illustration:宮尾和孝
第一回


1 「競馬場のメサイア」

   1

 女の騎手が走っていた。
 馬の背に跨るのではなく、自分の足で走っていた。
 競馬場のコースではなく、公園沿いの歩道を走っていた。
 女の騎手、新川(しんかわ)奈津(なつ)山辺(やまのべ)(けい)が出会ったのは、今から一ヶ月前のことである。
 その日、啓は朝早くから街を歩いていた。荷物は肩から提げたバッグ一つ。街の空気は
凛と引き締まりぬくもりに乏しかったが、そろそろ梅雨も明ける時期である。ジーンズに
シャツを合わせただけの軽装でも、啓が寒さをおぼえることはなかった。
 啓の周囲に人影はない。ほとんど車も通らない。先刻まで闇に輪郭を溶け込ませていた
街並みは、すでにその姿を浮かび上がらせている。とはいえ街が目覚めるにはもう少し時
間が必要だった。
 啓の進路に公園が現れる。中には入らず、沿うようにして延びる歩道を啓は進んだ。公
園を囲む木々には夏になると騒がしいセミが所狭しと張り付く。だが、今は生き物の気配
が絶えていた。生い茂る葉の先を透かし見ると、背もたれのないベンチが置かれている。
座っている者は誰もいない。
 啓の表情が険しくなる。一人だった。寂しくはない。悲しくもない。しかし無人の街を
歩くことは、世の中と自分のずれを啓に強く意識させた。自分が社会のレールから外れて
いることを、痛いほどに実感させた。
 道の先から女が現れたのは、そんなときである。
 女は走っていた。服装は上下とも赤のジャージで、靴は白い。女が走り、啓が歩く。ふ
たりの距離が近づく。啓は十九歳になったばかりだが、女も似たような年頃に見えた。
 ダイエット目的で走っているのだろうか。
 それともトレーニングとして走っているのだろうか。
 啓が推理を働かせるうちに、ますます女がそばに迫る。
 啓は違和感をおぼえた。女の走り方にである。右腕に比べ、左腕の振りが極端に小さい。
脚の運びは軽やかで、背筋もまっすぐ伸びている。おそらく女は運動神経がいい。それな
のに、左腕の使い方だけが妙にぎこちない。
 女が走り、啓が歩く。お互い道の右側を進んでいる。女が啓に最接近する。
 通り過ぎる。
「おい」
 振り返り、啓は女に声をかけた。
「腕、怪我しているんじゃないのか」
 続けてたずねた。静かな街はよく声が通る。女は足を止めた。
「左腕だ、左腕。左腕の振りが変だったから、そう思ったんだが……」
 説明を付け足しながら、啓は己の発作的な行為を悔やんだ。女は左腕を怪我している。
それは間違いないと思う。怪我を庇うから腕の振りが不自然になるのである。だが、どう
して通りすがりの男が、そんなことを指摘しなくてはならない。余計なお節介もいいとこ
ろだろう。
 女が振り返る。眉は太いほうで、くりっとした目をしていた。美人というより、愛嬌の
ある顔立ちである。垢抜けてはいないが、黒髪のショートカットがよく似合っている。
 予想通り、女の顔には困惑の色が浮かんでいた。啓の心がさらに沈む。このまま怪我の
話を続けるにせよ、話を切り上げ謝るにせよ、気まずい時間を強いられるのは確実だった。
 いっそ逃げ出してしまおうか。啓がそんな無体な選択を本気で検討しかけたときである。
「はいっ、折れてます!」
 突如、女は明るく言い放った。面食らう啓との間合いを無造作に詰める。
「見てください」
 女は左腕の袖を勢いよくまくった。白い肌よりさらに白い包帯が、二の腕辺りに巻かれ
ている。
「尺骨、っていう骨が折れたんです。だけど回復は順調で、痛みはすっかり引きました」
「骨折しているのに、どうしてトレーニングをするんだ」
 ダイエット、という真っ先に思いついた女の走る目的を、啓は頭から消していた。女は
間近で見ると華奢である。ダイエットの必要があるとは思えない。
「痛みが引いても、じっとしていなければ駄目、ってことですか」
 頭の回りは早いようで、女は会話を先読みするような発言をした。
「大丈夫です。腕は使わないようにしていますから。それにジョギングくらいしないと、
体力が落ちちゃいます」
「大丈夫じゃない」
 断言すると、啓はスポーツ選手のリハビリについてレクチャーした。故障した選手のパ
フォーマンスが落ちる原因として、誰もが思いつくのが体力の低下である。しかしそれと
同じくらい問題となるのが、身体のバランスの崩れである。
「たとえば脚を怪我すれば下半身がなまる。けれど上半身は下半身ほどなまらない。結果
的に身体のバランスが崩れる」
「…………」
「脚を怪我したサッカー選手がいたとする。ボールを蹴れない。走れない。焦るあまり、
なにかをしなければと強迫観念にかられる。だからといって、そこで上半身を鍛え抜いた
としたら、どうだ。サッカー向きの身体を作ることができると思うか。筋力のダウンする
下半身と、逆に筋力のアップする上半身。バランスは完全に崩壊する」
「なるほど、です」
 女は大きく頷いた。
「私の場合、焦って脚を鍛えても逆効果、というわけですね」
「そうだな」
「トレーニングのメニューは要再考と。了解です。ところで……」
 じつに素直に啓の話を聞いていた女が、ここでようやく首をかしげた。
「お兄さん、凄くリハビリに詳しいですね。ひょっとしてお医者さんの卵とか」
「まさか」
 啓は笑った。女の推理は的外れにもほどがある。
「だったらお兄さん、スポーツをされているんですか」
「え?」
 続く女の推理に啓が表情を強張らせる。
「あ、図星ですね。じつは私も……」
 首の角度を戻した女は、それから一方的に自己紹介を始めた。街の端に広い川が流れて
いて、その先に古くから続く競馬場がある。国が運営する『中央競馬』と違い、市が運営
する『地方競馬』の競馬場だった。女、新川奈津はそこの騎手だという。デビューしたの
は今年の春で、年齢は啓と同じ十九歳。
 半月前、競走馬の調教中に落馬をして、腕の骨を折った。デビュー以来、何度か実戦を
経験しているが、まだ勝ち星は挙げていない。そこまで話を聞いたところで、啓は奈津と
別れた。運動後はクール・ダウンが不可欠。そう考えた啓が話を遮り、しばらく歩くよう
勧めたためである。奈津はよほど話し好きらしく残念そうな顔をしたが、すぐに頷くと元
気な足取りで橋の方向へ歩いていった。
 そして翌日、啓は奈津と再会した。場所は前日同様、公園沿いの歩道である。
「トレーニングではなく、ダイエットです」
 笑ってそう話す奈津は、ジョギングではなくウォーキングの最中だった。痩せる必要が
あるのかと啓は訝ったが、騎手にとってダイエットはライフワークであるらしい。
 次の日も啓は奈津と会った。競馬の世界は朝が早く、冬以外は午前四時に起床して調教
を始めるという。本来なら奈津もそれに参加するのだが、片手でできる仕事は限られる。
だからウォーキングをする暇が生まれるらしかった。
「啓くんも毎朝大変だね」
 この日から、奈津はそんなふうに啓を呼ぶようになった。
 その後も二人は頻繁に顔を合わせた。時刻はいつも早い朝。啓は会うたびに奈津と他愛
ない話を交わした。競馬場に隣接した厩舎街で暮らしていることを聞いた。競馬学校での
二年間の厳しい生活について聞いた。その競馬学校に入るために一浪したことを聞いた。
故郷が競馬と無縁の地であることを聞いた。たまたま見たテレビ中継で騎手に憧れたこと
を聞いた。騎手になることを親に反対された話を聞いた。
「でも、今は応援してくれているんです」
 だから頑張らないと。そう決意の表情で語ったとき、奈津の朝の運動はウォーキングか
らジョギングに戻っていた。
「ひどい入れ込み、、、、だ」
 知れば知るほどひたむきな奈津を、啓はそんなふうにからかった。入れ込むという言葉
は、夢中になるという意味で一般的には使われる。しかし競馬の世界では、興奮しすぎて
力を浪費することを、入れ込んでいると表現する。先日、試しに少し視聴した競馬中継で
啓はそのことを知った。
「ま、お前はそれでいいと思うがな」
 返事を聞く前に語を付け足すと、啓は自動販売機でスポーツドリンクを買った。奈津の
生き方は健全で力強く、直接関係のない自分まで清々しい気持ちにさせられる。応援した
かった。スポーツドリンクを渡すと、鼻の頭に汗の粒を浮かべた奈津は嬉しそうにそれを
飲んだ。
「それじゃあね、啓くん」
 そして二人はこの日も別れた。颯爽と腕を振って走る奈津の姿は、怪我の完治を如実に
物語っている。リハビリを兼ねた早朝トレーニングはもうすぐ終わる。
 一人になった啓が朝の街を歩き始める。急ぐ必要はなかった。向かう先は自宅のアパー
トである。啓が朝早くから外出している理由を、奈津はサッカー部の朝練のためと勘違い
している。サッカーひと筋の大学生。そう奈津が勝手に推理を進めて、啓もそれを否定し
なかったためである。
 だが、それは事実ではない。啓は大学には通っていない。サッカーも以前は打ち込んで
いたが、高校を中退してからはボールに触れたことすらない。
 啓はバッグを肩からかけている。中身はサッカーのスパイクではなかった。トレーニン
グ・ウェアでもなかった。コンビニエンス・ストアの制服だった。今日も深夜のアルバイ
トを終えて、啓は帰宅しているところだった。

   2

 暗渠の上、異臭の漂う小道を抜けて、啓は自宅アパートにたどりついた。ドアを開けて
玄関に上がる。
 途端に酒の臭いが鼻をついた。洗面所でうがいを済ませ、啓が居間へと向かう。そうす
る頃にはくぐもった寝息を耳が捉えるようになっていた。
 カーテンが閉め切られた居間は、蛍光灯の明るさに満ちていた。こもる空気は生ぬる
い。
ビールの缶とノートパソコンに囲まれ、テーブルに突っ伏していた啓の父が、ゆっくりと
顔を上げる。
「……啓か」
「…………」
「そうか。もう朝か。いつの間にか寝ていたよ」
「……そう」
 最低限度の返事をすると、啓は蛍光灯のスイッチを切った。それからカーテンを開け、
窓も開けた。一度は薄闇にまぎれた部屋のゴミが、差し込む陽光に照らし出される。風は
少しも入ってこない。
 普段はこのまま自室に向かう。けれど啓は父のほうを見た。
「川の向こうの競馬場、行ったことある?」
 そう聞いた。奈津が騎手に復帰するなら、観戦に行きたい。応援するのはもちろんだし、
奈津の人生を変えた競馬というスポーツへの興味もあった。だが、競馬というのはギャン
ブルでもある。近寄りがたいイメージが存在するのも否めない。ゆえになるべく下調べを
しておきたいと啓は考えていた。
 また、父にできるだけ声をかけるよう、啓は母から頼まれてもいる。そんな身勝手な話
を承諾したつもりはさらさらないが、頼まれたという事実を忘れることもできなかった。
おかげで父との会話の少なさを、啓はことあるごとに意識させられる。
「競馬場? 珍しいことを聞くね。子供は馬券を買ってはいけないぞ」
 穏やかな声で答えると、寝起きの父は両手を組んで伸びをした。啓が首を横に振る。
「買ってないって。バイト先で話題にのぼったから、気になっただけ」
 話を単純にするため啓は嘘をついた。父がため息を漏らす。
「それは感心できる話じゃないな。やっぱりモラルに問題があるようだね、深夜バイトは。
身体に負担もかかるだろうし、お前も早く別の仕事を探したほうがいい」
「…………」
 啓は父に倣って小さくため息をついた。
「どうした、啓」
「どうもしないよ」
「お金より、お前の気持ちが大切だ。啓、仕事は本当にやりたいことをやりなさい」
「わかったよ。それでどうなの。競馬場、行ったことはあるの」
「何度かあるが、あそこはあまり、きれいな場所じゃなかったな」
「建物は古いらしいね」
 競馬場が昔からあることは啓も知っている。それに厩舎街のオンボロぶりを奈津に聞か
されてもいる。本当かどうか定かではないが、トタン張りの奈津の住居は傾きがちな柱の
補強をガムテープで済ませているらしい。
「そうだな。あの競馬場は赤字続きだから、老朽化した設備を作り直す余裕はないだろう。
だがな啓、私が言いたいのはそういうことじゃない」
 声だけでなく、父は顔つきも穏やかである。
「働く人間だよ、問題があるのは」
 温和な態度のまま、父は辛辣な言葉を吐き出した。
「これは有名な話でね、吹き溜まりなんだよ、あの競馬場は。ワケありの、カゲのある、
他に行く当てのない、流れ者たちの雇われ先。それがあの競馬場なんだ」
「…………」
「だから総じて品がない。付き合いで何度か足を運んだけど、柄が悪いと私は感じたよ。
売り上げが落ち込む理由もそのあたりに……」
「わかった」
 強引に話を打ち切って、啓は自室へ足を向けた。握った拳に滲む汗を不快に感じながら、
やはり父に声をかけるべきではなかったと後悔した。ドアを開け、暗い自室で一人になる。
 父が嘘をついているとは思わない。父の味わった競馬場の空気は、おそらく殺伐とした
ものだったのだろう。だが今はどうなのだ、と啓は思った。少なくとも、今の競馬場には
奈津がいる。父と違い、自分はそのことを知っている。通りすがりの男に自己紹介を始め
るほど社交的な奈津は、込み入ったワケもなければ、暗いカゲもない。
 ――他に行く当てのない人間、ね。
 どう考えてもそれは奈津を示す言葉ではない。啓は乾いた心でそう思った。ふさわしい
人物なら他にいる。
 父は現在、無職だった。平日、休日の区別なく家で過ごしていた。日中は間食しながら
テレビ鑑賞。夜は酒を呑みながらネットサーフィン。そんな引きこもりのような生活を、
父はかれこれ二年も続けていた。
 病気療養。
 それが父の掲げる大義名分である。
 もちろん昔は違っていた。父はやり手のビジネスマンだった。独立すれば必ず成功する
と皆から言われ、その声に応えるように会社を飛び出した。父は新規に事業を立ち上げた。
 直後、父の心身は異常を来した。夜眠れない。食欲がない。無理に食べると戻してしま
う。息苦しさが消えない。疲弊した父は気が短くなり、記憶に欠落が生まれ、信じられな
いミスを仕事で繰り返した。
 そして父は倒れた。検査を受けても肉体面の疾患は見つからず、独立の重圧による心の
病と診断された。無理をして職場に戻った父は再び倒れ、長期の療養を余儀なくされた。
事業は頓挫し、初期投資をしたばかりの父の手元には多額の借金だけが残った。
 以後の父はすっかり気力を失った。外に出ることも稀となった。家を売って生活保護を
受けるようになった。母はそんな父を見捨て別の男のもとに走った。父はそのときも為さ
れるがままだった。
 そして両親の離婚が成立した直後、啓は高校を辞めた。
 ――俺も行く当てのない人間だな。
 啓の乾いた心がひび割れを起こし、闇の部分を露出させる。啓の高校中退は父の失職が
原因ではない。怪我である。高校二年の秋、啓はサッカー部の練習中に靱帯を伸ばした。
軽い故障ではなかったが、全治期間は一ヶ月で収まった。
 が、啓は焦った。脚が治る前から上半身の筋トレに励み、ボディバランスを著しく崩し
た。ようやく過ちを悟った啓は、正しいリハビリについて勉強した。そのとき得た知識に
よれば、一度崩したバランスを回復するのに最低でも一ヶ月はかかるという。
 スポーツ推薦による奨学生。それが啓の高校での立場だった。俊足の右ウイングとして
期待は大きく、冬の選手権を前に一ヶ月休むだけでも充分気が咎めた。だというのに、さ
らに追加で一ヶ月の調整期間。ありえなかった。
 思いつめた啓の脳裏に、やがてひとつのアイディアが閃く。強化しすぎた上半身に調和
するほど、下半身を鍛え上げる。そうすれば故障前を超えるパフォーマンスが期待できる。
常識的に判断すれば都合のよすぎるその妄想に、啓は救いを求めて囚われた。
 故障明けの下半身に無理を強いた結果は、再度の怪我だった。靭帯断裂。前回とは比較
にならない重傷だった。治療にはおよそ一年の期間を要し、しかも完治するわけではない。
 啓は絶望した。誰かが啓を支える必要があった。適任なのは両親である。けれど当時は
父も母も自分のことで精一杯だった。だから啓が部活に顔を出さなくなっても、両親は一
言も意見しなかった。啓が荒れた生活を送るようになっても、両親は少しも構おうとしな
かった。啓は歯止めが利かなくなり、ついにサッカー部を辞めた。その翌日、母は家から
逃げ去った。
 退部したスポーツ奨学生は肩身が狭い。もともと学力では後れを取っていたこともある。
高校生活に興味を失った啓は中退を口にするようになった。さすがに教師や友人から慰留
を受けたが、経済的な問題を持ち出すとあっさり納得された。事実、啓には自身の食い扶
持を稼ぐ必要が生じていたのである。卒業はしておくべきだと口では語った父も、仕事に
復帰する素振りは微塵も見せなかった。
 どこまでが自分の意志だったのか、今となっては啓自身にもわからない。子供の頃から
追い続けた夢を、啓はどさくさのうちに失っていた。

   3

 その日の朝はいつもと違っていた。ジョギングするでもなく、ウォーキングするでもな
く、奈津は公園の前で立ち止まっていたのである。
「明日から私も調教に復帰します」
 この時間に外出するのは、だから今日でおしまい。奈津はそう語った。
「レースに出るのも近いのか」
 啓がたずねる。奈津は頷いた。
「それ、いつだ」
 続けて啓がたずねる。
「来週の水曜です。乗る馬は決まっていませんが、うちの競馬場のホームページにもうじ
き詳しい情報が載るはずです」
「水曜か」
「はい」
「そうか」
「はい」
 二人の会話はそこで途切れた。もともと短い会話を交わす程度の間柄でしかない。普段
ならこのまま別れておかしくないタイミングだった。
 が、こうして会うのも最後である。そう思うと、啓の胸には名残惜しさが生まれた。
「そういえば、です」
 そんな啓の気持ちを知ってか知らずか、奈津のほうから話を切り出す。
「啓くん、サッカーの試合は近いんですか。私、できれば見に行きたいです」
「それは……」
 啓は奈津から視線を逸らした。
「試合はあるけど、一年の俺に出番はないから」
 こうして会うのも最後である。真実を告げるなら今しかないとわかっていたが、啓は嘘
を貫いた。淡く心地よい関係を維持したまま、啓は奈津と別れて歩き始めた。
 そして迎えた翌週の水曜日。十六時二十五分発走の第十二レース、ドールハウスという
名の牝馬に奈津は乗る。昼過ぎに早起き、、、、、、、して家を出た啓は、橋を渡り川を越えて、金網に
トタンを打ちつけた競馬場の門にたどり着いた。入場料の百円を支払い、十五時四十分、
啓は生まれて初めて競馬場に足を踏み入れた。
 閑散としている。それが啓の第一印象だった。人はいる。けれど敷地の広さを考えると、
数が少な過ぎると感じた。風が吹き、うち捨てられた新聞紙が我が物顔で場内を移動する。
 独得の匂いが漂った。
 ――動物園の匂い。
 そう思った啓だが、すぐにそれが馬の匂いだと理解した。
 ――パドックだな。
 同時にそんな直感も抱く。競馬について下調べをした成果だった。競馬場にはパドック
という施設があって、次のレースに出走する馬が、そこで馬体の仕上がりを披露する。
 風上に向かって歩くと、啓はすぐにパドックを見つけることができた。人の姿はほとん
どない。遠慮せず、最前列に啓が立つ。
 馬が歩いている。
 出走する、十二頭の馬が歩いている。
 それだけなのに、啓は衝撃を受けた。馬は啓に見向きもしない。馬の世話係である厩務
員の誘導で、淡々と、単調に、パドックを周回するばかりである。それだけなのに、啓は
圧倒された。なぜならば、馬は大きい。人の何倍も大きい。四百四十キロ、四百八十二キロ、
五百八キロ。パドック正面の掲示板に表示された各馬の体重であり、物体としても大きい、
そしてそれほど大きなものが、目と鼻の先で生きていた。一歩進むごとに、光沢を放つ滑
らかな皮膚の下で肉が張り詰め、力がみなぎる。ケモノの匂いが発散される。
 馬に釘付けになった啓を我に返らせたのは、場内スピーカーの放送だった。まずファン
ファーレが鳴り響き、次いでレースの実況が流れ始めた。早口言葉のように馬の名前が連
呼され、一着、二着と順位が決まる。
 パドックを囲む人の数が、そのあと目に見えて増加した。入場者の大半はコース付近で
レースを観戦していた。それが啓の感じた人の少なさの原因だったようである。馬を見る
には特等席の啓の周囲も、新聞と赤ペンが標準装備の馬券師によって埋め尽くされる。
「やっぱ抜けているな、六番が。確勝だよ」
 啓の隣で男が言った。白いヒゲを生やした熊のような大男で、その体格のせいか独りご
とにしては声が大きい。啓を含め、返事をする者は誰もいない。
 六番の馬が啓の前を通り過ぎる。クレスドルフィンという名前の牡馬で、墨でも塗った
ように毛の色が黒い。
「一番も悪くはねえがよ」
 白ヒゲの男がさらに言った。すると今度は周囲の反応があった。笑いが起きたのである。
 一番の馬は奈津の騎乗するドールハウス。栗色の牝馬で、額に白い毛が星型にはえてい
るのが特徴的だった。体重は四百二十キロと出走馬中もっとも軽い。
 馬の周回が係員の合図でストップする。騎手がパドックに現れる。
「よっ、お姉ちゃん、落ちないで走ってよ」
 どこからかヤジが飛んだ。女の騎手は一人しかいない。誰が標的であるかは明らかで、
啓の周囲では笑いが起きている。
 ドールハウスの背に跨った奈津は、外で会うときとは別人のように厳しい顔をしていた。
啓が来ていることはわかっているはずなのに、パドックの客には一瞥すらくれなかった。
 それほど集中力を高めているのだろうか。それとも余裕を失っているのだろうか。
 トンネルのような地下馬道に、出走各馬が消えていく。

※本作は、2009年4月12日初版発行の『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』
 所収の短編「競馬場のメサイア」に加筆・修正したものです。


松樹剛史(まつき・たけし)

1977年静岡県生まれ。大正大学文学部卒業。2001年、『ジョッキー』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。著書に、デビュー作と同様競馬を題材にした青春小説『Go-one』、アスリート専門の医院で起こる人間模様を描いた『スポーツドクター』がある。共著に、本作のもととなっている短編が収録された『青春スポーツ小説アンソロジー Over the Wind』など。現在、『小説すばる』で高校生が主人公の青春バンド小説「堕天使」を連載中。
 
第十回 2010年3月4日
第九回 2010年2月18日
第八回 2010年2月4日
第七回 2010年1月21日
第六回 2010年1月7日
第五回 2009年12月24日
第四回 2009年12月10日
第三回 2009年11月26日
第二回 2009年11月12日
第一回 2009年10月29日


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