illustration:宮尾和孝
第四回


(2「厩舎街のペルソナ」つづき)

     5

 午後三時。厩舎街が再始動する時刻である。午後も管理馬に運動させる厩舎もあるが、
啓の所属する中田厩舎では休養を取らせていた。トレーニングを朝に集中させたほうが、
馬のストレスが軽減される、という発想によるものである。何でも競走馬の八割は胃潰瘍
持ちという調査結果があるらしい。
 もちろん馬が休むあいだも、厩務員は忙しい。
「よし、やってみろ」
 つばを折った黒いキャップをかぶる、苦みばしった風貌の中田調教師から指示が下る。
ゴク部屋と呼ばれる厩舎中央の飼料庫にて、啓は飼い葉作りに挑んでいた。手伝いは毎日
していたが、自力で飼い葉を作るのは初めてのことである。
 金属製の桶にベースとなる燕麦を入れる。麦の皮からできたフスマを入れる。切り草や
トウモロコシ、大豆なども放り込み、さらにその場ですりおろしたニンジンを加える。塩
をひとつかみ入れたあと、ゴマを混ぜ、バケツに汲んだ水を注ぎ込む。竹の棒を使ってか
き混ぜる。
「腰が入ってないぞ、腰が」
 中田から叱責の声が飛んだ。啓は軽く笑った。混ぜ方に注文が出るということは、飼い
葉の調合については問題ない証拠だろう。事実、中田の顔も笑っている。
「先生、一つ聞いていいですか」
 攪拌を続けながら、啓はたずねた。
「大浜厩舎の西脇さん、知ってますか」
 先刻の出来事が啓の脳裏によみがえる。大物と評判のスーパーガッツの騎乗を、奈津に
依頼したい。西脇は衝撃的な発言をした。あまりに衝撃的すぎて、啓はその発言を信用す
ることができなかった。なので奈津には連絡を入れていない。もしも嘘なら、ぬか喜びを
させることになる。思い切って大浜調教師に真相をたずねようとも思ったが、師は女性ラ
イターと一緒に厩舎街から出かけてしまった。外の喫茶店でインタビューを行うのだと言
う。
「西脇? ああ……」
 答える中田の顔から笑みが消えた。
「知っているが、お前、何でそんなことを聞く」
「さっき話をしたんです。スーパーガッツの取材を見物していたら、声をかけられて」
「あの野郎、自分の厩舎に話し相手がいないんだな」
「どういう意味です?」
「啓、忠告しておく。西脇とは付き合うな」
 厳しい口調で中田は言った。
「あと、奴のことを信じるな。聞く耳を持つな。ありゃ、少し問題のある男だからな」
「…………」
 啓は飼い葉を混ぜる手を止めた。胸中には驚きが膨れ上がっている。詳しい事情を話し
たわけではないのに、中田の発言は自分にとってあまりにピンポイントである。
「問題って、西脇さん、人に嘘をつくとか?」
「そうじゃない。告げ口をするって評判なんだ、奴は。同僚の厩務員のアラを見つけては、
調教師に報告する。昔っからそんなことばかり繰り返している」
「どうして、そんな真似を」
「そりゃお前、いい馬を担当したいからだ」
 即答すると、中田は苦笑を浮かべた。
「いい馬ならゼニをたくさん稼げる。それも大事だが、もっと重要なのは仲間に威張れる
ってことだ。俺が言うのも何だが、いい馬の世話を任せられるってのは、調教師に信頼さ
れている証しだからな」
「なるほど」
「だがよ、そうだからって告げ口をしちゃいけねえ」
 自分の信頼が高まるよう努力するのではなく、他人の信頼が失われるよう努力を積み重
ねる。相対的に自分の信頼を高めることで、調教師からいい馬を預けてもらう。まだ見習
い厩務員の啓であっても、そんな曲がったやり方が間違っているのは理解できた。結果と
して西脇がよその厩舎の新入りに声をかけざるを得ないほど、自厩舎で孤立するのも納得
できた。
「奴もこの競馬場に来て長い。俺が厩務員だった頃から働いているから、かれこれ二十年
近くの古株だ。それでも大したレースを勝ったことがないからな、奴は。大浜厩舎にいる
ってのに」
「馬の扱いにも問題があるんですか」
「いや、そんなことはない。昔は北海道の牧場で働いていて、それからよその競馬場でも
厩務員をやっていたって話だからな。基礎はしっかりしている。だからなおのこと、勲章
になるようなレースを勝てない自分に焦るってのもわかるっちゃわかるが、それこそ新入
りの頃から告げ口で有名だしな。同情はできねえ……おい啓、次だ、次」
 ゴク部屋に持ち込んであった空の飼い葉桶を、中田は指差した。
「飼い葉、もっとたくさん作っておけよ。メシは全員一緒に食べるようにしてやらねえと、
一丁前にひがむ馬が出やがるからな」
 そう言い残し、中田は部屋をあとにした。昼寝明けか眠たげな目で厩舎に現れた厩務員
に、今日の飼い葉は全部啓のおごりだぞ、などと冗談を飛ばしている。
 啓は一人で思案した。西脇が厩舎の鼻つまみ者だとしたら、どうしてスーパーガッツの
担当になったのだろうか。疑問だった。それが評判の悪い告げ口の成果だとしたら、どう
して奈津の名前が出てくるのだろう。雄平を軽く扱うような態度を取れば、その父である
大浜調教師の心証は、確実に損なわれるに違いないのに。
「おい啓! 休んでねえで仕事しろ!」
 中田の鋭い叱声に打ち据えられ、啓は思案を中断した。

     6

 飼い葉作りに励んだあとは、厩舎まわりを掃除した。四時近くまで働いて、無事に一日
の仕事が終了となる。啓は自宅に帰る前に装蹄所へ向かった。日影を選びながら砂の道を
進む。装蹄所の工房は入り口の戸が全開になっていたが、中には入らない。
 工房では大基が鉄曲げを行っていた。太いダクトを天井に延ばす炉に、鉄の棒を何本か
入れている。長さ三十センチほどの鉄の棒から蹄鉄を作り出すのが、鉄曲げ、と呼ばれる
作業である。
 よく晴れた夏の午後、日差しはまだまだ快調だった。しかもコークスが燃え上がる炉は
摂氏千度に調節されている。工房から少し離れた木陰に留まる啓も、伝わる熱気で額に汗
が浮かんだ。炉から離れられない大基は顔から滝のような汗を流している。
 火箸を使って赤く焼けた鉄棒を取り出す。それを金床に押さえつけ、大基が槌を片手で
振り下ろす。耳に刺さるような打撃音が響き渡った。曲げた鉄棒には溝切りを当て、さら
に槌を振り下ろす。できた溝に穴を五つあけるために、またしても槌を振り下ろす。片面
が完成したら再び炉で過熱して、鉄が焼けているうちに裏面の加工も完了させる。同じ工
程を四度繰り返し、馬一頭ぶんの蹄鉄を作り出すと、大基は炉の火をようやく落とした。
「暑いんだよ!」
 工房を出るなり大基は吠えた。汗みどろの顔と頭をタオルで乱暴にぬぐう。もう一方の
手でペットボトルの水を口に運んだ。
「いつ見ても感心する」
 たくましく上下する大基の喉ぼとけを見ながら、啓は素直な感想を漏らした。作業の過
酷さもあるが、機械製の蹄鉄が流通している今、鉄曲げによって蹄鉄を作る必要はない、
という事実に啓は唸らされる。大基はあくまで修業の一環として、鉄曲げという労苦を自
らの身に課している。
「毎日毎日、よく続くね」
「べつに大したことはねえ。俺がガキの頃なんて、親父は夜まで鉄を叩いていたからな。
それで鉄の扱いをおぼえたっていちいち自慢するんだから、俺もやるしかねえんだよ」
「…………」
「それでお前、なにか用か。工房に入ってこられたら邪魔だし危ねえからな。今のうちに
聞いてやる」
「ありがとう」
 大基の善人ぶりは相変わらずである。これなら今すぐ奈津と引き合わせても、ぶつくさ
言いつつ世話を焼いてくれそうに思えるが、もう失敗は許されない。慎重を期し、なるべ
く奈津に負担のかからない状況を用意することが肝心だった。たとえば確実に大基から話
しかけるよう仕向けたい。また、自分が常にフォローに入れる態勢も整えておきたい。
「スーパーガッツのことを聞きたいんだけど」
 頭の片隅でそんな計算を働かせつつ、啓は遠慮なく大基に質問をぶつけた。
「蹄鉄の打ち替えを手伝ったんだよね。そのとき厩務員にも会った?」
「そりゃあな」
「だったらあの人のこと、どう思った? スーパーガッツの厩務員なら羨望の的だと思う
んだけど、どうして西脇さんが選ばれたのか、大基さん知ってる?」
「西脇?」
 止まらない顔の汗をタオルで再びぬぐってから、大基は眉をひそめた。
「なにを言っているんだ、お前。あの馬の厩務員は調教師の息子だろう」
「え? 俺は西脇さんが担当厩務員だって聞いたけど。それに大浜調教師の息子って、騎
手の雄平さんだよね」
「お前な」
 大基は呆れ顔をした。
「仕方ねえ。あとで恥をかいて俺のせいにされても困るからな。教えてやる。雄平は大浜
調教師の次男だ。俺が言っているのは長男で厩務員をしている康徳(やすのり)。今大浜厩舎を実質
的に動かしているのは康徳だからな。親父を馬主の接待に専念させて」
 調教師といえば、まず馬を鍛える技術職の面がクローズアップされる。けれどその実態
は総合接客サービス業と言っていい。自分の馬ではなく、馬主から預かった馬をトレーニ
ングする以上、馬を鍛える技術と同等に、馬を預かる技術が調教師には求められるのであ
る。中田のように厩務員に交ざって仕事をする調教師もいるが、大手と呼ばれる厩舎にな
るほど、馬より人付き合いに比重を置いた調教師が増える傾向にある。
 啓はため息をついた。ようやく結論が出たが、じつにつまらない内容だった。
「なら、俺は嘘をつかれたのか。まったく、人のことをからかって」
「そうだな……いや、待てよ」
 啓から視線を外すと、大基は考える表情を浮かべた。再び啓に視線を戻す。
「ひょっとしたら、今は西脇に厩務員が代わったのかもしれねえ」
「どういうこと」
「いや、これは人に言うような話じゃねえんだが……。つっても厩務員が代わったなら、
もう親に報告したってわけだよな。それならべつに話したところで……」
「だから何なの」
 焦れた啓が重ねてたずねる。
 すると、大基は笑った。
 根は善人だが、常に不機嫌そうに振る舞う男が、白い歯を見せ笑ったのである。
「西脇には美晴(みはる)って娘がいてな」
 笑顔のまま大基が語る。
「そいつが春から雄平と付き合い始めたのさ。それでお前、二人がいよいよゴールインっ
て話なら、雄平の親父さんが美晴の親父さんにスーパーガッツを贈るってのも、まあ考え
られない話でもないだろう」

     7

 一組のカップルが成立した。
 互いの親同士も結び付きを強めた。
 だから厩舎で一番の期待馬を任せることにした。
 一見、筋の通った推理である。
 だが、おかしい。西脇は奈津にスーパーガッツの騎乗を依頼すると話している。もしも
自分の娘と雄平が交際しているのなら、これはあきらかにおかしかった。啓がこの点に触
れないまま装蹄所をあとにしたのは、いつになく上機嫌で二人の交際について語る大基に、
疑念を示すのは気が引けたからである。
 やはりスーパーガッツの担当は大浜家の長男、康徳というのが真実で、西脇は新入りの
厩務員をからかっただけなのだろうか。物思いにふけりながら、啓は厩舎街から帰途に就
いた。交通手段は自転車である。橋を渡り、公園の見える道路を走って、異臭の漂う暗渠
の上の小道を抜ける。簡素な外観のアパートに到着する。
 鍵を開けて自宅に入ると、物音がした。とくに不思議なことではない。来客の相手をせ
ずに済むよう鍵をかけて家に閉じこもる人間も、世の中には存在する。
「おかえり、啓」
 靴を脱ぐ啓の耳に父の声が届く。きっと居間にいるのだろう。日のあるうちから酒を呑
み、愛用のノートパソコンと向かい合っているのだろう。確認するまでもなく、現在の父
の姿が啓の脳裏に描き出される。何故ならいつも同じだから。啓が洗面所に入る。うがい
をして顔を洗う。貯水タンクごと太陽に焼かれたのか、流れる水はいつまでたっても生ぬ
るかった。
 数年前、啓の父は事業に失敗した。過度のプレッシャーによる心的な病が引き金となり、
決定打にもなった。それから父は働く気力をすっかり失い、離婚もして、さながらニート
か引き込もりのような日々を過ごしている。
 自室へ向かうには居間を抜ける必要がある。酒臭い空気のよどむ部屋に啓は足を踏み入
れた。想像通り、卓上のノートパソコンと向かい合っていた父の背後を、黙って通り過ぎ
ようとする。
「啓、父さんな、今日も調べてみたんだ」
 穏やかな声で話しかけられ、やむなく啓は足を止めた。父がパソコンから視線を外して
啓のほうを向く。
「インターネットを使って、地方競馬のことを色々とな。経営はどこも厳しいけど、それ
でも立て直しのため努力を重ねているようだね。中央競馬では行われないナイター開催を、
年間を通じて実施し始めた競馬場もあるようだし」
「…………」
「父さんが感心したのは、一口馬主(ひとくちばぬし)というシステムなんだ。一頭の馬の所有権を数十口と
か数百口に分割して、馬主資格のない一般の人たちが、一口いくらで出資する。それが一
口馬主で、中央競馬の専売特許だったのが、近頃やっと地方でも認可されたそうだよ」
「…………」
「どうだい、啓の厩舎にも、そういう馬が来る予定はあるのかい。一口馬主の参加が増え
れば、競馬場はきっと活気付くと思うな、父さんは。馬だけでなく、出資者という熱心な
ファンも集められるわけだからね」
「…………」
 啓は返す言葉が思い付かなかった。話の意味はわかっている。ただ、父の気持ちがわか
らない。
 啓が厩舎で働き出すまで、父は地元の競馬場を非難していた。低俗な場所と罵っていた。
競馬場で働くことを無断で決めたとき、啓は父からの叱責を覚悟した。
「仕事は本当にやりたいことをやりなさい」
 自身が無職であるにもかかわらず、父はよくそんなふうに啓を諭していた。いざとなっ
たらその発言を盾にして、父の制止を無視しよう。そんな決意を固めた上で、啓は競馬の
世界に飛び込んだのである。
 ところが父は怒らなかった。中田厩舎で働き始めた啓に向かって、なにも言わなかった
わけではない。競馬の勉強を初歩から始めた父は、毎日おぼえたての知識を啓に披露する
ようになったのである。
 もしかして、父は自分と仲良くしたいのではないか。啓は父の言動からそう感じること
もある。そして決まってその直後に、そんな考えを抱く自分はどこかおかしい、と感じも
する。仲良くして欲しいからと、親が子供に下手に出る。それはあまりに不健全な関係だ
ろう。もっとも父と自分の関係は、とっくの昔に歪んでいる。啓はそう思わなくもない。
 はっきりしなかった。啓は自分の答えを見つけ出せなかった。サッカーに打ち込んでい
た高校時代は、こんな迷いとは無縁だった。自身の抱く正否の感覚を信じることができて
いた。
 けれど怪我でサッカーを諦め、高校を辞めるに至ったとき、啓は自身の胸中に弱々しく
卑屈な感情が潜むことを知った。そういう負の感情にときとして心を支配される自分が、
必ず正しい審判を下せるはずもない。啓はそう思うようになった。
「うちの競馬場で話題なのは、スーパーガッツって馬だよ」
 ようやく啓が返事をする。父はすかさずパソコンのキーボードを叩いた。スーパーガッ
ツについて、インターネットで検索をかけている。
「ふむ。この馬か。ふむ。強いな」
「わかるの」
「中央でオープン競走を勝っている。重賞で入着したこともある。それでいてまだ四歳と
若い。ふむ、いい馬だな。所属厩舎は、と。なんだ、啓のところじゃないのか。残念だな。
どれ、掲示板の様子は……」
 父がパソコンの操作に没頭し始める。啓は自室に移動した。ばねの硬いベッドに寝転が
ろうとしたところで、ズボンにねじ込んであった携帯電話が振動した。取り出してディス
プレイを確認する。
 新川奈津。
 その名が大きく表示されている。啓は通話ボタンを押した。
「もしもし。どうした?」
「啓くん! どうしよう!」
 啓の声にかぶせるように、奈津は切迫した調子で言った。
「私、呼び出されたの。大浜さんに。話があるから家まで来いって」
「落ち着け。それは昼に言った騎乗依頼のことじゃないのか」
「そうだけど、スーパーガッツなんだよ! スーパーガッツ!」
 奈津が喚くように訴える。真相を確かめるまで、詳しい話は伏せたほうがいい。啓はそ
う判断して情報を伝えずにいたが、裏目に出たかもしれない。自分が電話を入れておけば、
奈津をここまで動揺させることはなかった。
「お前をスーパーガッツに乗せるって、相手は言っているのか」
「え、うん。それなんだけど……」
 啓がたずねると、奈津はたちまちトーンダウンした。
「口ぶりから判断すると、どうも私を乗せてくれるって雰囲気じゃなくて」
「ところで大浜さんってどの大浜さんだ。大浜調教師か」
「ううん。厩務員をしている康徳さんから電話があったの。三瀬先生から番号を聞いたら
しくて」
「……わかった」
 奈津を落ち着かせるため、啓はそう答えた。本心はわからないことだらけだった。なに
より不思議なのは、大浜康徳が奈津を家まで呼び出すことである。奈津への騎乗依頼がす
べて西脇の作り話だったとしたら、電話でそのことを説明すればいい。プライドや面子を
気にしてもらえるほど、厩舎街での奈津の立場は高くない。だとしたら、何故。
 なにか面倒な騒ぎに奈津は巻き込まれたのだろうか。啓はそう思った。
 ――いや、違う。
 啓は思い直した。なにか面倒な騒ぎに、自分が奈津を巻き込ませたのだ。自分が西脇の
話に耳を傾けたことで、競馬場で最有力の厩舎との関係をこじらせかねない厄介ごとに、
自分は奈津を巻き込ませてしまった。
「今から俺もそっちに行く。一緒に大浜の家で話を聞こう」
 とりあえず提案したものの、その選択が本当に正しいのかどうか。
 啓は自信を持てなかった。

     8

 厩舎街の一画には団地があり、多くの騎手や厩務員が生活している。また、厩舎のそば
にはおまけのような人間用の住居があって、そこの部屋を借りる者も少なくない。装蹄師
の大基の家が一戸建てなのは、厩舎街の内側では例外的なケースといえる。
 啓が意外だったのは、厩舎の主である調教師が、ほとんど外部に屋敷を構えていたこと
である。それは収入差の現れと言うより、騎手や厩務員と異なる調教師の特徴――先祖代
々、子々孫々、一族そろって競馬に携わることが多い――が、色濃く現れたと見るのが妥
当だった。地元に定着していて、子供たちも都会に出て行かない。そういう状況が世帯主
としての調教師に、マイホームの購入を踏み切らせるようである。
 大浜調教師の家も厩舎街の外にあったが、これはさすが名門と言おうか、羽振りのよさ
をストレートにうかがわせる豪邸だった。武家屋敷のような門をくぐってから玄関にたど
りつくまで、十歩以上も庭を歩くのである。しかも庭の隅には小型ながら馬小屋が設置さ
れているのだから、恐れ入る。競馬場の最盛期には、厩舎に入りきらない馬を自宅で預か
るようなこともあったのだろうか。
 玄関前に奈津と並び、啓が訪いを入れる。ややあってから足音が聞こえ、引き戸が無造
作に開かれた。現れたのは眼鏡の男で、啓を見ると眉根を寄せた。
「中田厩舎の山辺です」
 機先を制し、啓は名乗った。
「もともと騎乗依頼を西脇さんから聞いたのは俺なので、気になって付いてきました」
「ふむ」
 腕組みした男は値踏みするような目で啓を眺めた。顔の輪郭は丸いが、その印象を裏切
るように眼鏡の下の目は鋭く、口元は厳格そうに引き締まっている。年齢は四十くらいだ
ろう。
「まあ、いい。立ち話もなんだ。上がってくれ」
 言うなり男は反転し、屋内へ歩き始めた。この人が康徳さんだよな、とうしろで啓がた
ずねると、奈津は黙って頷いた。
 広い屋敷の中を進んだ康徳が、一つの部屋の前で足を止める。襖を開けて振り向くと、
啓と奈津を部屋に招き入れた。
「客間では、うちの父と西脇が話をしている」
 そう言うと、康徳は用意してあった座布団に啓と奈津を座らせ、自身はイスに横向きに
腰掛けた。おそらく康徳の自室なのだろう。窓から差し込む、勢いの衰え始めた太陽の光
が、イスと対になる木の机に積まれた多数の本を照らし出している。
「その話し合いも、奈津への騎乗依頼の件ですか」
 啓が聞くと康徳は頷いた。そして奈津に視線を向けた。
「単刀直入に言おう。新川くんへのスーパーガッツの騎乗依頼は、なかったことにしても
らう」
「…………」
「西脇さんがスーパーガッツの厩務員というのは、事実なんですよね」
 なにも言えない奈津に代わり、啓がたずねる。
「そうだな。担当厩務員としてあの馬を世話している」
「西脇さんは今、騎乗依頼についてどう言ってますか」
「新川くんを乗せろと言って聞かない。さっきから父が膝を突き合わせて説得しているが、
埒が明かない」
「話し合いが続いているなら、そういうことでしょうね」
「もっとも、それは大した問題じゃない」
 少しも表情を変えることなく、康徳は言い放った。
「騎手起用については厩務員の意見も聞く。それはたしかだが、最終的な判断を下すのは
調教師だ。それにスーパーガッツは特別な馬でな。西脇の意見など初めから聞くつもりは
なかった」
「特別な馬を、どうして西脇さんに預けたんですか。最近まで担当は康徳さんだったはず
ですよね。これっておかしくありませんか。どうしてですか」
「そう喧嘩腰になるな」
 康徳が苦笑いを浮かべる。奈津が心配そうに自分を見ていることに気づき、啓はいつの
間にか握り締めていた拳をゆるめた。望み薄と頭ではわかっていても、できれば奈津をス
ーパーガッツに乗せてやりたいと、心が勝手に思ってしまうようである。


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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