【Story】
駆け出しの映画監督である恋人・アキラ(加瀬亮)と一緒に上京してきたヒロコ(藤谷文子)。だが、なかなか期待通りの引越し先が見つからない上に、アルバイトもアキラだけが合格、夢にあふれる彼を横目に、ヒロコはだんだんと自分の居場所がないことを感じ始める…(「インテリア・デザイン」より )


【スタッフ&キャスト】
監督:ミシェル・ゴンドリー、
レオス・カラックス、ポン・ジュノ
出演:藤谷文子、加瀬亮、ドゥニ・ラヴァン、
ジャン=フランソワ・バルメ、
香川照之、蒼井優ほか
絶賛公開中
駆け出しの映画監督である恋人・アキラ(加瀬亮)と一緒に上京してきたヒロコ(藤谷文子)。だが、なかなか期待通りの引越し先が見つからない上に、アルバイトもアキラだけが合格、夢にあふれる彼を横目に、ヒロコはだんだんと自分の居場所がないことを感じ始める…(「インテリア・デザイン」より )

レオス・カラックスにポン・ジュノ、あまりに豪華な監督たちのオムニバスでしかも舞台が東京というので観にいかないわけがなく、実際に観に行ったらやっぱりすごくて、ずっと食い入るようにスクリーンを観ていた。三人の監督の内のもう一人のミシェル・ゴンドリーはPV界出身というだけで観ないで済ませていたが思い切り後悔した。ミシェル・ゴンドリーの作品もとてもよかった。短編だから緊張の途切れることもなくテンポよく進んでいく。つまり、僕は三作品とも身を乗り出して(前の席に人がいなかったから、というより案外空いていて驚いた)観ていたのだが、そうさせるだけの魅力が全ての映像にあったということだ。
映画館を出た時もまだ興奮していた。日本人のあらゆる表現者はこれを見たらショック受けるだろうなあと思いながら、だんだん冷静になっていくと、短編だから当たり前なのだが、別にこれといって難解な構成もなく、気持ちとしては上質なアクション映画でも見た爽快感にも似ている。だからようするに、ショックを受けたのは、これも当然かもしれないが、話の内容にではなく、画の力に驚かされたということだ。大通りから外れた、古い一軒家の並ぶ入り組んだ街中をぐるぐると男女が歩くのをずっと長回しで撮ったり、銀座の中央通りを緑色の服を着た奇怪な人物をひたすら歩かせたり、引きこもりの部屋の美術設定の緻密さと、その密室をいかに独創性のあるものとして撮っているかなど、挙げたらきりがない。きりがないし、意味もないのでこれ以上はやめるが、悔しいのはどうして僕らはこんな風にできなかったのかという思いだ。それはもちろん物語にも同様の感想を抱く。どうして日本にいる大勢の作家はこんな風に大胆なタッチで描こうとしなかったのか。いや、もちろん日本にも塚本監督や三池監督のような特異な人はいるが、きっと二人とも、特にレオス・カラックスの「メルド」を観たら悔しがっているだろう。それはおそらく「やられた!」というのではなく「ほら見たことか!」というものだと思う。つまりそれは、共感とジレンマからくるものだ。
前述したように、物語の複雑な構成はないが、設定の作り方が日本人による日本映画とは一線を画す。彼らの想像を超えてくるような大胆さに比べると、日本映画はなにか腫れ物にでも触るような臆病さの漂うものに思えてしまう。内面を描こうとする余りに袋小路に陥り、物語にも手法にも跳躍や志向性が全くなく、なんとなくこじゃれていたり気が利いていると思っているだろうジョークのあるシーンを散りばめさせただけの、ある一つの具体性に留まるだけで退屈な映画たちを一蹴する斬新なものが彼らの作品にはあった。もちろんそれらは他者の視線というものからくる功績が大きいに違いないが、その他者性からくる大雑把さだけで作品を仕上げたわけじゃないのが一目瞭然なのは、彼らが焦点を合わせているのが、日本人作家を臆病にさせているマイノリティな人たちだからだ。もっというならば、自己主張の強い、または発言権を許されたマイノリティとでもいうか、弱者だからこそ強者になる特権を与えられた人たちだ。その人たちはこの映画を見て、「こんなのは間違っている。こんなのは日本じゃない」などと言うかもしれない。けれど、「リアル」という言葉を借りてただ慰められていたり、その複雑な具体例を丹念に描くことに腐心した結果、現状維持に終わってしまっている作品がいかに強度を持っていないかを、「TOKYO!」を観て気付いたほうがいい。この三人の巨匠と言われる映画監督は、現状に留まるのではなく跳躍するためにこの企画に乗ったのだし、おそらく優れた作品というのは、それが暴力性によるものではなく今回のような鮮やかな手法でもって描かれたものに違いないからだ。そして、その飛び越え方が、ドキュメンタリーではなくフィクションであるからこそ、より高く飛べたというのは言うまでもないことだ。
