黒揚羽の夏

第三回 水の中の人影

 千秋は図書館の入り口付近で、三つ折りになったパンフレットを眺めている。カウンターの脇に置いてあった「七重町の名所古跡」というパンフレットで、中には小さな文字とともに幾つかの寺や神社の写真が入っている。それによれば隣の那珂川の河原は、桜の名所で春には町民たちの憩いの場所となるそうだし、五月には数十の鯉のぼりが群青の空に舞う。秋には紅葉が美しく、冬はスキーに格好の雪が降る。カウンターにはそのほかにも、千秋が昨日読んだ「水と鉱山の町、七重」という大判のパンフがあった。そこに書いてあったのは、七重が何百年もかけて発展し、また衰亡していく過程だ。
 千秋はもともと歴史が好きだった。友達のなかには、ゲームから入った武将おたくで、戦国武将の名前を城代クラスまで空で言えるものもいたが、千秋の歴史好きはそれとは違って、自分がまだ生まれていない世界というものへの驚きがあった。千秋はその感覚を友達に話したことがあったが、理解してはもらえなかった。今、自分が立っている場所に、百年前、五百年前、千年前にも誰かが立っていたかもしれない。彼らも千秋のように何かを考え、何かを望み、何かに悩んでいたかもしれない。けれど、その誰かはほぼまちがいなく、この世界に何の痕跡も残さずに消えていったのだった。そしていつか、千秋もまた死に、彼の痕跡も消えてなくなるだろう。家族や知り合いも死んでしまえば、人一人が生きた事実など、この世に引っかき傷ひとつ残さないのだった。そう思うと、千秋はだからこそ過去のことを知りたくなった。
 ある朝、千秋はいつもより早く目覚め、まだほとんど人通りのない外の風景を窓からぼんやり眺めていたことがある。ベランダに置いた鉢のゼラニウムが、風にかすかに花弁を揺らしていた。鮮やかすぎて普段あまり好きではないその花が、なぜかその朝だけは好ましく思え、さらにベランダの向こうに見えている隣の公園の新緑が、夜明けの光を受けて、徐々にくっきりと浮き立ってくるのも美しかった。
 不意に千秋は、自分はいつか窓際に立って外の風景を眺めていたこの朝のことを忘れてしまうだろう、と思った。何といってもそれはごく平凡な一日の始まりにすぎず、とりたてて記念になるようなものではなかったからだ。そして、自分はこの朝のことを忘れてしまうだろうと思ったことさえも忘れてしまうだろう。この朝の記憶は、僕のなかに何の痕跡も残さないだろう。だが本当にそうだろうか。やがて夜が明けて、この朝の光は消え失せても、そしてそれを見ていた僕の記憶も掻き消えても、僕が今この海の波のようにざわめいている緑の樹々を美しいと感じたという事実は永遠に残るのではないだろうか。千秋はそう感じ、同時にその考えの奇妙さに困惑した。いったい、どのように? 自分自身もふくめて、誰も記憶しない記憶とは一体何だろう。
 千秋は壁に貼られた案内を見て歴史の書棚に行ってみたが、そこには、アジアやヨーロッパといった地域別に本が並べられているだけで、七重町について教えてくれそうな本はなかった。日本史の東北の部分を見ても、蝦夷や奥州藤原氏の本はあっても七重の文字は見当たらなかった。
 「この町の歴史の本はどこにあるんだろう」千秋は思わず呟いた。すると背後から、「左の壁に郷土史のコーナーがありますよ。二つ目の柱の右」と男の声がかかった。千秋が礼を言おうとふりかえると、その男はさっと避けるように本棚の陰に隠れてしまった。
 なんだろう……と思いながらも、教えられた場所から薄く簡単そうなものを三冊ほど選んでテーブルと椅子のならぶコーナーへ向かった。『七重町いまむかし』と題された紺色の布張りの本を開いて前書きをよむと、著者はこの町の小学校の元教諭で、退職して時間ができたので、これまで集めてきた老人からの聞き書きと自分が幼いころ聞いた話などをまとめたのだとあった。
 ひとつひとつのエピソードは三ページほどで読みやすかった。載っている話は戦争前だったり、戦後すぐのころのことが多く、ぴんとこないことも多かったけれども、理解できないというほどでもなかった。おもしろいと思ったのは、天童の森というところで、何人もの人間が神隠しにあっているという話だった。年齢はばらばらだが消えるのはいつも男で、山仕事などに出かけたまま行方がしれなくなり、数日から数ヶ月して帰ってくる。消えていたあいだのことは何も覚えていないか、覚えていても決して口を開かない。天童には天狗のすみかがあり、消えたものは天狗にさらわれたのだと昭和の初めまで信じられていたというのだった。一方、同じ人が消える話でも、赤い服を着た女が街角で女の子をさらっていくという噂は、どこかありふれていてつまらないような気がした。両親が子供の頃は口裂け女というのが流行っていたらしいし、その後は花子さんというお化けの噂が子供たちのあいだに広まった。そうした全国区の怪談と比べると、ただ若い女が子供をさらうというだけじゃ漠然としすぎていて迫力がない。けれど著者は、自分が子供のころに聞いたのとまったく同じ話を、三〇年後に教え子から聞かされてびっくりしたという。つまり三〇年ものあいだ同じ話が語り継がれてきたことになる。
 「ここ、いいですか」
 背後から控えめな声がし、千秋はあわてて、どうぞ、と返事をした。次の瞬間隣に座ったのは先ほど本のありかを教えてくれた男だった。驚いて思わず変な声がでてしまう。
 年のころは二十代半ばといったところだろうか。だが千秋よりも小柄で子供のような体つきをしている。男はどこかおどおどした態度で、千秋と視線をあわせようとはしなかった。空いている席なら幾らでもあるのに、と千秋は軽い嫌悪を覚える。
 男は山のように積み上げた本の中に鼻をつっこむようにして熱心に読書をし始めた。千秋も本に戻ろうとした。ふと、そのとき、男が読んでいるのが、『みちのくの森の伝承』という分厚い書籍であることに気がついた。
 「あ、それ」千秋が呟くと、男はいぶかしげに顔をあげた。
 「あの、そこに天童の森って載っていますか」
 「天童の森」男はどこかおぼつかなげにくりかえした。それから、ぱっと男の表情が輝いた。
 「天童はこの七重町が位置する三原盆地の東側の尾根一帯のことです。といっても天童という言い方は江戸時代までの民間の呼称であり、明治以降の公的な行政区画の名称としては採用されていません。主な植生はブナ、カツラ、トチノキなど。縄文時代から、栗、くるみ、山芋などを食べていた人間が居住していたことは、多数発見されている居住あとなどからわかっています。また平安時代の土師器、須恵器なども多数出土しています。また歴史学では、中世にはあの森の奥に修験者たちのコミューンがあったという説をとなえる人がいて、そこでは何らかの宗教的儀式が行われていたのだろうとも言われています」
 「修験者? コミューン?」
 「修験者というのはいわゆる山伏のことをさします。深い山の奥には神さまがいて霊的なスポットがあるという考えに基づいて修行を積む人たちです。袈裟を着て、錫杖を持ち、ほら貝を使って仲間と交信をします。険しい山中の道を不眠不休で踏破することで、常人を超えた体力や呪力を身につけられると考えられていました。もともとは、道教など中国由来の神秘思想と日本土着の山岳信仰が交わったところに生まれたもので、もっとも有名な修験者は役小角という人ですね。彼は式神と呼ばれる鬼神を自在に使いこなしたといわれています」男の声はか細く震えを帯びて頼りなかったが、彼は暗唱でもするように話し続けた。奇妙な男だという印象がますます強くなる。
 「つまり天童には、武士にも朝廷にも支配されていない集団がいて独自の生活を営んでいたらしいということです。よそで追われている人間も、天童の森に逃げ込めばもう安全だったといいます」
 「もしかしてそれって天狗と関係ありますか」
 「そう。天狗の来ている衣装は山伏のものです。異常な力を持っていると怖れられていた修験者への感情が天狗にこめられているのではないでしょうか」
 千秋は表情をかえないまま話し続ける男の様子が気味悪くなりかけていたが、それでも思わず「すごい詳しいんですね」と言わずにいられなかった。
 「前に天童について書かれた本を読んだことがあるんです。僕は朝九時にここに来て、毎週本棚から三冊本を選んで読むんです。どの本を読むかはそのとき決めます。たいてい、書棚の一番最初に並んでいる本のことが多いです」
 「最初に並んでいる本」千秋は戸惑いながら尋ねた。
 「ええ、いろいろ勉強して教養も身につけたいし、それに人と話をして社交の能力も身につけたいんです。図書館にはたくさん人がいるし、ずっと一人で家にいるのは体にもよくないから」
 男はなぜか最後の部分をためらいがちにつっかえながら言った。奇妙な感じがして、返答に窮していると、男は不意に気づいたように立ち上がり、「もう時間だ」と呟くと、そのまま千秋には目もくれず、足早に閲覧室を出て行った。
 彼が行ってしまうと、千秋は急に本を読む気が失せてしまった。今日はこれくらいにして、もう帰ろうかと考えたそのとき、それまでソファ席に座って女性週刊誌を読んでいた五十がらみの女が近づいてきた。
 「ちょっとちょっと、今の人、ちょっとおかしかったでしょう」
 「え」
 「アレよ、アレ」と女は自分のこめかみを指した。
 「何のつもりか、いつもここに来てるの。来るな、と言うわけにもいかないし。あんまり関わりにならない方がいいわよ」
 そう自分の言いたいことだけ言うと、女はまた、雑誌コーナーの方へ戻っていった。千秋は何か嫌なものでも呑み込まされたような気持ちになった。
 外へ出ると少し気分が落ち着いた。美和はどうしたろうと思う。図書館に一緒に行こうと誘ったのに、用事があるからと断られたのだった。そのくせ、尋ねてもどんな用事かは明かそうとしなかった。ここ半年ほどで美和はずいぶん強情でとっつきにくい子になった。以前はもっと明るく屈託がなかったのだが、最近はともすると、何かを考え込んでるのか、眉根を寄せてじっと宙を睨んでいたりする。学校の担任も雰囲気がかわったと言っているらしい。おそらく両親の不和が影響しているのだろうが、千秋にも何をしてやったらいいのかわからなかった。
 ポケットで携帯が鳴る。表示を見ると祖父からだった。通話のキーを押すと、少し緊張した様子の祖父の声が聞こえる。
 「おめえだちさ会いでいって警察の人が来てら」
 「警察? どうして」
 「よぐ知らねえ。直接話すって言ってら。まず早ぐ帰ってきてけれ」
 「はい。わかりました」
 千秋は急いで帰り道のルートを考え始めた。

 目的の神社はバス停のある十字路にあった。バスを降りるとすぐ目の前が樹木の緑が萌え盛っている一角で、御影石の石柱に七重神宮と流麗な文字で刻まれていた。
 美和は鳥居をくぐって石段を上りかけ、はっと気がついて横に飛びのいた。石段の最上段に、昨日の姉妹が陣取って何かを見ていたからだ。
 おみくじを見て姉妹について何か手がかりがあるかもしれないと思ってこの神社を訪れたのだから、彼女たちがいることは想定内だった。とはいえ、いきなり出会うと胸がどきどきする。美和は植え込みの陰に隠れて上まで上ると、少女たちを後ろから見張ることのできる境内の駐車場に身をひそめて、二人を観察した。背の高い方はセーラー服だが、もう一人は短パンにTシャツだ。幸い隙間なく設えた椿の生垣があって、彼女たちのすぐ背後まで近寄れる。
 「なんだよ、動きないなあ」という声が生垣越しに聞こえてきた。
 姉の方が「ちょっとあんた、アイス買ってきてよ」と命じている。「うん、いいよ」と妹が階段を駆け下りて行ったあと、美和はそっと頭を出して、何をしているのか覗いてみた。
 視線の方向からすると、彼女たちが見張っているのは、向かいのガソリンスタンドらしい。昨日若い男に襲われたときも、二人がじっとこちらを見つめていたことを思い出した。あれは自分たちではなく、男の方を見ていたのかもしれない。ガソリンスタンドではつなぎ姿の男女が何人か立ち働いている。あの中に昨日の男たちがいるのだろうか。
 不意に美和は眩暈を感じてしゃがみこんだ。直射日光にさらされすぎたのかもしれない。足もとにコチンと黒く硬い影ができる。すぐにこめかみを汗がつたっていくのがわかった。白っぽく焼けたアスファルトからは焙ったような熱気が昇ってくる。
 どうしようと思っていると、「大丈夫」と声をかけられた。頭をあげると、優男といった風情の若い男がこちらをのぞきこんでいる。
 「何か冷たいものでも飲んだ方がいいよ、ほら」と男は口を切っていないペットボトルを差し出した。美和がためらっていると、彼は無理やりそれを押し付けてから、おずおずとそれを口にあてる美和の様子をじっと眺めていた。
 「どう? 少しは具合がよくなった」
  美和がうなずくと、男は腕をのばして、美和の額をすっと人さし指の腹でなでた。
 「ほら、こんなに汗をかいてる。気をつけなくっちゃね。きみ、あまり見かけたことないけどこの辺の子じゃないよね」 ためらいながら美和は答える。
 「この前東京から来たの。わたし、滴原美和」
 「ふうん。美和ちゃんか。唯島シスターズに何か用かな。隠れんぼというわけでもなさそうだし」
 「唯島シスターズ?」
 男はわざとらしく声をひそめた。「ひとつだけリークしておくと、彼女たちはこのへんでは最強の武闘派少女ペアだから気をつけた方がいい」
 美和は何を言っているのだろうという思いで目の前の男を見つめたが、相手は素知らぬ素振りでニヤニヤ笑っているばかりだった。。そのとき、石段をあがってくる足音がして、生垣越しに少女の声が飛んできた。美和はあわてて生垣に背中を押し付けて、自分の姿が見つからないように祈った。
 「あっ、どうしてこんなところにいるの」女の子の声がする。
 「たまたま通りかかっただけだよ。シオちゃんこそなにしてるのさ」男が答える。
 「シオ、余計なこと言うんじゃないよ」と上から鋭い声が飛んだ。
 「犯罪捜査って言っちゃだめだって」
 「馬鹿、言ってるじゃないか」
 「そう。じゃ、僕は何も聞かなかったことにして早々に退散しよう」
 そう言うと、男は軽快な足取りでその場を立ち去ったが、振り返りざまに振った手が、唯島姉妹に向けられているように見えて、実は自分に対してのものだと美和にはわかった。
 彼女はしばらくそのままじっと気配を殺していた。生垣の向こうも、最初はアイスの包み紙を破りとる音以外は何も聞こえなかったが、やがて急にあわただしくなり、「シオは家に走ってシズカに連絡して、わたしはあいつのあとを追うから」と声がした。
 二人が急ぎ足で石段を下りたあとしばらく待ってから、美和も起き上がって彼女たちのあとを追った。姉の方がその少し先を行く薄緑の作業衣を着た男を尾行している。さすがに中学生の少女が自分を尾けているとは思わないのだろう。男の後ろ姿に警戒心のようなものは見当たらない。美和も、だいぶ距離をおいてから、その二人のあとを追いはじめた。
 遠目でも、男がでっぷり肥っていて、頭のてっぺんが見事に禿げあがっているのは見て取れた。片手に黒のカバンを提げている。美和はその頭を見失わないように、また少女の後姿も視界から外れないように注意した。男は急ぎ足で道路を渡り、やがて低層集合住宅の前で営業している小さなスーパーに入っていった。つづいて少女も店の中に入ったので、美和は踏み込むべきかどうかためらった。しかし、ここで二人を見失っては元も子もない。美和は不安だったが、自分も中に入ることにした。男はしばらく店内をうろつくと、結局ビールを手に持ってレジに向かった。二人のあとについて外に出たとき、美和はほっとした。人のそれほど多くない店内で、いつ見つかるかとひやひやしていたからだ。
 しかし安心したせいか、急に強い尿意を感じた。男はがにまたでのんびり歩いていく。少女もずいぶん距離をとっていたが、急にサイドカーのついた大型のバイクが走ってきて少女の隣にとまった。それにまたがった男が大柄な体を斜めにかしげて何かを話しかけている。ヘルメットとサングラスのために顔はわからなかったが、二の腕だけでも普通の太腿くらいありそうな立派な体格だった。少女とのとりあわせは奇妙にも見えたが、バイクの男は片手をあげるとすぐに走り去った。つづいて少女も急に走り出したので美和は驚いた。気づけば追いかけていた中年男の姿がない。バイクに気を取られているあいだに見失ったのだった。美和も必死になって追いかけ、数十メートル走ったが、いい加減疲れていたので足が思うように動かない。それに、尿意がもう限界に近づいていた。美和はあきらめて立ち止まった。息がすっかりあがっていた。
 近くにあったコンビニエンスストアに飛び込んで、トイレを貸してください、と言うと、レジにいた女は黙って店の奥の方を顎で指してみせた。美和はトイレで一息つき、むしろ尾行が失敗におわったことにほっとした。ようやくこれで家に帰れる。もう十二時をまわり、すっかりお腹がすいていることに気がついた。
 ところが、トイレの扉をあけかけて美和は凍りついた。店内を例の中年男が携帯電話で話しながら歩いていたからだ。
 「こっちは夜勤明けなんだよ。どうしても今そっちに行かなくちゃいけないのか」。傍若無人の大声に、レジの店員も不機嫌な目を向けている。男はタバコを二箱買うあいだも電話を切ろうとはしなかった。
 「わかった、わかった。じゃあ例のうどん屋でいいんだな。なんだっけ。麺処雪の華か。今行くから」。彼は金を払って出ていった。
 美和はしばらくトイレのなかで息をひそめていた。きっかり三分間待ってレジまで行くと、女が、今度はなんだ、という顔でこちらを見る。
 「すみません。麺処雪の華ってお店はどこにあるんですか?」
 女は肩まである長い髪を両手でゆっくりとしごいた。金髪に染めた上、ところどころに赤や緑の交じった髪だった。女は大きくため息をつくとぶっきらぼうに言った。
 「みちのくワクワクタウンのレストラン街にあるよ」
 「そのワクワクタウンってどこですか」
 「ここを出て最初の交差点を左」
 「ありがとうございます」美和は礼を言って飛び出しかけたが、思いついてチーズ蒸しパンを一個買った。歩きながら食べようと思ったのだ。
 言われた通りに行くと、七割方車で埋まった駐車場に突き当たった。その隣にパチンコ店、ドラッグストア、衣料品店などが並んでいる。中央は広場になっていて、ゴーカートやメリーゴーラウンドなどがあった。土曜日なので、みんな家族連れでショッピングや食事に来ているのだろう。広場はこの町で初めて見る人波でにぎわっていた。
 美和は赤煉瓦の階段を上って高みから麺処雪の華を探した。それはタウンの一番端に、たこ焼き店とラーメン店に挟まれてあった。
 しかし美和はその店に向かう途中で立ち止まった。広場にあるベンチのひとつに例の男が腰かけていたからだ。また携帯電話で何かを話している。話すうちにだんだん興奮してきたのか、カバンとスーパーの袋をおいたまま立ち上がり、目の前の噴水に近づきながら空いている片手をしきりに上下させている。何か激しく口論しているようだ。その様子を見ていた美和は思わず叫び声をあげた。人のあいだから現れた少女が、男が気がついていないのをいいことに、背後に忍び寄って、ベンチの上のカバンを開けようとしていたからだ。しかし男はそれに気づくと、あわてて携帯を閉じ、一声叫んで少女にとびかかった。襟首をつかまえられた少女は必死でもがくが、男の太い腕はがっしりと彼女を羽交い締めにしている。美和は駆けていって、とっさに体ごと男の背中にぶつかった。男がバランスを失ってよろけるのがわかる。少女は身をねじって男の腕から抜け出すと、向き直って両手で男を一突きした。男は盛大な水しぶきをあげて噴水の池に倒れ込む。少女は広場を斜めによぎって駆けていき、道路に停まっていた先程のバイクのサイドカーに飛び乗った。すかさずバイクは動きだす。美和もまた必死で一番人の多そうなドラッグストアの中へ駆けこんでいた。女子トイレに駆けこんで個室の鍵をかけても胸の動悸はおさまらなかった。気がつけば何か柔らかいものをしっかり握りしめている。すっかり変形してしまった、袋に入ったままの蒸しパンだった。
 そのまま三十分ほどほとぼりを冷ましたあと、美和はできる限り急いでそのショッピングモールから離れた。広場の一角はバス停になっていたが、そこは避けて駅まで歩いていってバスに乗った。
 祖父の家に着くと、門の前に車が一台と白く塗った自転車が停めてあるのが目についた。脇を通り過ぎるとき、その自転車が交番のものだと気づく。まさか今日の出来事がもう警察に伝わっているのだろうか。美和はおそるおそる玄関の戸をあけた。
 中から祖父と千秋の二人が顔を出す。美和に聞きたいことがあるって、警察の人が来てるんだ、と千秋が待ちわびたように言った。そのすぐ後ろから、制服の警官とスーツ姿の三十代の男が現れた。別段、怒ったような顔はしていないので、美和は少し安心する。
 スーツ姿の方が前に出て優しげな笑みを浮かべた。
 「実は、昨日君が届けてくれた携帯電話ね。持ち主がわかったんだ。ちょうど君と同じくらいの女の子だったよ」
 「そうですか」
 そう言いながら、美和はなぜか背筋に寒気が走るのを覚えた。
 「ただその子は今、行方不明なんだ。捜索願が出ている。もう一度あれをひろった場所に行って状況を説明してくれないかな」
 美和はうなずきながら、やはり悪い予感が当たったのだと唇を噛みしめていいた。

 歩くにつれて木々のあいだから、白くきらめく水の流れが見えた。同時に、岩をわたる水音が聞こえてくる。颯太が興奮して、川だ、川だ、早く行こう、と連呼した。生まれてはじめての川でのスイミングに、千秋の胸もいつしか高鳴っていた。
 警官たちを、携帯の落ちていた場所に案内して戻ってきた美和に、昔から子供たちが水遊びを楽しむ場所があると祖父が言い出したのは昨日の夕食の席だった。役場の隣に町営のプールもあるがいかにも味気ないし、川ならばウグイもカニもいると聞いて、まず颯太が乗り気になった。
 「ねえ、あれ、一昨日通ったところの近くじゃない」美和が聞く。
 千秋もそうだと気がついていた。祖父の家からは北に二十分ほど歩く距離だった。那珂川に注ぐ神流川の中流に、川幅が比較的広く、流れもゆるやかな箇所があるという。
 樹木が切れて、ますます水音が強くなった。道路から川岸まで砂利を敷いた小道が延びている。川面にはすでに先客の子供たちがいて、白い水しぶきと一緒に歓声を撒き散らしていた。
 千秋はさっそく駆け出そうとした美和と颯太の手をつかんで引き止めた。
 「待てよ。ここはやめだ」
 「え、どうして」
 「ほら、あそこを見てみろよ」
 千秋は川べりの一角を指差した。水着姿の二人の少女が水際に立って川の様子を眺めている。その後ろ姿に見覚えがあった。
 「あれ、このまえ会った女の子たちじゃない」美和は叫んだ。
 「またあの連中だよ」千秋は吐き捨てるように言う。
 「どうするの」
 「他へ行こう。泳げるのはここだけじゃない」
 颯太の抗議の声を無視して、千秋は方向を変えた。五分も川沿いの道を行くと、すぐに川が大きく蛇行して暗緑色の淵になっているところがあった。岩肌から直接水が噴きだして小さな滝になり、きれいな弧を描きながら水面に落ちている。
 千秋はしばらく岸辺に立って辺りを見回した。ここなら颯太向けの浅瀬も、泳ぐための深い淵もある。彼は手を貸して美和と颯太を畔(ほとり)まで降ろすと、自分もシャツを脱いだ。水着は家を出るときに身につけている。一足、膝まで踏み込むと水の冷たさが肌を刺した。
 しばらくじっとこらえ、慣れた頃にそのまま踏み込んでいく。海とは異なって、水はどこまでも透明で濁りがない。そのまま意を決して頭を水に沈めると、直射日光を受けて、水底で光の網目がゆらゆらと揺れているのが見えた。石陰から針のような魚が顔を出し、すっと目にも止まらぬ動きで滑っていく。千秋は水しぶきをあげながら頭を水面に出して笑った。「美和、きちんと颯太見とけよ」と叫ぶ。二人もおっかなびっくり流れに足をひたしたところだった。
 十五分も泳ぐと、この場所で気をつけるべきこともわかってきた。中央は流れが速いし、北側の岸には尖った岩が並んでいる。しかし南側の流れは穏やかで、白いすべすべした石の上をレースのようになった水が流れていた。泳ぎ疲れた千秋は、川の中央につきだした平べったい大きな岩の上に横になった。日差しが天から矢のように落ちてくる。睫毛についた滴がきらめく。
 ふと、淵の暗い深みに沈んでいるものが気になった。水中眼鏡を使って覗いてみると、どうやら自動車の残骸のようだ。いつごろのものなのか、ガラスは割れ、塗装も剥げ落ちて、すっかり皮膚も肉も失った骸骨めいた姿になっている。千秋は頭上の山壁を這うように走っている道路を見上げた。ガードレールもないか細い道で、ハンドル捌きをひとつ間違えば、たちまち川筋にまっさかさまだろう。犠牲になった者がいたのだろうか。不意に背筋を軽い悪寒が走りぬけた。
 けれど千秋は不意に自分の手でそのスクラップに触れてみたくなった。水のなかの廃自動車。何かわくわくする。千秋は水中眼鏡をはめなおすと、再び水面に身を躍らせた。流れに逆らって車のある一番奥の淵まで泳いでいく。思い切り息を吸い込んで水中にもぐる。水底までは二メートルもなかったので、一度で車の屋根の縁をつかむことができた。ガラスのない窓から覗き込むと、中から小魚が群れになって飛び出してきた。灰色のセダンは、鼻先を川底の砂利につっこむようにして斜めに沈んでいた。前のドアパネルが翼のように両側に開いている。
 千秋は一度水面にあがり、大きく息を継いでまた身を沈めた。後ろのトランクが半開きになっているのが目についた。隙間から、人の指のように見える白く細長いものが覗いている。好奇心にかられて、千秋はそこに手をかけて思い切り持ち上げた。
 次の瞬間、千秋は驚愕のために、肺のなかの空気を思い切り吐き出してむせた。心臓が大きくひとつ打つ。口腔に冷たい水が流れ込んでくる。
 トランクの中にいたのは、青白い蝋のような肌をした十二歳くらいの少女の死体だった。ふわりと扇のように広がった髪の毛が流れになぶられて頬のまわりで揺れている。薄く開いた唇から小さな泡とともに黒っぽい血の筋が立ちのぼった。少女はまばたきもしない。肉食の魚にでもつつかれたのか、片側の頬に穴が空いて、顎の付け根の白い骨が覗いていた。 あわてて千秋が水面に上昇すると、少女もあとを追うように浮かび上がってきた。千秋の裸の脛を、少女の指先が掴むのをはっきりと感じた。それを振り払うようにして岸辺までたどりつき、岩の上によじのぼってうつぶせになった。先ほどから美和が甲高い叫び声をあげ続けているのに気づいたのは、大量に飲んでしまった水を吐き出して、ようやく正常に息ができるようになってからだった。心臓が早鐘のように鳴っていた。美和の叫び声を聞いて、何人もの子供たちが下流の方から様子を見に来ていた。しかし、彼らは美和の方ではなく、何か困惑したような表情で一様に淵の中央を眺めていた。深い緑色の淵の水面では、先ほどの少女の死体が仰向けになってゆっくりと渦を描いていた。



※今回で、「黒揚羽の夏」の連載は終了いたします。
 ご愛読いただき、ありがとうございました。

 続きは、7月7日発売の『黒揚羽の夏』(ポプラ文庫ピュアフル)にてお楽しみください。

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