映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 どこからか歌が聞こえる。どうやら船の上らしい。花札をする人、タバコを吸う人、携帯電話をかける人、手相を見る人。中国の今を生きる人々。一人の男が暑さのために上着を脱ぐ。その後ろに長江・三峡の絶景が見える。 船を下りた男は、近くのマジックショーに連れ込まれ、金を巻き上げられそうになるが、したたかな度胸をみせて切り抜ける。今度はバイクの連中が、5元で行きたい場所へ乗せていくとつきまとう。男は、16年前に別れた妻子を探しに、山西省からやってきた炭鉱夫ハン・サンミン。昔、妻が住んでいた場所にバイクで連れてきてもらうが、すでにそこは三峡ダム建設で水の底に沈んでいた。どこか人なつこいバイクのチンピラにすすめられ、役所を訪れるが、妻子の行方はわからない。サンミンは、しばらく三峡の街、奉節(フォンジェ)に腰を落ち着け、妻子を探すことにきめる。

Review

佐藤弘

 最近の、もはや流行ともいえる中国の報道は、別にダンボール入り肉まんを例に出さずとも大方の人がその実情について知っているはずで、ワイドショー程度の予備知識があれば映画「長江哀歌」の舞台となる国家的規模のプロジェクトによってダムに沈められる奉節(フォンジェ)という街の実態は理解できるだろうと予想するが、映画を観た後では今さらながらそれらがただの情報に過ぎなかったことを思い知らされる。それは多くの優れたドキュメンタリーに共通するものだが、「長江哀歌」がそれだけでないのは、最初から最後まで一様に哀しさが漂っているからだ。
 大勢の人間が登場し、激昂する者達がいて、時には笑顔さえ見られるのにも関わらず、そこには一定の哀しさの膜が張られているようだ。しかし、それは当然なのである。なぜならば、舞台となる奉節はすでに終わりを告げられている土地だからだ。
 奉節の街のいたるところでビルの解体作業が行われている。ハンマーを持った労働者達が上半身裸になりながら汗と土煙にまみれてハンマーを振り下ろし破壊していく姿が全編を通して見受けられるが、その光景がなんともいえない虚脱感を帯びているのは、彼らの労働が実際のところ本当の意味での労働ではないからかもしれない。この土地での労働は決して報われることがないからだ。彼らの解体した跡地に新しい建物は決して建てられず、彼らが労働で得た賃金は、安宿に泊まりながら酒と煙草で消えていく。彼らの労働は生産的なものを何も産まない。そして、彼らはその土地に永住することさえも許されない。
 「長江哀歌」では男女一人ずつが登場し、物語が進行していく。二人に共通するのは山西省から奉節にやってきたことと、行方知らずになっている結婚相手(サンミン《男》は金で買ったのだが警察にそのことがばれたことが原因で16年前に別れてしまった妻とその子供、シェン・ホン《女》は働きに出たまま2年間音信不通になったままの夫)を探しに来たことだ。二人はその歳月に色あせることのない愛情を胸に抱きながら、相手にも同じ想いがあるといったかすかな期待を持っているが、それが当然のように叶わない願いであることが過去を全て水中に消し去る土地の宿命なのだということを観客の誰もが気付いている。観客はだから最初から、紡がれていくような物語が生まれることがありえないことを告げられているし、たとえそのような幸福な出会いがあったとしても、すぐに消滅してしまうであろうことを予感させられる。
 その虚しさに覆われた物語から逸脱する方法はこの街から逃げることしかないのだが、シェン・ホンだけが自らの意思で過去を断ち切っているように見える。他の者たち、ビルを解体する男達は時の流れに身を任せるだけだ。他の土地から来たシェン・ホンだけはきれいな服を着ている。男達はほとんどが上半身裸の裸体を晒している。その差異は一体何を意味しているのか。ジャ・ジャンクー監督自身が語っているように、シェン・ホンには女性の現代的な自我の目覚めを担っているらしいが、そうであるからこそ、日焼けをした褐色のうす汚れた身体を晒す男達が際立ってくるのだし、その鬱陶しいまでに匂い立つ生が、瓦礫の中で浮き彫りになる。その逞しさが匂い立てばたつほどに、消え去ることを告げられた街はさらに虚しさを増していく。
 哀しさと虚しさから逃れる術のない土地では、サンミンやシェン・ホンのような個人の悲劇的な物語がいくらでもあるはずだ。しかし、その主役の二人にでさえ、個の物語へと埋没させない監督の描き方は徹底している。なぜならば、それらの悲劇的な物語から描き出される感情は、映画内でも歌われる流行歌の中にでさえ描けることであり、そういった抽出され、要約される感情に助けられつつも、しかし奉節という失われる「場」を浮かび上がらせることでしか発生しない何かがあるからだが、それすらも解決策にはならないどころか、ただありのままの哀しさと虚しさを強調することでしかない事実が、現実に与える衝撃は大きい。だから、その過酷な現実から物語へと逃げずに向かうジャ・ジャンクー監督の視線は、感情を超えたところにある。それはそこに生きる人への全面的な肯定というと分かりやすいが、それだけではないと思う。現状の不満、閉塞感からの脱却、この映画はそういったテーマすらないが、しかし、根底で支えているのはそういった未来への志向性で、だからこそ生きる人の肯定ということではあるのだが、それは停滞を意味しているのではなく、かといって未来への展望があるわけではない。そういった、たった一つの解決などあるはずのない混沌とした現代がこの映画には描かれている。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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