『ROCKER』サイドストーリー『LOOKER(ルッカー)』

美実は、わたしの一番の友だち。でも、もう彼女と話すことはないのかもしれない――心に響く青春小説『ROCKER』から生まれた、もうひとつの物語。

 わたし、山田絵恋。永遠の十歳。
 といっても、アイドルタレントの人たちがよくふざけて言うような意味じゃない。本当に、永遠の十歳。
 絵恋ていう名前は、パパとママが二人でつけた。名字の山田があまりにも普通で地味だから、下の名前は少し変わって派手なものにしたかったらしい。
 暗くなりかけた空のもと、観客席から、「おぉっ」という歓声が上がる。ピーピーやフィーフィーと口笛や指笛が鳴り、拍手も起こる。照明がつき、美実たちがステージに出てきたからだ。
 十分くらい前から、わたしはその野外ステージに一人でぽつんと立っている。誰にも気づかれてはいない。と思う。見る限り、わたしを指さして驚いているようなお客さんはいないから。
 まあ、これまでに、一度も気づかれたことはないのだ。あたし霊感強くて、なんて言ってる人にわざと近づいてみたこともあるけど、わたしには気づかなかった。ただし、わたしがほかの幽霊を見たこともない。その霊感の強い人が、ほらあそこ、と示したほうに目を向けたときも、何も見えなかった。わたしは霊感のない幽霊なのかもしれない。
 残念なことに、わたしの姿は、美実にも見えない。もう数えきれないくらい何度もそばに現れてるけど、美実は気配さえ感じないみたいだ。今も、わたしのすぐ前を通りすぎ、ステージ後方のドラムのわきで立ち止まる。
 「ここにいていいですか?」
 「かまわないよ。タイコの音がうるさいだろうけど」
 これでも叩いてな、と、美実はドラムの人からタンバリンを渡される。
 バンドの演奏は、いきなり始まった。ドラム。ベース。ピアノ。ギター。ものすごく大きな音だ。床が揺れる。空気も揺れる。お客さんたちも揺れる。
 わたしの横でタンタンと軽やかにタンバリンを叩く美実は、とても楽しそうだ。昔、小学校の音楽の時間に二人でタンバリンを叩いたことを思いだす。タンバリンはクラスの人数分なかったので、一つを二人で交互に叩いたのだ。わたしのほうがうまい! なんて美実は言ったけど、あのころの音楽の成績は、美実よりわたしのほうがよかったんじゃないかな。わたし、三年生まではピアノ習ってたし。
 ロックとのちがいがよくわからないそのブルースという音楽に包まれながら、わたしはあらためて美実を見る。
 上はぴったりめなシャツで、下は短めなスカート。そこから長い足がすらりとのびている。
 わたしと同級生なのに、美実はお姉さんになった。わたしたちも早くジョシコーセーになって、おしゃれとかしたいねー、と言っていた、その女子高生。来月の誕生日がくれば、もう十七歳だ。背はわたしより二十センチくらい高いし、胸もぽよんとふくらんでる。わたしはまだペタンコだから、ちょっとうらやましい。
 美実だけが大きくなって、さびしいことはさびしいけど、でも何かうれしい。わたしと同じ十歳のときから、美実はかわいかった。今はかわいいだけじゃなく、大人びて、きれいにもなった感じだ。ステージの照明のせいもあって、見ていてすごくまぶしい。
 体をはずませてタンバリンを叩きながら、美実は、左前方でギターを弾くエイくんを見ている。もう、ずっと見ている。
 エイくん。エイショウさん。美実より十歳くらい上の、イトコ。あんなとこでギターを弾いてるけど、ミュージシャンではなくて、高校の先生だ。美実はよくこのエイくんのアパートに泊まりに行く。
 イトコだからというのとはちがう理由で、美実はエイくんのことが好きみたいだ。美実が自分でそう言うのを聞いたことはないけど、そんな気がする。
 エイくんはカッコいい。髪はボサボサで、長め。でも長すぎない。色白で、体は細め。でも細すぎない。あんな先生は、わたしが通ってた小学校にはいなかった。いたら、女子からも男子からも人気が出ちゃうだろう。整った顔は女子好みで、くだけた話し方は男子好みだから。
 あんな人がイトコなら、きっと、わたしだって好きになっていたはずだ。ただ、好きとかきらいとか、付き合うとか付き合わないとか、そういうのが、わたしにはよくわからない。まだ生きてたとき、わたしは同じクラスの活郎くんという男の子が好きだった。でもどのくらい好きだったかと訊かれたら、うまくは答えられない。美実がエイくんのことを好きであるのにくらべれば、その半分も好きではなかったと思う。
 二曲の演奏が終わると、エイくんの右隣、ステージの真ん中でうたをうたっていたケーサク伯父さんが美実を呼んだ。
 そちらに向かった美実が、床を這うコードに足をとられて転びそうになる。あっと思い、わたしは美実を支えようと前に出た。
 でも美実はわたしの体をすり抜けてしまう。いつものことだ。わたしはどこにでも行けるけど、何もできない。できるのは、ただそばにいて、見ていることだけ。とはいえ、今は、その先にいたケーサク伯父さんがうまく美実を抱きとめてくれた。ナイス、伯父さん!
 このケーサク伯父さんはプロのミュージシャンだけど、美実はただの女子高生だ。なのに、今日このステージでうたう。バンドのギタリストにしてケーサク伯父さんの息子でもあるエイくんが、伯父さんにすすめたのだ。ミミに一曲うたわせよう、と。
 ケーサク伯父さんが、お客さんたちに、おれのかわいいめいっ子だと美実を紹介した。それでいて、美実のフルネームを知らなかった。何ともテキトーな伯父さんぶりに、お客さんたちは笑った。美実本人も笑った。だからわたしも笑った。
 美実がドラムのわきに戻ると、演奏は再開された。
 「困った伯父さんだね」と言ってみたけど、もちろん、美実は気づかなかった。タンバリンをタンタン叩いたり、揺すってジャラジャラ鳴らしたりしていた。やっぱりエイくんのほうを見て。
 七年前から、わたしはパパとママのそばにいるだけでなく、こうしてちょくちょく美実のところにも顔を出している。美実が気づいてくれないので、初めは不満だったけど、さすがにもう慣れた。気づいたら気づいたで美実は落ちつかなくて大変だろうと、今では思うくらいだ。それでもせめて一度は気づいてほしいなぁ、とも思うけど。
 自分が死んだときのことは、何となく覚えてる。でも、あんまり思いだしたくはない。
 わたしはショッピングモールの駐車場にいた。ママと二人で買物に来ていたのだ。そして、いきなり男の人に刺された。
 何だかわからなくなって、気がつくと、地面に倒れているわたしが見えた。
 びっくりするくらい、たくさん血が出ていた。その血が、お気に入りの白いブラウスを真っ赤に染めていた。そのブラウスを着ているのだから、まちがいなく、それはわたしだった。ほかにも三人が倒れていた。取り押さえられた男の人が、楽しそうにゲラゲラと笑った。ママが悲鳴を上げながらかがみ、わたしを抱き起こそうとした。でもわたしは何だかクニャッとしていて、とても起きられそうになかった。
 本物(ニセ物?)のわたしは、少し離れたところに立って、それらを見ていた。
 ママが何度もわたしの名前を呼んだ。それ以外は、何を言っているのかよくわからなかった。ママがそのままおかしくなってしまいそうで、ちょっとこわくなった。
 「わたしはここだよ、ママ」と言ってみたけど、ママは気づかなかった。
 ママだけじゃなく、誰もわたしに気づかなかった。わたしはちがう世界にいた。こちら側に来てしまったのだ。血だらけの体を、モールの駐車場に残して。
 わたしにはママが見えるのに、ママにはわたしが見えない。わたしにはママの声が聞こえるのに、ママにはわたしの声が聞こえない。こわくて、さびしくて、悲しくて、わたしも悲鳴を上げた。でもその悲鳴も、やっぱりママには聞こえなかった。
 その日から次の日にかけて、パパとママは、一晩じゅう泣いた。わたしも泣き虫だったから、一、二年生のころはよく泣いたけど、このときのパパとママはそんなものじゃなかった。泣いても泣いても涙が止まらないみたいで、それをぬぐうハンカチが何枚あっても足りなかった。
 「わたしのせいだ。わたしが刺されればよかったんだ。あぁ、エレン。ごめんね、エレン」
 ママはそんなことを何度も言った。聞いているだけでつらかった。
 「ちがうよ、ママ。ママのせいじゃないよ。わたしのせいだよ。わたしがモールに行きたいって言ったからいけないんだよ」
 わたしも何度もそう言った。どんなに言っても聞こえないことは、もうわかってたけど。
 ママだけじゃなく、パパも声を上げて泣いた。その何年か前におじいちゃんが亡くなったときは泣かなかったのに、この夜は泣いた。パパが泣くのを見るのは初めてだった。わたしがそうさせたんだと思い、また悲しくなった。パパとママがわたしに気がつかないことも悲しかったけど、二人を悲しくさせてしまったことは、もっと悲しかった。なのに、できることは何もない。わたしはもう、本当に一人だった。
 わたしのお葬式には、たくさんの人たちが来た。テレビカメラも来た。クラスの子たちは、全員来ていた。先生たちも来ていた。
 仲がよかった子たちは、みんな、泣いてくれた。驚いたことに、それほど仲がよくなかった子たちまでもが、みんな、泣いてくれた。そのなかで、美実だけが泣かなかった。一番の友だちは美実だとわたしは思っていたので、それはちょっと悲しかった。美実にはわたしがそんなに大切な友だちじゃなかったんだ、と思い、わたしのほうが泣きそうになった。
 ただ、泣いてくれた子たちも、泣き終えると、みんな、ケロッとしていた。思う存分泣いたから、このことはこれでおしまい。そんな感じだった。それでも一週間くらいは教室でわたしのことを話したりしてたけど、そのあとは何も言わなくなった。机に置かれていた花が片づけられ、次いで机そのものが片づけられてしまうと、わたしは完全に忘れられた。それからは、何だかさびしくて、もう教室にも行けなくなった。
 泣いてくれなかったとはいえ、やっぱり好きだったから、わたしは何度も美実に会いに行った。
 うまく説明できないけど、美実はちょっと変わった。まずあんまりしゃべらなくなったし、友だちと遊んだりもしなくなった。わたしの代わりにすぐに誰かと仲よくなったりしなかったことでは安心したけど、一年もそれが続いたことで、今度は心配になった。
 その後、美実のお父さんとお母さんが離婚した。美実はお母さんに引きとられて、白鳥美実から堀美実へと変わった。
 そのころから、美実はエイくんのアパートによく行くようになった。もう中学生だから、一気に大人っぽくなり、背もグンと伸びて、わたしは美実を見上げなければいけなくなった。
 高校生になっても、美実はエイくん以外の人とはあまりしゃべらなかった。それどころか、よく学校を休む(サボる?)ようになった。
 エイくんの部屋に泊まるときだけは、美実も楽しそうだった。エイくんもやっぱり楽しそうだった。エイくんはエイくんで、美実のことが好きらしい。ただ、美実がエイくんを好きなのとは、ちょっとちがうように見えた。それは例えば、パパがわたしのことを好き、というのと似た感じの好きだ。まあ、美実はそれでもいいんだろう。病気でもないのに学校を休むのを許してくれる先生なんて、エイくんのほかにはいないだろうから。
 そんな美実に、今年、やっと一人、友だちができた。同じクラスのシバタサワさんだ。幽霊にして十歳のわたしが見ても弱々しいこのサワさんも、美実と同じで、友だちがほとんどいなかった。でも弱々しいなりにがんばって、サワさんが何度も美実に話しかけ、二人はついに友だちになった。
 正直に言うと、わたしはこのサワさんにちょっとやきもちをやいていた。美実の一番の友だちはわたし。いまだにそう思っていたから、その座を奪われたくなかったのだ。
 でも、その考えは変わった。いつも一人でいる理由を美実がサワさんに話すのを聞いたからだ。
 そこで美実はこう言った。もう好きな人を失いたくないのだと。そうならないために、自分は誰とも深く付き合わないようにしているのだと。
 失ってしまった好きな人の名前を、美実は、はっきりと口にしてくれた。
 山田絵恋。わたしだ。
 サワさんは今、観客席から美実を見ている。美実がうまくうたえますように、とばかりに胸の前で両手を組み合わせて、見守っている。
 このサワさんになら、『一番』の座をゆずってもいいかな、とわたしは思う。わたしの代わりに、ずっと美実の友だちでいてほしいな、とも。美実には、たぶん、生きている人が必要なんだ。きちんと姿が見えて、きちんと体温があって、きちんと会話ができる人が。
 演奏の合間にちょっと休けい、ということなのか、ステージでは、ケーサク伯父さんがお客さんたちに話をしている。美実もその話を聞いている。
 ケーサク伯父さんに背を向けて、わたしは美実の前に立つ。そうすることで、わたしたちは向き合うような形になる。
 美実は覚えてるかな、と心のなかで言う。わたしたち、二人でよく公園のブランコに乗って、いろんな話をしたよね。ほら、弟と妹の話とか。
 わたしたちはどっちも一人っ子だったから、弟や妹がほしかった。わたしは妹がよくて、美実は弟がよかった。あんまりほしかったんで、二人で名前まで決めた。わたしは自分がエレンだからカレンがいいと言い、美実は、エイくんがエイショウだからエイゴウがいいと言った。パパの名前からつけてあげなよぉ、とわたしが言うと、だってエイくんがいいんだもん、と美実は言った。もうずいぶん前のことだ。
 そして今、わたしはあのころよりずっと大きくなった美実を見る。美実は、あのころとちっとも変わらないわたしを見ている。ほんとはケーサク伯父さんを見てるんだけど、わたしのことも見ている。
 「ねぇ、ミミ、聞いて」と、そこでは声を出して言う。「わたしにね、弟か妹ができるんだよ」
 そのことは、昨日、ママから聞いた。ママが、お仏壇の前に座って、わたしに報告してくれたのだ。
 そのとき、わたしは、座布団に正座をしたママのすぐ隣で、同じように正座をしていた。
 「エレン」ママはゆっくりと、でもはっきりした声で言った。「あなたにね、弟か妹ができるの」
 ママはお仏壇にあるわたしの写真を見ていた。わたしはその写真とママを交互に見た。
 「パパと二人でね、エレンに何をしてあげられるだろうって話したの。エレンは何を望んでるだろうって。エレン、妹がほしかったんだよね。ママによくそう言ってたもんね。もしかしたら弟になるかもしれないけど、いいよね? 喜んでくれるよね?」
 わたしは大きくうなずいて、横からママのお腹を見た。まだふくらんではいない、普通のお腹だった。ママはそのお腹を片手でそっとなでて、こう続けた。
 「ママはもうおばさんだけどね、あと少しがんばってみようと思うの。生まれてくる赤ちゃんはね、一人っ子じゃないよ。エレンていうお姉ちゃんが、ちゃんといるからね。お姉ちゃんとして、エレンも見守ってあげてね。お願いね」
 ママの隣で、わたしは何度も何度もうなずいた。ママがわたしにきちんと報告してくれたことが、すごくうれしかった。パパとママは本当にいいパパとママだから、やっぱり誰かのパパとママでいるべきなんだ、と思った。
 目の前にいる美実が、わたしを見て、にっこり笑う。ケーサク伯父さんがお客さんたちにおもしろい話をしたからだ。でもわたしには、お姉ちゃんになることを美実が喜んでくれているように見えた。
 エイくんに手招きされ、美実がマイクのほうに歩いていく。
 二人は顔を近づけて、何やら話をする。
 「そんじゃ、次は、おれにしてはちょっと珍しい曲をやる」とケーサク伯父さんが言う。「めいっ子よ。準備はいいか?」
 美実が小さくうなずき、エイくんのマイクの前に立つ。場所を空けたエイくんが、美実のお尻を優しくポンと叩く。
 ケーサク伯父さんのギターから、曲が始まった。わたしも聞いたことがある曲。『スタンド・バイ・ミー』。
 一番をケーサク伯父さんがうたい、二番を美実がうたった。歌詞は英語だ。美実、すごい!
 マイクを両手でつかんで美実がうたっているあいだ、わたしはずっとそばにいた。すぐ隣に立って、美実の横顔を見ていた。見上げていた。
 美実のうたは、とてもうまかった。何ていうか、すごく気持ちがこもっていて、聴いているこっちの気持ちまでもが震えた。今なら、わたしより美実のほうが音楽の成績は確実にいいだろう。
 ケーサク伯父さんがハーモニカを吹き、エイくんがギターを弾く。そしてケーサク伯父さんと美実が一緒にうたう。お客さんたちが心地よさそうに体を左右に揺すり、音楽が街の夜空に響く。
 一人の人間としてこの場に立ち、人に聴かせるためにうたをうたっている美実はもう大人なんだな、と思う。まだ二十歳にはなってないけど、やっぱり大人なんだ。もう、一人で立っていられるんだ。
 長い時間をかけて曲を終えると、ケーサク伯父さんがお客さんたちにお願いした。
 「おれのかわいいめいっ子に拍手を」
 大きな拍手がきた。
 それを受けて、今度は美実がお願いする。
 「わたしの愛しい伯父さんに拍手を」
 もっと大きな拍手がきた。わたしもすぐ隣で懸命に拍手をした。「伯父さん、最高! ミミ、最高!」と言いながら。
 お客さんたちからの大拍手に感激したのか、美実は泣いた。それを見て、わたしも泣いた。実体がないのだから涙は出なかったけど、自分が泣いていることがわかった。
 ライヴが終わると、美実とエイくんと三人で、エイくんのアパートに向かった。美実がそこに泊まると言うので、わたしもついていくことにしたのだ。
 二人と一緒だから、自分だけ一気に移動したりはせず、駅のエスカレーターにも乗ったし、電車にも乗った。広いところでは美実の隣に並んで歩き、そう広くないところでは、美実とエイくんの後ろを歩いた。
 うたったり演奏したりで疲れていたのか、美実もエイくんも、あまりしゃべらなかった。駅を出て歩いているときに、やっと美実が、「伯父さんカッコよかったね」と言った。『エイくんカッコよかったよ』って言えばいいのに、と思った。
 夜なのに、美実は何だかキラキラしていた。ステージで浴びた照明の光をそのまま自分のものにしてしまったみたいだった。数メートルおきにある街灯が、美実を照らすためだけに用意されているように見えた。
 もう十一月だから、夜は肌寒いはずだった。現に、美実とエイくんは、ちょっと寒そうにしていた。
 不思議なのは、わたしまでもが寒いと感じていることだった。七年前から、わたしは暑さや寒さを感じたことがない。なのに、今は感じていた。
 その寒さは、一歩一歩進むたびに強まった。明らかに、何かがおかしかった。ただ寒いだけじゃない。急劇に気分も悪くなってきた。小学校の遠足でバス酔いし、体がしびれて冷たくなるあの感じ。こわい。
 そして頭のなかに、ある光景がくっきりと浮かんだ。
 場所はこの先の角を右に曲がった道であることがわかった。それが数十秒先の出来事であることもわかった。
 美実とエイくんが、並んで右側の歩道を歩いている。
 左側の車線をふらつきながら走っていた黒い車がセンターラインを越え、右側の車線を前からやってきた白い車にぶつかる。
 避けようとしたけどぶつかられた白い車は、その勢いで歩道に乗り上げる。
 歩道には、美実とエイくんがいる。ギターを持っているエイくんはとっさには動けない。美実が反射的にエイくんを突き飛ばす。
 そこへ、白い車が突っこんでしまう。
 あぁ、ダメだ、ダメだ。そんなのダメだ。
 頭がクラクラする。胸がドキドキする。
 ほんの一瞬、わたしは思う。つい思ってしまう。また美実と話せるんじゃないかと。美実がこっちの世界に来たら、また仲よくできるんじゃないかと。
 バカ! とわたしは自分をなじる。そうなっていいわけがない。美実が死んでいいわけがない。
 わたしは美実とエイくんの前に出て、どうにか二人の歩みを止めようとする。
 「ミミ、ダメ! そっち行っちゃダメ!」
 もちろん、その声も美実には届かない。通せんぼをしたわたしの体を、美実もエイくんも、あっけなくすり抜けてしまう。でもわたしは何度も同じことをする。前に出て、立ちふさがる。すり抜けられる。また立ちふさがる。またすり抜けられる。
 「ダメなの、ミミ! ダメ!」
 わたしは美実をぶつ。エイくんをぶつ。手応えはない。まるで、ない。
 「いやだよ、ミミ! 来ちゃダメ!」
 二人をぶちながら、わたしは叫ぶ。泣き叫びながら、後退する。
 美実とエイくんが、角を右に曲がる。
 わたしは空気を思いっきり吸いこみ、美実の横顔、左目のあたりに息を思いっきり吹きかける。
 たぶん、たまたまだと思う。強めに吹いていた風が、より強く吹いてくれたんだと思う。
 「あっ」と声を上げて、美実が立ち止まった。
 「どうした?」
 「コンタクト。エイくん動かないで!」
 そう言われて、エイくんも立ち止まった。
 美実がその場にしゃがみ、歩道のアスファルトに顔を近づける。
 すぐには見つかりませんように、とわたしは祈る。
 でも美実はすぐに見つけた。夜なのに見つかるなんてうそみたい、なんてうれしそうに言った。うそだったらいいのに。
 美実は拾ったコンタクトレンズをハンカチで包んで、立ち上がった。
 「お待たせ」
 美実とエイくんが、再び歩きだす。
 車の急ブレーキの音が響き、ガツッという衝突音がそれに続く。
 白い車が美実とエイくんとわたしの前方で歩道に乗り上げ、右側の家の壁に突っこんで、止まる。
 美実とエイくんも足を止め、そこで呆然と立ち尽くす。
 二人から白い車までは、三十メートルくらいの距離がある。
 よかった。たすかった。
 近くを歩いていた人たちや先のコンビニにいた人たちが、車のところに集まってきた。
 「ぶつけたほうのやつ、酒を飲んでたのかもな」とエイくんが言った。
 美実はただうなずいたりしてたけど、じきに、はっとした。自分たちがはねられていたかもしれない。そのことに気づいたらしい。
 白い車のドアが開いて、なかから運転してた男の人が出てきた。周りの人たちが支えようとしたけど、男の人は力なくその場にへたりこんだ。
 その人もたすかってよかった。本当に、そう思った。何の覚悟もないときにいきなり死んでしまうのは、とてもつらいことなのだ。自分だけじゃなく、残された人たち、わたしの場合で言えば、パパやママにとっても、それはもうつらいことなのだ。
 立ったまま、美実は震えていた。誰が見てもそうとわかるくらいに、ぶるぶる震えていた。
 エイくんがそれに気づいた。
 「何?」
 美実は答えなかった。
 「どうしたんだよ」
 やはり答えない。
 「ミミ」
 美実がエイくんの腕をつかんだ。絶対に離さないとばかりに、がっちりと。
 「エイくん死なないでね」と美実は言った。そして、ノドのつかえがとれたかのように先を続けた。
 早口だったし、わたしが知らない言葉が入ってもいたので、よく聞きとれなかったけど、とにかく死なないでほしいと言っているみたいだった。
 言い終えても、まだ言い足りないかのような目で、美実はエイくんを見た。見つめた。
 エイくんは美実を抱き寄せた。ギターケースを置き、右側の壁にもたれるようにして、美実と二人、歩道にしゃがむ。
 「考えるな。考えすぎるな」
 「死なない? 絶対に死なない?」
 難しい質問だった。だけど簡単な質問でもあった。人間は、いつか絶対に死ぬ。モールでチョコレートを買おう、と思ったその十秒後には死んでいる、なんてことだってあるのだ。
 しばらくして、エイくんが出した答はこうだった。
 「死なないって約束はできない。人には何が起こるかわからないから。でもこれだけは約束する。もし死んだとしても、必ず化けて出てやる。そっちなら、約束できそうな気がする」
 約束していいよ、エイくん。たぶん、化けて出られると思うよ。話をしたりは、できないかもしれないけど。
 エイくんのその言葉を聞いて、美実は少しだけ笑った。でもエイくんの体にしっかりしがみついてもいた。
 エイくんが美実の頭のてっぺんに口もとを寄せた。髪の匂いを嗅いだようにも見えたし、キスをしたようにも見えた。どちらでもないのかもしれないし、両方かもしれない。
 わたしはいくつかの星が浮かぶ夜空を見て、それから美実とエイくんを見る。
 だいじょうぶ。美実は守られてる。もう一人で立つこともできるけど、きちんと誰かに守られてもいる。
 わたしだって、美実を守れたのだ。さっき、横顔に息を吹きかけたとき、美実の髪は確かに揺れた。少しくらいは、届いていたのだ。息も。想いも。うん。そうだ。わたしはそうだと思いたい。わたしの想いが、美実に届かないわけがないよ。
 幽霊になってよかった。初めてそう思えた。今日このときのために、わたしは幽霊になったのかもしれない。そんなふうにさえ、思えた。だって、そうだよ。一番の友だちを守れたんだから。
 わたしは再び夜空を見る。星の放つ光が強まり、闇がいくらか薄まったように感じる。門が開かれたことも感じる。
 わたし、山田絵恋。永遠の十歳。
 と言いたいとこだけど、たぶん、永遠の、ではない。今夜までの十歳、だと思う。そのことが、何となく、わかる。
 残された時間は、あまりない。最後にあと一度、パパとママの顔を見たい。
 だから、もう行くね。
 永遠に大好きだよ。
 さよなら。美実。

小野寺史宜 (おのでら・ふみのり)

1968年、千葉県生まれ。2006年、「裏へ走り蹴り込め」でオール読物新人賞を受賞。2008年、『ROCKER』で第三回ポプラ社小説大賞優秀賞を受賞。ほか著書に『カニザノビー』がある。

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