これは少女たちの映画だ。そして中国の映画だ。ジーンズの映画か、というと、それはどうだろう。
ジーンズはとてもなじみがある服ということもあり、デニム生地が主張するチラシからも、この映画を観るのを私はとても楽しみにしていた。しかし、スクリーンの中でのジーンズの存在感は、思いのほか薄かった。
『女工哀歌』の語り手である16歳の少女、ジャスミンがいつも穿いているジーンズはいきいきと目に映る。人が身につけてこそ、服は生きる。それはあたりまえのことだけれど、ハンガーに吊るされているところを眺めるだけでもこちらの胸をときめかせてくれる服というものも、もちろん少なくない。私は、そういう服こそがいい服だと思っている。
ジャスミンが働く工場では一日3000本のジーンズが作られている。周辺には同じような工場が何十もあるらしい。ファスナーを付けるのも、アイロンをかけるのも、仕上げに縫い糸の端をはさみで切り取るのも、ほとんどはジャスミンのような10代の女工が受け持つ仕事だ。全ての行程において人の手が関わっている様子が、ちゃんと画面に映し出されているにも拘らず、その作業風景からは「手作り」なんていうあたたかみのある言葉は浮かんでこない。
時給7円で、お正月以外には休日のない、先の見えない糸切り仕事にひたすら従事するジャスミンの傍らには、いつも山と積まれたブルージーンズがある。観ているうちに、それがいつか誰かに着てもらうべき服であることをだんだん忘れていく。なにか青く染まった布切れの小山にしか見えなくなる。
出荷のデッドラインが迫る深夜には、梱包するのももどかしく、工場の横で待機しているトラックめがけて、窓から直にジーンズが投げ落とされる。
その場面を思い出すと「なにを作っているか」はジャスミンの生活にほとんど関係ないのではと、考えこんでしまう。作っているものがジーンズであってもなくても、ジャスミンのハードな日常はなにも変わりはしないように思える。彼女はその中で、日記をつけ、金魚を愛で、地元である四川よりも香辛料を使わない広東料理の味に物足りなさをおぼえるだろう。工場の経営者にとっても、よその国からの注文が途切れない品でさえあったなら、作るのはジーンズでなくてもかまわないのではないか。彼はこの映画のもうひとりの語り手であるが、その口から、ジーンズへの愛着などはついぞ聞かれない。あくまでも彼にとってのジーンズは、単なる商売の道具でしかない。そして女工たちひとりひとりの価値もそれに等しいと、彼は考えている。
ジャスミンは、眠る前の時間には日記をつける。空想物語を書き付ける日もある。彼女がノートに向かうその様子は何度も繰り返し映され、確実にこちらの心をなごませてくれる。「書くのはお菓子と一緒。とても幸せな気持ちになる」というジャスミンである。しかし、同室の友達と初めて夜の街へ出かけたジャスミンが屋台で買ったのは、甘いお菓子ではなく「死ぬほど苦い」薬草茶だった。それは徹夜仕事で疲れきった体に効くと、教わったのだった。
ラストでは、中国でドキュメンタリー映画を撮ることの難しさを知らされる。監督の前作、ウォルマートのドキュメンタリーも観なければいけないと思わせられる。