家に入った夜、ノラコはひと晩中うろついていた、六畳と四畳半がつながっている狭い部屋だ。散々泣き叫びかすれてしまった声で、ニャアオーニャオーとさらに鳴きつのる。本の山を崩しては、ドサッ、机から何かを落としてはカラン、紙を破いてはガサガサビリビリと、賑やかなこと。あーあ、これから静かな生活はなくなるんだ。
ちなみに紙をちぎるのはネコのお得意芸らしい。先日確定申告に行く際に、そうだ去年渡された書類になにやら番号が記入してあり、来年持ってきてくださいね、申告に便利ですよ、と言われた、どこだっけ。あらっ、このビリビリの封筒はー、封筒の周囲がぎざぎざになっている。けれども、ノラコはえらい! 番号欄のところは生き残っている、よかった。
税務署の係員に「ネコがー」を言ったら、何てことするんでしょう、困りものですね、と笑われたので、いささかむっとして、でもこのネコでエッセイ書いて、その税金の申告です、と言い返してしまった。私もネコバカ。
ノラ猫を家に入れても外に出たがり、なかなか家にいつかない、と散々言われていた。入れるなら一歳になる前よ、と。ノラコは家に入る時点で一歳と半年、どうだろう。
「ノラで育っていないウチのネコたちだってスキがあると脱走したがって」
と、田畑あや子がいくつもの例を話してくれる。田畑だけではない、売場のネコ博士たちも異口同音に言う。『迷い猫あずかってます』(金井美恵子 新潮文庫・品切れ)でも、飼いネコのトラーが外でいかに伸び伸びと遊んでいるかが描かれている。ネコはウチとソトを使い分けるのが幸せなんだろうな。
だが私の勤務は不規則、休みは週に二日、その休みも老母の面倒を見なければならない。隔週でサッカーも観にいっている。いままで家に入れなかったのは、母の反対もあったけれど、入れても可哀想、と思ったからだ。いつも家にいて、なおかつ気にかけてくれる人がいなければ、ネコも安心して外に出られないだろう。
だが、案ずるより産むがやすしとはいったもので、ノラコは外に出たがらないネコであった。窓を開けても外に出ようとしない、ぼうっと見ているだけ。アコーディオンカーテンは開けるのに、ベランダの網戸は開けない。よっぽど外がこわかったんだ。
おトイレのしつけが大変、とも言われた。だが母ネコと三ヵ月以上一緒に暮らした子ネコは社会性がきちんと身についているそうで、ノラコは来てすぐ大小一回ずつ失敗しただけで、あとは今のところパーフェクトにトイレを使う。
朝、私を起こすのは自分の役目だと思っている。まずトイレの紙砂をシャカシャカと掘る音、トイレ皿の内側をカリカリをこする音、しばらく続いた後、ニャオーと一声高く叫ぶ。「掃除しろ」といっている、「ノラちゃんまだですよ」とむにゃむにゃ言う、まだ本格的には目覚めない。
タオルケットや布団から飛び出している私の手や足を爪で引っかく。イテッ、ほらほらノラちゃん、いたいでしょう。徐々に目が覚める。
来てひと月ぐらいたった頃だろうか、ベッドの枕元にあるコップの水を飲もうとして顔が入らない、飲めない、手を突っ込んでピチャピチャすくう音がする。ついでに私の顔に水を引っ掛けて、もっとついでにコップまで落として、顔に命中、ツメタイ、イタイヨー。ノラコ、ドタッとベッドから飛び降りた。翌日、ふたのついたコップを買いました。
最近は枕元にまず飛び乗る、大きいうえにデブなので(家に入ってからもう一回り大きくなりました)、ドサドサと音が大きい。うっすら目を開けるとお尻の穴が目の前に、完璧に目が覚める。この時、たいてい六時三十分。
ノラコ、ベッドの上から机にジャンプ、机の上の文房具をひとつひとつ落とす。ボールペン、クリップ、名刺、小さなガラス細工、消しゴム、メジャー、メモ用紙。モノに応じた音がする。私も片付ければいいのに、しまうとノラコがもっと危険な何かをしそうで、いつも拾っては元に戻す。敷物の下に獲物を隠す癖があるので、下を探ってはひとつひとつ机の上に戻す。
私が起き上がると、一緒に遊ぼうと待っている。部屋に閉じ込めているので運動にもなると思い必ず付き合う。お気に入りは小さなネズミ(体長五センチほど)が先についた釣り竿状の遊具、ネズミクンと私は呼んでいる。かなり古典的なネコ用おもちゃだが、古典は長く愛されているから古典なので、まさしくこれは古典。
しかしネコの動きはなんと美しいのだろうか。まだノラコが外にいた頃、蝶々を獲ろうとして飛び上がった姿に一瞬で魅せられた。身体を少しひねりながら、頭と尻尾でバランスをとり、まっすぐ上にジャンプ、両手を高々と空へ、足は片方を少し曲げ、片方をまっすぐに。助走なしに一メートルぐらいはやすやすと飛び上がる。
狭い部屋の中でもノラコはそれなりのパフォーマンスをする。ネズミクンを視界におさめ、頭を下げ、お尻を上げ、尻尾を斜め上の方向でまわす。それ行くぞ。私も準備、飛び掛かる寸前にネズミクンを反転、ノラコは追いかける。ジャンプ、空中横転、でんぐりがえし、と体操選手レベルのバランスのよさを発揮する。ノラちゃんすごい! とほめると余計に張り切り激しく躍動する。そうだ、写真を、とカメラを取り出すのだが、なにせ左手はネズミクン、右手にカメラでは思うように任せない。シャッターを押すカチャという間にレンズの前は背景だけ。流行のデジカメはもっとシャッタースピードが遅いしかも片手ではうまく操作できない。
そして洋服。クローゼットを開けると、猛然と突っ込んでくる。仕方がない、コート類は全部部屋の外。着そうな服を何種類か選んで、その辺の引き出しにしまう、この際いらないものは捨てましょう。ここなら首を突っ込まれても、中に入り込まれることはない。引き出しに入らない服は袋に入れてカーテンレールに引っ掛ける。
ノラコはベッドの下の引き出しを寝場所にした。オイルヒーターの前でも、猫用コタツの上でも寝ない。仕方がない、収めた下着・洋服類は着る前にコロコロで毛を取ってから着用。先日は私が気に入っていたセーターの前身ごろ、首の周辺がモヘア状態になっていた。セーターで爪をといだな、おまえ。今、袖や後ろ身ごろも爪とぎ器に貢ごうか迷っている。素敵なモヘアにチェンジですよ!
掃除の嫌いな私がマメにするようになった。掃除をしないと部屋中に毛が、毛が、毛が。トイレの紙砂が散らばる。ただし掃除機をかけると、ノラコが正気を失うので(絶叫したあとにお漏らしをした)、すべてコロコロ使用。
冬になってオイルヒーターをつけると、そのスイッチのうえで足踏みをする。だから私が外出するときはコンセントを抜く。これは私には被害を及ばさないが、当のノラコが寒いだろう。CDラジカセもひもでしばった、こうすれば乗られても開きっぱなしにならない。
そして何よりの被害が、パソコン。ある日立ち上げようとしたらつかない、案の定コードが抜かれていた。コンセントの前に広辞苑と大活字辞書を置いてブロックをした。ある日はスイッチは入るのだがそのあと動かない。本体の後ろのジャックが抜けていた。本体をぐっと壁側にずらし、ノラコが入る余地をなくした。プリンターは人けのない部屋で時々点灯している、ミステリーが書けるだろうか。
なによりパソコンを打つのに難儀をする。まず右下からニョキっとネコの手が出る、袖を引っ張る、ニーニーと鳴く。知らん顔をすると、左に回り、机の上にジャンプ。腕でガードをするのだが、キーボードにましっぐら。おーおー、画面が。だから今では机に乗ったらすぐにかかえ、ひざに乗せる。ひざは不安定なので左手で確保しながら、右手一本で打つ、今も打っている。不自然な姿勢なので腰が痛い。ひざの上が飽きると、ボールペンやらなにやらを落とす作業にはいる、好きにしなさい、ノラコさん。
田畑あや子の以前の小さくて古い借家は、柱がネコの爪とぎ木になり、半分に減っていたそうだ。話半分に聞いても恐ろしい。十年近くも二匹のネコと一緒に住んでいたら、避けられない事態なのだろうか。
「死ぬまでここに住もう、って思ってたわ」
多分田畑の寿命よりも先に地震が来て、どの家よりも先に倒壊するだろう。あー、こわい。だが、家主の都合で取り壊し、立ち退きになった、よかったね。
佐藤こずえの家も二階に上がる階段の壁すそにダンボールが一面に貼られている。
ノラコはどうだろう、かなり心配した。母がうるさいだろうな。先年亡くなられた作家・米原万理さんは家を新築するにあたってネコ用の爪とぎ柱を設置した、と本に書いていた。
今のところは爪とぎダンボールがお気に入りで、いつもシャキシャキといでいる。だが、ドアがやばい、つい最近、木の感触に目覚めたようで、時々背伸びしては気持ちよさそうに爪を立てる。すぐそばにある柱はなんとか災難を免れている。だが気が向くときが来るかもしれない、この柱、素敵! 爪とぎにぴったり。あー、ぞっとする。
ノラコがきてから暮らし方が大きく変わった。来る前は家の主人は老母で、私はおつかえする従僕であった。いまや二階と一階にご主人様がわかれていて、私の脳は引き裂かれる。
休日は家事をこなすと、さっさと二階へ、母は下でひとり居眠り。早番の日の帰りは、玄関のドアをそっと開けて、二階へこそこそと上がる。ノラちゃん、元気だった? まずごはんをあげて、それからネズミクンを振り回す。ノラコ狂乱して飛び回る、時にしらっとして座り込む、そういう時はとりあえず体中を撫で回す。などなどひととおりしてから下に降りて「お母さん、ただいま」。遅番の日は、眠っている母を横目で見て二階に上がり、すいたお腹を抱えながら、まずノラコにごはん。
母もきっと不満だろう、なんとかノラコと仲良く暮らしてもらいたい、と思う。この間もノラコを抱いて下に降り、母に見せたら、ノラコがもがいて逃げた。
「なんてかわいくない」
などと老ご主人様はおっしゃる。そういわないで、とある日、二階へよっこらよっこらと押しあげたら、若ご主人様はさっとベッドの下に隠れた。なんてかわいくない、とまたご老体はおおせです。
そんなこんなの日々が続く毎日、ノラコは私の大切な相棒になりました。思い起こせば我が家の庭に姉妹で現れたちいちゃな子ネコたち、片方はいなくなってしまったが、残った片方は体重六キロ(いささか肥満気味、だから食事には気をつけます。頭とはらわたをとった煮干数匹とローカロリー食を一日カップ三分の二ぐらい、いつも残します、なのに一向にやせません)、首の付け根から尾の付け根まで三十五センチ、下腹の腹囲五十センチ(ぎゅっと計るとするすると数値が落ちます、そのくらいダボダボな下腹です)、人間の体型なら洋梨型のメタボちゃん、小さい顔(特徴といえばアーモンド形のつりあがった目かもしれない)で、尻尾の短い、二〇〇九年春で二歳になった三毛ネコです。





