【Story】
海辺の小さな町にやって来たタエコ(小林聡美)は、素朴で小さな宿・ハマダに着く。宿の主人・ユージ(光石研)とその愛犬のコージ、不敵なほほ笑みをたたえた女性・サクラ(もたいまさこ)らに出会う。何日かを過ごしたタエコは、マイペースに明け暮れるハマダでの毎日に違和感を覚え、別の宿へ移る決心をするのだが……。


(C)めがね商会
【スタッフ&キャスト】
監督・脚本:荻上直子
出演:小林聡美、市川実日子、
加瀬亮、薬師丸ひろ子ほか
絶賛上映中
海辺の小さな町にやって来たタエコ(小林聡美)は、素朴で小さな宿・ハマダに着く。宿の主人・ユージ(光石研)とその愛犬のコージ、不敵なほほ笑みをたたえた女性・サクラ(もたいまさこ)らに出会う。何日かを過ごしたタエコは、マイペースに明け暮れるハマダでの毎日に違和感を覚え、別の宿へ移る決心をするのだが……。

いきなりですが申し訳ない気持ちでいっぱいなのだった。今にも謝りたいぐらいです。というのも、それは荻上監督に対してで、いや僕のことなんて全く知らないから勝手に謝られてもしょうがないだろうが、映画「めがね」の前の「かもめ食堂」から荻上監督の映画は気になっていたのに、先入観で、例の、いわゆる「癒し系」と呼ばれてしまうような映画なのかと高を括っていたら、全然そんなものではなかった。だから、僕のような間違った先入観で「かもめ食堂」「めがね」を見ていない人に是非教えてあげたい。そして、皆で謝りましょう。どうもすいませんでした。荻上監督はもっと厳しい眼差しで世の中を見ていた。
日本テレビの深夜に「かもめ食堂」をやっていたので観たら、面白くて驚いてしまい、急いで「めがね」を観にいった。もちろん、ある種の美学が徹底されているだろうことは、宣伝などによって分かっていたが、前述した「癒し系」という悪い先入観が生まれたのはそこにではない。誰だってすぐにピンとくるはずだろう、もしかしたら一枚の写真を見ただけでも分かるかもしれないほどのとてもセンスのある世界観は、洋服はもちろんのこと、家具や建物の壁など全てに共通する世界観がある。細部までに徹底されて作り上げられている。「かもめ食堂」ではそれに加えて照明がとても素晴らしかった。しかし、せっかくのセンスの良さによって作られた世界観を覗いてみると、そこにはどこにでもあるような物語や、ありきたりな、それこそ「泣かせる」感動話でしかない、といった作品が実は多い。だから僕は敬遠していたのだ。それは服がとってもお洒落なのに実はとてもつまらない人間でがっかりした、というのと同じようなものだ。そういうことが僕にはよくあった。表面的なものはとても大事に違いないが、結構そういう落とし穴はある。ある種の美学は、思想(とは呼びたくないけれど)に必ずしも根ざしているわけではないし、思想なんてものを凌駕するような美学でなければそもそもダメなような気もするが、また本をたくさん読んでペダンチックな人間になるのと同様、ある種の美学は真似されやすい。
荻上監督の映画がそういうのとは全然違っているのは映像を見ればすぐに分かった。荻上監督のカメラはシーンがあまり変わらず、動く時もゆっくりと動く。長回しという手法ともまた少し違うだろうと思うのは、もっとそれが意図的に感じたからだ。何に意図的だというと、その多くは「時間」に対してだと思う。例えば、タエコ(小林聡美)がコップに入った水を飲んでいるシーンがある。シーンが変わり、次のシーンはゆっくりとスクロールしながら建物を写しているのだが、その画面の中にいるタエコはまだ水を飲んでいる状態が続いている。シーンが変わってもタエコが水を飲み終えていないというのが重要で、そこでは時間が続いていることが示されている。もしくは、防波堤の前の道を歩いていると、老女が防波堤に腰掛けている。通りかかったタエコが老女に挨拶をすると、スクロールしていたカメラがまたシーンを変え、タエコのことをやや斜め前から捉えるシーンに変わるのだが、その背後に老女がまだいる。それも別になにもやっているわけではなく、ただ座っている。こういった些細な仕掛けや、カメラの動き方や人物を中心にではなく風景と一緒に捉えるといった絶妙なカメラワークが荻上監督の美学の基盤となっている。監督は自分が構築する時間に対して絶対的に自信を持っている。だから、観ている側も安心して観ていられるのだ。
「めがね」はタエコが「携帯電話の通じないところ」に行きたいと思い立ち、旅行するその旅行先の話だ。そこにはきれいな海が広がっている。砂浜の砂は白く、こじんまりとしていて清潔感の溢れるホテルの周辺には緑が生い茂る。観光地などなにもないこの土地に特有の「たそがれる」ことに馴染めないタエコは、初めはあまりの退屈さにうんざりとするが、次第にその魅力に惹かれていく。こう書くと、またしてもステレオタイプな物語、例えば田舎暮らしの素晴らしさ、今流行りかどうかも分からないけれどあのロハスといった言葉へと話がいくのかというと、そうならない。なぜならば明らかにそういったものを断固拒否する態度を示す挿話が映画の中であるからだ。それはネタバレになってしまうし、とても面白い挿話となっているのでここでは書かないが、しかし主要人物たち全員が、その土地の生まれではないという設定自体がすでに他の映画とは異なっていて面白い。彼らは流れてきたのだし、おそらくそれは都会からで、全員が、タエコがそうであったような「携帯電話の通じない」場所を求めて、あの土地にやってきた。それは「癒し」に違いないが、他の類似した「癒し」と全く違うのは、彼らが負っているだろう傷が映画の中では明確に示されないからだ。彼らの過去は全く知らされない。互いの過去を共有しようとはしない。それは彼らが「個」を最も大事にしているからで、助けを求めるようなことは誰もしない。語り合うことすらしない彼らの振る舞いは、誰からも教えられていないのに暗黙の了解がすでにできているかのようだ。だからそこには「強さ」が存在している。いや、本当の「癒し」とはおそらく、誰かの力も借りずに個の強さによって、その強さを確認することだ。しかし、彼らは一緒にご飯を食べ、ビールを飲み、カキ氷を食べ、体操をする。全くの無関係ではなく、あの土地では互いに何かを共有している。彼らは受動的にではなく、自分達で本当の「癒し」の空間を作り上げている。それはだから、非常に曖昧な関係だろう。確固たるものはなく、あやふやで、でもとても人工的だ。付かず離れず、けれども互いの関係性で作られるその空間は見ていて清々しい。でもそれは当然の話で、なぜならば美学とは人工的だからだ。
「都会<田舎」「人口<自然」という安易なイメージに真っ向から反抗しているように思える。その方法が思想なんていう暗いものではなく、荻上監督の作り上げる美学なのだからもう言うことはない。そう思うと、なぜ映画のタイトルが「めがね」なのだろう。荻上監督は裸眼ではなく、人工的なレンズ越しの世界を見せたかったのではないか、と思うのは深読みし過ぎだろうか。
