映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 自転車メッセンジャーのバイトをしている加賀賢三、23歳。半引きこもり状態だった彼は、異性とのセックスどころかキスの経験さえない。「純愛を経ないとセックスはできない」などとうそぶきながら、アダルトビデオを「汚い職業」と見下す高慢さとイケメンへのルサンチマンに満ちあふれたどうしようもないヘタレ男である。そんな彼に、片思いのまさみさん(仮名)に告白する根性はない。言い訳しか能のない加賀に業を煮やした松江は、自分の職場であるAVの撮影現場に彼を連行、スパルタ式に女性恐怖症を叩き直そうとするが……。

Review

佐藤弘

 この映画を元・現童貞の男子だけでなく女性にも、いや老若男女全ての人に見て欲しい傑作だと思うのは、童貞である二人の主人公のような、アキバ系という分かりやすいカテゴリーにも当てはまらない、かといってなにをやっているのかよく分からないサブカルオタクとでも呼ぶ彼らのことを知ってもらいたいからで、確かに二人はぱっとしないし、異性とのコミュニケーションも上手くできないのだが、彼らの日常を垣間見ることで、例えば一面マンガとビデオに囲まれた部屋でアイドルの写真を切ってスクラップするという行為は、確かにどこからどう見てもかっこ悪く、それがひたむきであればあるほど失笑を飛び越え大爆笑してしまうのだが、しかしその赤裸々な姿こそ、笑いの要素を含みながらアイロニカルに世間に蔓延するあらゆるきれい事をふっ飛ばし、それが妙に清々しく、しかし鬱屈し悶々としながら晴れることのない性という男子の大問題に苦悩する姿がテーマとして描かれることによって、この映画が差別や同情からも突き抜けてしまっているからだ。これこそが現代のリアルな風景だ、と断言してしまいたい。どんなもっともらしい言説よりも、このドキュメンタリー映画こそ一番の説得力を持つ。豊富な笑える要素と全面的に彼らを肯定する眼差しは、批評しようとする眼差しでは到底辿り着くことのできない極地だ。
 彼らの立ち位置は現在のどこに存在するのかというと、ある程度の想像はできる。そのために宮沢章夫の著書「東京大学八〇年代地下文化論講義」を参照したいのだが、まずこの本は大塚英志の著書「『おたく』の精神史―一九八〇年代論」を反語的に読みながら東京大学でされた講義がまとめられたもので、ようするに過去を振り返り「80年代はスカだった」という言葉を否定する時に、その80年代を「おたく」というキーワードで語るのではなく、桑原茂一という人が日本に初めて作ったピテカントロプスエレクトスというクラブを中心に、「かっこいい」という言葉をキーワードに語られたものだ。通称ピテカンにはYMOに代表される当時の最先端の音楽とスネークマンショーと言われるコント、それは地上波テレビにある「笑い」とは一線を画す、かっこよくて斬新な形の笑いの表現があった。そして80年代のサブカルをピテカンとおたくに分類すると、「童貞。をプロデュースに」登場する二人の原点はその狭間にあったカルチャーに位置すると想像する。童貞の二人の内の一人、梅澤さんが敬愛する根本敬というマンガ家は「ガロ」というマンガ雑誌に代表されるような、いわばアンダーグラウンドな作家だ。「ガロ」はピテカン的な人にも読まれただろうが、しかし、その華やかさはどこにもない。ピテカン的な場所へ行かず、かといって現在のアキバ系に代表されるようなおたくにも行かない。どちらかというと、ガロ系の人達はアキバ系を批判的に見ていただろうし、ピテカン的な人からも見逃せないものとして興味を持たれつつ、向こうから近づかれながらも決して迎合することもされることもせず、独自の道を突き進んでいる。どこにも所属しないからこそ彼らは分かりにくい。
 しかし、二人を擁護するつもりではないが、彼らのことを「ぱっとしない」と便宜上、表現してしまったが、実はそんなことはなくて、彼らは自分の着ている洋服にちゃんとおしゃれを意識している(髪は洗面所で自分で切っていたけれど)。もちろん、ブランドの服を着るようなことはしないが、古着っぽい感じに着こなしている。アキバ系といえば差別的に誰もが思い浮かぶ、あの格好では全然ない。短絡的に思われるかもしれないが、松尾スズキも「ダサいかわいい子よりもおしゃれなブスのほうがもてる」とどこかで言っていたように、洋服に気を使うか全く使わないかで、その人が世間とどのぐらい関わりを持とうとしているかが分かろうというもので、その点、二人は外見が原因で童貞という理由にはならない。僕はこれは結構大事なことだと思っていて、初デートの時の格好なんて、帽子を被ったりして結構気合が入っている。二人はネルシャツをズボンに入れないし、髪の毛を伸ばして後ろ髪をゴムで縛ってもいないし、蛭子さんのようにお腹の上でベルトを締めてもいない。洋服に気を使わない人を否定しているわけではなく、洋服に気をかけない人はなにかを諦めたか、すでに自己を確立しているということだ。しかし、二人は服にお洒落を意識している。それは別に女性に対してだけではない。彼らはすでに女性の視線がなくとも、自分に似合った服ぐらいはすでに知っているのだ。
 何が言いたいのかというと、そこまで気をつけている彼らにどうして彼女ができないのだろうかという、その一番重要な疑問だけに注目すると、逆に暗い部分が浮き彫りになってくるのだ。外見だけであれば、彼らよりも酷い男子なんていっぱいいる。それなのに、なぜ彼らだけに彼女ができなかったのだろうか。もっというなら、どうして二人はアイドルを異常なまでに虚構として愛さなければならなかったのか! 加賀さんは、「思い出ねつ造ノート」なるものを作り、アイドルの写真を貼り付けてそこに自分の言ってほしい台詞を書いていた。梅澤さんは、ゴミを漁ってアイドル雑誌を発掘し、スクラップブックを作成する。彼らはアキバ系のように青年マンガ、ようはエロ本の萌え系のキャラクターには見向きもしない。平面ではなく、ちゃんと立体的な性にしかこだわらない。それなのに、どうしてそこに手を出してしまったのか。なぜ二十歳を超えて童貞でなければならなかったのか! その屈折した精神性が浮き彫りになるにつれ、笑いつつも、見ていて辛かった! なぜならば、自分を見ているようだったからだ! というか、これはもう自分だ! 俺だって、一歩踏み間違えれば二人のような童貞という迷路にはまっていたかもしれないのだ! それを思うと恐くて恐くてしょうがない。ああ、俺は運が良かったなあ! なにしろちゃんと生きている! 定職にはついてないけど! うわあ、よかった! そう、この映画を観ると、この二人のように、俺は生きててよかったとすら思えるのだ!
 二人の屈折した精神性を生き抜くことこそ、現在をリアルに生きていることになるのだと思う。アキバ系やかっこいいからも遠く離れ、安易に世間からドロップアウトすることすらなく、生き難い日常を果敢に一人で生き抜いている二人を見ると勇気がわいてくる。正直、二人が「良い奴」とは言えない。言い訳で自分を塗り固め、家族にだけ強気な態度を取るシーンは、なんてどうしようもない奴だと思った。しかし、そのどうしようのなさも含めて、彼らを当然のようにけなし、かといって突き放すことはなく、時には監督自身が憤る時すらあるその感情豊かな視線こそが、この映画を至極まともな作品にしているし、健全な笑える作品にしている。AVドキュメンタリーを撮っている監督だからこそ性に対しての難しい距離感を絶妙に捉えている。童貞というテーマを、これだけまともに撮れる人って他にいるのだろうか。繰り返すけれど、老若男女に見てもらいたい。なぜならば、これは誰が見ても面白いと思える稀少な映画だからだ。

※本編は2部構成になっており、上記は1部の物語紹介です。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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