うになってから、その問題に大きな動きがあったわけではない。ただ、西脇が将来を度外
視した破れかぶれの行動を取ったのは、競馬場の閉鎖を踏まえてのものだったし、その西
脇と対立した大浜一族までが、こうして閉鎖がらみで行動したと言い出すのである。競馬
場に関わる限り、その負の影響からは逃れられない。そして侵食はもう始まっている。啓
は事態の深刻さを痛感せざるを得なかった。
「競馬場が閉鎖になれば、雄平は他の地方競馬で騎手を続けることになる。実績はある。
受け入れ先に困ることはない。ただ、その実績は父のバックアップがあってのものだ。あ
の性格を考えれば、新天地では乗り馬を集められない可能性が高い」
「それで、馬主とのつながりを作ろうとしたんですか」
「単に馬主の所有馬に乗れるだけではない。調教師はいつだって馬を集めるのに必死だ。
義父が有力馬主。そんな騎手がいれば、調教師は必ず贔屓する。優先的に騎乗機会を回す
ようになる」
「それ、同じじゃないですか」
 啓は不快感をあらわに言った。
「西脇さんは娘を使って立場を強めようとした。康徳さんはそう決め付けていましたけど、
自分たちも同じことをやっているじゃないですか」
「雄平には馬しかない」
 いつも通り、康徳は躊躇せず言い切った。
「馬に乗ること以外、雄平には才能がない。馬に乗らない雄平に価値はない」
「…………」
 その容赦ない表現に、啓は思わず息を呑んだ。
「雄平の新しい恋人は、子供の頃から乗馬をしているそうでな。その経験と知識で騎手の
乗り方をうるさく採点したりもするんだが、雄平の騎乗はいつも手放しで激賞してくれる。
雄平の才能をちゃんと理解できるんだよ。だったら彼女は、雄平にとって最高の相手だと
俺は思った」
「美晴さんなら、普段の雄平さんのよさをわかってあげたと思いますけど」
「雄平だっていい大人だ。本当に嫌な縁談なら、親の意見でもはね付ける」
「それは……」
「たしかに世間一般の考え方とは違うかもしれない。たとえば、そうだな。山辺、お前、
スーパーガッツの取材に来ていたライターの雑誌連載、何てタイトルか知っているか」
「たしか、素顔のサラブレッド」
「そうだ。厩舎の馬を素顔というのが、世間の常識的な発想だ。しかし馬が輝くのは競馬
場で走るときだ。その姿を見て競走馬に惹かれるファンは、うわべしか知らずに喜ぶ愚か
者なのか? 俺はそうは思わない。むしろファンは競走馬の本質を見ていると思う」
 通路の分岐点が迫る。コースとパドックは正反対の方向にある。啓の心は乱れていた。
先ほどまで、大浜一族の行為を認めるつもりは微塵もなかった。しかし、今は康徳の言い
分を否定しきれない自分がいる。一理あると認めそうな自分がいる。
 別れ際、康徳は啓の肩を叩いて告げた。
「俺や親父も、雄平の幸せを考えているんだよ」

     16

 最終レースはメインと打って変わって短距離戦。八百五十メートルという半端な長さは、
小回りの地方競馬ならではのものといえたバックストレッチの奥からのスタートでコー
スを一周まわり切らずにゴールとなる。
 発走直前、奈津の騎乗するオレンジミントは単勝二番人気。力のある馬だった。美晴が
威勢よく、粘り強く交渉してくれたのだろう。雄平の騎乗なら一番人気だったかもしれな
い。
 メインレースよりだいぶ簡素なファンファーレが場内に響く。パドックから厩務員席に
戻ったあと、啓はずっと双眼鏡を覗き込んでいた。出走する十頭の馬が、内の奇数番から
ゲートに収まっていく。事前に啓が集めた情報によると、逃げ馬の多さがメンバー構成の
特長だった。内から一番、三番、五番、八番と、じつに四頭もの馬が前走で果敢にハナを
叩いているのである。先手争いの激化が予測された。
 ゲート入りが偶数番の馬へと移る。最後に大外十番の奈津とオレンジミントが係員に促
された。反抗的に後ずさる。それからどうにかオレンジミントゲートに収まった。後ろ扉
を閉められる。
 少し待たされたせいだろうか。一番の馬が狭いゲート内でむずがった。不満をアピール
するように後ろ脚で立ち上がる。運悪く、その瞬間に前扉が開いた。
 一番の馬は出遅れた。それだけではなく、暴れる一番を避けるように走り出した二番の
馬が、三番の馬と接触した。スタートとほぼ同時に、逃げ争いが予測された四頭のうち、
じつに半数の二頭が圏外に消えた。また、外目の枠を引いた八番の馬の騎手は、初めから
逃げることを諦めていたようである。好発を決めたものの、無理せず二番手に控えた。結
果として、五番の馬がいともたやすくレースの主導権を握った。それは単勝一番人気の馬
でもある。
 啓が双眼鏡の狭い視界で奈津の姿を追う。オレンジミントは中団の外目を追走していた。
悪い位置取りではないが、最善でもない。おそらく奈津は逃げ争いでペースが上がること
を想定したのだろう。それなら中団は絶好の位置取りとなる。しかし、ペースは平均以下
に落ち着いた。思惑と現実のズレを馬上の奈津は悔やんでいるだろうか。
 すでに戦意喪失の一番を除いた九頭が、ほぼ一団のままバックストレッチを走り切る。
三コーナーに突入する。先頭の馬は充分な余力を残していて、騎手が手綱をゆるめると俊
敏に加速した。ペースが上がる。後続の騎手が手綱をしごいた。鞭を飛ばした。各馬も応
えて速度を上げる。しかし、先頭との差を詰めるまでには至らない。四コーナーから直線
へ向かう。
 奈津とオレンジミントは大外に進路を取った。手綱を短く絞った奈津が、それを前へ深
々と押し込む。馬の首を持ち上げるようにして手綱を引き戻す。また押し込んで、引き戻
す。奈津は一心不乱に馬を追った。一頭抜いて、オレンジミントが五番手に浮上する。し
かし、その先の馬はまだ遠い。オレンジミントは伸びている。だが、他の馬も伸びている。
直線は半ばを過ぎた。
 奈津が右手で鞭を掲げる。鋭く振り下ろす。オレンジミントに一発、二発と鞭を振るう。
そのあいだも片手で馬を追い続ける。両手に戻ってまた馬を追う。全身全霊の力を注ぎ込
んでいるのだろう。繰り返し繰り返し、祈るような姿勢で奈津は馬を追った。
 啓の競馬歴は短い。まだ素人だと自認している。だが、サッカーには長く打ち込んでい
た。その運動選手としての経験から判断すると、奈津の馬の追い方にはどれだけ効果があ
るのか疑問符も付く。奈津は身体を大きく使って馬を追う。形だけのアクションではなく、
全身の筋肉を躍動させて馬を追う。それは日々の地道なトレーニングの成果に違いないが、
そもそもいくら人間が奮起したところで、馬の巨体を前に運ぶことなどできないだろう。
むしろ背中でじたばたされては、肩ヒモの緩いリュックを背負わされるようなもので、馬
にとっては走りの邪魔にしかならない。頭で考えればそういう結論に至る。
 だが、邪魔なはずがない。
 啓の心がそう主張した。道理や常識をねじ伏せた。証拠もある。泥臭く、がむしゃらで、
雄平が披露した華麗な騎乗には程遠い内容なのに、馬を負う奈津の姿は、他の誰より輝い
ている。
 啓は双眼鏡を下ろした。広がった視界の中で、オレンジミントが前を行く馬を一頭抜き
去る。四番手に浮上。奈津が馬を追う。観客からの声援、野次、怒号をどの馬より近くで
浴びながら、大外を走るオレンジミントが残り五十メートルでさらに加速した。一頭抜く。
二頭抜く。啓の胸が熱くなる。
 馬は生きている。
 心がある。
 だから奈津の祈りが通じた。
 それを真の結論とした啓の見つめる先で、オレンジミントがついに先頭の馬に並びかけ
る。内と外。大きく離れた二頭がゴールへとなだれ込む。
 頭一つだけ前に出た。
「勝った!」
 啓は叫んだ。室内にいた厩務員が一斉に振り向くほど、大きな声で啓は奈津の勝利を宣
言した。
 一瞬の静寂のあと、啓は周囲から声をかけられた。祝福だろうか。驚きだろうか。冷や
かしだろうか。たしかに聞こえているのだが、内容はわからなかった。それより啓は急ぎ
たかった。厩務員席を飛び出す。通路を全力で走り出す。
 ――やった。やりやがった。
 感動していた。あまりの心の昂ぶりに、啓は照れることさえできなかった。どうして自
分はこうも奈津に魅せられるのか。初めて競馬場に来たときもそうだった。本人は気付い
ていないだろうが、奈津はなにかを持っている。それは確実だと啓は思った。競馬場では
別人になる。奈津は雄平のことをそう説明したが、それは奈津も同じなのだ。競馬場で別
人になるほどの才能を、奈津は小さな身体に秘めている。自分はそれに魅せられる。
 だが、それは奈津の仮面なのかもしれない。素顔の奈津はもっと弱いのかもしれない。
啓は走りながらその点を考えたが、途中でどうでもよくなった。素顔も仮面も奈津は奈津
だと割り切れるほど、啓は単純な性格をしていない。だが、競馬場の奈津が素顔であれ仮
面であれ、厩舎街の奈津が素顔であれ仮面であれ、それを選ぶのが奈津自身であるなら、
大した問題じゃないと思った。肝心なことは、その先にある。
 啓はこの夏、厩舎街に飛び込んだ。それは大きな人生の選択だった。正しかったのか、
誤りだったのか、啓は少なからず不安を抱いていた。
 しかし、啓は今、それが正解だったと言い切れる。それを正解にできたと言い切れる。
なぜなら勝利の喜びを分かち合うため、奈津の元へとこうして自分は走っている。もしも
競馬関係者になっていなければ、客席から奈津を見守るのが限度だったはずだ。
 胸中には冷めた意見も存在する。閉鎖寸前の競馬場で働くことが、正解なはずがない。
そう断定する心理すら啓は持ち合わせている。だが、当たり前なのだ。人の下す選択に、
正解はないのである。選択は始まりの合図でしかない。
 大切なのは、自分の選択が正しくなるよう、全力を尽くすこと。そうすれば道は拓ける。
今、目の当たりにした、奈津とオレンジミントのレースのように。
 スタンド内の通路から地下馬道へ降りる。胸にこれまで気付かずにいた力が膨らむのを
感じながら、啓が地上のダートコースに向かって走る。
 光の差す場所に立ち、奈津の凱旋を出迎える。

※「厩舎街のペルソナ」参考文献
 柿元純司 『装蹄師 競走馬に夢を打つ』(PHP文庫・1998年)


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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