illustration:宮尾和孝
第二回


(1「競馬場のメサイア」つづき)

      4

 三階建てのスタンドを背にしながら、啓はレースのスタートを待ち構えていた。灰色の
砂の敷き詰められたコースは、一周千百メートル。形は楕円で、内と外をラチと呼ばれる
白い柵で仕切っている。人間用の競技場ならハンマー投げや棒高跳びの舞台となる中央部
は、どうやら畑として利用されているようだった。バックストレッチの向こうには、啓が
先ほど渡った橋が見える。
 この日の最終競走である第十二レースは、距離千二百メートルで行われる。スタート地
点は直線の中ほどで、そこから一周と少し時計回りに走るとゴールだった。出走馬はすで
にゲートの前に集まり、輪を描くように歩きながら発走時刻を待っていた。鞍上の騎手も
ゴーグルの装着を終えている。
 年配の発走係員が赤旗を振り、軽快なファンファーレが場内に響いた。檻のようなゲー
トに最内枠のドールハウスから誘導される。順調にゲート入りは進み、十二頭が横一列に
佇立した。体勢完了。空気が張り詰める。
 バネがはじけて扉が開く。ほんの一瞬後ろに体勢を傾けた馬たちが、標的に躍りかかる
ようにしてゲートを飛び出していく。砂が舞う。蹴り上げられて、砂が舞う。
 ドールハウスも疾駆する。順位は真ん中あたりで、膝をたたんで跨る奈津が、軽く手綱
をしごいていた。啓はひとまず安堵した。パドックでのヤジを真に受けたわけではないが、
ブランクのある奈津がしっかり騎乗できるか心配したのも事実である。馬たちが斜めにな
って一コーナーに突入する。先頭を走るのは黒い馬体のクレスドルフィン。
「バカ! 外出せ! 外!」
 啓の耳に男の怒号が飛び込んだ。
「女!」
 男はさらに叫んだ。啓が横目で声の主を探ると、潔く頭の禿げた老人が、周囲の視線を
独り占めにしている。
「外だよ! バカ! 女!」
 老人の怒鳴る姿を実見したところで、啓はレースに視線を戻した。一番枠からスタート
したドールハウスは、そのまま馬群の一番内を走っている。真ん中あたりの順位を保った
まま、二コーナーへと差し掛かる。
 うまいじゃないか、と啓は思った。内を走れば距離損がなく、体力をロスせずに済む。
そんなことは素人でもわかる。たとえばドールハウスの外を並走する芦毛の馬などより、
よほど巧みなレース運びをしているだろう。なのに何故、奈津がバカ呼ばわりされなくて
はならない。
 ――女だからか?
 他に答えは思いつかない。苦い気分になる啓をよそに、レースは淡々と進んだ。十二頭
の馬がバックストレッチに進出する。先頭を走るのは相変わらずクレスドルフィンで、他
の十一頭との距離をさらに広げつつあった。尾を斜め下にたなびかせ、各馬が三コーナー
へと向かう。
 いきなりだった。三コーナーの入り口を過ぎると、レースがいきなり激変した。急加速
したのである。クレスドルフィンの騎手が手綱をしごいた。後続の馬には二発、三発とム
チが飛んだ。まるで今までのレースが準備運動だったかのように、馬群を取り巻く空気が
白熱する。四コーナーに向かう。後方にいた馬が一頭、二頭と外をぶん回して進出した。
ドールハウスは内にいる。外から他馬にまとめて抜かれて、ドールハウスの順位は見る間
に下がった。
「言わんこっちゃねえ!」
 老人が喚き散らす。それに反逆するようにドールハウスは走りのピッチを上げた。しか
し前には馬がいる。外は変わらず芦毛の馬が張り付いている。追いすがることはできても、
他馬を抜くことはできなかった。ドールハウスは内に閉じ込められている。
「駄目だああぁぁぁ!」
 老人が断末魔の叫びを上げる。
 ――駄目なのか。
 啓は痛いほど拳を握り締めた。先頭のクレスドルフィンは評判通り力が一枚上手のよう
で、競りかけた馬を難なく追い落として直線に向いた。やや間があって、ひとかたまりの
馬群が後に続く。ドールハウスはとうとう芦毛の馬にも抜き去られ、馬群の最後方で内ラ
チぴったりを走っている。
 そう、奈津は内に進路を取り続けている。最後方まで下がってしまえば、外に出るのは
たやすいはずである。なのに奈津は内から離れようとしない。
 直線入り口、奈津が左手に持ったムチを高く掲げた。躊躇せずにそれを振るった。
 そして、消えた。
 啓は焦った。落馬したかと思ったからだが、無人の馬はどこにも見当たらない。消えた
のは奈津だけではなかった。ドールハウスの姿も見えなくなっている。
 ――どこに行った?
 極度に密集した馬群は砂煙のせいもあり状況を把握しづらい。独走態勢のクレスドルフ
ィンが最後は軽く流して勝利を決める。一呼吸置いて残りの各馬がゴールに殺到した。
 馬は機械ではない。だからまっすぐ走らない。馬同士の間隔は刻一刻と変化し、ゆえに
確実な進路は存在しない。
 それまで道はなかった。しかし次の瞬間、新たな道を内にこじ開け前に進んだ馬がいた。
 その馬は、額に星。
 馬群から首差抜け出したところで、身体の前面を砂まみれにした奈津とドールハウスが、
ゴールを力強く駆け抜けた。

      5

 啓は奈津と話したかった。奈津をほめたかった。奈津をねぎらいたかった。奈津と一緒
に喜びたかった。伝えたい言葉はいくらでもあった。
 だが、レース後ドールハウスとともに地下馬道に向かった奈津は、コースに戻って来な
かった。それは他の騎手たちも同様で、唯一の例外がコースの脇で騎乗馬とともに表彰を
受けたクレスドルフィンの騎手である。
 意を決し、啓は競馬場に隣接する厩舎街に足を向けた。朝を待つだけでは、もう奈津と
会えない。ならば自分から動くしかないと判断したのだが、いつになく昂揚していた啓の
心は、厩舎街が近づくほどに萎縮した。自分と奈津の立場の違いを考えたのが原因である。
 先ほどのレースを思い出す。奈津は輝いていた。子供の頃から憧れた舞台で、奈津は誰
より輝いていた。あの輝きこそ、夢をつかんだ者の証拠に他ならない。啓はそう感じた。
対して自分はどうだろう。夢を失い、目標もなく、怠惰な毎日を過ごしている。そんな自
分が奈津をほめる。奈津をねぎらう。傍から見ればさぞ滑稽な行為だろう。奈津と一緒に
喜ぶ。そんな資格が自分にあるのだろうか。
 初めて見た厩舎街の構造も、啓の気後れに拍車をかけたかもしれない。入り口にガード
マンの詰め所を配した厩舎街は、四方を塀で厳重に囲み一般人の立ち入りを禁じている。
競走馬が暮らしている以上、それは妥当な処置に違いなかった。しかし社会から隔離され
ている印象も否めない。
「流れ者の吹き溜まり」
 父の言葉が脳裏をよぎったところで、啓は厩舎街に背を向けた。歩き始めたその横を、
黒塗りの高級車が通り過ぎた。場違いな雰囲気が気になり啓が振り返ると、車は厩舎街に
入ろうとしている。
 だが、入らなかった。門の内側から人があふれ出したのである。行く手をふさぐだけで
なく、合わせて十名ほどの人々は車を半包囲した。
 ドアが開き、背広姿の男が車から降り立つ。髪は灰色で背が高く、肩幅の広い男である。
 そしてその前に立ちはだかったのが、赤のジャージ姿の奈津だった。
「こんな女の子が、今年デビューして、頑張っているんですよ!」
 奈津の隣にいる小柄な男が、目を見開き声を張り上げる。
「…………」
 背広の男は無言だった。すると奈津を押しのけるようにして、別の男が前に進み出た。
真っ白い髪を短く刈った初老の男である。
「俺たちを殺すつもりか!」
 物騒な台詞を叫んで、背広の男の胸倉につかみかかる。様子を見ていたガードマンが慌
てて制止に入り、初老の男を引き剥がした。
「あなたこそ、私を殺すつもりですか」
 背広の男の第一声だった。刹那の静寂の後、群集から非難の声が噴出する。騒ぎを聞き
つけてか、門の周りには当初の何倍もの人々が集まり始めた。
 混乱に乗じ、啓は厩舎街に潜り込んだ。いつの間にか人垣の一番外まで押し出されてい
た奈津の肩を叩く。
「どうして、ここに」
 振り返った奈津が目を丸くする。
「言いたいことがあったから」
 その目を啓はまっすぐ見た。
「よかった。凄かった。レース、感動した」
 言葉というより、それは感情のつぶてだった。奈津の姿を目にしたことで、啓の胸には
レース直後の興奮がよみがえっていた。
「最後まで内を狙って、最短距離を突っ切るなんてな。お前、意外と勝負師だな」
「牝馬は頑張り屋さんですから。砂を被ったとか、挟まれたとか、何かあればそれを言い
訳にして走るのを止めてしまうのは、ほとんどが牡馬なんですよ」
 微笑して答えた奈津が、そこで顔を俯ける。
「けど、勝てませんでした」
「復帰戦で二着。上出来じゃないか。次は勝てるって」
「…………」
「ところでさ、なんの騒ぎだ、これ」
 車を囲む人々を啓が見やる。感情的な声が未だに飛び交っている。
「今日の夕刊に記事が載ったんです」
 そう言うと、奈津はガードマンの詰め所の裏手を目顔で示した。たしかにこの状況では
落ち着いて話せそうにない。啓は奈津とともに場所を移した。
「この競馬場を運営しているのは市です。市で一番偉いのは市長さんです」
 奈津が説明を再開する。
「その市長さんが今日、競馬場の経営不振を農林水産省に説明したんです。膨らんだ赤字
は二十億で、この競馬場は、もう……」
 閉鎖しかない。奈津の口が衝撃的な言葉を紡ぎ出す。
「それは……」
 啓は驚愕した。売り上げの低迷については父も話していた。だが、そこまで切羽詰った
状況に追い込まれているとは思わなかった。今日にしても、客を集め滞りなく競馬を開催
していた。なにより自分の生まれる前から続いているような競馬場なのである。
「今、みんなに責められているのは、市の競馬担当の方です。今日、競馬場に視察に来る
ことは、前々から決まっていました。市長さんも発言のタイミングをもう少し考えれば、
こんな騒ぎにはならなかったのに」
「悪い。俺と話している場合じゃないな」
 浮かれ気分で現れた自分を啓は恥じたが、奈津は首を横に振った。
「わかっていたんです。破綻寸前の競馬場と、何年も前から言われていましたから。明言
されずにいただけで、閉鎖はわかっていたんです」
「何年も、前から?」
「はい。それなのに、私は今年からこの競馬場に配属されました」
「閉鎖が取り沙汰されていたのにか」
「コネがない限り、配属先を選ぶことはできません。私は期待されたんです。この競馬場
から、客寄せの手段として。お客さんを増やし、売り上げを伸ばせば閉鎖は回避できる。
珍しい女性騎手には商品価値がある。これ、この競馬場の調教師会のアイディアだそうで
す」
 奈津は顔を下に向けた。
「もともと、私は別の競馬場に配属されるはずでした。でも、この競馬場の要望で配属先
が変わったんです。競馬学校の教官に教えてもらいました」
「……チャンスじゃないか」
 啓は言った。自分で思う以上に強い口調になっていた。
「お前を売り出す魂胆があるんだろう、この競馬場の調教師たちには。だったらたくさん
馬に乗せてもらえるはずだ。それで活躍する。名前を売る。そうすれば道は拓ける。たと
えこの競馬場が無くなったとしても……」
 啓の熱弁を遮るように、車のクラクションが鳴り響いた。どうやら黒塗りの車が帰途に
就くらしい。群集から閉鎖反対の大合唱が湧き起こる。
「皆さん、仲良しですから」
 顔を上げずに奈津が言う。
「私が来るまで、この競馬場では何年も新人が入らなかったそうです。騎手だけじゃなく、
厩務員もです。人手は足りません。けどそれ以上にお金が足りなくて、まともな求人を出
すことができなかったそうです。だから皆さん、昔からの仲間だけで頑張ってきました」
「…………」
「新入りの騎手を乗せるより、仲間の騎手を乗せたい。そう考えるのは自然なことだと思
います。閉鎖が近いなら尚更です。厩務員の皆さんはそれを態度ではっきり示しています
し、調教師の先生たちも本音はそう思っているんです」
「けど、今日はレースに乗ったじゃないか」
「今日は特別です。市の視察に対するアピールとして、どうしても女性騎手を登場させる
必要があったんです。せっかくの努力も、市長さんの発言で無駄になってしまいましたが。
ちなみに、ドールハウスの次走は別の騎手に乗り代わることが決まっています。勝てそう
な馬に実績のある騎手を乗せるのは、当たり前の話ですけど」
「そんな……」
「私、ジョギング中に啓くんに呼び止められたとき、とても驚きました。それから嬉しく
なりました。どうしてかわかりますか。久しぶりだったんです、人から話しかけられるの
が。友達なんて、この厩舎街には一人もいませんから」
「でも、それでも……」
 夢を失った自分と、夢を叶えたはずなのに、夢も希望もない競馬場に送り込まれた奈津。
そのどちらが不幸なのかは、実際のところ啓にもわからない。
「俺とは、違うから」
 だが、啓は奈津に下を向いてもらいたくなかった。それでは自分と同じになってしまう。
「俺なんかとは、違うから」
 高校を中退したこと。
 サッカーを辞めたこと。
 夢を失ったこと。
 出会ったときから隠し続けた真実を、啓はついに告白した。
 まだマシなんだと笑ってほしくて、惨めな自分を懸命にさらけ出した。
「そう、なんですか」
 啓の告解を聞き終えた奈津が、静かに顔を上げる。
「……ままならないです」
 そう語る穏やかな表情が。
 父のことを、啓に想起させた。

      6

 吹き溜まりの競馬場。働いているのは流れ者ばかり。
 それは、なぜか。
 中央競馬は厩務員の免許制を実施している。免許は競馬学校の卒業者にのみ付与される。
 対して地方競馬は厩務員の免許制がない。調教師が雇うといえば、誰でもその場で厩務
員になることができた。ゆえに行き場を求める流れ者がこぞって厩舎に吹き寄せられた。
 ゆるいルールだった。そのゆるさに啓は感謝した。おかげで自分もこうして仕事の初日
を迎えることができている。ゆるいとは言い難い早朝の起床も、深夜のバイトに比べれば
じつに気持ちがいい。
 雇用主である調教師に従い、啓が厩舎に足を踏み入れる。馬の個室である馬房が十五も
並ぶ厩舎は電気を点けてもなお薄暗く、初めて見る馬と初めて見る人間が、どちらも時折
アクビをしながら作業をしていた。
 馬房の中でハミや手綱を装着する。屋外の洗い場まで馬を連れ出し、今度は背中に鞍を
載せる。腹帯を締める。それから厩舎の庭を曳いて歩いて、脚元に異常がないかチェック
する。
 そんな厩務員の朝の仕事を、もちろん啓はやっていない。馬に乗れないどころか、触る
ことさえ初めてなのである。馬主からの預かりものである大切な馬を、調教師が素人に世
話させないのは当然だった。しばらくは先輩厩務員の仕事ぶりを学びながら、雑用をこな
す。そういう雇用契約になっている。
 ただ、その雑用が薄給には釣り合わないほど過酷だった。具体的には馬房に敷かれた寝
藁の管理を一手に請け負わされたのである。寝藁とは文字通り寝るための藁、つまり馬に
とっての布団であり、使い捨てではなく干して何度か再利用する。人間用の布団干しも骨
の折れる作業だが、馬の巨体をカバーする布団となれば、手入れの大変さは自明の理だろ
う。啓はサッカー部にいた頃を思い出すような大汗をかいた。
 そうして自分の役目をどうにか果たし、澄んだ朝の陽射しの下、庭で一息ついたときで
ある。
「持ってくれるか」
 年配の厩務員から、啓はそう頼まれた。渡されたのは手綱の先っぽで、馬の口元とつな
がっている。つまり啓は馬一頭を持たされたのである。
「今に騎手が来るからよ」
 馬の調教は競馬場のコースで行うが、その競馬場に待機していて、厩務員の連れてきた
馬に調教をつけるのが有力騎手。厩舎まで馬を迎えに来て、競馬場まで調教をつけに行っ
て、終わったら厩舎に戻って馬を厩務員に返すのが一流以外の騎手。そんな調教システム
がこの厩舎街では成り立っている。
「せっかくだから、あちこち案内してもらえばいいんじゃねぇの」
 最後にそう言って、年配の厩務員は相好を崩した。
 わからないものだな、と啓は思った。彼女が厩舎街に溶け込めずにいるのは事実だろう。
ただ、想像とは状況が少し異なっていた。寝藁の手入れをしている最中、啓は厩務員から
頻繁に声をかけられた。突如現れた新人への好奇心もあるだろうが、なぜか話題は彼女の
ことばかりだった。
「世間的には中卒ってわけだろ。今から他のこと始めようったって難しいよな」
 そんな心配をする者がいた。
「あの子は二代目なんだ。ずっと昔にいた初代の女の騎手は、デビュー前に街の男と駆け
落ちしやがってよ。アンちゃんは大丈夫か?」
 そんな余計な心配をする者もいた。
「中央の騎手にならなかったのは悪くねえよ。地方はどこもコースが狭いし、お馬さんの
足もゆったりしているのが多いからな。女向きのやさしいレースに結構なるんだ。実際、
活躍した女の騎手はみんな地方の所属だしよ」
 そんな分析をする者もいた。
「若い者同士、仲良くやってくれよな、ホントによ。俺らにゃさ、どうすりゃいいかワカ
ンネーから」
 お手上げポーズで分析を放棄したのは、啓に馬を預けた年配の厩務員である。その発言
には居合わせたすべての厩務員が頷いていた。
 厩務員は流れ者だった。流れ者というのは大半が独身である。厩舎街に居付いてからも、
世間と異なる時間帯での労働を強いられる限り、普通の女と知り合う機会は稀になる。夢
をひたむきに追いかけてきた純朴な乙女を前にしたとき、接し方がワカンネーと思うのは、
年を重ねた独身男の偽らざる本心だろう。
 啓は厩舎の庭で彼女を待った。手綱を通して馬のエネルギーが流れ込んでくる。そんな
感覚を強く受ける。大きなとび色の瞳に見据えられると、手が熱くなって汗ばんだ。
 そして、厩舎の庭に奈津が現れる。半袖シャツに乗馬ズボンという出で立ちで、ジャー
ジのときより凛々しく見えた。
 決断から行動までが迅速だったこともあり、厩務員になることを、啓は奈津に伝えてい
ない。いるはずのない人物と遭遇して、奈津が目を見開き口まで開ける。そればかりか、
奈津は庭の入り口で立ち止まってしまった。
「厩務員になったんだ」
 馬を曳いて近づくと、啓は言った。
「どうして……」
「どうしてこの馬を預かってるのかって? 初心者の俺が早く馬に慣れるよう、気を利か
せてくれたんだと思うよ。それより驚いたよな、この馬のオーナー、復帰戦のお前の騎乗
ぶりを見て、すっかりファンになっちまうだなんて。調教だけじゃなく、実戦でも乗せて
くれるんだろ? 馬主には誰も逆らえないからな」
 混乱から抜け切れずにいる奈津に一方的にまくしたてると、束ねた手綱を左手で持った
啓は、右腕を横に構えた。他の厩務員の見よう見まねだったが、まるで条件反射のように、
奈津がその腕を踏み台にして馬の背に跨る。
「け、啓くん!」
 奈津が馬上で甲高い声を発した。やっと正気を取り戻したらしい。
「ど、どうして来ちゃったの? この競馬場、お仕事は辛いし、お給料は安いし、それに
もうすぐ閉鎖されるかもしれないのに……」
「俺には夢がない」
 卑屈な言葉を、啓は得意げに口にした。
「だからぴったりだと思ったのさ。夢のない競馬場が」
「そんな」
「驚くのはわかる。今さらここで働く奴なんて、俺くらいしかいないだろうし」
「駄目だよ……」
「もともと転職するつもりだったんだ、俺は。これでいいんだ。もう決まりだ」
「…………」
 話せば話すほど、啓の口調は硬くなり、奈津の表情は沈んでいった。二人は短い会話を
交わす程度の間柄ではある。とはいえまだまだ素では言えないこともある。
 なにも馬主ばかりがあの復帰戦に魅せられたわけではない。ドールハウスの背でムチを
掲げる奈津の姿は、啓の胸にも焼き付いている。それは何故か。啓は後になってその理由
を思案した。奈津が輝いて見えるのは、夢をつかんだ者だから。最初に抱いたその感想は
正しくない。自分や父に匹敵する心の闇を、あの日の奈津も抱いていた。なのに、何故。
 奈津とドールハウスは馬群の内に閉じ込められていた。それは絶望的な状況だった。
 しかし、諦めなかった。あの日、奈津とドールハウスは果敢に挑んだ。
 諦めずに、挑む。
 苦境の中で懸命に足掻くことの虚しさを、啓は熟知している。自身の体験もある。父の
例もある。だというのに、啓の目には最後まで諦めない人馬の姿が輝いて見えた。乾いた
心に興奮がほとばしり、冷めた血が熱くたぎった。
 そして奈津とドールハウスは、最後に道を切り拓いた。不可能を可能にしてみせた。
 啓は目の覚める思いがした。自分のそばには今まさに、希望を失い倒れようとしている
人がいる。諦めたくない。啓は強く思った。挑戦したい。啓は熱く思った。
 それに、啓は熟知していた。苦境に追いやられたとき、父や自分が一人で足掻いて自滅
したことを。啓自身には競馬場の閉鎖危機を跳ね返す力はない。だが、競馬場の救世主(メサイア)
なることを見込まれた奈津は、その力を秘めている。
 長い言葉はいらなかった。
「お前を助けに来た」
 そんな短い台詞だけで、啓は己の真意を奈津に伝えることができた。
「来てくれて嬉しい」
 奈津の返事もその程度で充分だろう。
 が、二人はそれが恥ずかしい。
「いいからとりあえず、仕事を済ませよう」
「うん」
「調教、見学しにいっていいか?」
「うん」
 現時点で、二人が話せるのはこの程度。
 その謙虚さを笑うように、庭のどこかでセミが一匹鳴き始める。
 季節は夏。
 馬とともに、二人が厩舎の道をゆく。

※本作は、2009年4月12日初版発行の『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』
 所収の短編「競馬場のメサイア」に加筆・修正したものです。


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「堕天使」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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