黒揚羽の夏

第一回 台風襲来

 山際を進む車窓を、草木の緑が掠めるように走り過ぎていく。土手がぐいぐい近寄ってきて、再び列車は闇の中に呑みこまれる。窓ガラスが鏡になった。おにぎりを頬張る颯太の姿が見える。列車はますます山深く入っていく。通過してきたトンネルの数を数えるのは、二十三でやめてしまった。
 東京から新幹線で北に三時間。美和は、最初乗り換え駅でこの列車を見たときに唖然とした。先頭と最後尾しか、つまり全部で二両しかなかったのだ。臙脂色に塗られた丸っこい車体もどこか古めかしく、これから行く、田舎というものがくすんで見えた。
 けれども乗り込んでしまえば、がらすきの車内は新幹線よりずっとましだ。美和は自由に席を立って、ずっときつい顔つきのままでいる母親の隣から離れられることがうれしかった。千秋も少し離れた座席で、窓の外をずっと眺めている。千秋も、母も、朝からほとんど何も話してない。だから美和も、ほんの少ししか口を開かない。
 「兄弟三人で、しばらく田舎に行ってほしいの」母親が言いだしたのは、夏休みが始まってから一週間目のことだった。「お母さんね、十日くらいお父さんとじっくりこれからのことを話し合いたいの。だいぶきつい言い合いになるときもあるかもしれない。だから、あなたたちは家にいない方がいいと思うの」
 「田舎ってどこ」とっさに美和は聞き返していた。それ以上母親の話を聞きたくなくて、遮るように尋ねたのかもしれない。
 「お祖父ちゃんのところよ」
 「お祖父ちゃんなんて、会ったことないよ。そんな知らない人のところ、行きたくない」
 「小さいころに会ってるのよ」母親は言った。「だいじょうぶ。あまり馴染みがなくたって、お祖父ちゃんはお祖父ちゃんだもの。優しくしてくれるし、すぐに慣れるよ」 その言葉がかえって不安を煽ったのか、颯太が顔をしかめてぐずりだした。母親はため息をつく。隣の兄の様子をそっとうかがうと、千秋は青ざめた顔のまま唇をじっと噛みしめていた。
 夜更けに、襖の向こうから、低く押し殺した話し声が聞こえてくるようになってどれくらいが経つだろう。何を話しているのかはわからないけれども、時折混じる鋭い調子から、二人が争っていることくらいはわかった気づいていた。美和はひそかに、自分がきっかけではないかと疑っている。いや、きっかけというのはおかしいけれども、あのとき、自分が引き起こした火事が、家族の大切なバランスを崩してしまったのではないだろうか。考えてみれば実際そのころから、家族のあいだに冷たい刺々しいような空気が漂ってきた気がするのだった。そう思うたび、美和の心のなかに、どうしてあのとき何もできなかったのだろうという悔恨の炎がぱっと燃え上がるのだった。
 気がつくと、窓ガラスの向こうが夜明けの空のように白み始めている。トンネルの終わりが近いのだ。そう思ったときにはもう、列車は魚のように光のなかへ跳ね出していた。広々とした野が周囲に広がる。明るい午後の日差しがさんさんと降り注ぐ。東西を囲むのは滲んだように青い山々だ。田んぼの苗の鮮やかさが目に沁みる。美和ははじめて、この地の緑が東京より一段と柔らかく、濡れたように瑞々しいのを知った。
 列車が徐々に速度を落とし、たった一つしかないプラットホームに停まった。アナウンスが流れるが、声が濁っていてよく聞き取れない。母親が立ち上がる。窓から見える駅名には、七重、とあった。
 改札を出て、美和は再び唖然とすることになった。駅前だというのに人影が見当たらず、車も数台動いているだけだったからだ。これが町の中心部なのだろうか。ロータリーの向かいにある三階建てのホテルが一番大きな建物で、あとはアーケードになっている商店街とスーパーマーケットが目につくくらいだった。どこを探しても活気というものが見当たらない。
 「変わっているようで、変わってないな」
 母親がどこかうんざりしたように言った。
 不意にクラクションが鳴る。おどろいて美和たちが振り返ると、ロータリーの外れにクリーム色の軽トラックが停まっている。しかし、運転席にいる禿頭の老人は、じっと前を向いたまま、こっちを見ていない。
 「お父さんたら」母親が忌々しげに呟いた。彼女が近づいてゆくと、ようやく老人はゆっくりとこちらに向き直った。
 「久しぶりだな。元気だが?」
 「ええ、おかげさまでね」そう言いながら母親は助手席の方にまわってドアを開けた。
 「この席に親子四人は無理ね。どうしたらいいのかな」話しながらも祖父とは目をあわせない。
 「おまえは荷台さ行げ」祖父はぶっきらぼうに言った。
 「そうね」と母親がうなずく。「千秋、あんた、お母さんと一緒にこっちいらっしゃい」
 「僕も後ろに乗る」颯太が叫んだ。
 「だめ。あなたと美和はお祖父ちゃんと一緒」抱きかかえられて無理やり助手席に押し込められる。美和も乗り込むと、祖父は痩せた腕をのばしてドアを閉めた。
 車が動き出した。車内は、土臭いような、カビ臭いような臭いがする。美和は、祖父の体臭なのだろうかと思う。緊張しているのか、颯太も珍しく口を開かない。ふりかえるとガラス越しに、荷台に座り込んだ母親が風に目を細めているのが見えた。
 母親と祖父があまり仲がよくないことは薄々知っていた。クラスの友達とは違って、美和たちはこれまで母方の田舎に行ったことがない。行ってみたいといっても、母は「何もないとこだから」と首をふるばかりだった。
 「お母さんと祖父ちゃんはあんまり折り合いがよくないんだよ」と父親が言ったことがある。「折り合いってなあに」と尋ねると、「一緒にいて辛くならないことだな」と答えた。「それに、お祖父ちゃんはお母さんに大学まで行ってもらいたかったし、そのあとは県内か、せめて仙台あたりに住んでほしかったんだ。だけど、お母さんは高校を出るとすぐに東京へ来てしまった」
 「どうして」と美和が聞くと、「俺がいたからさ」と父親はいささか得意そうに笑った。それでいて、すぐに顔を曇らせて、「今ではお母さんも後悔しているかもしれないな」と呟いた。
 しばらく走るとすぐに建物は途切れた。田んぼのあいだに、ぽつりぽつりと背の高い木のかたまって生えているところがある。その梢の向こうに、藁葺きの農家が身を隠すように建っている。
 車はわきにそれてうねうねと蛇行する細い道を走っていた。幾度も小川を越えて、そのまま田んぼに飛び込むかに見えるカーブを曲がる。道路に張りだした竹藪をぐるりとまわったとき、幹のあいだからちろりと紅い色が見えた。祠だった。神様? と美和は一瞬考えた。
 トラックはその先の舗装が切れたところで停まった。降りた下は踏み固められただけの土で、奥に平屋が一軒建っている。どこがどうとははっきり言えないけれど、美和がこれまで見慣れていた建売住宅のどの家とも違っていた。
 千秋が土気色の顔をして降りてくる。酔ったのかもしれない。最近、何をするにも気だるそうだ、受験のことが心配なのだろうか、と母親は言うけれども、美和は違うと思っていた。むしろ、人に言えない何かを抱えているような感じ。
 「黒すぐりがまだこんなにある」 いつのまにか母親は敷地の隅にある藪の前に立って何かを摘まんでいる。それ食べれるの、と颯太が駆けていく。母が、植物に詳しいなんて今まで知らなかった。祖父は車を車庫に入れると、先に立って家の戸をあけた。戸の錠は、二枚の引き戸の中央に穴が開いており、真鍮のねじをそこにねじこむだけというシンプルなものだった。
 祖父が玄関の明かりをつける。美和は口のなかでお邪魔しますと呟きながら地下足袋のならんだ玄関に足を踏み入れた。初めて入る家の空気はよそよそしく、どこか美和を拒否しているようだ。それなのに、母親だけはつかつかと上がりかまちを越え、廊下を折れて視界から消えた。続けざまに薬缶に水を注ぐ音とガスのつまみをひねる音がする。茶の間には、卓袱台がひとつ置いてある。祖父がどっかり腰をおろしたので、兄弟三人、ちんまりと部屋の隅に座った。
 「んで、何年生になったんだ」沈黙に耐えかねたように祖父は言う。
 「中二」ぼそりと千秋が答えた。
 「小五」
 「二年生!」颯太だけは元気だ。
 母親が茶を運んでくる。湯呑みを卓袱台におくと、先にお線香あげてくるから、とまた立ち上がる。
 「ああ、孫もおっぎぐなりましたって母さんさ言ってこ」
 「ねえ、家の中、見てきていい」すかさず颯太が聞く。母親がうなずいたのを見て、これ幸いと美和も飛びついた。
 「わたしも行く」 あわせて千秋ものっそり立ち上がる。
 小さな平屋なのに、なぜだかずいぶん広く感じられる家だった。美和たちの暮らすマンションに比べて、天井が一段高い。部屋数だって多いとは思えないが、一部屋一部屋が、ぐんと伸びをしている。けれど家の中は散らかっていた。乱雑に束ねられた数ヶ月前の新聞紙が部屋の隅に積まれ、ゴミ袋には総菜のパックが押し込まれている。洗濯物も籠にたまっていた。外の埃か、何かの食べかすか、畳を歩くと足の裏がざらざらする。
 「ちょっとこっちいらっしゃい」母が呼んでいる。
 襖をあけて、十畳ほどの部屋を見せられた。
 「ここがあなたたちが寝る部屋。昔、お母さんが使っていたの」
 「僕、畳で寝るの初めてだよ」颯太が言う。
 「そうね。うちには畳の部屋ないものね」
 日に焼けた黄色い畳。障子を開くと、田んぼが見えて風が流れ込んだ。ねえ、お母さん、と美和は袖をつかんで聞く。「お祖父ちゃんって何してる人なの?」
 「昔は大工だったのよ。今はもう引退してるけどね。この家だってお祖父ちゃんが自分で建てたの」
 へえ、と美和はあらためて家の中を見回した。金で買うのではなく、自分で家を建てるという発想が新鮮だった。
 茶を飲み、持ってきた菓子を食べ終わると、じゃあそろそろ、と母親は腰をあげた。
 「泊っていかないのか」祖父が驚いて言う。
 「ごめんなさい。明日、どうしても会社に出なければならないの。それに、明日台風が来るんでしょう?」
 新幹線内の電光掲示板も確かそう知らせていた。何かを言いかけて呑み込んだ祖父をよそに、母親は手早く荷物をまとめて立ち上がる。
 「飯くらい食っていったらどうなんだ」
 「新幹線の時間があるから。途中で何か食べる。今から出ても向こうに着くの夜中だもの。駅までは送ってくれなくてだいじょうぶ。さっき電話横の時刻表で確かめたら、ちょうどバスが来る時刻だから」
 そういうと母親は、玄関でハンドバッグから白い封筒を取り出した。
 「それじゃ千秋たちをお願いします。それとこれ。食費くらいにしかならないと思うけど」
 「いらね、そったなもの」と祖父ははらいのけた。母親は、そう、とため息をついて封筒を元通りにしまった。
 「あのね、父さん、もう子供たちも知っていることだから言っちゃうけど、滴原と別れるかもしれないの」
 「んで、子供だち預げんのが」
 「ごめんなさい。迷惑かけてると思ってる」
 「俺は最初から、あの男は虫が好かなかった」
 「今さらやめてよ」母親が声を張った。「悪い人じゃないの。ただいつまでたっても大人にならないだけ」
 「いつまでだ」
 「二週間でいいから、お願い」
 「僕、送っていくよ」 千秋が二人の会話を遮るように靴脱ぎに降りた。祖父はかまちに立ったまま見送った。家の前の細い道は、ゆるやかに蛇行しながら低地の方へ下っている。母親がここまででいいと言うので、美和たちは草いきれの立つ坂の半ばで、母親の菫色の日傘と白いブラウスが西日のなかをゆっくりと遠ざかり、緑のなかの白い染みのようになるのを眺めた。やがてバスが来て、その小さな染みを拾っていった。お母さん、また迎えに来てくれるかなあ、と颯太が言い、美和は、なに言ってんの、馬鹿、と叱りつけた。
 さあ、帰ろう、と千秋が言った。一日の疲れに今気がついて、体がぐったりと重くなったようだった。けれども、美和はふと思い出して、突然向きをかえると、道をそれて小さな林の中に踏み込んだ。
 「ねえ、あっちの方、見て。小さな祠があるよ。来る途中に気づいたの」
 千秋はあからさまに、それがどうしたという顔をしたが、すでに颯太は藪の中に分け入っていたし、美和は木製の小さな鳥居をくぐっていた。祠は片側が竹薮になっている林のあいだに半ばひっそりと草に埋もれるようにして存在していた。最初、学校の校庭の片隅にある百葉箱をさらに古臭くしたようにしか見えなかった。その脇に、肩ほどの高さの石でできた碑があった。千秋が、刻まれた文字を指でたどる。
 「なんて書いてあるの」美和が尋ねた。
 「ちょっと待って。丹沢の丹に生っていう字だ。それに神社分社。あとは細かくてわかんないや。字のなかに苔がはりついているし」
 そのあたりの地面は、夏だというのに、腐りかけた落ち葉のために踏むとふわりと体が沈んだ。肝心の祠も、ところどころ朱が剥げ、白茶けた木地が剥き出しになっていた。その木のへりを小さな赤い蟻が、一列になって行進している。緑青の浮き出た扉の蝶番が外れていた。
 「中に何が入っているのかなあ」美和が言った。
 「御神体だろ」
 「御神体ってどんなもの?」
 「さあ。鏡とか」
 「開けてみようか」
 「いやだよ。やるなら勝手にやれよ」
 「大丈夫だよ。きっと開かないよ」
 しかし、触れると朽ちかけた観音扉は簡単に開いた。中を見て美和は息をのんだ。
 「どうした。何だ、空っぽじゃないか」千秋が後ろから覗き込んで言う。
 「うん、でも」美和は首をかしげた。祠の薄汚れた内部には、鴉のものなのだろうか、ただ一枚だけ大きな黒い羽根が落ちていたのだった。

 その晩、食事を終えた颯太が疲れて眠りこんでしまうと、縁側でタバコを吸っていた祖父は、もう寝ろ、と言って、千秋たちの部屋に大きな蚊帳を吊った。はじめて入る蚊帳は、かすかに線香の匂いがし、内側からは部屋の中の様子がわずかにかすんで見えた。千秋たちは布団に横になった。扇風機が部屋の隅で首をまわしていた。明かりを消すと、開け放しの窓から青白い月光が流れ込み、畳の目を白く輝かせてまるで水が流れているように見せた。千秋は長いあいだ眠れなかった。虫の声がにぎやかすぎたし、外からひんやりとした空気が入ってくるのにも慣れなかった。暗がりでじっと横たわっていると、畳の匂い、草の匂い、そして庭のどこかで香っている甘い花の匂いが、夜の大気のなかで混然となって漂ってきた。千秋はこの家の外に広がっている水田と雑木林を思い、その先の小さな町を思い、さらにその向こうに広がっている茫漠とした広大な暗がりを思った。それは父や母がいる東京までつながっていた。
 やがて仄暗い眠りにすべりこんだ千秋は、不意に激しく戸を叩く音に気づいて目を開けた。鉄の扉を誰かが叩いている。チャイムも立て続けに鳴らされ続けていた。千秋は立ち上がる。饐えた生ごみの臭いのたちこめる暗い部屋。せわしい羽音を響かせて一匹の蝿が、隅から隅へと飛び回っている。
 「警察だ。いるんだろ。早くここを開けなさい」
 「児童相談所です。幾つかお伺いしたいことがあります」
 「開かないならこちらでこの鍵を開けるからな」
 扉の向こうで複数の人間がわめき声をあげている。千秋はあせって室内を見渡した。どこか隠れるところがあるだろうか。押入れ、あるいは寝室のクローゼット。ふと、カッツンがすでに出て行ってしまったことに気がつく。彼らが捜しているのはカッツンなのに、千秋一人が取り残されたのだ。千秋は激しい悔恨に襲われる。もう遅すぎたのだ。扉の外で騒いでいる連中によってたかって攻められるのは自分ひとりだ。 さよなら、カッツン。僕は何もしてあげられなかった。
 そこで千秋は目を覚ました。背中がびっしょりと冷たい汗で濡れている。そこはカッツンの暮らしていた密閉されたマンションではなく、外から涼しい風の吹き込んでくる田舎の祖父の家の部屋だった。深く息を吐きながら、しばらくじっと暗闇の中に横たわったままでいた。これまでも何度か見た悪夢だった。目覚めた後でも動悸が静まらず、今見た情景をそのまま指先で触れることができそうな気がするほどリアルな夢だった。
 翌朝になって千秋は、この地方の光が強く透明で、何もかもが今、切り出されたばかりのようにくっきりと見えることに驚いた。千秋は庭を歩き回り、生垣の上に咲いた黄色い鮮やかな花を眺めたり、軒先のツバメの巣に目をとめたりした。門の脇にある欅が波のように葉を震わせるのさえ、街育ち、マンション育ちの千秋には珍しかった。家の裏手は小高い丘になっており、背の高い樹木がまばらに生えていた。やがて美和と颯太も降りてきた。颯太は何を思ったのか、一昨日買ってきた折りたたみのできる捕虫網と虫かご、ルーペなどのそろった虫取りセット一式を身に着けていた。しばらくそこで遊んでいると、生垣の向こうから、あら、あなたたち、上条さんのお孫さん、と声がかかった。六十過ぎの女がこちらを見ている。千秋がうなずくと、彼女は、わたしお隣の三上っていうの、ほんとうに珍しいわねえ、とうなずきかえした。
 三上のおばさんが、 上がって茶でも飲んでいけと言うので、祖父に断ってから、千秋たちは隣の家に上がりこんだ。三上のおばさんは母親がすでに帰ったと聞くと少しがっかりしたようで、母親である雪子ちゃんのことは、赤ん坊のころからよく知っているのだと言い、三人を矯めつ眇めつ眺めては、雪子ちゃんに鼻が似ている、目が似ていると何度もくりかえした。颯太は初めて見る水羊羹をしばらくルーペで念入りに観察していたが、一口匙ですくうと、これはあんこなのかプリンなのかと聞いて、三上のおばさんを嬉しがらせた。それからもおばさんは、今年はキュウリの出来が今いちだとか、近所に餌付けをする人がいるので野良猫が増えて困るとか、最近近くで子供がさらわれる事件があったので孫にこの夏は来ないように言ったとか話をしていたが、最後に家に戻ろうとする千秋たちに向かって、今日は台風が来るから外に遊びに行くのはやめた方がいいと言った。今年最大の台風が、夜中にこの地域を直撃するのだった。
 家に戻ると、祖父はおらず、蕎麦を茹でたと書き置きがあった。一人暮らしの長い祖父は、蕎麦四人分の分量の見当がつかなかったに違いない。ありったけの蕎麦を鍋に放り込んだらしく、たらいのなかで蕎麦は富士山のような山容を見せていた。それでも三人で奮戦して、三分の一ほど山を崩したとき、がらがらと引き戸を開けて祖父が帰ってきた。どこか上気した様子で、肩にかけた手拭いで顔をぬぐっている。
 「千秋」祖父は大声を出した。「大雨降ったら外のどぶがあふれるかもしれねえ。どぶされい手伝ってくれねえが」 そして千秋がついてくることを疑いもしないように、玄関へ戻ると長靴や雨合羽をそろえだす。美和は窓際に立って外をのぞいてみた。いつのまにか西の空が、インクを滲ませたような暗い色にかわっている。どこか遠くで雷が鳴った。足もとがすうっと寒くなるような音だ。また、がらりと玄関が開く。
 「上条さん、いますか」
 「ああ? どうも」祖父が応対する。
 「いや、一人暮らしで七十以上の方、まわってるんですけども。何か困ったごとありませんか」
 「いやいや、おかげさまで」
 「何があっだどきの避難場所は東根小の体育館ですから」
 「あら、わざわざありがとうございます。白根沢の方はどうだべねえ」
 「あっちは崖崩れの危険性ありますからねえ、そのうち避難勧告でるかもしれねえです」
 「はあ、ほんとごくろうさまです」
 「まんず、気をつけてください」
 客は意外と呑気な口調で挨拶して帰っていく。千秋と祖父もシャベルを持って外へ出ていった。美和と颯太は、ガラス窓にぺったりと額をおしつけて外を見た。ちょうど、薄墨色の雲から大粒の雨がばらばらと落ち、白かった地面を一気に黒く濡らしていくところだった。
 「汚れるから颯太は外に出ちゃだめだよ」美和が言うと、「姉ちゃんも汚すから外に出ちゃだめだ」颯太が言い返す。
 「颯太が出なけりゃ、わたしも出ないよ」
 「姉ちゃんが出なけりゃ僕も出ない」
 「それじゃあ、一緒に出よう」
 二人はガラス戸のサッシを開けて外に出た。軒先に立って見上げると、雨は白い筋のように空を埋め尽くしていた。その空を罅割れのような稲妻が青く走り、次の瞬間、千の銅鑼を震わせたような雷鳴が鳴った。美和は少し怖くなり、再び家のなかにひっこんだ。気がつけば自分の足も颯太の足も、滴がはねて泥だらけになっている。
 「颯太。足洗おう。このまま家の中歩いたら祖父ちゃんに叱られるよ」
 「祖父ちゃんって怒ると怖い?」
 「さあ、わかんないよ。だけど叱られるのいやでしょ。お風呂のとこ行こう」
 お湯の温度を調節して、颯太の足を洗面器で洗ってやるあいだ、家全体が白っぽい雨の音に包まれているようだった。擦りガラスの向こうで背の高い庭樹の影が踊っているように揺れているのも気持ちが悪かった。 美和は勇気を出すために、あめざあざあと唄った。最初小さな声で、次に大きな声で唄った。なあに、それ、と颯太が聞く。いま作ったの。台風の歌。颯太も唱和する。あめざあざあざあ、かぜぴゅうぴゅうぴゅう。 けれど廊下に出てみると、いつのまにか雨は小止みになったらしく、すかしてみても短く細い糸のような線が見えるだけだった。美和は千秋たちがどうなったか気になりだしたので、もう一度颯太と外へ出ることにした。ただし今度は母親が持たせてくれた折り畳みの黄色い傘を持った。出てみると、やはり雨はほとんど降っていなかった。門のところまで行っても千秋たちの姿は見当たらず、ただ欅の樹がせわしく葉を鳴らし、罅割ればかりのアスファルトに大きな水たまりが幾つもできていた。 美和は水に足を踏み入れないよう注意しながら、あいだを縫うようにして歩いていった。そして、ふと立ち止まって見下ろすと、水たまりのなかをちぎったような黒い雲がぐんぐん駆けていた。鏡のようだ。美和は思う。地面の下に空があって雲があって風が吹いている。そっくりだけど、まるで、あべこべだ。どっちが本当でどっちが嘘なのか。水面には黄色い傘を持って、唇をぎゅっと結んだ女の子の姿も映っていた。美和はその姿を見ながら、彼女は誰だろうと考えるふりをする。あなたはミワね、地面の下のあべこべのミワ。 しかしその瞬間、彼女はびくりとして小さな声をあげた。水のなかから、赤い服を着た髪の長い女が物凄い目をして睨んでいたからだ。美和はびっくりして後ろをふりかえった。けれどもそこには誰もいない。かわりに、ごうと風が鳴って津波のような空気のかたまりが正面からぶつかってきた。傘の骨が中途で裏がえると、そのまま美和の手を離れ、くるくると回りながら屋根を越えて消えてしまった。美和は呆然として、飛ばされてしまった傘の行方を見送った。
 気づけば隣の颯太も両手をだらんと垂らしたまま傘の消えた空を見上げている。美和は目がちかちかして頭の奥が鋭く痛み、耳元でキンと音叉を打ったような音がして気が遠くなった。このまま地面に倒れ、水たまりの奥に落ち込んで二度と戻れないような気がする。
 不意に大人の大きく湿った手が頭の上におかれた。見ると雨合羽を着た祖父が立っていた。その後ろから大きな泥はねをつけた千秋がやってくる。美和は我にかえって身震いをした。
 「なにが飛んでくるかもしれねえがらな。こんなどこさ立ってねえで、早ぐ家の中さ入れ」
 「黄色い傘なくしちゃったの」美和は祖父を見上げて言った。
 祖父は最初、あ、あ、とよくわからない様子だったが、すぐに、まだ買ってやるから家の中さ入ってろ、いま体拭いてやるがらな、と言った。

 その日の明け方まで嵐は吹きあれた。その午後、千秋は家のあちこちを補修して回る祖父を手伝って、緩みのきている垣根の根もとを結わえ直したり、破れたトタンに継ぎをあてたりした。それが終わると祖父は、やはり念のため修理を頼みたいと呼びに来た近所の家へ出かけていった。家を出る前に、祖父は、風で電線が切れるかもしれねえ、切れたらこれを注意して使え、と言って、懐中電灯と大きなロウソクとマッチを渡した。思わず後ずさりした美和を見て、千秋があわてて受け取ったのだった。
 幸い電気が止まることはなかったが、すべての雨戸を閉め切った家の中は蒸し暑かった。じっとしているだけで汗が噴き出し、ねっとりとした空気が肌に触れるとそのまま汗にかわるのではないかと思うほどだった。祖父は一度だけ戻ってきて、スーパーの袋に入った弁当を置いて、また出ていった。それを食べてしまうと、千秋たちは布団に入った。雨戸は休みなくがたがたと鳴り、窓から外をのぞくと、雨が斜めに矢のように走る向こうで稲妻がぱっぱっと間断なく閃いていた。
 不安がる颯太のために、美和が自分で作ったお話をしてやっていた。山の中に残された三人の兄弟が、水たまりの鏡をくぐってあべこべの世界に行くという物語だった。
 「そのソウタというのは僕のこと?」颯太が尋ねた。
 「ソウタはソウタだけど颯太じゃないの」
 「ソウタはソウタだけど颯太じゃないんだね」颯太は納得したようだった。
 「どうしてソウタたちはあべこべの世界に行っちゃうの?」
 「それはね、呪文を唱えたから。それを聞いてあべこべの世界の住人が、こっちへ来いって呼び寄せちゃったの」
 「それ、どんな呪文?」
 「あめざあざあざあ、かぜぴゅうぴゅうぴゅう」
 「僕それ知ってるよ。あめざあざあざあ、かぜぴゅうぴゅうぴゅう」
 食べれば食べるほどお腹がすき、飲めば飲むほど喉が渇くあべこべの世界の食べ物でもてなされたあと、ソウタたちがあべこべの国の女王の宮殿に招かれたところで美和の声が途切れた。どうしたのだろうと思って千秋が寝がえりを打ってみると、二人は、額をくっつけるようにして眠っていた。
 仰向けになって天井の豆電球を眺めながら、今日の午後にした祖父の手伝いを思い出す。大工の仕事なんて初めてだったし、ましてや吹きつける風や雨の中で作業をするなんて想像したこともなかった。もっとも彼はただ懐中電灯で祖父の手もとを照らしたり、指示されるままに道具を取って渡したりしていただけだったのだが、それでも雨粒が首筋から滝のように流れ込み、雨混じりの風が正面から吹きつけてくると、両目をきちんとあけていることさえ難しい。千秋は、懐中電灯の光をぶれさせてしまって、何度も祖父から大声で叱咤された。だいたい、はいとかわかったとか返事するのさえ、ありったけの声をはりあげないと聞こえないのだった。 自分なんてずいぶんちっぽけなもんだ、と彼は思った。風の中の木の葉や、水たまりでもがく蟻とおんなじだ。いや、風にぐんぐん吹きまくられているときに感じる自分のちっぽけさは、普段学校や家で感じている無力さと比べたらどこか爽快だ、と気がついた。あのとき、千秋は雨の中、風の中を思いっきり大声をあげて走り回りたいような衝動を感じたのだった。俺は今ここにいるぞ、と叫びながら、両腕を振り回してずぶ濡れになって走りたい。 タオルケットを顔に押し当て、思わず噴き出た笑いを押し殺す。もしも雨の中で素っ裸になりたいなんていったら、クラスの女子からは馬鹿じゃないのという目で見られるだろうなと思ったからだった。あいつらは自分たちだけのときは結構いやらしい話もしているくせに、他人のことは何でもヘンタイだなんて言って排斥してしまう。けれどもここにはクラスの友達も塾のクラスメートもいない。受験の話も友達の噂も追いかけてこない。そうだ。もっとこの町のことを知ろう。この町を探検して自分のものにしてやろう。千秋はそう考えてにんまりとした。急に、自分が今いる場所が身近なものになったように思えた。

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