【Story】
それぞれの音楽のルーツにジプシー音楽を持つ、四カ国、5組のバンドが、六週間をかけて北米のさまざまな都市を廻るジプシー・キャラバンが催された。本編は、このツアーの全貌を丹念に追いかけたドキュメント。


【スタッフ&キャスト】
監督:ジャスミン・デラル
出演:タラフ・ドゥ・ハイドゥ-クス、エスマ、
アントニオ・エル・ピパ・フラメンコ・アンサンブル、
ファンファーラ・チョクルリ-ア、マハラジャ
絶賛公開中!
それぞれの音楽のルーツにジプシー音楽を持つ、四カ国、5組のバンドが、六週間をかけて北米のさまざまな都市を廻るジプシー・キャラバンが催された。本編は、このツアーの全貌を丹念に追いかけたドキュメント。

音楽の多様性を前提としつつも、そもそも僕らが幼少の頃、大人たちを介して音楽に触れたその第一歩目からすでに間違えて教えられていたんじゃないかと思うのは、「ジプシー・キャラバン」の冒頭の、インドの砂漠の中にあるジプシーの村の音楽家を夢見る子供たちを見たからで、友達の誰かがトラディショナルな楽器を演奏し始めると、周りを囲む何十人といる子供たちは一斉に歌い始めた。その姿がもう感動的で、子供たちの笑顔と歌声の屈託のなさにもうこれだけで十分と思わせるのは、彼らが音楽を心底楽しんでいて、音楽は教えられるのではなく、楽しむことだというのがまるで人間に最初から備わった幸福な性質であるかのように彼らの中にあるからだ。
はっきりいって日本ではもうお目にかかれないと思う。日本の子供らはもうずいぶん前からああいう風には歌えない。僕だってそうだった。合唱の練習といって歌わされていたばかりの僕らとはまるで違う音楽に聞こえるというか、幼稚園で先生のピアノを囲んで歌っていたあの屈託のなさを僕らは義務教育の途中で忘れ去っていくのに、映画の中のジプシーミュージシャンはそのまま大事なものを残しながら洗練していくようだ。
移動生活者であるジプシーの歴史は、差別と迫害にまみれた不幸で長い歴史であることを初めて知ったが、ジプシーの音楽は彼らが口々に言う「魂の叫び」「人生を歌っている」などといったいわば誇張された言葉が全く嘘に聞こえず、当たり前のようにしれっと喋るその単純な言葉の一つひとつが胸を打つ。彼らの音楽には自分一人だけではなく歴史に常に支えられているからだ。
「ジプシー」という言葉がすでに彼らにとっては差別的な言葉であるようで、彼らは自分たちのことを自分たちの言語で「ロマ」という(映画の中では便宜的に「ジプシー」と「ロマ」を混ぜて使っている)。「ジプシー・キャラバン」は世界中のジプシー音楽からスペイン・ルーマニア・マケドニア・インドという4つの国の中から5つのバンドがコンサートツアーをしていくのに同行しながら、彼らの音楽のルーツを辿っていく。例えば、フラメンコもジプシーの音楽だ。彼らは放浪の歴史の中で、その土地で出会った音楽と混ざりあい換骨奪胎しながら各々が独自の音楽を創っていった。
見た目では全く違う音楽でも彼らには自分たちに根底で共通する精神がちゃんと分かるようだ。映画を見ているとこちらもすぐに分かってくる。ようするに、音楽とどう向き合っているか、どう楽しんでいるかということだと思う。「音楽」という言葉はそのまま「人生」に置き換えられる。とにかく彼らは楽しそうだ。派手な衣装で着飾り、音を変えたいからといって自分の管楽器を糸ノコギリで切る無茶苦茶ぶりで、音楽の正確さよりも情熱で踊り歌いあげる。奏でる音楽は人生そのものなのだから、人生に正しいも間違いもないよといったようだ。彼らは移動中の空港やサービスエリアやホテルのフロアなど公共な場所でも、ふとした瞬間にいきなり楽器を鳴らし歌い始める。映像の中のアメリカ人と同じように映画を観ている僕も苦笑しているが、そこには憧憬の念も含まれている。本当は羨ましくてしょうがないからだ。
これから書くことはこのポプラ社の「映画見聞録」でしか書けないことで、なぜなら僕が去年ポプラ社から出版した「陽気で哀しい音楽に」についてだからなのだが、その小説はざっくり言うと、渋谷のタワーレコードでアルバイトをしている音楽好きの青年が、音楽流通の象徴としてのタワーレコードがもし倒産してしまうとすると、変化していく世界とどう向き合っていくかというものなのだが、ようは物質が消滅していくことに人間は耐えられるのか、といったことだと思う。ただ「CDやレコードといった記憶媒体がなくなっても音楽はなくならない」といったことは当たり前の話で、それはただのモチーフだけでしかなく、そんな狭義なものではなくて、失われていくCDといったものに僕が託したのは、「場」と「時間」だったのかもしれない。さらに言うならば、人と、「場」と「時間」との断絶だったんじゃないか。その断絶の中で、僕らはいかにして生き抜いていくべき強さを持てるのか。
差別と迫害の歴史の中で生きてきた彼らジプシーにはこの二つが宿命的に備わっている。移動生活者の彼らは土地を持たず、だからこそ彼らが集まればそこが「場」として発生する。それは脆弱な「場」だが、だからこそ彼らの中で強固な「場」になるのではないか。土地を持たない彼らにとって「時間」も同じことだろう。移動しながら消滅していく歴史を、脆弱であるからこそ、彼らの中で語り継がれ、守られていったのではないか。歌い続けられてきた音楽にはその強靭な逞しさが備わっている。僕には彼らの曲が「陽気で哀し」く聴こえた。彼らの音楽の根底に共通する精神とはそれに他ならない。彼らの背後には過酷な時間を生き抜いてきた膨大な歴史がある。
ミュージシャンである一人の老人が、伝統的な曲を演奏すると観客が近づくのが分かると言った言葉は、ミュージシャンたちが語るたくさんの言葉の中でも特に印象的だった。「なにか伝わるんだろうな」と言っていたそのなにかとは、人間が持つ根源的な懐かしさのようなものなんじゃないかなと思う。
