映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 オスカー受賞作『ボウリング・フォー・コロンバイン』や、ドキュメンタリー作品として最大のヒット作となった『華氏911』に続くマイケル・ムーアの最新作。常軌を逸した、時に残酷ともいえるアメリカの医療制度を率直に語る作品であり、基本的な健康保険を求める中で、途方もない、奇妙な困難に直面する一般の人々の声が綴られている。

Review

佐藤弘

 相変わらず無知な僕はマイケル・ムーアの「シッコ」を見るまでアメリカに国民健康保険がないことを知らなかったし、アメリカの医療保険の現状に愕然としたわけだが、それは民間の保険会社と病院が手を組んで保険料を支払わないよう共謀したり、医療費を払えない老人を病院側がタクシーに乗せて道に捨てるといった嘘のようなことが現実に起こっていたりする。笑い話のような本当の話が映画の中でもっとたくさんあって、例えばマイケル・ムーアの友人のカナダ人はアメリカに入国する前には必ずカナダで保険に入る。そのカナダ人はマイケル・ムーアに向かって「いきなり殴られたりしたらどうするんだ」とブラックジョークを飛ばすのだが、それが笑い事で済まされないのは、ハワイで骨折(筋が切れた、だったかもしれない)をした知り合いのカナダ人がハワイで入院した際、保険に入っていなかったためにその入院費と治療費だけで日本円にして7500万円ぐらいかかったということが実際にあったからだ。カナダ人の友人はアメリカの保険会社は全く信用していない。治療費を払いたくないがために、加入者に過失がないか徹底的に粗探しをするからだ。その「粗」の内容がさらに冗談のようで、例えば、交通事故を起こし重体にも関わらず救急車に乗る前には必ず連絡をしなければ救急車に乗ることが違反、病気とは全く関係ない些細な病気を過去に患ったことを申告していなかったから治療費が出ない、赤ん坊が急病で向かった病院が加入している保険会社の系列ではなかったためにそこでは治療が受けられないといった事例が数々登場する。
 こういった悲惨な出来事が起きるのはアメリカのHMO(健康維持機構)という医療保険システムと、保険会社が政治家に多額の献金をして自分達に都合のよい法律を制定させるといった、うんざりするおなじみの金と政治の話になってしまうのだが、それは映画を観ればとてもよく分かるようになっているし、僕が書きたいのはそれではない。
 確かに「シッコ」という映画は観たほうがいい。笑える作品だしドキュメンタリーによって一部の資本家と政治家の私利私欲によって掌握された社会システムがいかに非人道的で酷いものかということがとても分かりやすい。選曲もよかったし、マイケル・ムーアの映画ではおなじみのエンディングのゴシック体の大きな文字で魅せるクレジットはかっこよかった。マイケル・ムーアの武器はアイロニカルなユーモア精神だが、マイケル・ムーアだけでなく他のスタッフも非常にセンスの良い人達が集結しているだろうことが全体を通じて感じる。
 ドキュメンタリー作家のマイケル・ムーアがここまで有名になったのはその武器を駆使して、ドキュメンタリーをドキュメンタリーではないエンターテイメントにしたからだ。僕は決してドキュメンタリーに詳しいわけではないが、どんなドキュメンタリーであっても主観を一切排除することなんて不可能で、作家の視線がある限り、それは必ず主観性を帯びる。ただ、マイケル・ムーアの作品がドキュメンタリーではなく限りなくエンターテイメントであるのは、マイケル・ムーアの主観的な部分が多いからではなく、笑いという無化性を駆使しつつも巧みに感情的に訴えかけるからで、それはワイドショー的な世論のコントロールによく似ている。
 アメリカの医療制度の凄惨さを浮き彫りにするために、医療費が全て税金でまかなわれるカナダやイギリスやフランスの国民健康保険制度を手放しで賞賛するが、もちろんそんなことはないだろう。各国の医療制度や国民保険の現状を僕は一切知らないが、マイケル・ムーアは批判されるだろう諸問題を、例えば医療費がタダの代わりに税金がアメリカよりも異常に高いのではないかなどの突っ込みを自らに与えてそれを検証し、自ら覆していくのだが、その際に検証するため例に挙げるフランスの一家族は明らかに富裕層に属している。アメリカの医療制度では富裕層であっても一つ大病を患えばその治療費が保険料として支払われない場合、一気に財産を失うような悲惨な例が紹介されているので、比較としては間違っていないと一瞬思うが実はそうではなく、富裕層に属する家族が一気に財産を失うという例外を例としているから比較にはならない。医療制度は富裕層に限られた話ではなく社会システムとして機能しているのだから、税金のシステムそのものを比較しないと意味がない。そもそもその治療費タダの医療システムはアメリカに適応できるのか? アメリカとフランスでは人口量が全然違うだろうし、アメリカ全域で治療費がゼロになったとすれば、それこそ税金は膨大にならないだろうか、といった疑問が映画を見ていると次々と出てくる。さらに、そういった疑問とは関係なく資本主義の恩恵を最大限に受けている国であるアメリカが、なぜこのように発展できたのかということをないがしろにはできないのではないか。
 フランスに長年住んでいるアメリカ人達を集めて二国を比較検討して語らせるという場面がある。その場に登場するアメリカ人は次から次にフランスという国のシステムの素晴らしさを褒め称えるのだが、それは本当にびっくりするぐらい素晴らしくて、例えば有休が5週間ももらえるだとか言うのだが、全てのフランス人がそうなわけがないし、それもやはり一部の富裕層や一流企業だけだろうとも想像され、いやそんなことはなくフランスという国がたとえそうであったとしても、フランス人にではなくアメリカ人に、批判的に見ればそれはとても高飛車に語らせることによって、アメリカという国をアメリカ人自ら卑下させるという戦術がそこにはある。その戦術をマイケル・ムーアは巧みに笑いとして表現するから、独断や偏見やシニシズムの暗さから解放される。でも、物事はそれほど簡単ではなくもっと語られなくてはいけない部分が絶対にあるはずだ。
 9・11のテロの時にボランティアをしていた人達が今は喘息などの病気にかかっている。グラウンドゼロにまっていた塵や埃を吸ったためだ。彼らはテロ被害者として扱われず、高額な医療費を払えないので日々病気に悩まされている。彼らはマイケル・ムーアと一緒にある道化を演じるのだが(もちろんそれはアメリカに対する痛烈なアイロニーとなる)、その際にひょんな事態からキューバを訪れる。キューバ危機以降、両国は心情的に敵対関係の過去を拭えないでいる(かのように演出される)。しかし、キューバでは医療費が無料なために、アメリカ本国では高額で受けられなかった治療をキューバで受けられることになる。医者は親身になって検診する。その献身的な姿勢に涙を流す者も少なくない。さらにキューバの消防士が、9・11のボランティアスタッフがいることを聞きつけ慰問しにくる。それはとても形式的なもののようにも見えたが、敵対関係だった両国民が抱き合う場面は感動的だ。ここで物語られるものは一体なんだろうか。
 マイケル・ムーアが批判するのはブッシュ大統領を代表とする政治家の隠蔽工作だ。それは作られた笑顔と偽善的なきれい事の常套句によって隠蔽される。マイケル・ムーアはそれを暴いた。問題はその暴き方だ。
 「シッコ」は、マイケル・ムーアのセンスによってドキュメンタリーとはいえないほどのエンターテイメント性を備えた映画だ。暴力的に問題を暴くのではなくユーモアのセンスによって暴く手法は見ていても楽しく笑えて見事というほかない。しかし問題が解決へと向かう時にマイケル・ムーアが選んだのは感情のコントロールのような気がしてならない。それは、批判し続けたブッシュら政治家の使っていた手法と同じではないだろうか。
 マイケル・ムーアは確かに市民権を得たが、得たことによって逆に英雄として持ち上げられても困るだろう。なぜマイケル・ムーアはわざわざ子供達を背後に従えて歩く映像を挿入したのか。その間違った錯覚は9・11の消防士やボランティアの人達が英雄として讃えられていたのと同じようだ。ボランティアや献身性とは、決して良い行いをして英雄になるためにすることではなく、誉められなくてもしてしまうものだからだ。その過ちをマイケル・ムーアは映画内でちゃんと自ら批判しているのだ。
「シッコ」によってアメリカの医療制度に変化があれば素晴らしいことだが、たとえそうならなくてもこの映画の功績は大きい。観客は批評精神を植えつけられるだろう。しかし、それが結局ある一つの感情へと帰結してしまってはなにもならない。マイケル・ムーアが提示した本当の問題は、医療制度という枠組みだけで捉えられるものではなくて、おそらくもっと巨大なものであるはずだし、それは感動といったものでは容易に片づけられないものだからだ。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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