映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 6代目大日本人の大佐藤(松本人志)は、防衛庁から不定期に依頼される仕事で生計を立てていた。ある日、いつものように防衛庁の命を受けた大佐藤は、電変場へ向かう…。

Review

佐藤弘

 僕のような1980年生まれやそれよりちょっと上の世代であれば、松本人志という人物に影響を受けていない人はいないのではないかというぐらいやっぱりすごい人で、関西人でもないのに「なんでやねん」と突っ込みを入れてしまったことのある恥ずかしい過去を誰しもが持っているはずだ(まあ、それは相方の浜田雅功の影響でもあるのだけれど)。
 その松本人志が映画を撮った。ファンであればあるほどなんとなく見たくないような気持ちになるのは、お笑い芸人の宿命というもので、何を真面目に語ろうとしちゃってるの? という突っ込みを入れられるからだが、そもそも「映画」というジャンルにだけなぜそういった敷居の高さがあるのかと考えると、意味が分からない。最近、同じお笑い芸人の、今や「世界のキタノ」である北野武があるタレント映画監督を「バカ」呼ばわりし、「映画なんか愛さなくていい。そういうのは評論家がやればいい」と言い放ったのは、やはりそういった映画熱への疑いであり、痛烈な批判だった。何も大変なのは映画だけではない。創造をともなうあらゆる表現は共通して難しいのであって、その中で優劣はない。いや、「笑い」が「大衆」から逃れられないとするならば、よく言われるように「笑い」こそ一番難しい表現方法なのかもしれない。
笑いとは批評精神であって、権威を茶化し、常識を覆す圧倒的な破壊力があるために、常に虐げられるのは当然なのかもしれない。
 その笑いの天才である松本人志の映画「大日本人」は、全編を通して批判精神にみなぎっていた。
 松本は「大日本人」を「ヒーローもの」の映画だとテレビで言っていた。全体が一つの大きな物語を追えなくなってしまった現在で、松本はどのように「ヒーロー」を物語るのかと、その発言を聞いた時から見たくてしょうがなかった。どのような方法で「ヒーロー」を物語るのか。余談になってしまうが、僕らの世代で最も影響を受けたもう一人の「松本」であるだろうマンガ家の松本大洋は「ピンポン」というマンガで「ヒーロー」を題材にした。「ピンポン」と「大日本人」を比較するとよく分かる。「ピンポン」は「ヒーローもの」という観点から見るならば、もっともオーソドックスなものだ。なぜならペコという卓球の「天才」が主人公の話だからだ。「ヒーロー」と「天才」は同一のものだ。松本大洋は現代にヒーローを復活させた。ならば、笑いという批評精神を持つ松本人志はどうだったのか。
 ヒーローをドキュメンタリーで撮る。
 このヒーローを見つめるまなざしにこそ「大日本人」のアイデアの原点だったに違いない。やはりコント的な映画なのでネタばれすると面白くないので、言葉を選んで書かざるをえないが、ヒーローを主人公としながら徹底的にヒーローを茶化すこの手法こそが松本人志の笑いだ。松本のヒーローは自炊をする。給料が安いとグチを言い、家には野良猫が入って来る。自分の番組の視聴率を気にして、スナックでカラオケを歌い、別居した娘に会うのを楽しみしている。こんなヒーローがかつていただろうか。
 僕らはテレビで何度も見てきたのだった。ダウンタウンが司会をする音楽番組「ヘイ!ヘイ!ヘイ!」ではいつもならスポットライトを浴びて羨望の眼差しの中心にいるミュージシャン達が、圧倒的な笑いによってステージから降ろされる。あの「ビジュアル系」と言われるようなミュージシャン達が一時期隆盛していたのに、今ではある種の笑い(一部では今だ羨望を浴びつつも)としてしか存在していないのはダウンタウンの功績によるものだ。または自分達の番組にかつてスターという存在だったテレビ界の重鎮を呼び、浜田が頭を叩き、松本が茶化すことによって彼らの傲慢さを笑いへと変換させた。その状況は今日でも続いている。そう思うとヒーロー不在のテレビ業界にしたのは、他でもないダウンタウンなのかもしれない。笑っていないとテレビでは生きられない。だからこそ、日本のテレビは外国よりもシビアだ。そして、松本に育てられた日本の若者の目はシビアだ。かっこつけると、笑いによってすぐに「サム」いレッテルを貼られてしまう。
 「大日本人」は松本人志が今まで溜まった鬱憤を晴らしているかのように、そのまなざしが様々なところに向けられている。メディアの傲慢ぶり、すぐに犬を連れてくるタレントから日本という国にまで。そして最後にそのまなざしは松本自身にも向けられる。松本が自身に見たものは、前述した「映画熱」に近い「創り物の嘘くささ」だ。
 雑誌「ブルータス」の松本特集にある茂木健一郎との対談を読むと、松本は普段、笑いをほとんど即興で作り上げているとのことだった。即興に慣れた松本が映画という枠組のある作品を作る時に、何か違和感があったのではないか。「情熱」という暑苦しい言葉に守られた「作品」に対する嘘くささを、松本は映画を撮る過程で自分の中に見つけたのではないか。
 松本はその「嘘くささ」への対抗策として2時間の映画全てが「フリ」となるような最後を用意した。2時間ひたすら笑いで世の中を攻撃し続けていたのにも関わらず、さらにそれを全部ひっくるめて「オト」すという徹底的なペシミストは、しかしそれをさらに「笑い」に包み込むことによって一つ上の段階にまで作品を持ち上げている。松本人志という人物は笑いを生み出すことで、なんとか世間と対峙出来ているのかもしれない。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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