映画見聞録

映画をこよなく愛する人々が各界より集い、巷で話題の作品から通好みの渋い作品まで、独自の視点で書き綴る「偏愛的新作映画紹介」コーナー。日本を「黄金の国ジパング」としてヨーロッパにはじめて紹介したマルコ・ポーロのように、新作映画のまばゆい輝きをみなさんにお届けします!

【Story】

 日本人が1年間に食べる肉(牛・豚・鳥)は約300万トン。だれもが毎日のように食べている膨大な量の肉。そもそもお肉になる家畜は、どこで生まれ、どのように育てられ、どうやってパックに詰められてお店に並ぶのでしょう? 本作は、そんな私たちの生とは切り離せない「食物」を産み出している現場の数々を描いたドキュメンタリーです。世界中の人の食を担うため、野菜や果物だけでなく、家畜や魚でさえも大規模な機械化によって生産・管理せざるをえない現代社会の実情を、オーストリアのニコラウス・ゲイハルター監督がおよそ2年間をかけて取材・撮影しました。本作を観ると、現代の食料生産工場の生産性の高さに驚愕するとともに、私たちが生きることは他の動物たちの生命を「いただく」ことに他ならないことだと、改めて実感させられます。(「公式サイト」より)

Review

佐藤弘

 この映画見聞録は観た映画をお勧めするために書かれている。「いのちの食べかた」ほどそれにふさわしい映画があるでしょうか。とても面白かった。この映画は僕の主観で面白いか面白くないかの判断に関係なく、万人がただ「知る」ために観に行くべき映画だし、さらに記録映画的な退屈さを微塵も感じさせない「作品」としても存在する優れた映画だ。このドキュメンタリー映画の特筆すべき点は、ナレーションも音楽もなく、ただ淡々と映像が流れていく、というその手法なのだけれど、この淡々さが、様々な思惑で構成されていることに誰もが気付くはずだ。「いのちの食べかた」は、日頃食べている肉や魚や野菜がどのように大規模に機械化された管理状態の中で育てられ、加工されているかの工程を追ったドキュメンタリーで、ようするに肉と野菜の工場の話ということなのだけれど、肉と野菜の映像が交互に映し出されるその構成の仕方が素晴らしい。作業工程を追った映像は、まるで遠近法で描かれた絵画のように計算され機能的な美しさを漂わせていて、その美しさは、オートメーション化された作業工程のシステマチックな機能美をより引き出すためのものだ。カメラは決して対象物に寄らない。なぜならば、対象物は個々ではなく大量生産されるべき「食べ物」と、その作業工程だからだ。
 誰しもが工場のオートメーション化された一連の流れを眺めると、うっとりとするような機能性の美しさを感じたことがあるはずだ。ただ、「いのちの食べかた」がうっとりばかりできないのは流れてくるのが製品ではなく「いのち」だからで、さらに、前述したように肉と野菜の映像を交互に映し出すことで、二つは「生物」と「食べ物」という二つの共通項によってくくられるが、そこで際立つのは「動物」と「植物」の違いだ。緻密な撮影により極力感情的ではないよう構成された映像の中で、抗いがたい決定的な感情がそこで浮き上がる。
 徹底した管理の下、ビニールハウスの中を農薬入りの水分を噴射しながらシステマチックに動く機械によって「製品」のように栽培される植物の映像を見ても、やはり少なからず違和感が起こるだろうが、それを見て「残酷」だとか「かわいそう」などの感想はなかなか思いつかない。けれど、鳥や牛や豚が「製品」のように管理・生産される工程を「植物」と同じように見ることができる人はまずいないだろう。ここでは、それはただ単純に「残酷」や「かわいそう」などの安易な言葉で終わらせたほうがいいように思う。そっちのほうが分かりやすいし、真実だからだ。
 大量の雛がベルトコンベアの上を流れ、作業員が「製品」のように雛を持ち、なにかを判別する。そしてまるで不良品のようにして、異常が見られる雛は違う箱に投げ入れられる様はまるでゴミ箱に捨てているようだ。合格した雛はプラスチックの容器に隙間なくぎゅうぎゅうに入れられ、保温室のような場所に容器を重ねられて管理される。成長すると巨大な倉庫に集められ、そこでもほとんど身動きできないほどにぎっしりと詰められる。おそらく数万羽はいるだろうと思われる鶏が倉庫の中で身動き出来ない状態で育てられ、最後は巨大な掃除機のような機械で吸い上げられ「回収」される一連の作業工程を見て、誰もがなんともいえない不快感や後ろめたさをもよおすだろう。「製品」として扱われながらも、雛は「ピヨピヨ」と鳴き、鶏は「コケッコケッ」と鳴き、牛は「モウ」で豚は「ブヒ」と鳴く。その中でも豚は一番感情が豊かで危険を感じると叫び声を上げる。その叫びが痛々しい。「かわいそう」だ。
 もっとも視覚的に戦慄に近い感情を起こさせるのがやはり解体作業で、腹部に切り込みを入れると、逆さ吊りされた豚や牛から内臓がどろっとはみ出す。自分が、皮膚に鋭利な刃物が切り込みを入れる瞬間と、内臓が部分ごとではなく繋がった全体として見ることに普段慣れていないことがよく分かる。そこで「かわいそう」に「気持ち悪い」などの言葉を加わってくるのだけれど、それらがどうにもしっくりとこないのは、全てがシステマチックな作業工程の中で行われているからだ。ものすごい数の豚が逆さ吊りになって運ばれてきて、刃物が切り込みを入れ、ジェット噴射機が切り込み口に挿入し、洗浄する。その機能性の美しさを備えた作業と、血や内臓の生々しさがどうにも頭の中でうまく繋がらない。システムの中では人間も機械同様だ。人の作業は機械ではできない、細部の内臓の除去などの工程があるのだけれど、それを毎回「ごめん」だとか「かわいそう」だとかの感情が邪魔をしているようでは作業が進まない。だから観客は、物事をうまく飲み込めないまま、システムの中では異物として存在しなければならないはずの人間を、一つの機械のように無感情に再認識しなくてはならず、尚更、繋がらなくなってくる。
 監督の思惑の中に一つの大きなテーマとして、食料生産システムの中で生かされているのは、植物や動物だけでなく、それを管理・生産、さらにそのシステムの最終過程として摂取しているのが人間である限り人間もまたシステムに組まれた「製品」であるのと同じだ、というのがおそらくある。生存するための根源的な食がシステムであるかぎり、生活もシステムからは逸脱できない、飛躍するならば生活は全て無感情に機械的でオートマチックであるというチャップリンの「モダン・タイムス」的なアイロニカルなテーマは、例えば、工場の従業員が無表情にカメラの前で食べ物を食べるシーンの数回の挿入や、工場の廊下をまるでベルトコンベアの上を流れてでもいるかのように従業員が行き来するシーンなどの挿入によって分かる。
そこで何かしらの感情が沸き起ころうとする時、「でも、全く同じなんだよ」とずっと監督に問われ続けているようだった。
 ただ、「いのちの食べかた」で重要なのは、そんなところではない。一番重要なのは、映像を観ることによって、ある一つの言葉では片づけられないどうにも気持ちの悪い後ろめたさや煮え切らなさをいかに片づけずに持ち続けるということだ。道徳や一般常識、きれいごとと言ってもいいだろうそれらの世界認識が自己の中で崩壊するのをちゃんと見続けることだ。自分達のいのちを保ち続けるために、きれいごとなんて消滅し、食べ物を食べる時、いつも神様に感謝の意を捧げているわけではないことをちゃんと認識しなければならない。単純な置き換えは不可能だという前提を意識しつつも、もしあのベルトコンベアの上に乗っているのが雛ではなく人間だったら、逆さ吊りにされて「製品」のようにして加工される牛が人間だったらと、「動物」と「人間」を「生物」という共通項で繋げるのは全然無意味じゃない。そうしたことでやっと、また今一度神様に感謝もできるし、きれいごとを作り上げる土台に立つことができるのだと思う。神様もきれいごとも、人間にとって必要ならば、まずはこの「真実」を知ることができて本当に良かった。

プロフィール

佐藤弘(さとう・ひろし)
作家。1980年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業。
2004年『真空が流れる』で第36回新潮新人賞を受賞。
著作に『オブラディ・オブラダ』(光文社)、『陽気で哀しい音楽に』(ポプラ社)がある。
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