【Story】
2005年に急逝した女優・林由美香の全記録をまとめた書籍『女優 林由美香』によって、謎の韓国産ビデオ作品が発見された。作品名は『東京の人妻 純子』。林由美香の生前にきちんと仕事をする機会を得られなかったドキュメンタリー監督・松江哲明はこの作品に惹かれ、その謎を追うべく取材を開始する…。


『あんにょん由美香』=(c)2009『あんにょん由美香』フィルムパートナーズ
【キャスト&スタッフ】
演出・構成:松江哲明
出演:林由美香、ユ・ジンソン、入江浩治、カンパニー松尾ほか
2005年に急逝した女優・林由美香の全記録をまとめた書籍『女優 林由美香』によって、謎の韓国産ビデオ作品が発見された。作品名は『東京の人妻 純子』。林由美香の生前にきちんと仕事をする機会を得られなかったドキュメンタリー監督・松江哲明はこの作品に惹かれ、その謎を追うべく取材を開始する…。

秘密を暴く楽しさなどではもちろんない。むしろ一度全てをさらけ出し、さらにプライベートまでも知っている人物を、何度も赤裸々に語ろうとしても語りつくせないAV女優の林由美香とは一体何者なんだろう。松江監督からだけではない、様々な男性から生前、死後を問わずドキュメンタリーや書籍といった形でアプローチされている。つまり、それほど魅力的な女性なわけだが、残念ながら僕は林由美香という女性を「あんにょん由美香」で初めて知った。
一度全てをさらけ出す、と書いたが、当然アダルトビデオの性描写はフィクションに決まっている。けれど、男が見たくて妄想するのはやはり女性の裸であるし、性的なものだから、おそらく、もっとも魅力的で下世話なのが「自分の好きなAV女優とカメラなしのプライベートでセックスする」という形なわけで「いやあ、普通の時はあんな声出さないですぜ」とかそういった類の話で納得できればいいのだけれど、僕はAV業界に詳しいわけでは全然ないのですが、今のAV業界ってそんな単純にできていないということぐらいは知っている。普通のゴシップであれば、女優やタレントの最終的な興味は性的なものにつきるけれど、AV女優の場合、嘘でもなんでも先にそれを知ってしまっているわけだから、個人への興味の対象はねじれ曲がって存在する。つまり、もっと根源的なものになるのではないだろうか。リアルな生々しさとフィクションの幻想という単純なものに分断できないというのは、別にAV女優に限ったことではないけれど、分断できない二つの全てが、AV女優のからみのシーンに凝縮されているというのは間違いないだろう。演技で泣く涙と本当に泣いている涙の成分が違うと聞いたことがあるが、セックスの場合、それは当てはまらないだろうからだ。実際に濡れるわけだし、実際に勃つ。それが演技でないのは、誰しもが体験して分かっている(という現実さえ、しかしプロにとっては現実ではないだろう)。僕らはそこにいつまでも翻弄されてしまうのだし、いつまでも騙される。性欲というもの以外に確かなものなんてそこには存在しないかのようだ。自慰行為後にぼーっとしてしまった時のあの虚しさのように、全ては無意味に空回りする。
随分前に、島田紳助さんがテレビで「俺はことが終わったら顔射(分かっているだろうが精子を女性の顔にかける行為)しなきゃいけないのだと思ってた。日本の男なんてそんなもん。性的なものは全部AVから学んでいる」といったような話を話していた。これは、あながち間違いではない。僕自身、この言葉をまだ十代の童貞時代に聞き、「あっ、そうなの?」と思った記憶があるからだ。AVというものが男の妄想を実現する場、つまり「こんなウブそうな女の子がこんなすごいことを」とか「真面目そうなあんな子がこんな破廉恥な行為を」といった色々な妄想を増幅させたり、現実を覆したりする場としてあるのならば、AV女優という職業の女性に男たちは最初から全てを許されていることになるだろう。映画内で「(林由美香さんは)仕事を選ばないという面もあった」という発言があった。どんな役も演じたし、どんな要望にも応えた。主役を演じながら脇役も演じる。これはちょっと、ものすごいことだと思う。テレビのこちら側の僕らができることは、その数々の役の中に共通するある一面を見出すぐらいだろうが、「あんにょん由美香」の松江監督や林由美香を語ろうとする多くの人物はテレビの向こう側の人たちだ。つまり、女優のプライベートを知っている人たちだ。だから、関係者から話を聞きながら人物像を浮き彫りにしていくようなゴシップものと、この映画は根本的に異なっている。
「あんにょん由美香」が撮られるきっかけは、二百本以上の出演作の中から一番酷い出来の韓国産ピンク映画「東京の人妻 純子」が発見され、どうして林由美香はこんな作品に出ようと思ったのだろうという疑問からだった。監督は取材をしながら意味を追い続けるが、当事者たちによる証言によって、もっともらしい作られた意味はことごとく破壊されていく。「なんだよお、それ」と笑いながら嘆く監督の声に、僕は大笑いしてしまったが、けれど、意味が失われる過程こそがこの映画の存在意義なのではないか。全てを受け入れる包容力と、汲んでも汲んでも底の見えない魅力を一人の女優に見出した時、辿り着くのはおそらく諦めにも似た「なにもなさ」と、それに耐えられる強さだとするならば、そこに意味なんてものは最初から失われているだろう。虚実の狭間に生きる過酷さを、ふっと彼女の表情に見つけたような感覚に陥るが、その影が彼女の本質なんかではないと信じたい。なぜなら、これだけ男に愛される女性の魅力はきっと、弱さではなく強さだろうからだ。

作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。