カンヌでグランプリを受賞した作品だが、賛否両論あったという。しかし、この映画を否定的にとらえた海外メディア、批評家の文章を読んでみたいと思った。お前らみたいな石の文化の奴らにこの映画が分かるか馬鹿野郎、という思いだからだ。
逆に、あまりにも安易な日本的美をスクリーンの中に見て賛同した人達も大間違いだ。いや、もしくはそれを戦略的と捉え、日本の田園風景や、樹齢何百年にもなろうとする神木をモチーフにして作られたこの作品が、あまりにあざとく安易だと捉えて批判している人もいたのかもしれない。この映画は「海外受けの良さそうな日本映画」というレッテルを貼られるだろう。でも、その偏ったまなざしは、物語の設定にとらわれすぎている。人物設定や物語だけしか見ていないから、この映画のテーマ性が見えてきていない。そして、誰にでも分かるあまりに普遍的なテーマだからこそ、陳腐に思われがちかもしれないが、その巨大なテーマをどうやって表現するかということにこそ目を向けなくては「殯の森」という映画は見えてこない。
確かに、認知症の男性とその介護をする子供を亡くしてしまった若い女性という二人が中心となり、二人が負っている心の傷とどう向き合うか、といった見方が間違っているわけではない。むしろ、それが当然のように物語の中心になっている。河瀬監督の過去の作品のほぼ全ては、監督自らの体験と密接に関係しているらしい。「殯の森」でも河瀬監督の育ての親が実際に認知症であり、自身にも子供が生まれたことがこの映画を撮ろうとしたきっかけのようだ。しかし、監督の実体験に裏付けされたその主要人物たちの背景は映画を見ている者にとっては必要ない。むしろ、邪魔である。なぜなら監督自身の原動力となったその二つの出来事は、創作のきっかけに過ぎず、すでに監督の中で消化済みのものであって、原動力が稼動して監督が探し当てたものはもっと別のところにあるからだ。
まず、驚くのがどのようにして河瀬監督は人物を撮影していったかということだ。登場人物の多くは役者経験のない素人だ。主要人物の認知症の男性、しげきを演じるのは、これまで河瀬監督の作品をボランティアでサポートしていた人で、全くの素人だ。彼らは「軽度の認知症を患った人たちが介護スタッフたちと共に共同生活を営む」という役を演じる。しかし、映画が始まって数分で、彼らは本当に演じているのだろうか、彼らは演じているのではなく実際にそうなのではないかと疑ってしまいたくなるほどに自然だ。主要人物以外にも台詞らしきものが与えられているのだが、彼らが演じるとそれが台詞に聞こえない。まるで、本番の撮影しているところに偶然通りかかった人が、映画だとは知らずに話しかけているようなのだ。もしくは、これはかなり嫌な見方ではあるが、ドキュメンタリーを撮っているところに、撮られている人達には内緒で最初から役者を入れておき、彼らにフィクションを演じさせることにより、その場の流れを操作しているかのようだ。
子供を亡くした若い女性真千子を演じる尾野真千子さんは、れっきとした女優で(しかし、彼女も素人時代に河瀬監督にスカウトされた経歴を持つ)、彼女はもちろん役を演じているのだが、周りと同化して演技をしていないように見える。その演技とそれを導いた演出は見事というしかない。
河瀬監督はずっとドキュメンタリーを主に撮っていた人で、私的ドキュメンタリーも数多くあるらしく、そんな荒業も出来てしまう人なので、ドキュメンタリータッチというのはお手の物かもしれない。しかし、例えば同じドキュメンタリー映画出身の是枝裕和監督と比べてみると(二人の監督は以前、共作したこともある)、その違いは歴然としている。是枝監督の「誰も知らない」を見た人にしか分からないが、YOUと柳楽優弥以外のまだ幼い子供達の、映画とは関係なくYOUと柳楽優弥とただ喋っているのを撮ったような、あの演技かどうか分からない演技を、「殯の森」では老人達がやっているのだ。そう考えるとものすごいことだと思う。是枝監督の作品はスタイリッシュに、映画的に撮影されるのに比べて、河瀬監督は長回しでブレを効果的に使い、よりドキュメンタリーのように表現する。だから、最初から両監督の意図するものは異なっているのだが、ただ、どうやったらあのように演出できるのかが不思議でしょうがない。技術や反復練習とは全く異なる演出方法だ。
では、ドキュメンタリーの力強さを私的ドキュメントまでして肌身で知っている河瀬監督がなぜ物語を作り出そうとしたのか。もしくはドキュメンタリーを撮っている内に、物語を描きたくなったのかもしれない、なんて勝手な想像は置いといて、ここで少し変わった見方をするならば、同じカンヌでパルムドールを受賞した今村昌平の「楢山節考」と比較すると、現代における物語の困難さが見えてくる。「楢山節考」はもちろん、姥捨て山の物語だ。あの壮絶な話を現代でやったとしても通用しない、というかなんとなく白けてしまうのは、なにも姥捨て山の話が時代錯誤だからではなく、物語に共感できるような感覚がすでに現代では失われていて、もっと客観的に、「お話」として作品を「眺めて」しまうからだ。現代の観客がそれほど冷酷な視線を持っているとするなら、「殯の森」はその鮮やかな解答として存在しているのではないか。人に感情がある限り、物語が消滅しないならば、ではどのようにして物語性を復活させればいいのだろう。私的な出来事を消化しつくしてもなお、表現しなければいけないという欲求の矛先が、監督自身が生まれ育った奈良の森と重なった時に、森という自然はまた人間に訴えかけてくる。実際に森の中を二人が歩くシーンはとても良かった。その神聖さや敬虔さは、日本人であれば、懐かしいという感情を超えた原風景として甦ってくるだろうが、その想いがフランス人にも共感できたのであれば、それがいかに戦略的に作り出されたものであったとしても、「殯の森」のテーマ性はとても強烈なメッセージとして訴えかけたに違いない。