『インディ・ジョーンズ
クリスタル・スカルの王国』 |

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佐藤弘 |
子供の頃からインディ・ジョーンズを何度繰り返し観たか分からない。映画の中でもインディ・ジョーンズ演じるハリソン・フォードは「八十歳?」と突っ込まれているが、そんな笑いが通用するのは、誰もが知っているあの曲と同じように色褪せないインディがいつも通りに活躍するからで、そんなありきたりな宣伝文句をつい書いてしまいたくなるほどにとても面白かった。ようするに、スター・ウォーズの続編や近未来SF映画の多くがそうであるような、うんざりする技術を披露するだけの杜撰なCGの多様がなくて(個人的にはそういうのも馬鹿馬鹿しくて好きだが)、スピルバーグはCGの使い方が本当に上手だと思う。そもそもSF映画ではないので比較するのもどうかとは思うが、十九年振りの続編にも関わらず、好ましくない意味での技術的な飛躍は感じられなかった。
内容もこれまでのシリーズ3作の集大成といった感じだ。敵対する軍はナチスから冷戦時代のソ連へと変わってしまったが、崖付近での攻防や地下洞窟の探険など、以前にも見たことあるものばかりで、スピルバーグに「これが見たかったんだろ?」と言われてでもいるかのようだった。インディは必ず乗り物の上で格闘しなければいけないし、昆虫や小動物に襲われなくてはならない。さらにこれこそお決まりである、インディの唯一苦手とする蛇もちゃんと今作にも登場した。
だが、もっとも大事なお決まりシーンはインディが素手で敵と殴り合うことだろう。スピルバーグは決してワイヤーアクションを使わずに、思い切り振りかぶって子供同士の喧嘩のような泥臭い殴り合いをさせる。そんな大振りが当たるかよ、っていうぐらいのパンチなのに、相手もインディも決して避けずに顔面に受け、ふらふらになりながらも続ける。もっとも原初的なアクションをひたすら続けさせるのだが、やはり演出が上手いからか笑いを誘いつつもなかなかに見ごたえがあるのだし、考古学者のインディが古代の謎を暴くのと同様、そのシーンでスピルバーグが原点回帰の重要さを説いているようでならない。
インディ・ジョーンズの映画とはつまり、スピルバーグの中でもお約束として存在している。しかし、インディは十九年振りであるために、スピルバーグにとっても少し気恥ずかしいものがあったのかもしれないと思ったのは、冒頭のシーンにそれらの想いが、スピルバーグのいつものアメリカ(の歴史)批判と複雑にからまり非常にアイロニカルに表現されているのが見られたからだ。
時代設定は冷戦下の1957年だ。ハイウェイを大学生くらいの何も悩みが無さそうな若い男女四人が車でぶっ飛ばしている。途中で軍の列と遭遇するが、はしゃぐ彼らは気安く兵士に声をかける。そして若者たちはそのまま陽気にハイウェイを走り抜けていくが、軍隊の列は横道へと反れていく。そこには米軍の基地だ。基地には倉庫があり、そこに眠る遺跡をインディが発掘することによって物語が進んでいく、なんていうシーンはあまりにも分かり易しすぎるじゃないか。けれど、スピルバーグはそうせざるを得なかった。前作から十九年の間、(「太陽の帝国」はその前だけれど)「シンドラーのリスト」「アミスタッド」「プライベート・ライアン」「ミュンヘン」と戦争の悲劇とアメリカの責任問題に真っ向から向き合い続けたスピルバーグが、ソ連が崩壊して冷戦が終わったとしてもそれを安易にただの時代設定としてだけ片付けられるわけがない。つまり、インディ・ジョーンズをハイウェイから反れた横道の物語とすることによって、インディは自由に活躍ができたわけだ。だからインディはスピルバーグの中でも現実とは無縁の永遠のヒーローとして存在しているのではないか。もちろん、これらはアクション映画としての面白さとはあまり関係ないばかりか邪魔でさえあるかもしれないのだが、ではラストシーンがなぜああでなければならないのか、インディの代名詞とされる、お決まりのあの中折れ帽子を被っていいのはやはりインディだけなのか、この冒険は受け継がれるべきではなく、インディで終わりなのか、という疑問は、スピルバーグが観ている観客に「お前らはこんなことやっている場合じゃない」とでも言っているようだった。
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佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。 |
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