空模様を見てから、死のうと思っていた。

 たとえば暗い嵐の夜。

 それなら、入水がいいと考えた。

 濁流となった流れに身を投げる。

 木の葉のように渦巻く水流に翻弄され、水草のように髪の毛がなびく。昏い淵からの遠い呼びかけに、うっとりと意識が遠くなっていく。

 晩夏の湿った暗闇の中で、そうした甘美な空想に身をゆだねた。部屋の外で鳴きつづける虫たちの声も、白々と褪せた朝焼けの色もあまりに遠かった。

 腐った肉は、魚たちの餌になる。砕けた骨は、貝殻になる。

 ひっそり水底に沈んでしまえば、自分の消失は誰にも気づかれない。

 毎日毎日そんなことを考えながら暮らしていた。きっと訪れるはずの「そのとき」を待っていた。

 静かだった。何も起きなかった。ただ窓硝子の向こうでざわめく樹々の葉むらに映える陽光が眩しかった。

 かき氷屋の店先に据えられた氷の柱のように、残された時間は限りなく冷たく透明で、確実に過ぎていく一分一秒は、そこから滴る水の雫だった。

 

 その長すぎた季節が終わるころ、草むらをかきわけて音もなく〈あなた〉が訪れた。

 家出してやる。こんな家は出る。学校もやめる。糞みたいにちっぽけなこの町を出る。ケンジはそう思う。

 教師を殴ったら、親父に殴られた。もともとは親父を庇ったせいだ。親父の工場が潰れるというときに、国内に残った製造業は負け組ばかりだから、きみたちは国際レベルで競争できる知的スキルを身につけなければなりません、と妙にうきうきした調子で社会科教師が話したのがひっかかり、去りゆく教師を廊下で呼び止めて、体使ってまじめに働くのは駄目っすか、と尋ねてから、殴りつけた。

 そのまま家に帰ると、今度は父親に?げたを張りとばされた。ちょうど学校から連絡が来たところで、片手に受話器を握りしめていた。すぐさま母親が救急箱を持って駆けてきたが、苦り切ったその顔を見るのが嫌でぷいと横を向いた。八つのときに来た血のつながらない母親で、今でもどこかお互い打ち解けられずにいる。

 それから何ごともなしに五日が過ぎ、今日、ようやく三週間の停学を言い渡された。秋季休暇だとクラスメートに自慢した。笑われてから、これからの空っぽの時間を思って、不意に寄る辺のない気持ちになった。

 畜生、なんかスカッとすることねえかなあ。帰宅する気にもなれず、呟きながら工場まで来た。敷地を一歩踏み出せば、田んぼしかない寂しい町外れだ。ナカイモーターズ。ケンジが生まれる前に父が開業し、十数年間家族の生活を支えてきた小さな自動車整備工場だった。数日のうちに人手に渡ると言う。そう思って眺めなおすと、見慣れた構内が奇妙によそよそしく見えた。

 油膜の浮いた水たまりに、茜色の西日が反射して眩しかった。

 ぎらぎら目を射る日差しを避けながら、放り棄てられていたタバコの袋をとりあげる。まだ数本よじれたタバコが入っている。ふと、自分を苛めてみたいような気持ちになって、中から一本取りだして咥えてみた。使い捨てライターを探して火を点けると、たちまち不快な煙が口腔一杯に充満した。息が苦しくて涙がにじむ。タバコを吸うのは初めてではないけれど、毎回、こんな不味いもののどこがいいのかと思う。

 そのままタバコを水たまりに投げつける。油の被膜に燃え移るかと期待したが、ただジュッという鈍い音がしただけだった。

 いっそ工場ごと燃え落ちてしまえばいい。目尻の涙を手の甲でぬぐいながらそう思った。建屋にしみついた機械油とガソリンの臭いが鼻をつく。水たまりはかわらず金属の虹で、てらてらと胸糞の悪い七色の光を放っている。

 つまらねえ。これが、ぽつりと漏れ出た掛け値なしの感慨だった。つまらねえ。何もかもつまらねえ。停学を告げる教師の渋面も、クラスメートの軽蔑の眼差しも、これから始まる灰色の毎日も。畜生、どっかに行ってしまいたい。

 作業場の裏手の便所に行き、小便をしてから鏡を見た。イケメンとは程遠い野良犬みたいな顔がこちらを睨んでいる。毎日顔を洗い、髪をとかすだけで見飽きたありふれた十七歳の顔だった。ワルにもなりきれない普通の若者。ケンジは、あらためて自分の立ち位置を見せつけられてたじろいだ。なんだ、こいつが一番つまらねえじゃねえか。

 洋便器がひとつ、朝顔がひとつあるだけの小さな便所だが、いつにもまして清潔であるように感じられた。便器も洗面台も、古いものばかりなのに、汚れひとつなく輝いている。生真面目めだけが取り柄の父親だ。社長みずからブラシをとって、仕事じまいの掃除をしたのかもしれない。脇目もふらずに働きつづけて数十年、その挙げ句が他人のための便所掃除だ。これが貧乏くじでなくてなんだろう。いっそのこと小便でも糞でもぶちまけてやったほうがよかったのに。

 この工場にあるものは、レンチ一本だって、俺と工員たちが汗水たらして稼いだものなんだ。以前、親父が口にした言葉だった。工具を粗末にするなという意味の説教だったのだが、今ふりかえれば、なんとも馬鹿馬鹿しい。

 畜生。思い切りドアを蹴飛ばすと、合板の戸板にこぶし大の穴が明いた。ざまあみやがれ。どうせ、もううちのもんじゃねえんだ。いっそのこと本当に火でもつけてやろうか。

 きっかけは得意先のタクシー会社が倒産したことらしかった。しかし、ここ何年か、父親は念仏でも唱えるように、もう無理だ次は駄目だと言い続けていたので、とうとう倒産と聞いても衝撃はなく、ただ、あ、ようやく来るべきものが来たのだ、と思っただけだった。

 田舎のちっぽけな整備工場など、濁流のなかの小石のようなもの。小石がひとつ転がりだせば、一家の暮らしなどいくらでも変わる。今さらその程度の事実を知らされても、感慨など持ちようがなかった。

 ただ、そうだ、家を出ようと思った。学校などこちらから縁を切ってやる。東京に行けばいい。いや、もっと遠くでいい。青年海外協力隊に入って、ナイジェリアでもナイアガラでも行く。ナイアガラが駄目ならアマゾンだって行く。高校中退でも入れるのか協力隊。わからないけど、まじめにやるといえば大丈夫だろう。やる気があれば外国語だって何とかなるだろう。そう考えると急に腹が減ってきた。工場の外に向かう。アンパンでも買って食おう。

 そうして歩きだすと、ふと、秋の香りがした。

 ながいあいだ大気に染みついているようだった青臭い樹木のにおいが、さっぱりと洗い流されて、いつのまにか香ばしいものにかわっている。日中は生ぬるかった風も、今ではどこかひんやりとして冷たかった。すぐにも雨の降り出しそうな天気のせいか、風はかすかに湿気をはらんでいた。ケンジは足を運びながら、風が?を撫でる感覚を意識した。灰色の雲が空から垂れ下がっている。頭を垂れた稲穂の列を眺めながら歩く。

 小石ひとつが転がってく。ケンジは歩くリズムで考える。世間じゃ自分は何ものでもないし、自分も世間に何も期待しない。だけど、歩いていれば風は快感だし、そのうちいいことだってあるような気がする。そう、なにか、わくわくするようなこと。先のことなんてどうでもいいのだ。今、この瞬間、スカッとできるなら。

 近くのパン屋でサンドイッチを買ったあと、ふと、思い立って、東京で暮らす姉に電話する。地元の高校卒業後、東京の短大を出て小さな玩具メーカーで働いている。

 数回のコールの後に、どこか苛立ったような姉の声がした。
「なに。急に電話なんかしてきて」
「いや、別に用はないんだけどさ。どう? そっちは」
「そっちこそ、どうなのよ。父さんの様子はどう」

 声をひそめるようにして尋ねる。
「わりと淡々としているように見えるけどな。幸い、たいした借金も残らないみたいだし。潰したにしてはましな方なんじゃないの」
「これからどうするって」
「建設現場で働くって言ってる。今なら復興需要があるから何とかなるだろうって」
「辛いでしょうね。父さんも」

 姉は小さくため息をついた。
「佐竹の小父さんや清原さんは」
「佐竹さんはいい機会だから引退するって。これからは孫の世話だって笑ってた。清原さんは、親父が頭を下げて、ほかの工場で引き取ってもらえることになったらしい」

 幼いころにはよく遊んでもらった老年の工員やまだ若い工員の顔を思い浮かべながら答える。
「そう。ならいいけど……」
「なあ、俺、高校やめようかと思うんだけど」

 言うつもりのない言葉が飛び出していた。姉の声がオクターヴ高くなる。
「はあ? なんで急にそんなこと言い出すの? 二年も半ばになって」

 ケンジは一瞬ためらってから告白した。
「先生殴っちゃったんだよ」

 姉は悲鳴のような声を漏らした。
「この大変なときに、あんた一体何やってんのよ。土下座でもなんでもして許してもらいなさいよ」

 姉の言葉は容赦がなかった。
「あんた、高校中退ってのは中卒ってことなんだよ。今どき、中卒でどこで働けると思うの。まさか、仙台あたりに出れば何とかなるなんて甘いこと考えてるんじゃないでしょうね。わたしだって、安月給で精一杯働いているんだから。あんたが東京にやってきたって、面倒なんて絶対みられないからね」
「わかった、わかった。誰もそんなこと言ってないって」

 あわてて抗弁する。だけど、町を出ようかと考えていたのを見透かされたのは痛い。
「ともかく、二度とそういう馬鹿なこと言わないでよね。もう工場がなくなるっていうだけでショック受けてんだから。これ以上びっくりさせないでよ」

 ぶつりと電話が切れた。

 なんだよ、と舌打ちして携帯電話をしまう。姉から優しい言葉を期待していたわけではなかったが、あらためて叱られるとやはりむかついた。

 くさくさしながら足を速めると、隣の梢で、ひとくさりだけ、ひぐらしが鳴いた。

 空へと垂直にそそり立つ杉林の根元に、真っ白な髪をした老人が立っている。通り過ぎたとき、ぽつりと大粒の雫が落ちてきた。

 やばい、降り出した。

 あわてて駆け出したものの、雨を避けられるようなところはなかなか見当たらない。みるみるうちに雨脚は強くなり、髪の毛や肩が湿りはじめた。

 息が切れるほど駆けつづけて、ようやく走りこんだのは、もう何年も空き家になっている古い民家だった。たぶん後継者のいなくなった農家なのだろうが、町の中心から離れたこのあたりでは、そういう建物も珍しくない。狭い庇の下で背中を壁に押し付けるようにしていると、自然にどうしても空を見上げる姿勢になる。厚い雲のあちこちが、フラッシュでも焚いたように内側から照っている。束の間、空に罅割れが走った。一拍、間をおいて、轟きが来る。

 稲の妻と書いて稲妻。それは、稲の霊が空と交接する瞬間だからだ、と昔教わった。もう亡くなってしまったが、神主をしていた母方の伯父からだった。まだ二人目の母親が来ないころ、ケンジたち姉弟はよくその神社に預けられていたのだった。

 雷のことを、稲魂、ともいう。魂は玉に通じ、物の怪のモノ、鬼と意を同じくする。万象は魂を宿し、哭き、笑い、欲し、叫ぶ。古の道では、これを神と呼ぶ。人は、つねに神たちの傍にある。伯父はよく、そうした呪文めいた言葉を説き聞かせた。意味などわからないなりに、ケンジにはそれが快かった。

 ジグザグの亀裂が、今度は縦に生じた。すかさず鋭い破裂音が大気を震わせる。天と地が、交わっている。交接している。抱きあっている。

 足元にまとわりつくものがあり、見ると、まだ大人になりきっていない錆色の猫だった。腹をすかせているのか、しきりに桃色の口を見せて鳴いた。

 先ほど買ったサンドイッチの端をちぎって与えると、猫はミャアミャア鳴きながらかぶりつく。

 しばらくたつと満足したのか、仔猫はそろりと肢を踏み出した。軒先からの雫でまだらになった敷石の上を、たくみに濡れた箇所を避けて歩いていく。その小さな硝子玉のような眼が、ちらとこちらに振れて、ついて来いと言っているように見えた。そのまま猫は体をくねらせて、手のひらほどあいた、戸口の隙間の闇に失せた。

 そこは勝手口だったのだろう。入るとすぐに靴脱ぎがあり、木製のサンダルが片方だけ、裏返しに転がっていた。

 中が気になった。土足のままあがる。
「おい、猫。もういいのかあ」

 声をかけた途端、明らかに猫のものではない、より大きな生き物が、どたと隣室で倒れる音がした。

 おそるおそる、部屋を区切る引き戸を開けて凍りついた。

 薄暗い部屋の隅に、少年、だろうか、中腰の人影がこちらをうかがっていた。ほっそりとした首筋に細い顎。白樺のようにまっすぐ伸びたクリーム色の腕。ケンジはその姿になぜか、強く撓められた若木のような激しい緊張感と不安を感じとり、一体何事だろうかと瞠目した。どぎまぎして「わりい、っていうか、お邪魔しました」と言いかけたとき、相手から声が漏れた。
「何だ」声がうわずっている。

「いや、だから、あの、空き家かと思って」
「ここは空き家だ。だから入ってもいいはずだ」ほとんど和するように相手が言った。

 なに言ってんだ、こいつ?

 しばらく睨みあっているうちに、相手の視線が片手に持っているサンドイッチに引き寄せられたのに気がついた。少年の腹が、ぐうと鳴る。

 つまり……、腹が減っているということだよな。
「あの、よかったら、これ、食べる?」

 少年は一瞬凝固したあと、躊躇いがちに小さくうなずいた。

 数分後、ケンジはまた、隣の台所に戻ってあたりを見渡していた。食卓には、空になった飲料水のボトルが数本と、クラッカーの空き箱などが乱雑に積み上げられている。

 耳を澄ませば、隣室でしきりにサンドイッチを?張っている気配が伝わってくる。ケンジは蛇口をひねって、水もガスも止められていることを確かめた。
「これじゃ、お茶を入れる、ってわけにもいかねえな」と呟き、ぼんやりと室内を眺めているうち、ふと得心するものがあった。

 ケンジはそうっと引き戸越しに少年に声をかけた。
「あのさあ、あんた、もしかして家出してきたんじゃないの」

 少年の咀嚼がはたと止まった。けれども、もともとほとんど光のささない部屋のうえ、黒っぽいキャップを目深にかぶっているので表情まではわからない。
「そうなの? そうなんだろ」

 相手が今にも逃げ出しそうな様子なのを見て言った。
「まあ、俺が口を出すようなことじゃないから、別にかまわないけど」
「言わないのか。誰にも」

 少年が短く問う。
「言うもんか。言うわけない。ていうか、拷問されても黙ってるし、むしろ代わりたい。なんなら一緒に行ってもいい」
「行く? どこに?」
「ナイロビとかナイアガラとか。あのさ、クラスの奴の兄貴が青年海外協力隊に入っててさ」

 そう言いながら、敷居をまたごうとすると、鋭い声が飛んだ。
「入るな」

 あわてて後ずさりする。
「わかったよ。じゃあ、ひとつだけ聞くけど、あんた、幾つ」
「十七」
「おお、俺と一緒だよ。俺は中井ケンジ。健やかに次と書いてケンジ。あんたの名前は」

 少年は、食いしばった歯の間から息を押し出すようにして「ツキオ」と言った。野生の獣が敵を威嚇するようだった。ケンジは少したじろいで視線をそらした。台所の連子窓からのぞく空の色は、どうやら少し明るさを増したようだ。

 あらためて外を確認すると、ぱらぱら小雨が舞っているだけだった。

 ケンジはもう一度少年を観察した。夕暮れの薄暗がりのなか、ちょうど差し込んだ雲間からの光に照らされて、少年の少し上向きの鼻と形のよい唇が影絵のように浮き出した。首筋の産毛がきらきらと黄金色に輝いている。
「あのさ、俺、なんとなくあんたが気になる理由がわかった。怒んなよ、あんた、俺がかすかに覚えている死んだ母親にどこか似ているんだ。もうすごくぼんやりとした記憶しかないんだけど」

 ツキオはさっと顔を上げて、鋭い目つきで「母親?」と尋ね返した。
「わりいわりい、別に女みたいとかそういう意味じゃなくて」

 怒らせてしまったかな、と思いながら、「雨やんだみたいだし、俺行くよ。悪かったな。邪魔しちゃって」と言った。

 少年はびくりと体を震わせ、意外にも「もう、行くのか」と尋ねた。
「ああ。あのさ、もしまだしばらくここにいるつもりだったら、ということだけど、今度、食いもんとか持ってきてもいいかな。いや、マジで俺、誰にも言わないから。ていうか、家出とかすごく興味あるし。助けたいというか、応援したいというか、手伝ってもいいかな、なんて」
「早く行け」ツキオが囁いた。
「ああ、すぐ行く」

 外へ出ると、西の空の雲が切れて、山の端に沈む太陽が燃えていた。光の筋が扇のように広がる。雲のへりがばら色に滲んでいた。

 ケンジとツキオ。いいじゃないか、と呟いた。何か、おもしろいことが起こってもよさそうだ。あいつを助けてやろう。必要なものを揃えてやろう。この町を案内してやろう。困っていることがないか聞いてやろう。二人で、退屈な連中も、小うるさい大人たちも置き去りにして、旅立とう。もっと自由なところへ、もっと広いところへ。足が弾みだす。

 青田のあいだを走る一本道を、二台のパトカーが連なって走りすぎた。あまり、普段は見かけない光景に、なんだろうと思って首をのばしたとき、わきから割り込むものがあった。真っ白な蓬髪が、顔の上にかぶさっている。先ほど木下闇に佇ずでいた老人だった。痩せこけた鶴のような顔。
「帰ってくるのか」老人は、囁いた。「あれが帰ってくるのか」

 ケンジは困惑して立ち竦む。
「あの子は誰だ。あれの娘なのか」

 らざ、とも、らず、とも響いた。老人はその言葉を口早に繰り返すと、何も言えずにいるケンジの姿を見て今度は自嘲するように、「そんなはずはない。連中はみんな死んだのだから」と言い残して立ち去ってしまった。ケンジはただ、呆然と立ちつくす。

 

 翌日、ケンジは明け方のうちに起き出した。
母親が目を覚ます前に、ツキオに持っていく食糧を調達しようと思ったのだ。台所の戸棚をあさって、持ち出しても気がつかれなさそうなものを選りだす。鮭や鯖の缶詰を五つと非常用のカンパン一袋。買い置きのカップラーメン二つ、ビスケットに菓子類。それから思いついて、自室のタンスから衣類を数着取り出した。

 今なら昨日の廃屋まで往復しても、朝食までに戻ってこられそうだった。荷物をかばんにつめこんでから、まだ顔も洗っていなかったことに気がついて洗面所に向かった。

 九月も末の早朝となると、蛇口から出る水はおどろくほど冷たい。特にケンジの家はポンプで汲み上げた地下水だからなおさらだ。

 タオルで顔をざっとぬぐって肩にかばんをかける。素足のままスニーカーをつっかけて外へ出た。中学のときから乗っている傷だらけの自転車を引き出す。鳩が数羽電線にとまって鳴いている。

 人影のない道を、ぐんぐんとペダルを踏んで滑走するのは快感だった。冷たい風がうなりをあげながら、額の周りを駆け抜けていく。

 北国の短い夏が終わったとはいえ、樹木の緑は、まだ濃く深い。その樹冠の下をくぐりぬけると、バラバラにちぎれた陽光が、眼の中でオレンジ色の爆弾となって炸裂した。

 廃屋は、昨日とまったく同じ姿で山すそにちんまりとうずくまっていた。背景の尾根にはまだ朝靄がうっすらとただよっているけれど、麓の田や畑は、すでに光の中でくっきりと浮き立つように白い。

 だがその光のなかで見ると、あらためて建物の朽ち果てた様子が目についた。今ではもう、古い農機具小屋でしか見かけなくなったトタンをあてた屋根。黒く変色した木の壁。ネジが抜け落ちて垂れ下がった雨どい。蜘蛛の巣のように罅の入った曇り硝子。

 正面玄関の戸口に鍵がかかったままだったので、昨日と同じように勝手口にまわった。

 まだ闇に近い室内に声をかける。
「おはよう。俺。昨日の中井ケンジだけど、食いもん持ってきたからさあ、ここに置いてくよ」

 まだ寝ているだろうと思ったら、意外にもさっと引き戸が細く開いて、少年の影が立った。
「ありがとう。助かる」
「いやいや、俺が勝手にやっていることだから。何か欲しい物があったら言ってくれよ。手に入るかどうかわかんないけど、努力はしてみるから」

 ツキオはうなずいた。だが昨日と同様、表情はよく見えない。
「それからこれもお節介かもしんないけど」

 持ってきた衣類を広げた。
「これからの季節、夜はけっこう冷えるから。セーターとジャンパー。念のため、毛布。俺の使い古しのやつで悪いんだけどさ。まあ、小さすぎるってことはないかなって思って」

 またうなずく。ふと、こいつは俺のことどう思ってんだろう、と気にかかった。俺がやってるのはお節介なんだろうか。相手の様子を窺うが、相変わらず何を考えているのかわからない。不意に、もっとこの少年のことを知りたいという気持ちがむくむくと湧き起こった。
「嫌だったら答えなくていいんだけどさ、ツキオってどこから来たんだよ。こっちの人じゃないよな」
「東京」一瞬の間をおいて返事がある。
「やっぱり。そうじゃないかと思ったんだよ。それでさ、実はひとつ提案があるんだけど」
「提案? なに」

 中学生のように高く細い声だと思った。体つきも華奢でスマートだ。
「今日の夜、虫送りがあるんだ。よかったら一緒に見に行かないかなと思って。ずっと家の中いたんだろ? 気晴らしにさ。たぶん東京の人は見たことないだろうから」
「虫送り?」

 田舎だからって馬鹿にされてたまるものかと思わず意気込んだ。
「お祭りというか、伝統行事というか。普通は七月にやるんだけど、この町ではなぜかこの時期なんだよな。あ、この町って七重のこと。それくらいは知ってるか。俺、小さいころ伯父さんに連れてかれてから、毎年行くのが習慣になってて。どうかな。興味ある?」

 ツキオはすばやく首をふった。
「人に見られたくない」
「うーん、お祭りって言っても屋台が出て人が集まって、というのとは違うから、だいじょうぶだと思うんだけどな。まあ、いいや。暗くなったらまた来るから考えといてくれよ」

 家に戻ると、母親が朝食を食卓に並べているところだった。
「どこ行ってたの。こんなに早く」と聞く。

 そういえば、まだ停学のことを話していなかったと気がつくが、数日黙ったままでいようと決心した。明らかになれば、また大変な騒ぎになる。母親は卒倒しかねない。

 ちょっとジョギングにね、と適当にごまかしながら、郵便受けから持ってきた朝刊をばさりとテーブルの上に置く。

 母親はそれを広げながら、「ジョギングなんてしたことないのに」と不思議がった。
「涼しくなってきたから気持ちいいかと思ったんだよ」

 ケンジは滑り落ちたチラシをとりあげてそれを眺めているふりをした。スーパーの安売りのお知らせが二枚、「目ざめよ」と大書されているのは宗教団体のパンフレットだ。まとめてゴミ箱に叩き込む。

 話をそらすためにテーブルに載っていたリモコンに手を伸ばした。まだ夏服姿のアナウンサーが、都内で起きた殺人事件について語っている。医療機器メーカー研究所勤務の中年男性が自宅マンションで死体で発見されたという。推定では、死後十日以上。同居していた被害者の娘は現在行方不明。警察は、マンションの廊下を血のついたシャツで歩いているところを目撃された二十代の男を捜索中だと説明していた。
「いやだ、最近こんな事件ばっかりねえ」と眉をひそめて眺めていた母親が、画面に映ったテロップを見て、あら、と声をあげた。
「この被害者の大間知浩介(おおまちこうすけ)という人、大間知家の親戚かしら」
「さあ、関係ないんじゃねえの」唇についた卵の黄身をぬぐいながら言う。
「でも、ちょっと珍しい名前よねえ」

 大間知家というのは、七重町では有名な旧家だった。町の中心部のホテルやショッピングセンターは大間知家の所有だと聞いている。そういえばいつだったか、大間知家の若い男が、不審死を遂げて話題になったことがあった。
「ごちそうさま」とコップに入った牛乳を飲み干して立ち上がった。さも学校に行くような様子で、「やばい。急がないと遅れそうだ」

 人気のないところを選んでぶらつきながら、一日ツキオのことばかり考えていた。

 どんな理由で家を出てきたのか、これからどうするつもりなのか。今ごろ両親はやっきになって探しているのか。

 そのうち東京に帰ってしまうのだろうか。

 ツキオが今、一人きりで孤立無援であるように、自分も近いうち、一人で生きていかなければならないのだ、と考えた。父親が出稼ぎに出かけ、自分も家を出れば、中井家はついにばらばらになる。だけどそれは自然なことだし、いずれはそうなるはずだったのだ。

 だが、自分は何をすればいいのだろう。何をしたいのだろう。

 学校の同級生たちは、大体進学と就職とが半々に分かれていた。県内の大学を目指すものもいれば、東京に行くんだとどこか浮かれたように語るものもいる。理容や福祉などの専門学校組もいて、彼らは彼らで一塊のグループを作っていた。けれどもケンジにもうその未来はない。

 ケンジは周囲の就職していった知り合いの顔を思い浮かべた。ある知り合いは居酒屋の店員になり、店の名の入った法被を着て、路上で割引券を配っていた。ある先輩は運送会社に入り、早朝から深夜までトラックの助手席に縛りつけられて、昨日も三時まで残業だよと愚痴を言っていた。高校を中退してから、建設作業員になったものもいた。親方にキャバクラに連れて行ってもらえるのが楽しみだと笑っていた。あいつはうまくやったと言われるのは、まず首になる心配のない農協で事務をとっているものだった。そうして彼らは、二十で車を買い、二十四、五で結婚し、それを機にナカイモーターズであつらえた車高を下げステッカーをベタベタと貼り付けた走りのための車を家族向けのワンボックスカーに買い替えて、妻と生まれたばかりの子供たちと一緒に行楽地かどこかに出かけるのだった。ケンジは、そうした情景の中に自分を嵌め込んでみたが、いかにもそれは絵空事めいてリアリティがなかった。

 結局、自分が何をしたいのかわからなくなって、むしゃくしゃしてきて、田んぼのあいだをやたらと大股で歩き回った。家を出たってこれじゃあ仕方がない。地球の裏側に行ったところで役にも立たない。これ以上考えたって無駄だと観念して、家に帰ると布団をひっかぶって、ぐうぐう寝てしまった。

 

 夕方になるとケンジは、懐中電灯や屋外用ランタンと一緒に工具箱からスパナとレンチを持ち出した。ツキオの隠れる廃屋に着いたとき、すでに空は紫に翳っていた。明るみが消えていくのにせきたてられるように家の外壁の周囲を探し回り、ようやく見つけた水道の元栓を力任せにこじ開けた。先にひねっておいた庭先の蛇口から、錆交じりの水がまっすぐに落ちた。
「水道はこれで何とかなるけれど、ガスと電気は難しいと思う。特にプロパンガスは有効期限を大幅に過ぎているから危険かもしれないしな」

 ケンジは塗装の半ば以上?げ落ちたボンベを、レンチの柄で軽く叩きながら言った。

 ツキオはあいかわらず小さくうなずくだけだ。

 今年最後のひぐらしの声が響きわたる夕闇のなかに立ちつくすツキオの姿は、いかにも頼りなく儚なだった。比較的小柄なせいがあるにしても、まだ思春期前の少年のように見える。そのうなじが、夜目にも白くほっそりとしているのに気をとられ、ケンジは、突然向けられた訝しげなツキオの眼の色にうろたえた。思わず言わなくてもいいようなことを口走る。
「まあこれで水を浴びるくらいはできるよな。何日も風呂入ってないんだろ。少し臭うんじゃねえか」

 ツキオは、その言葉にはっきりと動揺したようだった。顔色が変わり、服の胸元をつかんで嗅ぐそぶりをする。ケンジも余計なことを言った気がしてあわてて言葉を継いだ。
「そろそろ虫送りの行列が出発したころなんだけど、どう? 行ってみないか」

 虫送りというのは、もともと稲につく害虫を追い払うための行事だとケンジは説明した。秋の豊作を祈り、藁で作った人形を持って鉦や太鼓を鳴らしながら田のあいだを練り歩く。人形は、町内の厄や疫をつけるための依り代で、町の境目で水に流される。これによって町の災厄を外の世界へ追い払うのだ。
「だけど、この七重町の虫送りは少し独特で、その災厄の虫というのが稲についているのではなく、森からやってくることになってるんだ。だから森の縁で人形に虫を依りつかせる」

 どうやって、というツキオの問いかけに応えて言葉をつづける。
「人形の胴体に拳程度の石を埋め込むんだってさ。それがいわば虫のかわりというわけ」

 ツキオは明るいところには行かないという条件で虫送りを見に行くことを了承した。

 しばらくあぜ道を歩いていると、やがて鉦の音とともにちらちらと揺れる灯火が近づいてきた。
「たいまつだよ」ケンジは説明した。

 二人は行列の通る場所をあけるため、道の縁に生えている草むらのなかに踏み込んだ。長く伸びた草の穂がさわさわと肌に触れ、虫の声が一段とにぎやかになった。

 目の前を、たいまつに囲まれた人形たちが通り過ぎていく。人形は十体ほどあった。どれも藁を束ねて胴や手足を作っただけの簡単なものだった。たいまつを持っているのは、中年過ぎの男が多かった。男たちが太鼓の音に合わせて、ほうほうほうれと聞こえる節のついた言葉を唱え、ゆっくりとたいまつを振ると、炎がパチパチ跳ね、橙色の火の粉が花粉のように闇に散った。

 行列は数分で通り過ぎた。そのあとには、数十人の見物客が蛇の尻尾のようにつづいていた。子供の手を引いた若い親も多かった。ケンジたちは、人目につかぬようその最後尾についた。
「あの人形はどうする」ツキオが聞いた。
「河まで行ったところで、細かく刻んで水に流す」そしてケンジは思い出して付け加えた。
「昔は人形じゃなくて、本物の人間を依り代にしたこともあるらしいよ。村の中の浮浪者とか運の悪い旅人とか。村中を引き回してから河に放り込むんだ。さすがに殺しはしなかったかもしれないけど」
「哀れだな」ツキオは火に照らされた人形の姿を見つめながら言った。

 松やにの臭いのついた煙が流れてきた。鼻の奥をつんと刺激するその煙を吸い込んでしまったのか、ツキオは激しく咳き込みだし、どうしてもとまらなくて屈みこんだ。

 背中をさすろうとすると、ツキオはびくりと肩をふるわせてその手をはらった。
「あの、だいじょうぶですか」

 突然声がした。目をやると、見物客の一人なのか中学生くらいの女の子が、すぐ傍まで寄ってツキオのほうを覗き込んでいる。
「もう平気」と、ようやく咳がおさまり、滲んだ涙をシャツの袖でぬぐいながら立ち上がったツキオをしばらくじっと窺っていたが、「いえ、あの」と少女が言った。「喉じゃなくて……」

 その言葉を聞くとツキオははっと少女の顔を見かえした。少女もツキオの顔を見つめかえしたが、すぐに背後からの声に振り返った。
「おーい、美和、何やってるのお?」

 行列のほうから呼びかける声がした。
「ごめん、紗江ちゃん。すぐ戻るから」ポニーテールを翻しながら少女が叫びかえす。

 ケンジは、向こうから声をかけたのが、中学校のとき同級生だった唯島紗江良であることに気がついた。医者の娘で勉強のよくできる生徒だったが、どこか人を見下したところがあって好きになれなかった。
「今、行くから」少女は叫びかえすとポケットからメモ帳を取り出した。
「あのこれ」ツキオがさっさと背中を向けて元来た道を歩き出したのを見て少女はちぎった紙をケンジの手に押し付けた。そのまま彼女自身も虫送りの行列のほうに駆けていく。炎はだいぶ遠ざかっていた。暗くて読めないメモの内容を確かめるのはあきらめてポケットにつっこむと、急いでツキオの後を追った。
「なんだったんだ、今の」

 追いついてたずねると、〈知るか〉というようにツキオは首を振る。

 そのまま二人で歩きつづけた。街灯も何もない農道はほとんど暗闇に近い。

 ツキオが口を開いたのは、結局廃屋に帰りつき、その扉を開けようとしたときだった。
「なあ」と彼は唐突に言った。「どうして色々してくれるんだ」

 ケンジは少し戸惑った。
「迷惑かな」
「いや」

 しどろもどろになってケンジは言う。
「そうだな、なんていうか、俺も最近なんかいろいろイライラすることが多くてさ。親父の工場も無くなっちゃうし、学校も停学になっちゃったし、それに俺、小さいころにお袋を亡くしていて、今の母さんとも今ひとつうまくいかなくて、それで、何かおもしろいことないかなって考えてたときにツキオのこと見つけたもんだから、なんとなく盛り上がっちゃって」
「そうか」ツキオは目をあわせないまま言った。「自分も、一年前に母親が亡くなった」
「ほんとうに?」なんだか仲間ができたようで嬉しくなる。つい調子に乗って話し出した。「あのさ、俺、うまく言えねえけど、あんたにちょっと自分を重ねてる部分があるって言うか、もうすぐ家族もばらばらになるみたいだし、もともと余裕なんてなかったのが、ますます貧乏になるし、俺ももう、一人で生活してかなくちゃならないらしいし、それはそれでもういいんだけどさ、でも、あんたがここで一人っきりでいるのをみると、なんか応援したくなっちゃってさ、なんつうか、あんたがうまくいけば、俺もうまくいく、みたいな、そんな気持ちがしてきちゃってさ」

 ツキオはじっと俯くようにして聞いていたが、「自分はあんたとは違う」とだけ一言いうとそのまま家の中に入ってしまった。ケンジは、まだまだ何か言い足りないような気がしたものの、仕方がなかった。「また来るからな」と屋内に向かって叫ぶ。

 帰り道、ケンジは、また何か失策をやらかしてしまったようだと考えた。自分は勝手な思い込みをしてしまいがちで、そのせいでいつも周囲に波風を立てている。今もまた、ツキオの機嫌を損ねてしまったらしい。何がいけなかったのだろう。図々しかったのだろうか。自分を重ねてるなんて言ったのが悪かったんだろうか。〝自分はあんたとは違う?。言い換えれば、ツキオはケンジじゃないし、ケンジはツキオじゃない。もっともだ。もっともだが、あんまりもっともすぎて、単なる事実の指摘に過ぎないから納得がいかない。納得はいかないけれども、たぶんあいつにはあいつの事情があるんだろう。家出しなければならないだけの理由があって、触れられるとむしゃくしゃするようなところに、俺がずかずか触れてしまったのだろう。誰にだって思い出したくないことはある。思い出したくないことを思い出させられたら癪に障わる。だとしたら、俺も悪い。今度会ったら謝っておこうと決めた。

 水道の元栓を開けるのに使った工具類を置き忘れてきたのに気がついたのは、家までの道を半ばほど来たときだった。父親が気がついて、工具が足りないことを問題にするかもしれない。少し迷ったものの引きかえして取ってくることにした。
「悪い。忘れ物」

 声をかけながら中に入ったが、ツキオの姿は見当たらない。レンチをどこにやったろうと考えて、最後に水周りを点検して回ったことを思い出す。

 台所、便所と確認し、最後に風呂場の戸を開けた。

 濡らした手拭いでツキオが体をぬぐっていた。胸のなだらかな隆起のあいだを雫が流れ落ち、仄暗い下腹の翳りのなかに消えた。

 二人はほんの一瞬だけ見つめあった。ツキオが身をそむけ、座り込むのと同時に、ケンジは何も言えないまま脱衣所を出た。

 廃屋から飛び出し、夜道を駆けているあいだも、女だったんだ、という言葉が頭の内側で響きわたっていた。女だからずっと暗がりに隠れていたんだ。キャップも、短く刈り上げた髪の毛も、女であることを隠すためのものだったんだ。もう走れなくなって荒い息をつきながら立ち尽くしたとき、どっと混乱が襲ってきた。どうしたらいいんだ。どうして男の振りなんかするんだ。男だとばかり思っていたから、馴れ馴れしげにふるまい、乱暴なことを言い、風呂場の戸まで開けてしまった。なんであんな人を騙すようなことをするんだ。自分はまたひどいしくじりをやらかしてしまった。

 どうしたらいいんだと呪文のようにくりかえしながら家まで戻ったとき、玄関に見覚えのない靴が置いてあることに気がついた。履きつぶされた古い革靴。この時刻に客だろうかと客間に顔を出すと、見知った顔の駐在さんと母親が卓の上の何かを覗き込んでいる。
「おかえりなさい」

 母親が顔を上げて言い、駐在も軽く帽子に指のふちをあてて挨拶した。
「どうしたの」
「どうも、お騒がせして申し訳ないです。今、一軒一軒巡ってるところなんだけども」

 駐在は父親の飲み友達の一人だったと思い当たる。
「今朝、ニュースで大間知家の人が殺されたってやってたでしょう? その娘さんが行方不明なんだけど、こっちの方に来たっていう人がいるんだって」母親が口をはさむ。
「目撃証言がありまして」
「今話を聞いていたんだけど、ずいぶんひどい殺され方だったみたいねえ」
「傷は心臓にまで達し、室内は完全に血の海だったそうであります」
「最近は本当にこんなことばっかり。そういえばほら、二年前にも女の子がいなくなったとかいう話があったでしょう」

 話好きなのか、駐在ものってくる。
「いや、この町も随分物騒になったというか、警察も滅法忙しくて。最近も、ある団体内で、男性が睡眠中に変死するという出来事がありまして。事件性の有無は判然としませんが、違法薬物の使用も疑われ……いやいや、話しすぎました」
「本当にご苦労様ねえ」

 駐在はもう一度敬礼した。
「では本官はこれで失礼します。井沢都樹子(いざわときこ)いうんだけども、この重要参考人を目撃した場合は、ただちに警察へ連絡をお願いします」

 そう言いながら、机の上にあった写真をとりあげる。髪の長い整った顔立ちの少女が、高校の制服なのか、ブレザー姿で正面を向いている。少女の顔に微笑みはなかった。むしろ、軽い緊張のようなものが感じられた。ケンジは激しくなる鼓動をぐっと抑えながら、自分の動揺を見抜かれまいとした。それでも、その写真から目をそらすことはできなかった。
「綺麗な子だね」母親が言った。
「そうかな」とぶっきらぼうに答えるのがやっとだった。写真に写っているのは、ついさっきまで見ていたツキオの顔だった。(了)

※本作の続きは、9月5日発売の『魔術師たちの秋』(ポプラ文庫ピュアフル)にてお楽しみください。

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倉数茂(くらかず・しげる)
1969年生まれ。2005年より5年間中国で日本文学を教える。2010年、「黒揚羽の夏」にて、選考委員の満場一致で第1回ピュアフル小説賞「大賞」を受賞。著書に、『黒揚羽の夏』(ポプラ文庫ピュアフル)、『始まりの母の国』(早川書房)がある。

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