illustration:宮尾和孝
第三回


2「厩舎街のペルソナ」

     1

 厩舎街の朝は早い。八月の今は、多くが北国育ちの競走馬を保護する意味もあり、厩務
員は夜明け前から所属厩舎に集結する。担当馬を馬房から曳き出すと、調教師や騎手と協
力して、太陽が全力を発揮する前に隣接する競馬場でのトレーニングを終了させる。馬体
の手入れや飼い葉の用意なども含め、厩舎仕事の第一部はだいたい午前十一時に完了とな
る。
 仕事の第二部は午後三時に始まる。それまでのあいだ、厩舎街の人々は長い休み時間を
取った。自宅で朝と昼を兼ねた食事を済ませたり、大仲と呼ばれる厩舎脇の休憩所でテレ
ビを見たり昼寝をしたり、各人が思い思いの自由時間を過ごす。
 山辺啓が畳敷きの部屋に上がり込むと、座布団を枕に寝転がっていた男が、片手を付い
て半身を起こした。
「何だ、お前」
 厳しい視線を啓に向ける。気合の入った坊主頭に日焼けした肌、そこにギョロつく三白
眼と筋肉質の身体が加わるものだから、男の醸す凄味は尋常ならざるものがある。
「どうして毎日俺の部屋に来る。朝から働きづめで疲れてるんだよ、俺は」
「他に行くところがなくて」
 もっとも、啓が男に気圧されることはない。
「自宅は遠いし、大仲は少し行きづらいし」
「……ウゼぇな」
「一人で勝手に喋るからさ、なにか興味を惹くことがあったら、返事してよ」
「チッ」
 盛大に舌打ちすると、男は枕代わりの座布団を尻の下に引っ張り込んだ。空いている座
布団を指差し、啓にも座るよう指示した。腰を据えて話し合う態勢を整えた。
「勘違いするんじゃねえぞ」
 迫力ある目で男が威圧的に啓を見据える。
「べつにお前のためじゃねえ。俺が早く休みたいから、会話にしばらく付き合ってやる。
それだけのことだ」
 怖そうに見えて、とっても善人。それが啓の男に対する評価だった。そもそも啓が男に
声をかけたのは、住人の平均年齢が四十を超える厩舎街において、じつに珍しい二十代の
若者だったからである。啓はさらに例外的な十代だが、歳の差が少ないほど話を合わせや
すいと思った。男の性格がお人よしだったのは嬉しい誤算で、そのことに気付いてからと
いうもの、啓は先ほど当人から指摘されたように男のもとに日参し、親交を深める努力を
している。
 男の名前は西島大基(にしじまだいき)。父親とともに装蹄師として働きながら、厩舎街で暮らしている。
 啓は予定通りの行動に移った。
「昨日はさ、俺がサッカーしていたことを話したよね、小学生のころ。だから今日は中学
生時代の話を……」
 聞かれもしない自分の過去を、押し付けるように披露する。恥ずかしかった。柄ではな
かった。慣れなかった。啓の胸には抵抗を示す感情が沸き起こっていたが、それでもやる
以外なかった。そのほうが課題である話術の特訓になるし、なにより自分史を語り進めれ
ば、必ず現れる人物がいる
女性ジョッキー新川奈津である大基には奈津に関心を持っ
てもらわなくてはならない。
「といっても、中学もサッカー漬けだった、でほとんど話は終わりなんだけどね」
「なんだそりゃ、面白くもねえ。それよりお前、スーパーガッツを知っているか」
 啓は驚いた。どうやら今日は大基のほうでも話題を用意していてくれたらしい。かつて
ないことで、大きな進歩と言えた。啓は予定を変えて大基の話に乗ることにした。
「知らない。馬の名前ってことは想像付くけど」
「ちっとは勉強しろよ。先月に中央からうちの競馬場に移籍した馬だ。大物だぞ」
「へえ。それでどうかしたの、スーパーガッツ」
「もうすぐレースに出るって噂を聞いてな。俺は少し前、あの馬の蹄鉄の打ち替えを手伝
ったことがあるんだが……」
 大基はあごを引き、にらむように啓を見た。嬉しそう、などと表現するには厳しすぎる
顔つきだったが、目の輝きは子供のように澄んでいる。
「あれは、走るな。蹄鉄の減り方が他の馬よりずっと早い。蹴る力が強いんだろうよ」

     2

 居間でテレビを見ていた大基の父に挨拶すると、啓は西島家をあとにした。自身の所属
する中田吾郎(なかだごろう)厩舎とは、ほぼ反対の方角に歩き始める。
 行き先は三瀬昇一(みせしょういち)厩舎。奈津の所属する厩舎である。厩務員の休憩所である大仲の二階
を間借りして奈津は生活していた。つまり向かう先は奈津の現住所でもある。
 啓が厩務員の見習いとして働き始めて半月が過ぎた。騎手になる夢をつかんだものの、
閉鎖的な競馬の世界に馴染むことができず、心を傷だらけにしていた奈津を助けたくて、
啓は厩舎街に飛び込んだ。新天地で自分もやり直したい。それにもう後戻りはできない。
ヒーローからは縁遠い思惑も雑多に混ざり込んでいたが、啓の気力は充実していた。積極
的に動いた。
 ただ、この半月で奈津を取り巻く環境が改善されたとは言いがたい。現在までのところ、
啓の行動は空振りどころかことごとく裏目に出ている。
 たとえばこんなことがあった。厩舎街の人々は、奈津を避けるというより接し方がわか
らず戸惑っている。働き始めてすぐにそのことを察した啓は、奈津と彼らが話す機会を作
れば、問題は解決に近づくと考えた。本来、奈津は明るく活発な気性の持ち主なのである。
 だが、失敗だった。啓は手始めに自厩舎の先輩たちを奈津に紹介した。昼休み、奈津と
一緒に厩務員のくつろぐ大仲を訪れたのである。
 奈津はそこで黙り込んだ。しかも俯いてしまった。厩舎街の人々に冷たくあしらわれて
きた奈津の心に潜むものは、嫌悪や寂寥感ではなく、根の深い恐怖だったということだろ
うか。あまりに弱々しい奈津の姿に、啓は別の人間を見ているような感覚を味わった。
 また、問題があるのは奈津の態度だけではなかった。大仲に重い空気が蔓延したとき、
啓は気ばかり焦って、緊張を和らげるような発言を口にできなかった。高校中退後、啓は
周囲に壁を作って生活をした。誰とも会話をしないような日も珍しくなかった。人付き合
いのブランクを啓はこのとき痛感した。
 そこで目を付けたのが、大基である。厩舎街の中に新たに友人を作ることができれば、
奈津の恐怖心も取り払われる。そうすれば明るく元気な奈津の素顔が外面に現れるだろう。
そして自分には喋りのリハビリ相手が必要だった。世代の近い大基に、できればそのどち
らも担ってもらおうと啓は考えた。
 敷かれた砂を踏みしめながら、細い道を啓が歩く。地を焼く夏の日差しに照らし出され
た厩舎街の景色は、決して美しいとは言い難い。なかでも厩舎のトタンの壁の錆び方は目
にあまり、つつけば崩れそうな印象すらある。ただ、それは汚いというより古いと表現す
るのが妥当な状態で、道に空き缶や吸殻といったゴミは見当たらない。馬も暮らすのであ
る。厩舎街の人々が施設の管理を怠ることはなかった。とくに道掃除にはどの厩舎も力を
入れていて、啓も中田調教師から日課として命じられている。
 そう、いつでも道は綺麗なはずである。
 ――うん?
 厩舎と厩舎の切れ目に差しかかったところで、啓は視界の端に人影を捉えた。耳は人の
声を拾っている。事態を正確に把握する前に、啓は反射的に足を止めた。人影が見え、人
の声が聞こえるほうに顔を向ける。
「おうりゃ! おうりゃ!」
 男が一人、威勢のよいかけ声を発していた。啓はすぐに目を逸らしたが、照りつける日
差しのせいだろうか、男の行為のあらましは目に焼き付いた。
 小便を、ただでさえ風化の進む厩舎の壁に、男は有無を言わせずひっかけていた。白昼
堂々、しかも大人の立小便となると、目撃したのは初めてかもしれない。啓はそんなこと
を考えたが、取り立てて驚きはしなかった。さもありなんという心境だった。
 厩舎街は流れ者の吹き溜まり。その評判が決して大げさなものではないことを、この半
月のあいだに啓は理解した。住人の個性がなにしろ濃い。ガラの悪い男もいるし、くたび
れ切った男もいる。紺の甚平を着た男がいるかと思えば、目にも鮮やかなアロハシャツの
男がいて、今日はこうして立小便をする男が発見された。啓が閉口するのは男だらけの住
人にはびこる品の無さで、まだ少女の雰囲気を残す奈津が近寄り難く感じるのは、やむを
得ない部分も確実にある。
 そんなことを啓が考えるうちに、用を足した男はカーキ色の作業ズボンのチャックを上
げた。さらにそのズボンで手を拭いたところで、啓の存在に気付いたらしい。
「ウン? ウンンン?」
 唸るような声を絞り出し、男は啓のほうに迫り始めた。かなり小柄だが角ばった顔の大
きい男で、目鼻は小さいが、口がひょっとこのように突き出ている。白髪混じりの髪は薄
く、赤らんだ地肌が透けて見えた。
「決めた。決めたぞぅ」
 何度も頷きながら男が近づく。多分ろくなことは決めていない。先入観だけでそう判断
した啓は、足早にこの場を去ることを考えたが、会話のリハビリの観点から踏み留まった。
男が啓の前で足を止める。
「俺、アンちゃんのこと知ってるぞ。嬢ちゃん騎手と仲いいんだってな。俺、情報通だか
らよ」
「はあ」
 男の発言は間違っていない。啓が頷くと、男は四角い顔に粘つくような笑みを浮かべた。
たちまち啓の胸に不快感が滲む。表情から察するに、男は奈津と自分の関係について下卑
た勘ぐりをしているに違いない。啓はそう思った。自分は構わないが、もしそんな妄想を
厩舎街に広められたりしたら、奈津はますます殻に閉じこもってしまう。
 さっさと立ち去ればよかった。それ以前に足を止めずに通り過ぎればよかった。自分は
またも判断を誤った。啓の胸の不快感が、強い自己嫌悪へとすり替わる。
 ――俺は結局。
 奈津の役には立てないのではないか。弱気に囚われた啓の肩を、男が無造作に叩いた。
「アンちゃんさ、嬢ちゃんに伝えてくれよ。今度の競馬、俺の馬に乗ってくれって」

     3

 競馬場の片隅に馬頭観音があって、大事なレースが迫ると調教師や厩務員が万全を期す
意味でお参りに訪れる。縁起がいいのか悪いのか、三瀬昇一厩舎はその馬頭観音の真裏に
壁一枚を挟んで存在していた。
 横長の厩舎のさらに横に箱型の建物がある。その側面で吹きさらしになっている階段を
昇ると、啓はドアをノックした。すぐに開く。時刻はちょうど午後一時になったところで
ある。待っていてくれたのだろう。
「こんにちは、啓くん」
 奈津の晴れやかな笑顔が啓を出迎えた。上がって、と言って奈津が軽い足取りで室内に
引き返す。啓は靴を脱いでほどよくクーラーの効いた部屋に入った。小奇麗に整理された
清潔感のある部屋に、ダンベルやハンドグリップがインテリアのように並んでいるのが努
力家の奈津らしい。サッカー部時代の知識を活かし、啓は筋力強化のトレーニングメニュ
ーを奈津に作ったりもしている。
 厩務員になると決めたとき、啓は当然、奈津のいる三瀬厩舎への就職を希望した。が、
余裕がないと断られた。考えてみれば三瀬厩舎はこの春に奈津を雇用したばかりである。
余裕がないというのは正直な返事と思われた。馬に関してはずぶの素人ということもあり、
他の厩舎との交渉も難航したが、最終的に啓は見習い厩務員として中田厩舎に拾われた。
 厩舎が違えば仕事中に会う機会は少ない。そのせいもあり、啓は毎日休み時間に奈津の
部屋を訪れていた。若い女と部屋で二人きり。胸が高鳴りそうなシチュエーションだが、
奈津に関しては気兼ねがなにより先に立つのが啓の現状だった。そもそも少しでも居住者
が黙り込めば、たちまち隣家の馬の鼻息が聞こえるような部屋である。窓を閉めてもうっ
すら漂う藁のにおいと獣臭さは、甘い雰囲気を作り出すのに適当とは言い難い。
 クッションの上に腰を下ろすと、啓は麦茶入りのコップを持ってきた奈津に、さっそく
先ほどの騎乗依頼について説明した。下品な出会いのシーンを省いて事情を告げる。
「それでそのオヤジ、厩務員の西脇(にしわき)だって名乗ったんだが、知っているか?」
「西脇さん、ですか。うーん、私は知らないと思いますが、啓くん、その西脇さんはどこ
の厩舎の方かわかりますか」
「それがな、大浜(おおはま)厩舎って言うんだよ」
 啓が言うと奈津は目を軽く見開いた。驚く気持ちもわかる、と啓は思った。名門で別格
で、今年も勝ち星リーディングを独走するナンバーワン厩舎。それが大浜厩舎なのである。
 三瀬厩舎の次に啓が就職を考えたのが、なにを隠そう大浜厩舎だった。理由は簡単、強
い厩舎の一員になれば、奈津の力になりやすいと考えたのである。もっとも啓は結局のと
ころ、連絡を入れる前に大浜厩舎への就職を断念している。
「おかしいですよ、啓くん」
 奈津が語気を強めて言った。
「大浜厩舎には、大浜騎手がいるじゃないですか」
 そうなのである。大浜調教師の息子、大浜雄平(ゆうへい)は騎手をしている。しかも厩舎と同様、
勝ち星リーディングを独走する名手なのである。啓が大浜厩舎で働くことを諦めたのは、
この雄平の存在が大きかった。雄平ほどの騎手が主戦を務めるのなら、大浜厩舎の馬を奈
津に回すのは難しいだろう。
 たとえば、と前置きして、啓は西脇の騎乗依頼について己の推測を語り始めた。
「同じレースに大浜厩舎の馬が二頭出ることになった。一頭に大浜騎手を乗せるとして、
もう一頭にお前を乗せる。そういう話ならあるんじゃないか」
 それなら筋は通る。啓はそう思ったのだが、奈津は首を横に振った。
「だからって、私に騎乗依頼が来るのはおかしいです」
「そんなこと言うな」
「あは、そうですね。だけど啓くん、大浜調教師の騎手起用は徹底しているんです」
「徹底して息子を乗せる、ってことか?」
「はい。雄平さんの都合に合わせて、管理馬の出走予定を決めている。そんな印象も受け
るくらいです。二頭出しはないと思います」
「そうか」
 啓はコップの麦茶を一気に飲み干した。
「でも、可能性はゼロじゃないよな。よし、今から俺が確かめてくる。大浜厩舎で誰かつ
かまえれば、詳しい話もわかるだろう」
「無駄だと思います。啓くんは西脇という人にからかわれたんです」
「そうかもしれないが、お前だって……」
 啓は奈津の瞳を見据えた。
「レースに出たいだろう。馬に乗りたいだろう」
「それは……」
 少し間があったが、啓の目を見返して、はい、と奈津は答えた。
「だったら確かめてみるさ」
 啓は空いたコップを奈津に手渡した。デビュー以来、奈津はまだ一度も勝ち星を挙げて
いない。だから初勝利を挙げれば、奈津の周辺には大きな変化が現れるはず。啓はそんな
期待を抱いている。
 初めて訪れた競馬場で、啓は奈津の騎乗ぶりに感動した。馬群に閉じ込められた奈津は、
それを切り開いて二着に食い込んだ。最後まで諦めない姿勢が啓の目にはまぶしかった。
しかしその話を厩舎の先輩に聞かせると、甘い、と啓は言われた。
「たまたま最後に前が開いただけで、上手く乗ったとは言えねえよ」
 それが先輩の意見だった。
「そんな乗り方じゃ、二着になれても勝てはしねえ。そういうとこ、やっぱ女はやさしい
わな」
 先輩はそう続けた。啓は納得できなかった。そちらこそ、奈津を女だからと甘く見ては
いないか。強くそう感じたし、男社会の競馬界に女性ジョッキーへの偏見があるとしたら、
その打破のためにも早く奈津に勝利を挙げてほしいと思うようになった。
「第一いつも上手くいくとは限らねえだろ、そんな乗り方は。もっと攻めていかねえと」
 ただし先輩が付け加えたその指摘は、啓も否定することができなかった。
「奈津、大浜厩舎の場所を教えてくれ。でもって騎乗依頼の話が聞けても聞けなくても、
俺はそのまま中田厩舎に帰るから。なにかわかったら電話で伝える」
「え、仕事に行くには早くないですか」
「午後は中田先生から厩舎作業の指導を受ける。予習をしておかないと」
「それなら仕方ない、よね」
 奈津の表情があからさまに沈む。自分のほかに話し相手がいないのだから、奈津が気を
落とすのは啓にも想像できた。それでも啓はやわらかいクッションから腰を上げた。
 近ごろ啓は午後一時に奈津と会う約束をしている。以前は正午に会っていた。
「啓くんのぶんも、お昼ご飯を用意するね」
 奈津からそんな申し出を受けたためである。嬉しかったが、後日、奈津が調教師宅での
昼食を断ってまで自分との食事を優先させたと知って、啓は愕然とした。聞けばデビュー
以来、奈津はずっと調教師宅で食事の面倒を見てもらっていたという。その後、啓は厩舎
の先輩と食事を取ることにした。奈津には元通り調教師宅の食卓に同席するよう言い含め
た。
 啓は孤立する奈津を救いたかった。だから厩務員になった。奈津が厩舎街に打ち解けて
いけるよう手助けするのも重要だが、なにより啓は、自分が奈津を支えるつもりだった。
自分だけは奈津の味方でいるつもりだった。最低限、それだけはやり遂げる覚悟で、啓は
厩舎街に飛び込んだのである。
 だが、自分の存在が、奈津の孤立を深める元凶になるのだとしたら。
「また明日、かな」
 奈津の寂しげな声が耳朶を打つ。大きな不安が二つ、啓の胸に膨れ上がった。一つは、
最低限の役割すら果たせない自分は、すでにどこかで選択を間違えたのかもしれない、と
いうものである。正しい選択をしているはずの今、肝心の奈津に辛い思いを強いてしまう
のが、そのなによりの証拠ではないだろうか。
 もう一つの不安は、じつは現在の選択も間違っているのではないか、というものである。
 明るく活発。
 それが本来の奈津の姿と啓は考えていた。
 弱気で臆病。
 厩舎街で見せるそういう態度は、閉鎖的な空気から自分の心を守るために作り上げた、
奈津の偽りの姿と啓は考えていた。
 啓と奈津は偶然出会った。その日、奈津は快活だった。見ず知らずの啓に対し、奈津は
驚くほど積極的だった。そのとき受けたインパクトが、啓の胸中に明るく活発な奈津像を
作り上げたのは間違いない。しかし今思えば、当時の奈津は近くに話し相手が一人もいな
い状況だった。
 だから例外的に、奈津は勇気を振り絞ったのかもしれない。必死に明るく元気に振舞い、
啓との会話を弾ませようとしたのかもしれない。
 だとしたら、啓の前で見せる顔は仮面にすぎず、啓以外の相手に見せる姿こそ、奈津の
本性と言えるのではないだろうか。騎手になる前の奈津のことを、啓は知らない。もしも
この想像が的中した場合、奈津に本来の姿を取り戻させようと積み重ねた啓の努力は、す
べて無意味だったことになる。
 胸の不安を押し隠しつつ、啓は奈津に背中を向けた。

     4

 来た道を戻るようにして啓が大浜厩舎へ向かう。競走馬二千頭と関係者四千人が暮らす
中央競馬のトレーニングセンターならともかく、その十分の一に満たない規模のこの競馬
場の厩舎街では、初めて訪れる場所であっても道に迷う心配はない。
 いくつかの厩舎の前を通り過ぎ、奈津の情報によればそろそろ到着だと啓が考えたとき、
背後で足音がした。振り向いた途端、かなりの速度で中年の男が脇を駆け抜けていった。
そして別の男がもう一人、競走するかのように最初の男を追いかけていった。時刻は午後
二時前で、昼休みの終了までには猶予があった。二人の男を遅れて追う形になった啓は、
彼らの行き先が大浜厩舎だったことをほどなく知った。
 大浜厩舎には人だかりができていた。厩舎の中央部にある入り口の外から、五、六名の
男が中を覗き込んでいる。そこには先ほどの男たちの姿もある。
 男がまた一人、啓の横を通り過ぎていった。ただし今度の男は歩いている。啓は事情を
聞くため声をかけた。
「あの、すみません。これって一体何の騒ぎです?」
「えっ、あっ、ぼ、僕?」
 啓の存在に気付いていなかったのだろうか。男は激しくうろたえた。背は啓よりも少し
低く、身体は細いが福々しいほど顔が丸い。目は垂れ気味で、厩舎街の住人にしては若い
部類と思えるが、年齢を判断しづらい面立ちでもある。
「えっと、何の騒ぎかって聞いたよね」
 男は目を泳がせながら言った。啓が頷く。
「それはね、そうだね、見てみるのが早いよ」
「はあ……」
「ここからでも見える」
 人垣によって塞がれた入り口ではなく、開いていた厩舎の窓から男は内部を覗き込んだ。
啓がそれに倣うと、黒鹿毛の馬が顔を出す馬房の前に、太った老人と髪の長い女が立って
いる。馬の額を撫でる老人の姿を女は写真に収めていた。
「あの馬、スーパーガッツって名前なんだけど、きみ、知ってる?」
 厩舎内を覗き込んだまま男が言った。
「あれが話題のスーパーガッツですか。大物なんですよね」
「そうそう。それで女のライターさんが取材に来たんだ。素顔のサラブレッド、って連載
を競馬雑誌で持っていて、かなり有名なライターさんらしいよ。きみ、知ってる?」
「知らないですけど、だったら外に集まっている人たち、ライター目当てのギャラリーっ
てことですか」
「そうだろうね」
「そんな有名人が取材に来るなんて、スーパーガッツも凄いですね」
「中央の現役オープン馬だったわけだし、地味すぎて逆に目立つ渋い血統の馬だからね。
ファンの注目度は低くないよ。ライターさんも今後、定期的に取材に来るらしいし」
 そこまで言うと、男は啓のほうに向き直った。
「ところで、きみ、誰? 見かけない顔だけど、ずいぶん若いね」
「えっと、俺はですね」
 啓が自己紹介を始めようとしたとき、男だけでなく馬を撫でていた老人までが、啓のほ
うをまっすぐ見た。
「おい、お前も来い」
 そう言っている。取材の応対をしているということは、老人こそがこの厩舎の主、大浜
調教師である可能性が高い。
「雄平」
 さらに老人が言った。女性ライターやギャラリーの視線まで啓に集まる。面食らったが、
見れば隣で丸顔の男が片手を前に突き出し、なにかを遮るような仕草をしている。
「雄平ちゃん、ライターさんが一緒に写真を撮りたいってよ」
 ギャラリーの一人が囃すように言った。丸顔の男が頬を赤く染めて厩舎の入り口へ歩き
始める。
 啓はあ然とした。誰より多くの勝ち星を積み上げるナンバーワンジョッキー、大浜雄平。
それが今、自分の隣にいた男の正体だというのか。信じ難いが、状況からして他に答えは
考えられない。
 厩舎に入った雄平に女性ライターが挨拶する。雄平は目を合わせることができなかった。
啓との会話でもその兆候は見られたが、どうやら雄平はひどい照れ屋であるらしい。女性
ライターの質問に対し、雄平が大汗をかきつつ意味不明な相槌を繰り返す。
 ――本当に、すごい騎手なのか?
 成績は承知している。しかし啓は実際のレースで雄平に注目したことはない。疑念に囚
われ首をかしげたところで、啓は肩を叩かれた。
 振り向くと、巨大な顔が間近にあった。西脇である。啓の手をつかんだ西脇は、厩舎の
端まで早歩きで移動した。ギャラリーから距離を取った。
「しっかり伝えてくれたか、嬢ちゃん騎手に」
 啓の手を離すなり、西脇はそう言った。相手のペースに呑まれないよう、啓が腹に力を
込める。
「伝えました。ただそのことで質問があります」
「盛り上がっているな、あいつら」
 啓の言葉を聞き流し、西脇は厩舎に張り付くギャラリーの男たちに小粒な瞳を向けた。
「まあ、盛り上がるだけ盛り上がればいいさ。閉鎖の近い競馬場にとっちゃ、例外的なス
ター候補生だからよ。俺のスーパーガッツは」
「……俺の?」
「そうよ。あの馬の担当厩務員は、なにを隠そう、この俺だ」
 胸を張って言うと、西脇は啓の耳元に顔を寄せた。
「嬢ちゃんには、スーパーガッツの騎乗を依頼してやる」
 そばに人などいないにもかかわらず、声をひそめて西脇がささやく。
「楽しみにしておきなって、しっかり伝えておいてくれよ、アンちゃん」


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「シックスティーン・ビート」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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