第4回

 蕎麦屋で昼飯を済ませることになってしまった二人は、神無川へ向かった。神無川は浅草の町から一寸外れの、桑畑や田んぼのある農村近くにある。町から然程離れていないのに、随分と田舎のように感じられる場所だ。春になれば道々に菜の花が咲き乱れ、心癒される風景となるが、立春を迎えたばかりの今は枯れ草しか生えていない。蕎麦屋を出て神無川へ行く道中、喜蔵はずっと小言を零して怖い顔を更に恐ろしくしていたが、
 「鰊蕎麦は初めて食べたが、いやぁ美味だった」
 小春はつい四半刻前に悩んでいたなど思えぬご満悦な様子だ。小春と喜蔵がこうして二人で連れ立って神無川へ行くのは、実に半年振りのことである。神無川には、小春が数十年前からの知己が今も住んでいる。もっとも、知己と思っているのは小春の方だけで――とにもかくにも、二人は頼りになるその知己に教えを乞おうと川へ向かった。
 「お~い、河童の棟梁~」
 川へ到着して土手へ降りると、小春は地に膝を折って、川へ向かって大声を出した。以前とまったく同じ眺めだ、と後ろから見ていた喜蔵は思う。
 「弥々子~」
 しかし、やはり以前と同じようにいくら呼んでも誰も出て来ぬ。冬の水面は静まり返っていて、あめんぼどころか、波一つ見当たぬほど静寂に包まれている。
 「弥々子~取り込み中なのかあ?」
 ただ単にお前に会いたくないだけだろうとズバリ言われた小春は、うるせぇというように後ろ手で手払いをして、喜蔵を二歩後ろに下がらせた。
 「あ、久し振りだから照れているのかあ?」
 喜蔵は弥々子の照れた顔を想像して、薄ら寒くなった。小春も喜蔵と同じ想像をしたのか、一寸顔を引きつらせたが、思い出したように喜蔵を振り返って笑った。
 「顔の恐ろしいお前のお気に入りも来ているぞ~」
 喜蔵がムスリと怖い顔をして「お前の顔が緩過ぎるのだ」などと言い返していると、
 「あたしだって、別段気に入っていやしないよ」
 と言いながら、緑色をしたおかっぱ頭の女河童がひょっこりと川面から顔を出した。小春に手招きされる前に自ら川辺に上がって来ると、ジロリと小春と喜蔵を眺める。相変わらずの目付きの悪さは、喜蔵と良い勝負だ。鼻の下と口が繋がっているところが猫似のこの河童は元々北の寒沢という極寒の地にいたが、新天地を求めるうちに流れに流れてこの東の神無川に辿り着いたのだ。以来、ここで他の河童たちを束ねる役をやっていて、この辺りでは名の通った河童の女棟梁である。
 「よ、棟梁。元気にしていたか?」
 小春が愛想良く言うと、用件は? と弥々子は間髪要れずに素っ気ない答を返して来た。
 「おいおい、久方振りだというのに挨拶もなしか」
 「まどろっこしいのは嫌いだ。坊がここへ来るということは、どうせあたしに面倒事を頼みに来たんだろ? 早く言いな」
 可愛げのない奴だと小春は呆れたが、弥々子は小春の四歩後ろに立つ喜蔵を見遣って「兄さんは元気にしていたか?」と声を掛けたので、喜蔵も「ああ」と頷いた。
 「そうか、それは良かった」
 俺の時と態度が違う! と小春は喚いたが、弥々子も喜蔵もまったくの無視を決める。
 「寒い時期に水の中にいて平気なのか?」
 「ああ。河童は丈夫だから、寒かろうと水がある限りは大事ない」
 「日照りの方が怖いと?」
 「そういうことだね」
 二人は数十年来の知己とするような気負いのない話し方をしたが、それはあながち嘘とも言えぬ。弥々子は喜蔵の曾祖父と親交があった河童なのだ。その縁で、弥々子は曾祖父の面影がある喜蔵のことを気に掛けていたし、喜蔵もまた曾祖父と親しく付き合っていたという河童に何となく親しみのようなものを感じていたのである。しかし、二人がこうして会うのうのは半年振りのことだった――初めて会ったのも半年前のことである。
 「へ、お前らあれから会ってないの?」
 驚きの声を上げた小春に、喜蔵と弥々子は同時にこくりと頷く。
 「お前、訪ねて行ったりしなかったのか?」
 用もないのに会いにいくものか、というのが喜蔵の至極真面目に言った答えである。
 「用もなくても会い行くのが友の付き合いってもんだろ。なあ、弥々子」
 一見もっともらしいことを言った小春を、よく言うよ、と弥々子はねめつけた。
 「あんただって用がなけりゃあ来ないじゃないか」
 「お、てことは、弥々子は俺のことを友だと思っているということだな?」
 ニヤニヤとする小春に、弥々子は頭の皿から掬い取った水をびしゃあっと引っ掛けた。
 「おい、やめろ! 俺は水嫌いなんだよっ」
 「だからやってんだろ。あたしはあんたが嫌いだからね」
 ひどい、と喚く小春を尻目に、何かを思い出した顔をした弥々子は、喜蔵を見上げた。
 「そういや兄さん、例の娘は達者なのかぃ?」
 弥々子の問いに、それまで嘲笑を浮かべていた喜蔵はにわかに顔を強張らせた。
 「例の娘って? まさか、こいつどっかの姉ちゃんに懸想でもしてんの?」
 小春の問いに、弥々子は「まさか」と一寸だけ吹き出しかけたが、喜蔵の顔を見てごほんとひとつ咳払いをした。
 「ほら、兄さんの妹だよ」
 「ああ、深雪――」
 あれ? と小春は首を傾げて喜蔵を見た。
 「そういや、深雪ちゃん家にいなかったな。くま坂に遊びに行っているのか?」
 小春は庭に落ちた衝撃と寝惚け眼ですっかり失念していたが、喜蔵の妹・深雪は昨夜も今朝も喜蔵の家にいなかったのだ。以前住んでいた牛鍋屋の下宿に泊りに行っているのか? という小春の問いに、喜蔵はむっつりとした声で返事をした。
 「住んでいない」
 「は?」
 声を揃えた小春と弥々子は、顔を見合わせた。これまでずっと離れて暮らしていた喜蔵と深雪は、半年前に兄妹だと互いに認め合ったのだ。深雪は母が亡くなって三年間くま坂の下宿に住んでいたが、今は喜蔵の家に住んでいる――はずだった。
 「へ? お前らあれから一緒に住んでいるんじゃねぇの?」
 あたしもてっきりそう思って訊いたんだが、とその場に居合わせた弥々子も怪訝そうな表情をする。妖怪の目から見ても、今一緒にいるのが自然の成り行きだったようである。
 「あいつは今でもくま坂の下宿に住んでいる」
 苛立つように答えた喜蔵に呆れ返った小春は、弥々子に耳打ちした。
 「……おい、あいつはこんなに困った奴じゃなかったよな」
 あいつというのは喜蔵の曾祖父のことだ。こちらもも少々変わった人間だったが、
 「流石にここまで不器用じゃなかったね」
 いつもは小春の言うことに素直に頷かぬ弥々子も、深く同意を寄越した。
 「だからあの家の中に深雪の臭いがしなかったのか……というか、何で一緒に住んでないんだ? あの流れからいって、今一緒に住んでいない方がむつかしい気がするんだが」
 何かしでかしたのか? と小春は笑い含みに訊いたが、 
 「お前は俺の話をしにここへ来たわけでじゃないだろう。さっさと訊きたいことを訊け」
 喜蔵はいかにもわずらわしそうに、話の矛先を無理矢理変えた。
 「うわ、その誤魔化し方。よほど情けない事情なんだな?」
 後でじっくり訊いてやるからいいけれど、と言いつつ、小春は弥々子に例の妖怪の話をすることした。語っていくうちに首を傾げたのは、当の小春本人である。
 「――というわけで、随分妙ちきりんな怪みたいなんだけれど……最近浅草界隈で出没しているその妙な妖怪連中のことを知っているか?」 
 小春の話を首も傾げず黙って聞いていた弥々子は、その問いにすんなり頷いた。
 「ああ。知っているし、会ったよ。相手は一人だったがね」
 「おおお。さっすが、弥々子!」
 パチンッと指を鳴らした小春は、にんまりと子どもらしい笑みを浮かべた。 
 「で、どんな奴だった? どこで会ったんだ? お前のことだから、返り討ちにしてやったんだろ?」
 弥々子は小春の調子のよい様子を横目で見て馬鹿にしつつ、よどみなく語り出した。
 「あれはどれくらい前だったかね……十日も前ではなかったが、それくらいだ。風が強い晩だった。紙やら芥やら木板やら、ともかく色んなものが飛ばされていてね、一寸面白くてここらで涼みながら空を見上げていたんだよ。そうしたら、どこから湧いたのか知らないが、風の中からズルズルと派手な形をした見たことのない奴が出て来たんだ」
 百鬼夜行の行列が月明かりに一瞬映し出されたのかと弥々子は思ったが、すぐに様子が違うと分かったらしい。
 「夜行みたいに賑やかじゃなかったし、あんな風に乱れた動きをしないからね」
 百鬼夜行は、傍若無人な妖怪が並んでいるわりに、秩序だった行列である。そこに並ぶ妖怪たちは皆力のある選ばれた者たちなので、列から外れて下に落ちるまいと心掛けて並んでいるのだ。
 「どっかの馬鹿は心掛け自体を端から忘れていたらしいがね」
 夜行中によそごとを考え、まんまと行列から外れて下に落ちてしまった小春は、そ知らぬ振りをして誤魔化した。
 「夜行中によそごとを考えるなんて余裕な怪だなあ。感心感心。……で、見たことないと言ったが、どんな奴らだったんだ? 夜行の行列じゃなくとも、妖怪は妖怪なんだろ?」
 弥々子は一寸考えるような顔をして、言葉を選びながら話した。
 「妖怪……だろうね。人間臭い奴だったが、妖気はぼんやりとしていたがあったよ。身体は大蛇のように妙に細長かったが、見目は立派な竜だった。ただ、何か妙だったね。なにせ、全身若草色をしていたし、鬣なんか鬱金色に見事に輝いていた」
 そんなに派手なのか? と小春が変な顔をするので、派手ではおかしいのか? と喜蔵は首を傾げた。先ほどから皆の見た妖怪が派手だと聞くたびに、小春はこの怪訝そうな顔をしていた。妖怪は実際地味なんだよ、と喜蔵に向かって答えたのは弥々子である。
 「よく錦絵などでは派手派でしい怪の画が描かれているが、普通はああじゃないね。元々闇夜に紛れるような色をしているか、身体が目立つ色だったら格好を地味にするもんだ。坊だって頭は派手だが、あちらへいる時には着物はいつも闇色を着ているだろ? でも、あたしの見た奴は闇に紛れるどころか、逆に浮いてしまうような色味をしていた」
 そう聞くと、確かに妙な話である。まるで、『闇の中でもわざと目立つように色を塗りたくった』のだと思えてしまう。
 「あまり目立つ格好だと化かし辛いから、普通はもう一寸くらい地味にするはずなんだが……まあ、怪の中には変り種もいるから、酔狂なことをやりたくなったのかもね」
 「では、人間臭いというのは?」
 喜蔵がそう問うと、弥々子は珍しく何とも言い難い微妙な表情をした。
 「そいつ、あたしと目が合うと驚いた顔をしてそのまま姿を消したんだ」
 また逃げたんか、と小春は呆れた顔をした。随分と逃げ足の早い連中である。
 「いや……逃げたは逃げたが、それから少し経って、またあたしの前に姿を現したんだよ。それで、あたしの前にスッと突き出したんだ」
 「刃物?!」
 穴は空いていないな? と小春は弥々子の腹と背を交互に見た。空くわけないだろ、と弥々子はベシッと不躾な小春の顔を叩く。
 「突き出されたのは刃物じゃない。胡瓜だよ」
 目を点にした小春は、きゅうり! と叫ぶと、石の上に倒れ込みながら「荷物を持ち、肩を揉み、河童にきゅうり……」と念仏を唱えているかのようにブツブツと零した。おかしなことばかりで、頭の整理が追いつかなくなった小春の代わりに喜蔵が問う。
 「胡瓜はお前への貢物なのか?」
 「胡瓜の嫌いな河童なんて聞いたことがないから、嫌がらせじゃあないと思うよ」
 その怪は胡瓜を渡したらすぐに逃げ去った。もしやこの胡瓜に毒でも入っているんじゃないかと思った弥々子は、念の為に毒を喰らって生きる怪・毒蝮に毒見をさせたが、
 「うげ、不味い! なんじゃこれ、不味っ」
 と喚いて吐き出したので、安心して食したらしい。毒蝮の嫌がるものは、毒入りでない証拠なのだ。
 「本当、妙な奴だったよ。形だけは稀に見る立派な怪だったが、あれは大分臆病者だね」
 その妖怪は、弥々子に胡瓜を突き出した時もオドオドとしていて、ちょこんと触れた弥々子の緑の指先にビクッと身体を震わせると、ほうほうの体で逃げるように飛び去っていったのだという。
 「お前の追っている妖怪は、随分と情けない奴らのようだな」
 お前が退治するにはちょうどよいか、と喜蔵が嘲笑を向けた先にいる小春は、だらりと力を抜いて寝転んだまま呟いた。
 「役不足過ぎるだろ……そんでもって、そいつらと同じ思考なのは何だか嫌だが」
 小春はがさごそと懐を探って、さつきからもらった胡瓜を弥々子に放り投げた。本当に馬鹿のひと覚えだねぇと言いながら、弥々子は満更でもなさそうに受け取る。どこの世でも女は物に弱いのだな、と喜蔵は思った。
 「……最近ここらで出回っている奴は、どうやら女ばかり狙っているみたいだよ」
 気をよくしたらしい弥々子の言葉に、小春と喜蔵は顔を見合わす。
 「やはりそうなのか?」
 小春が半身を起こしながら訊くと、弥々子は「恐らく」とまた慎重に答えた。
 「あたしの他に、その派手派手しい妙な怪連中に会ったのは皆女だ。男共にももちろん訊いたが、そいつらに会ったという奴はひとりもいなかったよ」
 弥々子はしっかりと調査していたらしい。
 「女ばかり狙うって……髪切り虫の変種か?」
 髪切り虫は、乙女の黒々とした長い髪が好みの妖怪である。ちょん切った髪を繋げて、日本を一周出来るくらいの長髪のかつらを作るのが大望らしい――妖怪の中ではそんな風に噂されているが、真偽の程は不明である。
 「髪切りじゃあないね。あたしは若干あるが短いし、他の奴らはそもそも髪の毛など生えていない奴も多いから、もちろん切られてもいないよ」
 「そうだよなあ……さつきも綾子の教え子も、髪は何ともなかったようだもの」
 岩の上であぐらを掻いてうーんと唸る小春の横で、喜蔵は弥々子に訊ねた。
 「お前はどう考える? どのような妖怪で、何を企んでいるのか。女ばかりを狙う理由はなぜなのか」
 何を企んでいるのかなんて分からないよ、とすげなく答えた弥々子だったが、一寸間を置いて女ばかり狙うの理由は分かると答えた。
 「何だ?」
 真面目に問うた喜蔵の顔を見て、女河童はにやりと笑った。
 「そりゃあ、女が好きだからだろう」
 神無川からの帰り道、小春と喜蔵はどうにも釈然としない気持ちで歩いていた。
 「女好きの怪か……」
 何だか気が抜けてしまった、と小春は上を向いて溜息混じりに言った。喜蔵も何となく気勢が削がれてしまっていたので、内心で息を吐いた。元々乗り気ではなかったが、余計にやる気がしなくなってしまったのだ。巷を騒がす女好きの妖怪事件は、男の二人にはいまいち深刻なものには思えなかった。何せ、したことといえば人(女)助けや軟派な行為だけである。名前を教えてくれと家までまとわり付かれた婦人は気の毒だったが、その怪は気が弱いせいか家の中までは入って来ず、しばらく玄関の前でうろうろしていただけらしい。害といえば害だが、害でないといえば害でないような気もしてしまう。
 「何だかなあ……もっと力強い奴かと思って来たのに」
 ぶつぶつと文句を言う小春に、喜蔵はふんっと鼻を鳴らした。
 「また死にそうな目に合いたかったのか?」
 「俺は強いのと戦ってぶちのめしたかったの! 気弱な奴じゃなく、もっとこう、妖力むんむんな感じの雄雄しい奴が出て来るかなって思ってたんだよ」
 女好きの妖怪なんて間抜けな妖怪聞いたことねぇ、と吐き捨てるように言った小春は、ハタと何かに気付いたような顔をした。
 「そういや、女好きの人間なら、この近くに住んでいるな」
 寄って行くか? と小春はにやけた顔で喜蔵を見た。
 「行かぬ」
 喜蔵は明瞭な発音で即答したが、訊いた本人は初めから色好い返事など期待していない。馬鹿に会う暇などない、女狂いの病がうつる、などと雑言を並べる喜蔵を小春は手招きで引きずって行き、二人はあっという間に彦次の長屋の通りまで来てしまった。
 「うう……鼻が曲がる」
 小春は路地を曲がった途端に鼻を抓んで、そのまま彦次の長屋まで歩いていった。岡場所裏にある長屋の前には、どよん――と音のしそうな濁った用水路が流れている。長屋の住人や岡場所の者も、この川にくずを捨てているのだ。「往来を裸で歩くな」同様、政府の定めた条例で禁止されている行為だが、人の目がなければ皆平気で法破りをするものである。辺りが暗くなり始めていたせいで、川はいつも以上に陰気臭く見えた。
 彦次は、行き止まりから数えて四番目の長屋に一人で住んでいる。割り長屋はどれも二尺九寸の狭い住まいだが、家族四人で住むことも珍しいことではなかった。それを思えば、彦次は文無しといえども、まだマシな方なのかもしれぬ。しかし、妖怪の小春からしてみると、「狭い! 窮屈! ボロイ! ただの箱!」 という散々な評価であるらしい。
 「おお~い、頼も~」
 彦次の長屋の前に立つやいなや声を張り上げた小春は、返事を待たず、遠慮のひとつもなしに戸を乱暴に叩いた。無粋な道場破りだ、と喜蔵は無感情な声で呟く。
 「お~い、彦次~」
 色欲絵師~と声を掛けても、中から返答はない。
 「おや……留守か?」
 小春は耳を戸にくっつけて様子を窺ったが、人間の気配はしないという。
 「妓のところへでも出掛けたのだろう」
 喜蔵の言葉を聞いた小春は、相変わらずだなあと戸を叩くのをあっさり止めた。
 「家の中で何か飼っているのも相変わらずみたいだけれど。懲りねぇ奴だなあ」
 戸の隙間から漂って来るのは、妖怪臭ばかりであるらしい。彦次は以前、妖怪に憑かれて死にかけたことがある。小春と喜蔵に助けてもらい、何とか無事生き延びたのだが――。
 「あいつは馬鹿だから、死ぬまで懲りることはないだろう」
 喜蔵のひどい言い振りに、小春もうんと力強く頷いたが、そもそも彦次が妖怪事に立ち入ってしまった原因はこの二人である。彦次をおどろかすために連れて来た妖怪たちが、彦次のあまりの怯えっぷりを気に入ってしまい、そのままこの長屋へいついてしまったのだ。彦次は元々妖怪を惹きつけ易い性質だったが、小春と喜蔵のおかげで今ではすっかり妖怪まみれのの生活を送っているらしい。自分たちが彦次に始まりを与えたということを、薄情な二人はもうすっかり忘れ去っていた。
 「ま、別段彦次に用がないから、また今度でいいや。それより、帰りにもう一度くま坂へ寄ってみようぜ。もしかしたら半休だっただけかもしれないし」
 小春が踵を返しながらそう提案すると、喜蔵は珍しく反対しなかった。正月と盆しか休まぬくま坂がにわかに休んだことを、喜蔵も何とはなしに気にしていたからだ。小春は、喜蔵が反対の意を言って来ぬことにニヤニヤとしながら、足を弾ませて歩いた。
 小春のニヤニヤ笑いが止まったのは、二人が再びくま坂へ着いた時である。幟はなく、戸の前に「本日休」の紙が張ってあるままだったからだ。小春はちぇっと舌を鳴らした。
 「あーまた食い損ねた! どうする? 下宿に訪ねてみるか?」
 下宿は、くま坂の目と鼻の先だ。くま坂の裏にある二階建ての長屋がそれである。一階には坂本夫妻が、二階には深雪やマツたち女中がそれぞれ住んでいた。
 「下宿に訪ねたところで、店を開けてはくれぬぞ。どれだけ食い意地が張っているのだ」
 喜蔵の侮蔑の視線を撥ね退けて、小春は半目をして言い返す。
 「阿呆、そんなの分かってるっつーの。だが、深雪ちゃんには会えるだろ?」
 「明日を待てぬほどにあれが恋しいのか?」
 素直じゃねぇな、とねめつけてくる小春から視線を外し、喜蔵はさっさと歩き出した。

*

 浅草ニ出ル妖怪之件
 一、一ツ目小僧、青女房、竜、ヌラリヒョン、イッタンモメン、笑男ナドノ怪。
 一、立派ナ体躯ニ派手派手シイ色。朱、翡翠、若草、瑠璃、金茶、鬱金、虹色ナド。
 一、力量ハ不明。然シ、気弱デアル様子。
 一、男ノ前ニハ顔ヲ出サヌガ、女デアレバ老イモ若キモ関ワリノナイコト。女好キ。
 一、特段ノ害ハナイモノノ、女タチカラノ苦情ハ集ッテイル。
 以下、女タチノ話。
 一、女ノ周リヲクルクル回ッテ眺メタトノコト。
 一、女ノ持ッテイタ荷物ヲ家マデ届ケタトノコト。
 一、名前ト住マイヲ訊イタトノコト。
 一、好物ヲ差シ出シタトノコト。
 一、着物ガ似合イト褒メタトノコト。
 「え~と、そう言われたのは、七十近くになる結構恰幅の良い婆さんだった――すげえなあ。女たちが会った妖怪はそれぞれ違う奴のようだが、特徴や気性などが非常に似通っているため、何らかの目的を持った集団だと思われる、かな? 特徴は……気が弱い。しかし、妙に気が利きもする。女に目がなく、割と親切……こんな妖怪いるか!」
 小春は筆を放りだして、バタンと畳の上に仰向けに寝転がった。帰って来てから硯の精の身体を借りて例の妖怪の特徴を書きとめていたのだが、段々と馬鹿馬鹿しくなってきたらしい。喜蔵が覗いた半紙の半分は、下手くそな妖怪の落書きが描いてあった。
 「これが例の妖怪か? 随分弱っちょろそうな顔をしているが」
 喜蔵が嘲笑すると、
 「そうなんだよなあ……お前もっとおっそろしい顔だものな。どうも上手く描けぬ」
 と小春は残念そうに言った。ひょろひょろっとした、目だけぎらぎらと光っている妖怪もどきは、何と喜蔵であったらしい。描き直せ、と喜蔵が小春の顔に紙を押し付けると、
 「そうだ、小春。せっかく墨をすったのだからすべて使え」
 硯の精も珍しく喜蔵に同意を寄越した。自身を揺らして墨の残量を調べながら、もったいないと拗ねた顔をしたので、似顔絵がひどいと同情して言ったわけではないようだ。
 「もう書くことない……」
 「じゃあ、代わりに書いてやる」
 撞木は小春から筆を奪うと、小春の顔に落書きし出した。
 「……おい、俺はお前に羽根つきで負けてないぞ」
 一寸の躊躇もなくやられたので、小春は抗う機会を逃してしまった。
 「あんたは羽根つきどころか日常的に負けっぱなしだろ」
 腹が立つが上手い、と力なく呻くので精一杯であるようだ。
 「楽しそうなことをしているな。混ぜろ」
 「やっはっは、間抜けが余計に間抜け面」
 気が抜けたのと腹が減ったのとで、小春はされるがままだった。妖怪はまったく遠慮がない生き物なので、喜蔵が夕餉を作って居間に戻ってくる頃には、すっかり耳無し法一が出来上がっていた。喜蔵は一寸だけ動きを止めて、よく似合いだと皮肉を言った。小春は喜蔵を睨みかけたが、喜蔵の手元を見てぱあっと顔を明るくした。喜蔵がこしらえて来た夕餉が、いつもより豪華だったせいである。飯に味噌汁に漬物は同じだったが、そこにサヨリの焼き魚と豆腐田楽とおまけに団子まで付いていたのだ。喜蔵が小春を歓迎して――というわけではもちろんなく、小春への貢物の食材を腐らせまいと使ったせいである。飛び付いて食べ始めようとした小春だったが、
 「汚れる。外で落として来い」
 と鋭利な目線で射られて、渋々庭へ出て行った。小春は、たまたま空を飛んでいた雨降小僧に頼んで自分の周りにだけ雨を降らせてもらい、墨の汚れを落とした。ビショビショになりながら家の中へ戻って来た小春を乾かしたのは、吹き消し爺のいつもより百割増しの吐息である。一連の妙な光景を無視した喜蔵は、一人で夕餉を食べ始めた。
 「あ~あ。せっかく鬼の仕事で来たというのに、相手はどうもチンケな奴らみたいだ。牛鍋はおあずけだし、弥々子は冷たいし、彦次は相変わらず女狂いのようだし、何といっても目の前にいる鬼面が一等ひどい」
 すっかり身体を乾かしてもらった小春は、喜蔵の前に座り込んでさっそく飯にありついたが、どこもかしこも薄っすらと墨の跡が残っていた。
 「俺をその中に入れるな」
 「お前が筆頭だろ!」
 小春は行儀悪く、箸をピッと喜蔵に差し向ける。何のことだ? とすっ呆ける喜蔵に、小春は唇を尖らせた。 
 「何のことじゃねぇだろ? 何でお前深雪ちゃんと一緒に住んでないんだよ。弥々子だって驚いていたじゃねぇか。俺はもっとびっくりしたぞ」
 「妖怪には分からぬ人間の事情がある」
 だからあ、と小春は怒った声音を出す。
 「分からねぇから訊いてんの! 何となく察しはついてるけれどさ」
 「察しがついているなら訊くな」
 喜蔵の答えに、小春はムスッと頬を膨らませた。その顔があまりに幼いので、童子をいじめているような心地がして来た喜蔵は、フイッと顔を背けた。
 「俺は――」
 喜蔵は何か言い掛けた時、
 「ごめんください」
 裏口の方から、控えめな女の声が聞こえた。小春も喜蔵も相手がすぐ誰だか分かったので、同時に視線を通わせた。喜蔵が立ち上がる前に、小春はビュッと裏戸まで飛んで行き、
 「今日は山菜の煮物か?」
 戸を開けた途端にそう問うた。そこには二人がピンッときた通りの人物、綾子が立っていた。久し振りに綾子の顔を正面から見つめた小春は、綾子の相変わらずの別嬪振りに感心して、にこりと笑った。
 「……」
 一方の綾子は、対照的だった。小春の顔を見た途端、ぼろっと大粒の涙を零したのだ。
 「えええ……な、何で泣く?!」
 やっと裏戸まで来た喜蔵は寸の間固まり、綾子の目の前に立つ小春はあたふたとするだけで何も出来ぬ様子である。喜蔵がそのうちふうーっと溜息を吐くと、怒られたと思った綾子は、「ご、ごめんなさぃ……」としゃくり上げながら謝った。すると、喜蔵はムッと顔を顰めて首を振り、戸からスッと後ろへ離れた。喜蔵の行動の意味が分からぬ綾子はますます泣き出したが、小春は「いやいや」という風に顔の前で手を振った。
 「こいつ怒多分っていないから。『中に入って下さい』という意味だろ?」
 小春の言にゆっくり頷く喜蔵にほっと息を吐いた綾子は、散々逡巡した後に中へ入ってきた。綾子はお裾分けをしに来ても、いつもは裏戸かせいぜい土間までしか入って来ぬ。以前小春がいた時でさえそうだったから、この日初めて居間まで入ったことになる。
 とりあえず綾子を中に招き入れて、落ち着かせようと思った喜蔵と小春だったが、お裾分けに持って来た夕飯のおかず――確かに山菜の煮物だった――の入った皿を握り締めながら、綾子はぼろぼろと泣くだけだった。小春はわけも分からず綾子の周りをおろおろとするばかりで、喜蔵は綾子の前に正座をしたまま固まっていた。二人が宥めることも出来ずにいるうちに、しばらく経って泣き止んだ綾子は、
 「ごめんなさい……みっともなく泣いてしまって」
 と顔を真っ赤にすると、ぺこりと頭を下げた。いつもの綾子に戻ったか半信半疑な小春は、綾子の顔を覗きこみながら小首を傾げて恐る恐る問うた。
 「……どうしたんだ? 何かあったのか? ――あ! もしや、俺のいない間にコイツに何か悪さされていたんじゃ……」
 ゴツンッと盛大な拳骨を頭に落とされて、小春も泣きそうな顔をした。喜蔵は喜蔵で小春の頭上にある硬い角を力一杯殴ってしまったので、内心では泣きたくなる程痛かったがそんなことは億尾にも出さぬ。綾子は俯いたまま、しどろもどろで答えた。
 「小春ちゃんが無事だと分かって安心しちゃって、それでつい……」
 「無事じゃないと思っていたのか?」
 アハハと小春は噴出したが、綾子は笑わぬ。綾子が一寸こめかみの辺りを震わせたのを知ってか知らずか、小春は「そうだ!」とにわかに場違いな明るい声音を出した。
 「煮物を持って来てくれたことだし、一緒に食おう。いやあ、いつも綾子が来てくれて助かるよ。こいつの飯は美味いんだが、いかんせん貧乏だ。基本、飯と味噌汁と漬物だぜ? 今日は珍しく豪勢だが、これはひとえに俺の人徳ならぬ妖徳がなせる業で……うぐっ」
 変なことを言われる前に、喜蔵は小春の口に団子を突っ込んで喋れなくさせた。綾子は一寸ビクッとしたが、モグモグと嬉しげに咀嚼する小春と、それを横目で見て呆れている喜蔵の様子を見ているうちに、クスリと笑い出した。
 「本当に、二人とも兄弟みたいに仲がいいんですね」
 「どこが?」
 「どこがですか」
 二人が一斉に異議を唱えたので、綾子はまた笑った。
 「綾子、何言ってんだ。こんなおっそろしいのが弟だったら、俺毎夜枕を濡らしちゃう」
 「こんな小さく頼りない兄がいたら、俺の方こそ袖を濡らして暮らしていかねばならぬ」
 「何――ああ、飯だ飯!」
 小春が言い返さなかったのは、またしても、鬼の腹に住む虫がうるさく鳴き出したせいである。小春が黙るのは、大方これが理由なのだ。
 三人が共に夕餉を食べるのは初めてのことなので、綾子は大分遠慮していたが、
 「お前、もっと食べろよ。これ美味いぞ、ほれ」
 小春がやんやと言っているうちに、段々と笑顔が零れて来た。すっかり涙が引いたことに、喜蔵は少し安堵していた。
 「ところで、最近変わったものを見なかったか? ほら、妖怪とか」
 小春がおもむろに訊ねたのは、そろそろ夕餉が終わるかという時である。綾子が落ち着くまで待っていたらしい。妖怪沙汰などすっかり忘れていた喜蔵は、ほんの少しだけ小春を見直した。しかしその後、夕餉を食べ終わったそばから台所からいかの干し物の残りを持って来て齧っているのを見て、見直したことを見直したのだが……。
 「よ、妖怪? 見ていないと思うけれど……」
 急に言われた綾子は、きょとんとしながら答えた。いきなり妖怪を見たかなどと言われても、「見た見た」とならぬのが普通であるが、この日訊いた綾子以外の女のほとんどが「見た見た」と答えたので、綾子もそう答えなかったことを二人は少し意外に思った。
 「じゃあ、最近この辺りで妙な妖怪が現れているというのは知っているか?」
 綾子は長い睫を伏せて、しばし考え込んだ。
 「あ! そういえば、お稽古に来る娘さんがそんな話していたかも……」
 綾子は裏長屋で三味線を教えている。どうやら、そこに通って来ている娘たちが例の妖怪を目撃したらしい。
 「おお、それ! どんな話? どこで見たって?」
 確か宝治町辺りだと思う、と綾子は自信なさげに言った。宝治町は、弥々子の住まう神無川と彦次の住まう長屋のある町とのちょうど間くらいにある。綾子が教え子からその妖怪の話を聞いたのは、十日くらい前のことだという。綾子の教え子たちは、弥々子が妖怪と会うよりも一寸前に妖怪に遭遇していたことになるようだ。
 「夕暮れで、車もほとんど通っていなかったから、その娘たちは橋の真ん中を歩いていたんですって。そうしたら前から車が来て、危ないっと思って避けたらその車が転がって……近付くと、そこにいたのは車じゃなく、見たことない動物だったんですって」
 どんな動物? と小春が訊くと、綾子は白い首を斜めに掲げた。
 「それが、狸と蛇を足して、人間の顔をつけたような、不可思議な動物だったとか。本当なら怖がって逃げ出すところだったんでしょうけれど、その動物はずっと起き上がらなくて、その娘たちは思わず『大丈夫?』と声をかけてしまったそうなの。そうしたら、その妙な動物はにっこりと笑って、そのままどこかへ消えてしまったんですって」
 「その変な動物って、どんな色味だったか娘たち言っていたか?」
 「確か桃色や蜜柑色で、光沢のある色味をしていたとか。そうそう、まるで見世物小屋の生き物みたいだって……でもこれって妖怪なのかしら?」
 綾子は首を傾げた。何分自分が見たわけではないので、自信が持てぬらしい。
 「いや、きっとそりゃあ妖怪だ。ありがとな、綾子」
 小春は満足そうに頷いたそばから、綾子をしげしげと眺めて思い出したように言った。
 「しかし、綾子がその妖怪と会っていないのは存外だったなあ。絶対会っていると思った。女好きの妖怪なら、真っ先にお前みたいな美人の前へ現れそうなものだから」
 な? と小春は喜蔵に同意を得ようとしたが、喜蔵は(こちらへ振るな)とひどく迷惑そうな表情で小春を睨みつけた。当の綾子は困ったように笑っているだけで、まるで嬉しそうではない。女子だったら褒められれば何でも嬉しいのだろうと思っていた喜蔵は、綾子の反応を見て不思議な心地がした。綾子からは褒められて当然というような高慢さも感じられず、ただ諦めたような表情をしているのが気に掛かった。変わった人だ、と喜蔵が内心で綾子のことを考えているうちに、小春は一人ブツブツと愚痴を零していた。
 「しっかし、変な妖怪だ。人間の手助けをしたり、人間に助けられたり、女口説いたり……まったく、妖怪の風上にもおけねぇ」
 プリプリと怒る小春に、綾子は不思議そうな顔をする。
 「小春ちゃんは妖怪が好きなの? まるで知り合いのように話すのね」
 「知り合いというか」
 本人というか――と言いかけた小春の口に左手で塞ぎ、
 「……コイツは絵草子を読み過ぎて、現と夢の区別が付かないだけです」
 綾子の問いに答えたのは喜蔵だった。
 「そ、そうなんですか。じゃあ、小春ちゃんはそういうものを実際に見たりするの?」
 ふがふがと暴れる小春から手を話し、喜蔵は怖い顔で小春に念押しをした。
 (余計なことは言うなと先ほども言った。分かっているな――かな?)
 小春は胸のうちで嘆息を漏らして、子どもらしい笑顔で「ないよ」と綾子に向き直った。
 「じゃあ、私と同じね……喜蔵さんはありますか?」
 綾子にそう訊かれた喜蔵は、「ありません」と答えるしかなかったが、出来るものなら目の前にいる子どもを指差したかった。
 「まあ、また妖怪の話を耳にしたら俺たちに教えてくれ。稽古に来ている娘たちの友かなんかも見るかもしれないし、お前も出会うかもしれないからな」
 小春がそう言うと、分かりましたと綾子は真剣な顔で顎を引いた。何か重大なことだと勘違いしたのかもしれぬと喜蔵は思った。
 綾子が帰って早々、喜蔵は寝床の準備をし出した。常だったら店の帳簿をつけたり、湯屋に行く時間だったが、何かに急き立てられているように布団を敷くと、すばやく着物を脱いで寝巻きに着替え出した。その様子を行李の上に乗っかりながら、見るともなしに見ていた小春は、喜蔵が布団に入ろうとした時にこう切り出した。
 「で、さっきの話だけれど。途中だっただろ? お前と似ていない可愛い妹の話」
 小春に背を向けて無言で布団に潜り込む喜蔵に、小春は呆れた声を出す。
 「往生際が悪いな~話しにくいからって、早々と寝床の仕度なんかしちゃって」
 そんなに話しにくいことかねぇと小春は頬を掻いた。話しにくいに決まっている、と答えたのは、小春と反対側に立って喜蔵をキッとねめつけた硯の精だ。
 「小春に世話を掛けておいて、当人は何も努力していないのだから」
 いつの間にやら店から居間へ歩いて来たらしい。喜蔵は「世話など掛けていない」と反論しつつ、身体の向きを変えた。
 「近くに住んでいるというのに、離れ離れに暮らすなどおかしな話だ。お主らはまだ子どもではないか」
 「俺はもう二十だ。大体、この世の中に共に暮らしていない兄妹がどれだけいると思っているのだ? 俺たちだとてずっとそうだった」
 「だから、今更一緒に暮らすのはおかしいと? そんな馬鹿な理屈があるものか」
 妙は理屈ばかりこねおって、と呆れる硯の精に、硯に人間の理屈が分かってたまるか、と喜蔵は布団の中から言い返す。
 「それを言うなら、人間に硯の理屈など分かるまい。こちらの理屈はお主に意見することなのだから、お主は黙って聞けばよいのだ」
 「その理屈が通るなら、こちらの理屈も通せ。ボロ硯は店の隅に戻って埃を被って寝ろ」
 「怪は夜が朝だという理屈があるのでな。まだまだ寝ないわい。大体、神経質な店主のおかげで、埃などひとつも落ちていないじゃないか」
 硯の精はバシバシと片足で畳を叩いたが、確かに埃一つ舞わなかった。
 「では、一人で寂しく墨でもすっていたらどうだ? そいつの顔にまた落書きして餓鬼の遊びをすればよい」
 スッと人差し指で差された小春は、己の人差し指で己を指して小首を傾げた。
 「そんな無粋なところに書くものか」
 「紙の無駄遣いにはなるまい」
 「墨の無駄になる」
 どうして途中から俺に対する悪口雑言になるんだ、とげんなりとして小春が言うと、硯の精はハッとして小春へ向き直り、素直に謝り出した。
 「すまぬ、小春。つい本当のことを述べてしまった。お主には酷な話だというのに……」
 「やめてくれ! そんな言い方をされると、まるで俺が本当に無粋みたいだろ?!」
 小春は硯の精に歩み寄ると、べしゃりとひざをついて硯の精の肩――と思しき辺り――をガシッと掴んで言った。
 「お前の気持ちは分かったから皆まで言うな――それより俺は、この馬鹿の馬鹿な理由が訊きたいんだ。お前なら何か知っているだろ?」
 余計なことは言うな、と足蹴りでも飛んでくるかと身構えていた小春だったが、喜蔵は黙ったままだった。硯の精も何も言わぬので、小春は真横に首を傾けた。
 「知っているも何も……」
 硯の精はチラリと喜蔵の顔を見たが、喜蔵は微動だにしない。寝た振りなんてしやがって、と小春は喜蔵の真横で悪態を吐いたが、何も言い返してこぬので変に思い、ジッと目を凝らして、そして気が付いた。
 「……まさか、こいつ」
 小春はひざをすりながら喜蔵に近寄った。怖い顔に手をかざして確かめたが、規則的な息遣い以外、めぼしい反応はない。寝たな、と硯の精は冷静に言う。
 「どういう神経してんだよ……」
 呆れた小春は、胡坐を掻いたまま後ろに手を付いてふうっと息を吐いた。ちらりと喜蔵を見たが、何をしても起きなさそうなほどぐっすり眠っている。
 「で、何で一緒に暮らしていないんだ? もしや喧嘩でもしているのか?」
 「いや、申していないからだ」
 親戚との確執があったという過去をだろうか? そう考えた小春に、硯の精はまったく予想に反した答をくれた。
 「『共に暮らそう』と申していないから、妹はここに住んでいないのだ」
 「ああ、そこ……そっからか~」
 意気地なしの鬼面を哀れむような目で眺めた小春は、そのままごろんと後ろに倒れた。
 「肝心の仕事はやることなさそうなのに、どうでもいい家主の世話は大分やいてやらなきゃいけないってか?」
 何だかなあ、と煩悶していたと思ったら、数秒後にはぐおおおっと腹の音と同じくらいの鼾が家中に響き渡った。
 「……」
 身体の小さい硯の精はせめて腹だけでも、とようやくのことで引きずって来た綾子から再び借りた布団を小春の腹の上に掛けてやった。

*

 妖怪を見たことがないと言っていた綾子だったが、喜蔵の家を後にした綾子は、裏長屋に入る手前で妖怪を見た。
 (あれは――何かしら?)
 それは大きな猫だった――いや、猫というよりは獅子に似ている。暗闇の中で一瞬だけ見たので、綾子はそれが何だか判断出来なかった。綾子は霊感がまったくと言っていいほどなく、そういうものを見ぬ性質だと思い込んでいたので、まさか自分の前に妖怪が現れるなど思いもしなかったのだ。小春が百鬼夜行へ帰ってから喜蔵と徐々に親しんでいた綾子だったが、喜蔵の家にいる妖怪たちの存在にも未だ気づいていないほどである。
 (あら? 狸かしら……熊はこんな町中に出ないわよね)
 頬に手を当てて考えてはみたものの、自分の見たものがまさか妖怪だったとは考えもしない。見間違いだとは思わなかったが、「妖怪」ではないと勝手に思い込んだのだ。しかし、狸にしては随分と大きかった。大袈裟に見えてしまっただけだと思いつつも、脳裏に浮かぶのは見たこともない巨大な獣である。綾子の五倍くらいあり、ふさふさの毛が何かでじっとりと塗れているように見えた。
 (もしかして、あれって…)
 綾子は一寸だけ怖い想像をしてしまい、急いで長屋の中へ入って行った。それからしばらくジッとしていたが、辺りは静まったまま何かあった様子もない。自分が見たのは気のせいだったか、はたまた誰かがおどろかせてきたのか――どちらにしろ、もう大丈夫だろうと判断して、綾子は途中になっていた夕飯の片付けを始めた。それから妖怪は、二度と綾子の前に顔を出すことはなかった。
 綾子の見た二股に分かれた耳と尾と舌を持つ妖怪は、喜蔵の家の空の上で、下を眺めてニタリと笑った。露になった口の中は、赤いというよりもどす黒い。それは、人間の血の固まったような色をしていた。
 「人間ノ首ガ欲シイ」
 芝居の台詞のように片言に喋ったその猫股は、どこかへ飛び去って行ってしまった。

※今回で、「鬼やらい」の連載は終了いたします。
ご愛読いただき、ありがとうございました。

続きは、7月7日発売の『一鬼夜行 鬼やらい〈〉』(ポプラ文庫ピュアフル)にてお楽しみください。

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