私はいつから絵を描くことが嫌いになったのだろう? 幼稚園の時、クレヨンや色鉛筆を握った私は先生の声も耳に入らないほど、画用紙に刻む色彩に夢中になっていた。小学校に上がり、写生大会で世田谷区から賞状をもらった。形として残る評価を手にした初めての経験だった。しかし中学生になって絵が「勉強」に変わった頃、私はどんどん絵を描くことから離れていった。高校生の時、美術の教師に「先生に私の絵はわからない」と言って、こっぴどく叱られた。自由に描かせてもらえない、通知表で評価されないことに苛立ち私は絵を描くことが嫌いになった。
『アキレスと亀』は北野武監督の最新作である。物語は売れない画家、倉持真知寿の少年期、青年期、中年期を描いていく。私は美術の知識などまったくない。外国に旅行した時には美術館に足を運ぶのだが、はっきり言ってよくわからない。教科書で見たことのある有名な作品には単純に感動するが、「この絵、百億なんですよ」と言われれば、子どもの落書きを見せられても感動するだろう。正解が存在しない芸術の世界の中で、評価というものはひどく曖昧である。どんなに素晴らしい作品を創っても人に認められなければ、ただの趣味であり自己満足だ。そうかと言って富と名声を得れば幸せになれるのだろうか? 映画の中ではそんな真知寿の苦悩が年月と共に積み重なっていく。私はそんな真知寿に共感しながら胸をしんしんと痛めた。どんなに頑張っても人に評価されない辛さ、もどかしさ。評価された人を羨む嫉妬心。そんなに苦しいなら、やめればいいのにやめることが出来ない。継続は力なり、確かに何かを続けることは大変だけど素晴らしいことだと思う。しかし私はたまに考える。やめる勇気がないのだと。それは私が一人ぼっちだから、そう考えるのかもしれない。決定的に私と真知寿の違うところだ。彼の場合はずっと傍らに幸子がいた。
私は真知寿を支え続ける幸子には同じ女性としてさらに自分を重ね合わせては頷いた。私はよく友達に言われる。「どうしてわざわざ駄目な男と一緒にいたがるの?」と。友達から、いや世間一般から言わせると夢を追う貧乏な男=駄目な男らしい。もちろん完璧だとは思わないけれど、高級ブランドのスーツを着て会社の愚痴を言う男よりはよっぽど良いと思う。本当はそういう人を好きになれたら、もっと楽でキラキラとした人生を過ごせたのかもしれない。でもやはり、私にはそれが無理なことを幸子を通じて改めて自覚した。映画の中で若かりし頃の幸子は言う。「私なら、彼の芸術、わかると思う」そしてその言葉を真知寿は素直に喜び信じる。芸術とは表現者と鑑賞者が互いに作用することで初めて成り立つと何かで読んだことがある。世間的には評価されなくとも二人の間では真知寿の作品は立派な芸術なのである。そして何よりもその気持ちが一過性のものではなく、真知寿を信じ、支え続けた幸子は本当に美しいと思った。従順なアシスタントでもあり、家計を支える大黒柱であり、気ままな真知寿の母親的存在でもある幸子。苦しい生活のはずなのに彼女に悲壮感はない。誰かを信じている、信じられている時間は幸福に満ち溢れているのだと思った。例えそれが誰にも理解されなくても、どんなに貧しい生活であろうとも。
今年の夏、そろそろちゃんと考えた方が良いのかななどと求人雑誌をめくっている私がいた。銭湯の帰り道に少しだけ夜空が滲んだ夜もあった。でも『アキレスと亀』に出会って試写会場から街に出た私の足取りは久しぶりに軽やかだった。自分はアキレスでも亀でもないけれど、もう少し走り続けてみようと。そして幸子みたいに大切な人を信じてみようと。